君は太陽

大倉

君は太陽

 一週間ぶりの学校は授業の前に短い全校集会があったこと以外はまるで何事もなかったかのようで、私たちはいつもと変わらない日常を生きていた。学校の周りにはたくさんのマスコミの人たちがいたけれど、みんなインタビューに答えることなくすべて無視して登校していた。


 今は数学の授業中で、これが終われば昼休みになるからきっとみんな早く終わらないかなって思っている。いや、たぶんそれはどの授業でも思っていることだ。


 私が座っている席は窓際の一番後ろの所で、いつもなら最高のポジショニングなんだけど、今となってはあんまり嬉しくない。目の前の席には小瓶に花が入れられて置かれている。一週間前までこの席は田中くんの場所だった。今だって机と椅子は置かれているわけだし、椅子の後ろには田中と書かれているシールだって貼られているのだから、まだここは田中くんの場所なのかもしれない。だけど田中くんはもういない。田中くんは一週間前にこの学校で誰かに殺された。


 黒板を見るたびに前の席にある花が目に入って仕方ない。最初は田中くんのことを思い出して悲しくなったり、怖くなったりしたけど、何回も見るとただうっとうしいだけだ。私は薄情なのかもしれない。でもみんなだって平然と授業を受けているし、それは先生だってそうだ。


 というか、やっぱり今の状況はおかしすぎる。田中くんが学校で殺されてから一週間しか経っていないのに、それに犯人も分かってないのに、当たり前のように学校を再開するなんてどうかしている。でも、あんなに仲良さそうにしていた男子たちも熱心にノートをとっていて、私はもう何が正しいのか分からなくなっていた。


 確かに、私たちは三ヶ月後に大切な高校受験を控えているし、それは今の私が思っているより今後の人生を大きく左右するのかもしれない。だけど人が殺されたんだ。それも赤の他人ならともかく、私たちのクラスで一番の人気者だった田中くんが殺されたんだ。


 みんなはこのクラスの誰かが犯人かもしれないとは思わないのだろうか。動機が分からない殺人に対して、自分も殺されてしまうのではないかと怖くはならないのだろうか。どうして、みんな田中くんのことなんて忘れたかのように朝から受験の話とか、好きなアイドルの話とか、昨日観たユーチューブの面白い動画の話とかをしているのだろう。あまりのショックで気狂いにでもなったのだろうか。


 でもそんなことを言っている私だって所詮は一緒なのかもしれない。私にとって田中くんが死んだことはそんなにショックではなかった。もちろん少しは悲しかった。だけど本当はどうでもよかった。私は理子のことばかり考えていた。田中くんが殺される一週間前に、公園で理子が野良猫を殺しているところを見た時から、ずっと理子のことが頭から離れなかった。


「この公式は、ここ数年入試でめっちゃ出てるから絶対覚えとけよ」


 異常に太っている、肌の色が明らかに不健康な数学の教師が特別大きな声を出して言った。私は入試に出るという言葉に無条件に反応してしまって赤いペンでノートに公式をささっと書く。結局、私だって他人の命より自分の小手先の未来の方が大事なのだと実感する。


 理子は私の列の一番前の席に座っているから今の私からはほとんど見えない。けど、真面目な理子のことだからちゃんと授業を受けているのだろう。私の学校は田舎では一番の進学校だったから、受験前である今はふだんなら寝てばかりいた不真面目な男子たちも真面目になって勉強している。たまに寝てる人もいるけれど、それは家で夜遅くまで勉強しすぎた子だ。塾に通っている子がほとんどで、私も大手のところに通っていたから、学校がなかったこの一週間も毎日のように塾に行っていた。もちろん行きたくなんてなかったけど、両親からの命令に、私は従うしかなかった。理子も同じ塾に通っていたけれど、この一週間はたぶん来てなかった。少なくとも私とは会わなかった。授業を聞かないで自習室に行く人もいるから、もしかしたらそっちに居たのかもしれないけど、私は会うのが怖かったからいないことに安心した。


 理子は真面目で勉強も運動もできて、すごい美人って訳でもないけど可愛くて、男子に告白される回数は学年でトップクラスだった。でもぜんぶ断っていて、そのせいで大学生の彼氏がいるなんて噂も出たりしたけど、理子はもちろんそれを否定していた。誰にでも気さくに話しかけられる子だったから、友達は男女問わず多かった。私は特別に仲良しだった訳ではないけど、でも学校や塾で会ったらそれなりにくだらない話をして、何回か一緒に外で遊んだりしたこともあった。


 だから二週間前に、つまり田中くんが殺される一週間、私の家の近所にある人があまりいない公園で、丸くなって寝ている猫をスマホのカメラで撮っている理子を見つけた時も、あれ、何してるのかなって思って声をかけようとした。でも、私が「理子」と呼ぼうとした瞬間、理子は目の前にいる猫の前に立ち、まるでサッカーボールを蹴るかのように、とても自然にその猫を蹴った。


 猫は既に弱っていたのか、五メートルくらい飛んでいってそのまま公園内にあるトイレの前で動かなくなった。遠くから見ているとまったく動いていなかったから、死んじゃったのかと思ったけれど、助けを求めるように小さな声で鳴いているのが聞こえた。


 私は唖然としてしまって、その場から動けずに、声を出すこともできなかった。理子はその猫に近づいていって、さらに頭の方を思いっきり踏んづけた。私は思わず目を背けてしまう。理子は猫の首を片手で掴んで、女子トイレの方に猫を連れて行った。


 私はしばらく思考停止して、それから辺りを見回した。私以外には誰もいなかったようで、誰かに見て欲しかったような、誰もいなくて安心したような、とにかく何がなんだか分からない。理子はトイレで猫に何をしているのだろうか。たまに動物を虐待して逮捕される人をニュースで見るけれど、理子もそんな変態的な趣向を持った人だったのだろうか。だとしたら猫はトイレで殺されている最中なのだろうか。そんなことを考えているうちにトイレの中からドサッと大きな音がして、私は怖くなって理子に見つからないようにトイレの後ろ側に隠れた。


 その後も中から鈍い音が何回かした。もう猫の鳴き声は聞こえなかった。それが何を意味しているのか、そんなことは私にも分かったが、しかし分かりたくはなかった。そして何も聞こえなくなって、しばらくしてシャッター音が聞こえた。そういえば理子は猫に暴行する前も写真を撮っていた。今度は死体の写真を撮っているのだろうか。どうして理子はこんなことをしているのだろう。


