第五話:本音と建前
「ようし、その荷はあちらへ回せ。行軍に不要な分は桜尾家ほか他軍への詫びとして馳走せよ。急げ」
不測の事態、突如の撤収。
その慌ただしさの中でも、風祭家はその代行者たる康徒は見事な手際でそれを処理していく。
その合間に、府公や土豪などが別れの挨拶を交わしていた。かく言う上社家も、禁軍の総代としてそこに列している。
(これが抜けるのは、手痛であろう)
稀なる体験として父の随従する信守は、その様子を見て思った。
兵数のみの話ではあるまい。
遠方から来たる府公なども康徒に謁しているが、その談笑の中には早くも郷愁が見え隠れしていた。
士気の低下。何より風祭府において智勇及ぶ者なしというこの俊英の、影響力の欠如。
だがそこに信守は、引っかかるものがあった。
ついに、鹿信らの番となった。
その時には早くもほぼ荷造りが済んでいて、あとは出発という段になっていた。
「おう、鹿信殿。年賀以来ですな」
康徒は深く頭を下げた。
「わざわざのお見送り、かたじけない」
家格としては当然彼が上なのだが、年長者に対する敬意は失われていない。
顔を上げたとき、康徒と信守の視線がかち合った。
その双眸を見たとき想ったのは、太陽だった。
命の源。天意天運を司る者。陽の気。
そして、すべてを焦がす強さを秘めた眼である。
「その若武者は?」
「とんだ粗忽者にて申し訳ありませぬ。こら、挨拶を」
「上社が嫡子、信守と申します。以後お見知り置きを」
ほう、と康徒は口を丸くし、目を眇めた。
「では君が、かの麒麟児か! 都鄙の別なく、その声望はあまねく及んでおりますぞ」
やや大仰に過ぎる称賛とともに、康徒は信守の肩を叩いた。
信守は目礼を返した。
「……申し訳ない。見ての通りの無愛想な愚息にて」
「いやいや、察するに初陣でしょう。それがかくも大戦ともなれば、気を張り詰めるのも無理らしからぬこと」
父が子に代わりに詫びる。
康徒は笑って流したが、わずかに鼻白んだように身を退いた。
「我らはお暇いただくが、いざ戦ともなれば色々とわからないこともあろう。もし今ここで聞きたいことなど有れば、お答えするが?」
その言葉に甘え、「されば」と信守は進み出る。
本当に質問されるとは考えていなかったのだろう。無愛想に見合わぬ積極さに面食らいながらも、康徒は「なんなりと」とそれを受けた。
「この撤退、貴殿にとっては織り込み済みでは?」
場が、静まり返った。
居合わせた風祭家将兵、いずれも尋常ならざる目つきで信守を見返していた。父とて、ぎょっと目を剥いて信守を制さんと手を伸ばす。それが肩口に触れるより先に、信守は畳みかけた。
「あまりにも手際が良過ぎる。具足も兵糧も遠征の向きではない。申告の数よりも兵数それ自体も下回っているとお見受けしました。おそらく未だ国元に主力は残っておりましょう」
それでもなお一万余を動員できる風祭府の国力たるや、下手すれば帝都を上回りかねないものではある。
「……ほう? ではこの康徒は、あえて叔父の謀反を看過したと?」
「あるいはそれ自体が偽りか。もしくはそうせざるを得ない状況に追い込んだか。そもそも俊英と名高き康徒殿がこの前後に手をこまねいていたとは考え難く」
康徒の笑みの窪が、濃く深くなっていく。
「口を慎め!」とついに鹿信が強いるが、逆に公弟の側より尋ねた。
「では我々があえて内紛に突入することで得る利とは、何かね?」
「利ではなく、損切りでしょう」
片や巨費大軍を投じた、落とし所の分からない遠征。
片や勝手知ったる自領での、反乱を読み切ったうえでの大義ある討伐。
いずれも得などないが、後者の方が遥かに損耗は抑えられるであろう。
「……なるほど、たしかに秀才児よ」
ニヤリと笑って康徒は誉めた。
「だが、まだ青いの。踏み込みが足りぬ。それではこの康徒の胸には届かぬぞ」
まるで剣術の指南のごとき物言いで応じた康徒に、信守は低頭した。いやさせられた。父に上から押さえつけられて。
「重ね重ねの非礼、まことに申し訳ない」
その掌の圧に、信守は逆らわなかった。
「良いかな、信守君。あらゆる物事には表裏、本音と建前というものがある。そう、たとえばこの場合……君の言うところなど、帝も、そこにいる鹿信卿もとうにご承知よ」
「康徒殿!」
鹿信が鋭く声をあげた。
