第二章:ままならぬ行軍
第一話:賢臣、飛ぶ
信守は自身の怒りを、他人事のごとく観測していた。
焦りでも初陣の緊張でもない。そうととられて行軍中に幾度か我聞や父になだめられたが、それでも違うと内心では強く否定していた。
腹が立つのはこの十万余の軍の鈍重さだ。
桃李府公、桜尾典種軍の案内によって、彼の領国の
己であれば、とか己に差配を任せれば、と思わぬでもないが、思って吹聴するだけであれば酒場の酔漢でさえ名将になれる。
肝心なのは計画性のみにあらず。その一切を切り回す実行力であろう。
(ままならぬ、か)
怒りが喉元を通り過ぎて呆れに至った時、これもまた学びであろうと信守は思い直した。
――彼の、大軍に対する忌避感、不信感。かつそれを相手にする際の嗅覚は、この時の行軍を端として養われたといって良い。
いかな大寺院といえど十万余の人数は収容しきることは出来ず、大半は野営か、仮設の陣屋に拠った。
だが、宿の割り当てそれ自体は見事であった。
実際岳全寺に入りて後の動きは戸板を外した堰のごとく、流入した将兵を分散してさばき、どの陣中にも不足飯と酒が振る舞われた。
「見事なもんだ」
めったに他者を褒めない、熟練の将たる父がそう言うのだから、客観的に見てもその手際は見事なものであったのだろう。
日没後、軍議を終えたその父の渋面を出迎え、「時間の無駄だった」という愚痴に付き合い、御座所たる山間の本堂より降りて自陣へ向かう。
「桜尾典種公は平時にあっても尚武の魂を忘れず、鷹狩や調練によって己とその軍勢を鍛え、臣下もまたそんな主人に従って己の智勇を磨いててきたと聞く。きっと今回の差配を取り仕切った者も熟達の、士の鑑のような老臣であろう」
「寡黙な父上には珍しく饒舌ではありませぬか」
「……お前が言うか、それ?」
鹿信の呆れ顔が、篝火に照らされる。
「まぁなんのかんのと言いつつ、戦の高揚は己の内に感じる。お前はどうだ? 初めての大戦を前に控え、何か心境の変化を感じるか?」
そう問われ、信守は自己を観察し、自問する。
だが、かんばしい答えは返ってこない。そもそも、規模としては極小なれど、幼少の石合戦や賊の討伐などで集団戦の経験自体はある。今の状況はそれより窮屈にさえ感じる。
「取り立てては」
信守は短く答え、父の軽い落胆を買った。
「なればこの戦に学べ。知識と経験を自分のものとすることに愉しみを見出せ。真面目くさったお前にはそれが似合いよ」
「……そう、なのでしょうか」
「それこそほら、この宿割りをした者。老練のその御仁に教えを乞うとかな」
そう言った矢先の道中、父子の表情はより険しいものとなった。
目先の陣屋にて尋常ならざる喧騒が起こっていた。
酒も入っていよう。多少の騒ぎは無礼講として看過できるが、聞こえる音声は殺気を帯びていた。
内政干渉、要らぬ節介を承知で仲裁しようか。そう目で語らう彼らだったが次の瞬間、彼らの間を、人の影がすり抜けた。
「むわー!」
戸板を破り、間抜けな断末魔の尾を引かせながら飛んで地を転がり、信守の側近くに仰向けになって丸まった。
「お奉行!?」
その彼の部下らしき数人の若者が慌てて屋内より出でて、痛みに悶絶する彼を介抱する。
そしてその陣屋の内より、酒気と殺気を伴って、男たちが現れた。
中核にいるのが、その頭目であろう。
ナマズ髭を偉そうに蓄えているが、赤く火照って酒精にテラテラと濡れる唇や肌はまだ若い。と言うよりも苦労や努力を覚えさせていない顔つきだ。
威光と傲慢、自信と増長を完全に履き違えた顔つきである。
「父上、あれは」
信守は尋ねたわけではなかった。知らぬ顔ではない。
「
だが父はそれを問いと捉え、名を挙げた。
「なんだこの馬小屋は!? 恐れ多くも帝御付の軍学指南役たる朧月秀様に、帝のお側を離れてかような片隅に宿泊せよと!? 桜尾の田舎武者は兵法も礼法も知らぬと見える!」
控える飼い主によほど躾けられたのだろう。
役職を読み上げることのまた流暢であること。震え上がる若い桃李府の臣を見て、怒りながら月秀らは権勢を振りかざすことに優越を得ていた。
だが、若者たちが上司と仰ぐ男はどうか。
「その者たちをお咎めなきよう」
若い。
少年と言って良い部下の、せいぜい一回り程度。二十歳そこそこであろう。
やや風采の上がらぬ、よく言えば素朴な顔立ち。痩せぎすの体躯。転がったことによって軍装に付着した土の匂いが、そのままこの男の全体的な雰囲気となっていた。
「此度の準備一切を取り仕切ったのは、この桃李府近習頭兼軍奉行、
……そう名乗った若い男は、己の足で立ち上がりながら、申し訳なさそうに弱々しい歯を見せた。
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