 ふと、そもそもあれは本当に理子だったのだろうかという疑問が浮かんだ。私の見間違いの可能性だってあるじゃないか。たしかに、制服は私と同じ学校だったけれど、私から見えたのはせいぜい横顔で、ちゃんと正面から見ていない。


 トイレから出てくるところを見なくてはならない。私は義務のようにそう思った。トイレから鳴っていたシャッター音はもうしなくなっていた。それから水で流す音が聞こえた。私は中にいる少女がトイレから出る気だと思い、相手からはできるだけ見えないように、壁から少しだけ身を乗り出して、トイレの右側にあるベンチの方を向いた。


 ベンチの上には私の学校の鞄とエナメルバックが置いてあった。周りに人はいないし、中にいる少女の物に違いないと思った。足音が聞こえてくる。私は心臓がドキドキしていることに気が付く。恐怖に負けないように私はベンチの方をじっと見続けた。


 そして少女がハンカチで手を丁寧に拭きながらベンチの方にやって来たとき、私の目に写し出されたのはエナメルバッグに付けられたとても見覚えのある可愛い猫のキーホルダーだった。少女はエナメルバックを肩にかけて学生鞄を持ち、足早で公園から出て行った。少女は間違いなく理子であった。それにエナメルバックに付いているキーホルダーは、私が理子の誕生日にプレゼントしたものに違いなかった。


 




理子がいなくなって数分経ってからようやく、私は落ち着きを取り戻しつつあった。とにかくこの場からできるだけ早く離れたいと強く思った。あいかわらず人は誰もいなくて、公園はとても静かだった。歩き出して足が震えていることにはじめて気が付く。もう冬になるというのに私は多量の汗をかいてしまっていて、それが下着に染みていて気持ちが悪かった。


 なんとか公園から出て、そして急いで歩いたら五分で着く所にある家に帰ろうとした。なのに、どうしても猫の事が気になってトイレの方を振り返ってしまう。私はあの猫がどうなったのかをちゃんと見なければいけない気がした。


 もう一度、トイレの近くに行く。昔からある、古びていて汚くて臭いもひどいものだから使う人はほとんどいないはずのトイレ。私はどこかで猫がまだ生きていることを期待していた。やっぱり理子が猫を虐待するわけがないし、きっとすべてが見間違いだってどこかで信じていた。


 だけど、女子トイレに入って、その一番奥にある個室で私が見たものは、血によって真っ赤に染まって内臓がむきだしになっていて、首が完全にとれてしまった無惨な猫の姿だった。


 その日は塾がある日だったけれど、私は家に帰ってから夕飯も食べずに部屋に閉じこもった。明日、学校に行って理子とどんな顔をして会えばいいのか分からない。そもそも理子は学校に来るのだろうか。あんなことをして、平然と学校に来るのだろうか。それとも、理子にとっては猫を殺すことなんて日常的な行為で、何とも思っていないのだろうか。


 でも、このまま逃げてはいけないと思って、私は次の日の朝、いつもより早く学校に行った。理子がいつも朝早く学校に行って自習をしていることを知っていたからだ。私はすぐにでも理子に会いたかった。会って何を話せばいいのか分からなかったが、もちろん私にはいきなり猫のことを理子に聴く勇気なんてなかったし、まして他の子には絶対言ってはならなかったから、でも、とにかく理子に会いたかった。


 教室のドアを開けると、中にはまだ五人くらいしか来ていないようだった。そして、その五人の視線がドアを開けた音によって私に集まる。私はいつもぎりぎりの時間に来ていたから、あれ、今日は来るの早いね、なんて目が合った子に少し驚かれる。私はてきとうに相槌を打って、おはようと言いながら、視線では理子を探すが見当たらなかった。


 机に荷物を置いて、とりあえず席に座る。すると、前の席に座っている田中くんが、


「昨日はどうしたの?」


 なんて訊いてくるから私はびっくりして、声も出せずただ目を泳がせてしまった。そして、


「塾に来てなかったでしょ」


 って言うから、私はなんだ塾のことかって安心する。ちょっと具合が悪かったのなんて、てきとうに言い訳すると、田中くんは、そうなんだ、と言って前を向こうとしたが突然思い出したかのように、


「そういえば、昨日さ、塾で理子がお前のこと探してたよ」


 と言った。その一言は私を恐怖のどん底にいとも簡単に突き落とした。


 朝の会は八時から始まるから、それまでに登校しなければ遅刻とみなされる。五分前になってほとんどのクラスメイトが姿を見せても理子はまだ来なかった。理子と仲のいいグループの子たちが、風邪でも引いたのかな、なんて理子の心配をしているのが聞こえてくる。


 一分前になって担任の先生が教室に入ってきてみんながぞろぞろと席に着く。そしてチャイムが鳴って先生が話し始めようとすると同時に、後ろのドアが勢いよく開いた。理子だった。みんなが一斉に理子の方を見る。先生はいつもだったらギリギリの遅刻でも注意をしたけれど、相手が優等生の理子だったから一瞬たじろいで、


「めずらしいな。具合でも悪いのか?」


 と優しく言った。すると理子が、


「寝坊です」


 と悪びれもなく正直に言うから、先生は面食らって何も言えなくなって、そのまま朝の会を始めた。


 私は休み時間になるたびに理子に話しかけようとした。でも、どうしてもできなかった。特に、田中くんが言っていた、昨日の夜に塾で私のことを理子が探していたという話が気になった。


 理子は公園で私の存在に気が付いていたのだろうか。しかし、見られていると知っているのに、猫を殺すだろうか。もしかして、理子は自分でも猫を虐待することを止めることができずになっていて、私に止めて欲しかったのではないか、などと考えているともう昼休みだった。


 私はいつも一緒に食べている子たちの所へ行こうとした。実際のところ食欲などまったくなかったけれど、これはもう決まり事だった。


 どうしたの、今日はなんか元気ないね、などと言われながらも何とか笑顔でやり過ごしていると、急に後ろから肩をぽんぽんと叩かれて、振り向くとそこには理子がいた。


「ごめん、今日ちょっとそらちゃんのこと借りていい?」


 物のような扱いをされたそらというのは私の名前で、いつもは呼び捨てなのに、ちゃん付けされてなんとなくむず痒かった。というか、理子が私を呼んでいる! 私の心臓は馬鹿の一つ覚えみたいに急にバクバクし出した。私は焦りと緊張からか、


