第二話:軍師の酔弁

  凪の如しであった信守の心に、軽く驚きの波が立った。

 まさかこの、自分とさして歳の違わぬ若者が、転がされて土に塗れて情けなく苦笑する男が、この十万の大軍を一時的にとは言え取り仕切っていたと言うのか。


 だが朧は、その割り当てにいたく不満そうであった。

 そこでようやく、上社親子の存在に気がついたようであった。


「おぉこれは上社卿、良いところに」


 少し機嫌を改めた、と言うよりも道化じみた浮かれようで、軍師は挨拶も抜いて父に訴えかけた。


「上社卿も苦々しく思っていよう! この拙劣な布陣を! 兵理の欠片も見あたらぬ愚劣極まりない図を! これだから田舎武者は困る! 小生であればかくの如き醜態は見せないものを!」

「……さて、戦より遠のいて久しい老骨には、さして問題などないように見えるが」


 鹿信は否定寄りの中立的な立場をとった。

 酔いが萎むまでやり過ごし、円満に収めようというのが父の目論見であったことだろう。

 だが、その実氏の手腕を激賞していたことに対する掌返しが、不満というほどのことではないにせよ信守には軽く欺瞞に思えた。


「よろしいか、桜尾の小間使いどもよ!」


 だがそれよりも遥かに醜悪なのが、この男である。


「この地は窪地にして、もし敵が急襲し、先んじて高所を押さえられて逆落としなど加えれば危うきことこのうえなし! しかるにこの陣はその兵法の理を捨て、その窪に諸侯の陣を敷いておる。そして帝の御座所はその敵が狙うであろう高所に置いた。まして此度の軍略を取り仕切り、帝のおそばに在ってその采配を輔弼たてまるる小生を片隅に追いやるなど! 大方一日程度なら多少の手抜きも良かろうと愚考したのであろうが、戦においては一日たりとも気を緩めてはならぬのだ! 今後はこのような不埒な仕業などせぬよう、心せよ!」


 多少ふらつきながらも胸を反らして男は薫陶らしきものを垂れる。

 はいはい、とかしずきながら実氏は反発を目にさえ映さない。一言も弁明しない。

 人知れず渋面を作りながらも、鹿信は無言のまま、この場をやり過ごそうとする。

 あとはじっとこらえれば、きっと実氏の名誉が貶められたのみで収まるのだろう。


 ――だが、それで良いのか。

 腹立たしい。歪みだ。この目の前の、打算、酩酊、不実、妥協の拮抗は。

 それは是正しなくてはならない。別に実氏の擁護をする気など毛頭ないが、それでも誰かが、声を上げなければならなかった。


「……はっ」

 代わりに心中より衝いて表出したのは、鼻哂であった。

 鹿信がそのかすかな音を拾い、眼を見開いた。口を開けかけた。ん? といった調子で朧も、意識の一片を信守へと向けた。


「何が愚かか。これは理に沿っている」

「なんだと?」


 一度は収まりかけていた朧の怒りが、酒気とともに蘇る。

 おい、と袖を引く鹿信を振り払い、信守は続けた。


「まずこの岳全寺領それ自体が総構えの要塞だ。南北を流れる泥来でき川支流は天然の堀。見てのとおりの方々を囲む山は出城。本堂は天守。ただでさえ兵力に劣る敵が全兵力を挙げ長駆してこのような場所に踏み入るとも考え難い」

「それこそが敵の思う壺ということが分からぬのか! その備えざるところを討つことが兵法の……ッ」

「ほう、では」


 信守は一歩分進み出た。

 圧されたように、あるいはその貌に浮かぶ何者かに怖じるように、逆に朧は二歩三歩と間を置いた。


「ではなぜ、軍師殿の口からは策ではなく酒気がこぼれるのか」


 その悪臭を嗅ぐがごとく、信守は鼻先を突きつけた。


「そもそも桜尾典種公とその臣下が、順門と隣接しその動向を見守ってきた武門が、貴殿の考えるようなことを警戒しておらぬはずがなかろうよ。街道筋に関を設け物見櫓を設け、あるいはそれで埋めきれぬ微細な場所にも忍びを放っているはずだ」

「そのような証拠、論拠、戦も知らぬ餓鬼に何が」

「知ろうとも知るまいとも」


 信守は強引に言を遮った。


「兵法の理念以前に人間性の問題であろうが。貴様が隅に追いやられたのは。酒に酔い、おのが権勢に酔い、言論に酔い現実性のない非難をする者など、要所に配せるはずもなかろう。教えて進ぜよう朧殿。この布陣はな、貴殿の言うような不慮のことが万一起こったとして、恃みとできる武将が互いに連携を密として、いずれの攻め口より来ようともわずかな兵を動かすだけで開いたその口を縫いなおし、退き口を縛るためのものだ。貴殿のごとき、味方の進退の障りとしかならぬ者を戦力として度外視してな」

「信守ッ!」


 鹿信が声をあげた。頬骨を殴りつけた。信守は、その勢いを抗いもせず受け止め、ようやく口を閉ざした。

 その前に立って、あるいは庇うようにして、鹿信は白髪交じりの頭を下げた。


「愚息が大変な無礼を働き申した」

「き、貴様……貴様の子は」


 朧月秀は堪忍袋まで指先が届く間合い、という段まで心理的に圧迫されていたようだった。

 鹿信が子の非礼を認めて詫びたことはかえって、押さえつけられていた彼の怒りを刺激するに至った。今すぐにでも震える厚ぼったい唇で「腹を切れ」とでも強制しかねない。


「詫びる必要などなかろうて」

 だがその次の瞬間、別の声が、唄でも吟ずるような音程で朗々と制止をかけた。

 それによって朝廷の重鎮ふたりの貌に驚愕と緊張が浮かび、見開かれた目は一様にその矮躯にして屈強な男に向けられた。


「すべては酔いの席での無礼講、無礼講。……のう? 朧殿」

 朧以上に戦場には似つかわしくない、書生風の華奢な男を伴ったその男は、日に焼けた顔を突き出したのは、禁軍第四軍が大将、佐古直成であった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る