第五話:奢れる智者は久しからず
(遅い、遅い遅い遅い!)
朧月秀は手を伸ばせば掴めるはずの武勲を前に、予期せぬ焦燥の中にいた。
なまじ宗円が出張ってきたものゆえ、多くの友軍が早期に決着をつけんと、あるいは恩賞に預からんと殺到してしまったがゆえに、この混雑となってしまった。
「月秀殿っ、先鋒をお譲りいただくよう、お願いいただくわけにはいかぬのですか!? 笹ヶ岳では不本意な戦をさせられ、このままでは私までが卑怯者の誹りを受けてしまいますっ」
(黙れ)
頻繁に足を運んではそう訴える第六軍の地田綱房に、何度そう言いかけたことか。
そもそもこの男の兵が序列を無視して中軍に割り込んできたことが、禁軍でさえ軍法を犯すという事実が、この混沌ぶりに一層の拍車をかける一因となったのではないか。
自分はそのような浅慮な輩とは違う。付和雷同する有象無象とは違う。
凡百どもよりこの地点の利をいち早く見抜き、かつ上下に周到な根回しのうえ、自信が描く未来図の実現のためにこの地に危険を承知で身を置いたのだ。
だが、結局は入り乱れてこのザマだ。これでは自分もまたこれら卑しき雑兵どもと同列に見なされてしまうではないか。
耐えがたきことではある。だが、今更退くわけにもいかない。物理的にも心理的にも。
こと、荒子瑞石に手柄を立てさせたままというのはなお忍びがたい。
昔からあの取り澄ました物言いと面構えが気に食わなかった。君子然とした振る舞いにも。
兵法家とは敵を欺く、いわば汚れ役ではないのか。その従事者が善人面で正道を説くのだから、反吐が出る思いだ。
『師、いわく』
今でも、学徒の時分の奴輩の朗読が耳に張り付いている。
『大軍がその利を活かせぬ場所に停滞する。これすなわち死地という。況や、敵の主導によってそのような状況に至ったとなれば、それが敵の術策であること疑いはない』
――そう、それはまさしく、今のごとき情勢であり……
(莫迦な)
軍師はおのれの回想と着想を嗤った。過去の瑞石の弁を嗤った。
先に論破したとおり、外交的にも軍事的にも孤立した順門府に、大規模な別動隊を作り出す余力などあろうはずがない。いったい何者が、この大軍勢を駆逐できようか。
その横合いの沖に、一船団が着いた。
東から西へと進む帆に大きく咲いた昼顔の花。赤池勢のものである。
「ん?」
みずからの視覚が得た事実に、月秀は矛盾を覚えた。
東から、西へ?
赤池の水軍は、すでに西を突いたはずではないか。ならば、この海域に留まっているはずがなかろう。
智者を自負するその男は、遅れて悟った。
それらの船が、夜陰に紛れて自分たちの脇をすり抜けていたこと。
そして、その船団が、見間違えられた後詰め部隊を撃沈し、今返す刀でこちらへ向かってきたことに。
だが哀しい哉。
その知覚を得た時には焙烙に火が付き、脇腹を無防備にさらす主軍へと間断なく投げ込まれた。
地が爆ぜる。物資が焼ける。馬が肉となり、兵は血と火油にまみれて悶絶した。
おおよそ想像しうる限りの地獄の光景が、そこにはあった。
前方にて陣太鼓の音が澄んで聞こえる。
おそらくは赤池の動きに呼応し、鐘山宗円が突撃を開始したのだろう。
水陸両面からの、挟撃。
それによってきっとこの軍は、為すすべなく地上より消滅する。
宗円の出撃は全てこのために。いや、彼が上洛をごねていた時点より、すでに。
自分の策が読まれたばかりでなく、完全に逆手にとられた。
またぞろ、瑞石の声が頭に響いてきた。
それは縛り上げ適当な蔵に放り込む前に、瑞石が放った忠告。
「軍師は人の心を読み、操らねばなりません。ですがそれは、己にも言えること。自身の心を統御できなければ、いずれ智恵と自負とに身を焦がすことになりましょう」
赤く染まるほどに火で埋め尽くされた天を仰ぎ、男は狂笑した。
それが朧月秀が生涯最後に他者より賜る薫陶となった。
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