「何?」


と無愛想に言ってしまう。それでも理子は笑顔で、


「ちょっと、そらちゃんに謝らないといけないことがあって」


 と言った。


 仕方なく私は一緒にいた子たちに、ごめんねと言って、そして理子に手を握られて無理やり引っ張られながら教室を出た。


 廊下を歩いているときも、理子はずっと私の手を握っていた。でも、何も喋らなかった。私は自分がどこに連れて行かれているのかも分からなかった。怖くて、顔もまともに見ることができなかった。緊張から手汗をかいてしまって、それが理子にばれたら嫌だな、なんてどうでもいいことを考えてしまっていた。それどころではないはずなのに、訊かなければいけないことがあるはずなのに。


 理子は私に謝ることがあるって言っていた。やっぱり、昨日の公園の出来事だろうか。でも、だとしたら謝るべきなのは私ではなくて猫に対してではないだろうか。


 そんなことを考えていると、理子は四階の隅にある音楽室の近くのトイレの前で止まった。ここはあまり人がいない穴場のようなところだった。私たち以外だれもいない。そして私たちも二人して黙っているからとても静かだった。私はその沈黙に耐えられなくなって、理子の方を向いて、


「こんなところまで来て、話って何?」


 と警戒しながら訊いた。すると理子は小さな声で、


「猫」


 と呟くから、やっぱり昨日の猫殺しのことを話すんだって思って、私は怖くなって理子から目をすぐに背けてしまった。これから私は口封じでもされるのだろうか? そんなことを思っていると、理子は続けて、


「……のキーホルダーのことなんだけど」


 と言った。私は意味が分からずに、思わず馬鹿みたいに、


「えっ?」


 と聞き返しちゃって、でもよく考えても何を言っているのか分からなくって、なんか理子はずっと申し訳なさそうにしているし、いったいどういうことなんだろうって思っていたら、


「今年の誕生日にそらにもらって大切にしてた猫のキーホルダーをなくしちゃったの。昨日、塾に行く前に家で気付いて、ずっと探したんだけどみつからなったの。せっかくプレゼントしてくれたのに本当にごめん」


 と理子が言って私に頭を下げてくるから、わたしはよく考える前に反射的に、


「えっ、そんなのぜんぜん大丈夫だよ」


 なんて言ってしまう。本当はなにも大丈夫じゃない。昨日の公園でのことをちゃんと訊かないといけないと思う。でも目の前にいる涙目で謝る理子を見ていると、やっぱりすべてが私の見間違いのような気がしてしまう。だから結局私は何も言えない。


 理子があの猫のキーホルダーを気に入ってくれていたのは嘘じゃないはずだ。私は理子の誕生日の前に、理子が猫を飼いたいけれど妹が猫アレルギーで飼えないと言っていたのを思い出して、じゃあ猫のキーホルダーでもプレゼントしたら喜んでくれるかな、と安直に思ったのだけど、理子は想像以上に喜んでくれて、ずっとエナメルバックに付けてくれていた。


「学校に落し物として届いているかもよ?」


 不思議と理子への恐怖心が薄れて、私は普通に会話をしてしまう。


「休み時間に職員室で訊いてみたけどないって。それに……」


 恐怖心どころか、私は自分がプレゼントした物をこんなに大切に思う理子のことが愛おしくなった。普通に考えて、理子がこんなに好きな猫を殺すわけない。あたりまえだ。私は自分の妄想とか幻想とか、あるいは夢とか現実とかを区別できなくなっているのかもしれない。危ないのは私の方だ。


なんて思っていると理子が、


「昨日、学校を出た時にはまだあったと思うんだ。帰りに公園に寄った時にはあったから」


 と言った。


 ふいに、公園というワードが頭に入ってきて、私の頭の中をぐちゃぐちゃにした。


「公園?」


 私の声は、静かに震えていた。


「うん、なんとなく帰りにちょっと公園に居たんだ」


 理子は私の目をしっかり見て言った。まるで何かを試しているかのような、そんな目だった。


  




「起立」


 と学級委員の子の大きな声が聞こえてきて、私は我に帰る。目の前の黒板にはびっしりと数式が書かれていたが、私のノートにはほとんど何も書かれていない。昼休みになって、いつもの子たちの所へ行かなければならなかったのだけど、私は誰とも話したくなかったから一人でいることにした。


 田中くんが音楽室で殺されているのが発見されたのも昼休みだった。音楽室の方から突然、学校中に聞こえる大きな悲鳴が響いた。その時私たちのクラスはちょうど次が音楽の授業だったから、そっちに移動していたところで近くにいて、みんな悲鳴に驚いてすぐさま音楽室の方へかけ寄った。


 音楽室のドアの前には腰を抜かして座っている子がいて、そして中を覗くと大きなピアノの上に人が仰向けに血を流して倒れているのが見えた。白いシャツが血で赤く染まっていた。よく見るとピアノからもポタポタ液体が流れていた。首は私たちの方を向いていて、だけどそれが田中くんだってすぐには誰も分からなかった。顔も刃物で切り付けられていて、顔が血で真っ赤になっていたからだ。私たちはそれを見て一人、また一人と連鎖していくように悲鳴をあげた。


 私は声をあげなかった。ただ、あの公園の猫のことを思い出していた。大量の血は猫も人もそんなに変わらなかった。だからデジャヴじゃないけど、何となく知っている光景だなって思った。自分でも不思議なほど冷静だった。


 そしていつの間にか横にいた理子のことをじっと見た。私たち二人以外はものすごいパニックで遠くへ離れてしまっていた。理子は他の子みたいに叫んだりしないで、興味深そうに田中くんの血まみれの死体を見ていた。純粋な子どものような目だった。そして理子は死体を見ながら小さく、でも確かに、笑った。


 私はその笑顔に思わず見とれてしまう。それはたぶん、恋する乙女のように、ただ理子のことを美しいと思い、そして愛おしいと思う感情だった。


 同時にとても怖くなった。私は何も分からなくなる。これ以上、理子と深く関わってはいけないとも思う。でも、私は理子をただ見つめることしかできない。


 理子はしばらく美しい笑顔のままで田中君の死体を見ていた。そして、私の視線に気が付くと、一瞬、私の方を向いてすぐに目を背けた。私はそれでも理子から目を離せない。後ろで悲鳴のような声がまだ聞こえたが、不思議と人は近くにいなくなっていて、私たちは二人ぼっちだった。私はこの時間がずっと続けばいいと思った。だけど理子は私の手首を強い力で掴んで、


「行こう」


 と言って、私をそのまま教室まで無言で連れて行った。私はすごくドキドキしていて、それが生まれてはじめて死体を見たからなのか、理子に手首を掴まれたからなのか分からなかった。ただ、力強く私を引っ張る理子の険しい顔もいつもよりいっそう美しく見えてしまうのだ。