だが躊躇いなく帝を持ち出した康徒はどこふく風。足を止めた兵たちに、撤収準備を止めるなと示唆する。
「良い機会だ。この上は肚を割って話そうではないか。前線にこの康徒が居て欲しくないのは、宗円のみに非ず。主上としても、まぁ体面上呼ばざるを得なかったが、声望をかっさらわれるのを恐れておいでだ。元よりおのれの力を天下に認めさせるための戦であるゆえな。風祭府なくとも勝ちの決まった戦。……とまぁ、そう考えておられるのであろう」
そう康徒は言った。ということは、そうではない見立てを、この男は持っているということになる。
「そして、諸将のそういった本音と建前を、はるか西方の府に坐したままに、かの老人は見抜いている。和平恭順の意志をちらつかせて時を稼ぎつつも、必勝の策を入念に張り巡らせておった――手ごわいぞ、宗円公は」
やや声音を落として風祭の俊英は敵への畏敬をあらわとした。
そこに虚妄はない。ゆえにこそ、何か作為めいて芝居がかったものを、信守は感じずにはいられなかったが。
懸念する信守の前を悠然と横切り、険しき表情の父の前に、康徒は立った。
「謀と知りつつ、私は国へと戻らねばならぬ……許していただきたい。朝臣である以上に、国を負って立つ身であり、皇統の端くれなのだ。その血筋は不慮のことあった場合、一つ同じ場所で絶やしてはならんのだ」
そう、もっともらしく康徒は語る。もっともらしく。
誰も追及しない。その不慮のこととやらが、一体何を指すのか。東西いずれの変事に向けられた想像であるのか。
信守は口元をそっと手で覆った。
軽く、自分の心に波が立つのを感じた。
だが鹿信は毅然と屹立していた。信守から手を放し、
「心得ており申す」
と武人めいた口調で理解を示す。
康徒は目を潤ませて、老骨の拳を包み込んだ。
「されど貴殿のごとき忠臣が帝のそば近くにあって禁軍を率いてくれるからこそ、安心して東に戻ることができる。……鹿信卿、玉体王命も大事ではありましょうがどうか御身を慈しまれよ。命あってこその奉公ぞ。これは風祭府公弟でも皇統としてでもない。忘年の友としての願いだ」
「かたじけない。そのお言葉だけでも、万にも勝る味方を得た想いにて」
最初は不穏当な発言もあってどうなることかと気を揉んでいた周囲の将兵や後続の客人らではあったが、その友誼の光景を見て安堵したようだった。その中には感極まり、そっと袖で目元を押し拭う者さえいる始末だった。
(――だが、私は)
父らの姿をもっとも間近で見ている信守には、おのれの内に感動を見出すことができなかった。
(私は、なんという冷血なのだろう)
信守は己の心根を恥じた。
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「しかし、意外でしたな」
ようやく面会客にも一区切りつき、準備も詰めの段階に入り、康徒に談笑まじりにそう切り出したのは、近臣の
「何が?」
康徒は足を止めない。桑の木にくくりつけた、自身の愛馬のもとへと足を運びつつあった。
「鹿信卿の件です。まさか殿が、もとより親交のあった方ではありましたが、まさかかくも格別な友誼をお持ちであったとは」
康徒の甲冑の草摺が、ぴたりと金音を止めた。
「――あの、殿?」
「ただの他愛ないまじないだ」
「は? あの、何が?」
旭はまるで、自分が思いがけず泥の深みに足を踏み入れてしまったかのような、そんな心もとなさにふいに襲われた。
だがおたつく家臣になど一瞥さえくれず、答えず、ただ呟く。
「死なんとすれば生き、生きよと命ぜられれば人は死ぬ。まこと本音と建前というものは、恐ろしきものよ」
旭には理解の及ばぬことを、少年じみた含み笑いとともに。
「長生きされては、後々障りとなるのでな」
本音と、建前。
この時に戯れのごとく語ったことを、康徒にせよ、そして信守にせよずっと憶えていたわけではない。
だがその一対の言霊は、信守の複雑極まる精神性に、その自覚がないままに組み込まれていた。
それが後の、この時代に生まれた一匹の魔の、戦略構想、戦術癖、そして価値観の基幹となるとは、当事者たちを含めた何者にも察し得ぬことであった。
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