第一章:父子
第一話:無笑の若君
遠望すれば、山裾に雪が残っている。
四方は天険。未だ去らぬ冬の精霊が、寒風となって都の路地を荒らして回る。
その風はかの暴れ馬とそれにまたがる若き侍を勢いづかせ、その蹄をさらに速めさせた。
「危ないっ」
諸人があわてて避けるその進路に、もうひとり、若者が飛び出た。
あわや若者の臓腑をえぐるかと思えた四足の馬蹄はその脇を奇跡的にすり抜け、彼は顔と衣を汚し、転がって地を伏せるだけに済んだ。
「すまぬ、急ぐゆえ許せ木っ端ども!!」
馬上の男が、声高にそう言い触れる。
わはははは、という雷鳴にも似た笑声が轟き、尾を引きながら遠のいていく。
ある種の痛快ささえ帯びたその笑いと疾走は、人々を迷惑がらせながらも牽きつけていた。
一方で、倒れていた方の若武者はどうか。
汚れた裾のうちに掻き抱いた女童を解放する。あわや跳ね飛ばされようとしていたのだが、彼女が謝意を見せる様子はない。むしろ不審なる男、その腰に佩いた大小の刀に怖じてたじろぐ。
かの快男児の疾走に見惚れていた母親が『娘に絡む不審者』の姿に気づいた様子で、かばうようにしてその童を抱いて、敵意をむき出しにして距離を取った。
若者の心に怒りも痛みもない。生来、何物にも心揺るがされぬ性分であるらしい。
あるいは、おのれが禁軍第五軍、
「若君、大事ありませぬかっ!?」
「問題ない」
一足遅れてやってきた彼の手を拒み、上社
それから連れ立って歩き始めた。というよりも信守が独りで進み、我聞がそれに従うかたちであり、それが常の流れであった。
彼を冷遇しているわけではなく、元来対話が不得手であるだけだ。たとえ親しい者であっても、必要のないことはあまり共有したくはない。
「しかし若君、何故誤解を訂正なさいませぬ」
「娘は救われた。それで良い」
「勿体なや。せっかくお顔はよろしいというのに」
よく、言われる。
美貌だの白皙だの紅顔だの、柳眉だとのと、果ては並の姫君でも及ばずおのずと恥じると。
それ以外においては上社に麒麟児が生まれたとか所作が美しいとか人品整った清廉の士だとか、将来有望な生真面目さだとか。
それをことさらに謙遜したり否定する気もないが、誇る気にもなれない。別段そうしたい相手もいない。
何より、その称賛と邪推や妬みや悪意が対を成し、そうでなくともよく「されども」と言葉が続く。
「もう少し、愛想ようなされませ」
まさに我聞が今言ったことが、それである。
よく、言われる。
愛想がない。常に陰鬱。何か怒らせるようなことを言ったのか。何を考えているのか分からない。笑うたところを見たことがない。
だが、笑みを促されたところで、己を偽って見せたところで、果たしてそれは誠心や愛想と言えるのか。
「……
自問を独語めいた反論とともにかき消し、足早に歩き始める。
「どちらへ?」
我聞が問う。
「無論、戻る。父上に判断を仰がねばならない」
「いったい何について?」
我聞がふたたび問う。
そこで信守はこの三十そこそこの老臣の理解が事態に及びついていないことを悟った。
これは己が聡すぎるわけではなく、ただ純粋に言葉が足りていないだけだろう。そう判断し、信守はあえて言った。
「先の馬上の男、覚えがある。あれは
人を跳ね飛ばすことさえ厭わぬほどに急いでいた相手が誰だったか。それを知った時、我聞も顔色を変じさせた。
鐘山宗流。順門府公宗円が長子。
都に留め置かれた質にして、『先の不祥事』における弁明役、であったはずの男。
我聞は彼が駆け去った方角を顧みる。すでに影さえ見えず、通りの先には港と水平線が見える。
いち早く異常性を察し得た信守とて、既にして追跡は諦めていた。
だからこそ、自邸へ戻る。
急ぎ戻ってくるであろう父に事の仔細を正しく聞くべく。
そしてそれに先んじて兵を集め、武具を揃えるべく。
おそらく、戦が始まる。
かくして、戦が始まる。
これより数十年間、牛の顔のごとき形をしたその大陸において、両角から口の先まで血で血を洗い、骨肉相食む戦乱の世が訪れる。
その狂気の世界において、その端を発した戦役おいて、ひとりの男が生きていた。
後の評に曰く。
その男は秀才に非ず。鬼才なり。
名将に非ず。魔将なり。
その男は正道にして外道なり。
正気にして正気ではなく、人を嗤い、己を嗤い、されでも当時の人心をかき乱し、後世における人心を惹きつけてやまぬ。
何故寡黙なれども純良な青年武士が、かくも複雑怪奇な鬼と成り果てたか。
乱世の端たるこの戦より、紐解いて行こうと思う。
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