 そのあとすぐに警察が来て、学校は臨時休校となり、私たちのクラス全員とその近くにいた人などは簡単な取り調べのようなことをされた。理子とはそのあと一言も話していない。そもそも学校が休みで今日まで一度も会っていなかった。


 今日も理子はギリギリの時間に来た。様子に変わりはなかった。唯一いつもと違うのは、朝の集会から教室に戻ってきて席に着いたあと、昼休みにいたる今まで、一度もその場から動かずに、そして誰とも喋っていなかったことだ。私もそうだった。


 けれど、私はともかく、人気のある理子に誰も話しかけないのは明らかに不自然だった。理子は黙って一人でお弁当を食べていた。私はいつも理子と一緒だった子たちの方を見る。彼女たちは遠くでお弁当を食べながら、ちらちらと理子の方を時折見ている。そういえば私の方にもさっきからどことなく妙な視線が飛んできている。これはいったいどういうことだろう。


 思えば教室のドアを開けた時にはもう何かがおかしかった。目があっても誰も挨拶してくれずに、でもそれは無視というよりどこか怯えているようであった。そしてそれは理子に対しても同様であった。


 私は学校がなかったこの一週間、ずっと理子のことばかり考えていた。公園の理子を見て以来、恐怖心ばかりが募ったが、だけどそれよりも、音楽室で田中くんの死体を見ていた時の理子の笑顔が頭から離れなかった。世界にはたくさんの言語があるけれど、私がそのすべてを自在に扱えたとしても形容しきれないほどに美しい顔だった。幸福感に満ちていて、生命力を感じさせる。私はあと一度でいいから、理子のあの笑顔を見たいと思った。


 だから私は朝から理子のことばかり見ていた。理子の方から話しかけてくれないかな、なんて思ったりもした。やっぱりまだ怖くて、自分から話しかけることはずっとできないでいた。でもクラスの子たちは私たち二人に対して変な感じだし、それに理子は一人でいるから、私は勇気を出して自分のお弁当を持って理子のところに行った。


「理子」


私は肩をぽんぽんと叩きながら理子に話しかけた。理子はびっくりしたような、あるいは、はじめから私が来ることを予想していたかのような顔をした。理子は何も言わなかったが、私は近くの椅子を理子の机の前に置いて座った。


 すると、私たち二人にクラス中の視線が集まっていることに気が付いた。やはりそれはどこか怯えていて、まるで異邦人を見ているかのような目であった。


 私は理子の顔を久しぶりに近くで見た。音楽室で見た笑顔ほどの美しさはそこにはなかったけれど、少し悲しげな今の表情にもまた私は見とれてしまった。理子はお弁当に入っている林檎をかじりながら、


「知ってる?」


と言った。


「何が?」


 私は理子の事ばかり考えているのに、理子の考えていることが何も分からない。


「私たちについての噂」


 理子はどこか楽しそうだった。


「何それ、知らない」


「知りたい?」


 理子はいたずらっぽく笑う。理子が笑うたびに私はどきどきする。


「いい噂? 悪い噂?」


「噂なんてぜんぶ悪いものだよ」


「じゃあ聞きたくないなあ」


 と私が言うと、理子はいっそう嬉しそうにする。


「そらは変わっているね」


 理子にそんなことを言われるとは思いもしなかったが、嫌な感じはしなかった。それから私たちはお弁当を食べながらくだらない話をした。それは、昨日観たテレビの話とか、気持ち悪い先生の悪口とか、そういう、いつもの会話だ。そんな何気ない会話が私にはとても大切に思えた。


 これではまるで理子に恋してるみたいだなって思う。それに、今までは気にならなかった理子のすべてが愛おしく見える。肌は嘘みたいに白くて、毛穴の一つ一つが見えるたびに私はただならぬ秘密を見つけたみたいに興奮する。理子が何かを食べるたびに、それが理子の体の様々な器官に通っているところを想像した。そして私も理子の一部になれたらいいのになんて思ったりした。


 お弁当を食べ終わって、私たちは教室を出た。理子が喉渇いたなって言うから、何か飲み物を買うために一階にある自販機に向かった。その途中でもすれ違う人たちにちらちらと嫌な感じで見られている気がした。わざわざ振り返って私たち二人を見る人もいた。


 理子は少し気分が悪そうにずっと下を向いていた。私は周りの子たちの態度に急に腹が立ってくる。私が嫌われるのは一向にかまわないけれど、どうして理子まで変な目で見られているのか、私たち二人に関する噂とはいったい何なのか、やっぱり急に噂の内容が知りたくなって、私が理子にそれを聞こうとした。すると、遠く後ろの方から、


「うわっ、人殺しの二人だ」


 という声が聞こえてきた。


 私は振り返って、その声の主の方を見た。知らないし、まったく見たこともない男の子だった。背の低さと体の線の細さからは幼さと無邪気さを感じさせて、たぶん一年生だろうと思った。私に見られて、というかほとんど私は睨んでいたのだけれど、そのせいで男の子は怖くなったのか焦って逃げようとした。


 そんな気持ちも構わずに、私がその男の子の方へ一歩進もうとしたところで理子が私の手を力強く握った。そして手を握ったまま、理子はその男の子の前に行き、


「私、人は殺したことないから」


 と、その男の子と私にだけ聞こえる小さな声ではっきりと言った。


 自販機の前にはベンチがあり、そこには五、六人の女の子たちが喋っていた。けれど、手を繋いだ私たちが現れると、ひそひそと何か言いながらどこかへ消えていった。


 私は温かいブラックのコーヒーを買った。すると理子は、


「そらは大人なんだね」


 と静かに笑った。私が、


「飲んでみる?」


 といじわるなことを言うと、理子は小さく首を横に振った。理子は甘ったるそうなココアを買って、しばらく飲まずに缶の温かさを手に染みこませていた。


「私たち人殺しなんだって」


 まるで他人事のように理子は呟いた。


「そうなんだ」


 と私が言うと理子は、


「やっぱりそらは変な人だね」


 と子どもみたいに嬉しそうにする。


「どういうことか知りたくないの?」


 今度は少し真剣な顔になって訊いてきた。


「理子は何か知ってるの?」


「今この学校で知らないのは鈍感で馬鹿なそらだけだよ」


 そこまで言われると私たちの噂とやらについて聞きたくなったが、私は何故か意地になって、


「ただの噂なら知りたくない。そんなのばっかり聞いていると耳が腐っちゃう」


 と思わず語気を強めて言った。すると理子はベンチに座ったまましばらく黙ってしまった。


 昼休みが終わり、五時間目のチャイムが鳴った。けれど私たちは当然のようにそこから動こうとしなかった。


「静かだね」


 いつも騒がしい学校は、私たち二人以外は誰もいなくなったかのようにシーンとしていた。


「そらはさ」


 理子の声は緊張しているのかどこか震えていた。


「田中くんが殺されているのを見てどう思ったの?」


 まっすぐな視線を向けて発せられたその質問に、私は少し困惑して、


「どうって言われても……」


 と口ごもった。


「やっぱり怖かった? 気持ち悪かった? 異常だって思った?」


 どうだろう。私はあの時のことを思い出す。大量の血が、公園での無惨な猫の姿を連鎖させて、それからずっと理子の笑顔に見とれていたあの時のことを。


「怖くなかったよ」


わたしは正直に言った。


「気持ち悪くもなかった」


 そして理子のまっすぐな視線に応えるように目を合わせて、


「理子は?」


 と訊いた。


「えっ?」


 理子は少しまぬけな声を出した。


「理子はどう思ったの?」


 私はもう一度、そう訊いて、ブラックコーヒーを飲みほした。理子は少し考え込んだあと、


「あのね」


 と前置きして、


「私は凄く美しいなって思ったの」


 と言った。理子はあの時の音楽室の光景を思い浮かべているようで、自然と表情が緩んでいた。それは私にあの笑顔を思い出させるには充分だった。


「そうなんだ」


 私は相槌を打った。すると理子は、


「それだけ?」


 と呆気にとられていた。そして続けて、


「やっぱり、そらは変な人だ」


 と言った。本日三回目のそのセリフは、なんとなく心地よく響いた。


 それから、そろそろ五時間目も終わる時間になってしまって、私が、


「どうする?」


 と訊くと、理子は、


「もう帰ろうか」


 と言った。教室に鞄を置きっぱなしだったけれど、そんなことは私たちにはもはやどうでもいいことだった。


 下駄箱に行って靴を取ろうとすると、中に何か紙が入っていた。紙を広げてみるとそこには、


「人殺し!」


 と大きな文字で書いてあった。私がその紙を理子に見せると、理子の方にも同じような紙が入っていたようで、私に自慢するかのようにそれを見せてきた。私たちは何だかそれが可笑しくて、しばらくの間ずっと二人で指を差し合って笑った。


 学校を出て、私たちはあてもなく歩いた。途中で理子はとても自然に私の手を握ってきた。理子の温かい体温が伝わってきてドキドキする。


「どこ行くの?」


「できるだけ遠いところへ」


「電車でも乗る?」


「ううん、このまま二人で歩いていたいから」


 私たちはそれからしばらく特に話もせずに歩いた。一時間近く経って、まったく知らない場所まで来ていた。


「そらは聞きたくないって言ったけどさ」


 理子の視線は前を向いたままだ。


「うん」


「私たちが田中くんのこと殺したって噂が流れてるんだ」


「そうなんだ」


 鈍感で馬鹿な私でもそうだろうなってもうなんとなく分かっていた。


「一週間前にさ、私が音楽室の前にそらを呼んで話したじゃん」


「うん」


「それを見ていた子がいてさ、それに私たちさ、殺人が起こった時ずっと二人だけで現場にいて見ていたから、それで怪しまれたんだって」


「それだけで?」


 私は思わず大きな声を出してしまう。


「噂なんてそんなもんじゃないの? きっとみんな犯人を捜さないと不安なんだよ」


 理子は馬鹿にしたように言った。


「理子はさ」


 私は小さな声で言った。


「田中くんのこと殺したの?」


 そう言うと理子は私の方をじっと見つめてきた。そして、


「そらの方こそ田中くんのこと殺したの?」


 とわたしに訊き返してきた。私が小さく首を横に振ると、理子は笑って、でも私の質問には答えなかった。だけど私はその笑顔で何もかも充分だった。


「何かお腹減ったね」


 そう言って、理子は急に辺りで食べ物屋を探しだす。


「向こうに鯛焼きって書いてあるよ」


私が遠くにあるのぼりを指差すと、理子は、


「えっ、めっちゃ食べたい。早く行こうよ!」


 と言ってずっと握られていた私の手を引っ張って行った。


 本当にデートみたいだなって思って私はにやにやしてしまう。今までデートなんて誰ともしたことないけれど、でも、きっと私の初デートは今日なんだって、勝手に思ったりした。


 鯛焼きはいくつか味があって、私はカスタード味のやつを、理子はキャラメル味のやつを買って、近くのバス停のベンチに座って食べはじめた。


「熱っ!」


 一口かじって私たちは二人ほぼ同時に言った。


「もう冬だね」


「今年の終わりがはじまったね」


 理子は遠くをぼぉっと見つめている。田舎の何もなくてまったく特別じゃない風景は理子の目にはどう映っているのだろうか。私は理子のことをどれくらい知っているのだろうか。そしてそれを知る権利は与えられているのだろうか。


「そら」


 そんなことを考えていると急に名前を呼ばれて、私の心拍数はハネ上がってしまう。嫌いだった自分の名前も理子に呼ばれると魔法の言葉のように聞こえた。


「人は死んだらどうなるのかなあ」


 理子はひとりごとのように言った。


「……どうしたの急に」


「田中くん死んだじゃん」


「うん」


「でも本当に死んだのかな」


「えっ」


「私たちはいま本当に生きてるって言えるのかな」


「どういう意味?」


「生と死の境目ってそんなにはっきりしているのかなって話」


「まだよく分かんない」


「そらならきっといつか分かってくれると思う」


「……それはどうだろう?」


「あのね」


「うん」


「私さ」


「うん」


「こないだ公園で猫を殺したんだ」


「そうなんだ」


「茶色い子猫だったんだけどさ」


「うん」


「すっごくかわいかったんだ」


「かわいいのに殺しちゃったんだ?」


「子どものころからなんだけどさ」


「何が?」


「猫とか犬とかを見ると殺したくなるんだ」


「へえ」


「うん」


「いつぐらいからそう思っているの?」


「ほんとにとても小さなころ。たぶん、幼稚園生の頃とか」


「そっか」


「そらは思わない?」


「何が?」


「猫とか犬とかを見ると殺したいとか思わない?」


「私はそう思ったことないかな」


「そっか、それはいいことだよ」


「そうなのかな」


「それは絶対そうだよ」


「私さ」


「うん」


「理子が公園で猫を殺しているところ見てたんだ」


「そっか」


「うん」


「本当は知ってたけどね」


「何を?」


「そらが見てたこと」


「そうなんだ」


「うん」


「ごめんね」


「何が?」


「隠れてこっそり見ちゃって」


「そらって前からそうだよね」


「何が?」


「いつもどこかズレてるんだよ」


「えっ」


「自分で分からない?」


「分かんない」


「そっか」


「嫌じゃない?」


「何が?」


「そんな変な私と一緒にいて」


「ぜんぜん嫌じゃないよ」


「ならよかった」


「そういうところが変なんだよ」


「えっ」


「そらは面白いね」


「そう?」


「うん。さて、私たちはこれからどうしよう」


 理子は鯛焼きを食べ終わり立ち上がった。気が付けばもう夕方になりかけていて、さっきより雲行きがあやしくなっていた。


「なんか雨降りそうだね」


 もちろん私たちは傘なんか持っていなかった。


「寒い」


 と言って、理子はまた私の手を握ってくる。でも、その手は私より温かい。


「このままさ、二人でどこか遠くまで行っちゃおうか」


 理子は私の顔をしっかりと見て笑っている。でも、その目は私の方を見ているのに、私を映していなかった。理子はその目に本当は何を映したいのだろう? 私ではきっと駄目なんだろうな。私では理子のことが分からない。でも、理子のことを理解してくれる人はこれからあらわれるのだろうか。


「いま何考えてるの?」


 理子は笑顔のまま訊いてきた。


「理子」


 私はベンチに座ったままうつむいて言った。


「なに?」


「違う」


「え?」


「いま、理子のこと考えてたの」


 その一言は、理子の表情を一瞬歪ませた気がした。


「そうなんだ」


「うん」


「私もちょうどそらのこと考えてたんだよ」


「うそだ」


「ほんとだよ」


「あのさ」


「なに?」


「理子は公園で猫を殺したよね」


「うん」


「その時さ、トイレで殺したあとに死体を写真に撮ってたでしょ」


「……そんなことまで知ってたんだ」


 理子は少し顔をしかめた。


「……それがどうかしたの?」


 こんなこと言って嫌われたらやだなって思った。でも私は止められずに理子に言った。


「それを今ここで私にも見せてほしいんだ」





 家に着いた時にはもう九時を過ぎていて、でも家族は誰もいなかった。冷蔵庫を開けてもたいした物は入っていない。ずっと前から空腹だったけれど、今からどこかに買いに行くのも面倒で、とりあえずオレンジジュースを飲んで飢えをしのぐ。


 制服を脱いで、だけど何を着るでもなく下着のままでいる。ソファーにできるだけだらしない恰好で寝そべってテレビを点けて、流れてくる下品な笑い声が今の私にはぴったりだなって思う。


 なんとなくザッピングしていたら、動物番組をやっていて可愛らしい猫が映る。私はすぐにその猫の血を、内臓を、そして首がとれて死んでいるところを想像する。私がこの猫を殺して理子に見せたら喜んでくれるだろうか。そんなことを、つい考えてしまう。


 私のスマートフォンには理子が公園で殺した猫の死体の画像が入っている。あらためて見ても、トイレでじっさいに見た時のインパクトはもうない。だけどさすがにまだ慣れるってほどでもなくて、グロイなって思うし、気持ち悪いっても思うし、はっきりとこれは異常だって分かる。結局、私は正常の側にいる人間なんだと実感する。


 だとしたら理子は異常なのだろうか。たとえば病気だとしたら治るのだろうか。そもそも治すべきものなのか。やっぱり私には何も分からない。


 でも、もっと理子のことを知りたい。私にはただ気持ちの悪いこの猫の死体も、理子には美しく見えているのだろう。その世界をもっと知りたい。理子のあの笑顔を信じたい。


 だから私は明日も学校に行って理子に会う。変な噂なんかどうだってよかった。むしろ理子と親密になれるきっかけを作ってくれたことに感謝するぐらいだ。考えてみれば、私は理子のことをまだぜんぜん知らない。近所に住んでいるのに正確な住所も分からない。まだこれからなんだ。私は明日も理子といろいろな話をして、少しずつでいいから、焦らないで理子のことを理解していきたい。


 それなのに、理子はその日を境に学校に来なくなった。





 年が明けてからの月日の流れはとても早かった。正月だからってゆっくりなんてしていられない。一ヶ月もすれば大切な受験が控えていた。教室の空気もピリピリしてきて、ただでさえ寒くて嫌なのにもう最悪だった。


 田中くんの席は年が明けたらなくなっていた。でもそのことに気が付いたのはたぶん私だけだ。その頃のクラスメイトたちは参考書を読むのに必死だった。


 理子が来なくなってから、私はずっと一人でいた。みんなは理子がいなくなって満足したのか私のことを白い目で見ることをしなくなった。戻ろうと思えば前の友達のところに行けたかもしれないけど、そんなことはどうでもよかった。私は相変わらず理子のことばかり考えていた。


 理子の家は近所のはずだから、私は探そうと思えばできたはずだ。それにメールとかラインとか電話とか、連絡を取る手段はいくらだってあった。だけど私はそれをしなかった。受験で忙しかったからではない。みんなは馬鹿みたいに勉強しているフリをしているけど、所詮ただの田舎にある公立の高校入試だからたいした勉強はいらなかった。


 私はきっと理子にとって必要な人間ではなかったのだろう。理子はいま何をしているのだろう? ずっと心の中にあった理子に対する恐怖心はもうほとんどなかった。でも理子に会って私の存在を否定されることは怖かった。


 入試の日も理子はいなかった。そもそも願書を出したのかさえ分からない。その日に限って大雪が降っていた。私はまったく緊張しないで、試験の手ごたえはまあまあだった。このままずっと、理子とはもう会えないのかなって思いはじめていた。


 入試が終わって、なんとなく私はあの公園に行った。今日も人は誰もいない。古びた遊具やベンチには雪が少し積もっていた。私は雪なんか気にしないでベンチに座った。太ももに触れた雪は耐えられないくらい冷たかったが必死になって我慢した。しばらくここに居たかった。そして、横にあるトイレの方を見る。トイレで殺された猫の死体はいったい誰が掃除したのだろうか。まさか、誰にも発見されていなくてそのままってことはないだろう。確認しようかと思ったけど、それはやっぱりやめた。そのかわりじゃないけど、スマートフォンに入っている猫の死体の画像を開いた。毎日欠かさず見ているからもう何とも思わない。本当に慣れてしまった。理子のように美しいとは何度見ても思えないけれど、今では、この猫の死体を見ながら食事だってできる。私は少し理子の感覚に近づけたかなって一瞬思うけど、やっぱりそれは錯覚だ。


 私はこのまま普通に高校に入学して、新しい友達を作り楽しく過ごしたりできるのだろうか? 結局、私は中途半端なんだ。正常な世界にも、異常な世界にも、私の居場所はない。異常な世界をちょっと盗み見て興奮して、だけど自分は安全な場所に身を置いたままで何もできない凡人。気が付いたら正常の世界にも戻れなくなっている。つまり、ただの馬鹿なんだ。


 さっきから理子に電話をかけようとしているけれど、どうしてもできない。たぶん出ないと思うけれど、もし出たらどうしようって思う。


 私は理子が好きだ。そばに居たいって思う。手だってつなぎたい。それに、肌にだって触れていたいし、何より理子の特別な存在でありたい。理子のことを理解できるのは周りにいるくだらない連中じゃなくって私なんだって信じたい。


 理子と最後に会った日からそう思ってきたけれど、その自信は次第になくなっていった。私の理子への思いは変わらなかったけれど、理子は私から逃げるように消えてしまった。私はもう理子の顔を忘れかけている。唯一はっきりと浮かぶのは、田中くんの死体を見つめている理子の笑顔だけだ。あの笑顔は私の心の中にずっと残っていて、その輝きが霞んだことは一度もなかった。





 卒業式の日は晴れていて暑いくらいで、照りつける太陽がやたらまぶしかった。


 お偉い人たちのくだらない話は、これからの、きっとつまらないであろう私の人生のようだなって思えた。一人一人の名前が呼ばれる時、私たちのクラスでは田中くんの名前も呼ばれた。もちろん返事をする人はいない。理子の名前も呼ばれたけれど、もちろん返事をする人はいない。当然のように私の名前も呼ばれる。


「はい」


 って言わなきゃいけないんだけど、急に何もかも面倒になって私は下をむいたまま黙ってしまう。私の周りに座っていた子たちは不審な目をしたが、式はそのまま何事もなく続いた。


 式が終わって教室に戻り、先生が何やら感動的な話をして、それが終わったらみんなで集合写真を撮ろうということになった。私はただでさえ写真に写るのが苦手なのに、どうしてこんな人たちと楽しげに写らなきゃならないのか分からなかった。様々なメッセージが書かれた黒板を背に撮ろうとしていて、みんなで前にある机と椅子を移動させていた。みんな興奮していて騒がしく、その隙に私が堂々と教室を出ても誰にも気づかれなかったのか何も言われなかった。


 帰り道にあの公園にまた寄ろうと思った。途中で持っていた卒業証書と卒業アルバムがうっとうしくなって、自販機の横にあるゴミ箱の蓋を開けて無理やりその中に放り捨てた。すると少し気が楽になって、そういえば、この学生鞄もいらないなって気が付いて、それも一緒に押し込んで捨てる。捨てるところを顔見知りの近所の人にじろじろと見られたけれど、そんなことはどうでもよかった。


 そして公園に着いて、またベンチに座ろうと思ったら、そこには一人の女の子がいた。それは間違いなく理子だった。


 私は何も言わずに理子の横に座った。理子の両手には缶コーヒーが握られていて、


「甘いのとブラックがあるんだけど、どっちがいい?」


 私は少し迷って、


「甘いの」


 と言うと、理子は困ったように笑って、


「そらはいじわるだ」


 と言って私に甘いのをくれた。


「苦っ。こんなの飲み物じゃないよ」


 慣れないブラックコーヒーを飲みながら理子は無邪気に言った。缶コーヒーはすっかり冷めていて、私が、


「いつからここにいたの?」


 と訊くと、


「分かんない」


 とはぐらかされる。缶コーヒーは飲んでみると甘いのは本当に甘くて、


「こんなのほとんど砂糖じゃん」


 と私が言うと、


「それが美味しいんだよ」


 と返される。理子は私をじっと見ると不思議そうに、


「手ぶらなの?」


 と訊いた。


「うん」


「卒業証書とか、卒業アルバムとか貰わないの?」


「さっき帰り道にゴミ箱に捨てたんだ。学生鞄とかと一緒に」


 私が淡々とそう言うと、理子は、


「そらは変なひとだ」


と喜んでくれる。そして、


「卒業おめでとう」


と言ってくれた。


「理子も卒業おめでとう」


「私は式に参加してないから」


「でも名前は呼ばれたんだよ」


「そうなんだ」


「久しぶりだね」


「そうだね」


「入試にも来なかったでしょ」


「そらは受けたの?」


「うん」


「真面目だね」


「高校には行かないの?」


「あのね」


「うん」


「私ずっと考えてたんだ」


「何を?」


「自分の将来のこと」


「うん」


「私やっぱりどうしても人を殺してみたいんだ」


「そっか」


「でも人を殺したら捕まるでしょ?」


「たぶん」


「だから殺すなら今しかないって思うんだ」


「どういうこと?」


「私たちまだ十五歳だから、殺しても一人ぐらいなら大した罪にはならないでしょう?」


「ああ、そうかも」


「だって死刑にはなりたくないもん」


「理子でも死ぬのは怖いの?」


「あたりまえじゃん」


「そっか」


「それでね」


「うん」


「誰を殺すかってずっと考えてたんだ」


「決まったの?」


「いま決めたよ」


「誰?」


「分かんない?」


「私が知っている人?」


「もちろん」


「私は理子の考えていること、いつも分かんないんだ」


「そんなことないよ」


「え?」


「だって、そらは私のたった一人の友達だもん」


「ありがとう」


「何が?」


「そんな風に思ってくれて」


「ううん」


「それで誰なの?」


「ねえ、そらは本当は分かっているんじゃないかな」


「うん、たぶんね」


「そう」


「でも分かりたくないって気持ちもあるんだ」


「そっか」


「ところで、どうやって殺すの?」


「殺すのなんて、猫も人も一緒だよ」


「そういうもんなんだ」


「そういうもんだよ」


 そう言うと、理子は静かに笑った。


 




それで、私たちはいま理子の部屋にいる。両親は共働きでいつもいないらしい。部屋は二階にあり狭いが物は少なくて綺麗だった。


 適当に座ってて、と言って理子は部屋から出て一階の方へ降りて行った。部屋のありとあらゆる物から理子の匂いがして、私はそれだけで嬉しくなる。大きな本棚には私が絶対に読まないような難しそうな本が並んでいる。ドストエフスキーやカフカなど私が名前だけ知っている作家もあった。理子は海外文学が好きみたいだ。学校で本を読んでいる姿はほとんど見たことなかったから、理子についてまた一つ知れて嬉しくなる。


 でも、もう終わりなんだ。


私は今から理子に殺される。


 再び部屋に戻ってきた理子はオレンジジュースが入ったコップ二つと包丁を乗せたトレーを持っていた。


「コーヒーの方がよかった?」


 そう言って理子は私にオレンジジュースの入ったコップを渡した。


「ううん、なんでも」


 それからオレンジジュースを二人で飲む間、私たちは一言も喋らなかった。


 私はトレーに置かれた包丁ばかり見ていた。刺されたらやっぱり痛いのかなあ、痛いのは嫌だなって思った。けれど不思議とまったく怖くなかった。よく考えてみれば、私は死ぬっていうことがどういうことなのかまったく分かっていなかったのだ。


 理子が包丁を手に取ろうとする。その手は明らかに震えていた。理子だって緊張したりするんだなって驚いてしまう。そして人を殺すのなんてはじめてなんだから仕方ないよって応援したくなる。殺される方が殺す方を応援するなんておかしいけど、でもそれが私の正直な気持ちだった。


「理子」


 急に名前を呼ばれた理子の顔は青ざめていた。違う。私が見たい理子はこんなんじゃない。


「怖くなったの?」


 これでは私の方から理子に殺して欲しいって頼んでるみたいだ。じっさい、私は理子に殺されることはまったくかまわない。だけど、それはすべて理子に喜んで欲しいからだ。


 私は震えている理子の手をそっと握った。


「猫を殺した時もこんなだったの?」


 理子は何も答えない。まるで聞こえていないみたいだ。


「私の血とか見たいんじゃないの?」


 左手で理子の手を握りながら、右手で頬をやさしく撫でる。いい匂いがする。


「ねえ、理子。私の血を想像して。私が死んでいるところを想像して」


理子は青ざめた顔で私を見る。震えはまだ止まらない。それどころかさっきより強くなっている。


「やめよう」


理子は小さく震えた声で言った。


「どうして?」


「やっぱりこんなこと馬鹿げてる」


「そんなことないよ。すべて理子が望んだことだよ」


「そらはやっぱり変だよ。ていうか、もう完全におかしいじゃん」


理子はそう言うと泣き出してしまった。


「私は理子に笑って欲しいだけなの」


「だったら、こんなことする必要ないよ」


「理子は人を殺したいんでしょ? なら殺すべきだよ。それだけの話なの」


「そんな簡単に言わないで」


「理子が殺さないなら私は一人で勝手に死ぬよ」


「……どうして?」


「私は理子に殺されるために生まれてきたから。理子が殺してくれないのなら私には生きてる価値なんてないもん」


「ほら、そらは狂ってる! そんなのどう考えてもおかしいじゃん!」


 理子は完全に取り乱してしまって、まったく会話ができなくなるほどに泣き叫んだ。私はもう一度、理子のあの笑顔が見たいだけなのに、どうしてそれが分かってくれないのだろう? このまま本当に理子が私を殺してくれなかったら困る。それだけは避けなければならない。私は今から理子に殺されるべき存在なんだ。


 私はトレーの上の包丁を手に取った。それに気づいた理子は急に泣き止んだ。私は包丁を理子に向けて、


「私を殺さないなら、いまから私が理子のこと殺すよ」


 すると理子は、


「いいよ」


 と言った。


「私なんて殺されて当然だもん。生きていていい人間じゃない」


 私の言葉はむしろ理子を安心させたようで、さっきまで泣き叫んでいたのに、今では清々しさも感じさせる表情を浮かべていた。


 もちろん私に理子を殺す気なんてまったくない。そう脅したら理子が私を殺す気になってくれると思ったのに、これではまったく駄目だ。私はパニックになって、理子に向けていた包丁を自分の腕に思いっきり刺した。


 私の細い腕に刺さった包丁から少しずつ赤い血が流れてくる。不思議と痛みはあまり感じなかった。ぽたぽたと理子の部屋の白いカーペットにも染みていく。理子は呆気にとられたようにただぼぉっとそれを見ている。


 刺さった包丁を抜くと、よりいっそう血が出てきた。すると理子は腕から流れる血を手で受け止めた。そして手についた私の血の匂いを嗅いで、それから舌で舐めた。


 そして理子は微かに笑った。


 私は嬉しくなって、今度は足に思いっきり包丁を刺した。腕に刺した時より勢いよく血が出た。今度もまったく痛みは感じなかった。


 私が包丁を足から抜くと、理子は直接私の足に触れて私の血を楽しんでいた。理子はどんどん笑顔になっていった。


「すごい血だね」


 理子は興奮して言った。


「まだまだ、もっと出るよ」


 私が調子に乗ってまた自分に包丁を向けて刺そうとすると理子が、


「待って!」


 と言った。


「私がやりたい。そらは私が殺したい」


 理子は完全にやる気を取り戻していた。


 私は包丁を理子にそっと渡す。理子は受け取ると包丁についている血を舐めた。


「美味しい?」


「うん。すごい。これがそらの血の味なんだ」


 そして満足すると包丁を私の方に向けた。


「反対の足も刺してあげる」


 そう言うと理子は勢いよく私の足に刺した。さっきまで痛みを感じなかったのに、急にとてつもない痛みが走る。私は立っていられなくなる。流れる血と、私の苦しそうな顔を見て理子は少しずつ笑顔になっていく。


 それから理子は私の服をすべて脱がし裸にして、丁寧にゆっくりと体のありとあらゆる箇所を刺していった。


「まだ大丈夫?」


 私の意識は朦朧としていた。


「そろそろきついみたい」


「そっか」


 理子は私の胸を触って、心臓の場所に包丁を向けた。


「死んだあと、ちゃんと解体してあげるからね」


「うん」


「そら、最後に何か言いたいことある?」


 理子は私の髪をそっと優しく撫でた。いろいろな言葉が私の頭の中で浮かぶ。理子に言いたいことはたくさんあった。でも、早くしないと理子は私の言葉を待てずに今にも私を刺し殺してしまいそうだった。だから、私はずっと理子に言いたかった一言を、小さな声で、でもはっきりと伝えた。


「理子」


「何?」


「愛してるよ」


 私がそう言うと、理子は私の唇にそっとキスをした。


「私もそらのこと愛してるよ」


 そう言うと理子は私の心臓に包丁を刺した。私はもう感覚を完全に失っていて、痛みは感じなかった。視界もぼやけていて、私は本当に死ぬんだなって思った。だけどもう一度だけ理子の顔が見たくって、最後の力を振り絞る。


 理子は笑っていた。あの音楽室の時よりずっと美しく。理子はまるで太陽のようだった。私はこの顔が見たかったんだ。

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君は太陽 大倉 @ookura0808

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