第2話 ……やっぱり、いい匂いなの

 × × ×


 入学式を終えて、早くも一週間。俺は、小遣い稼ぎの為に学校の敷地内にある売店でアルバイトを始めていた。奨学金は全てが生活費で消えていく為、やりたい事をするにはこうして働かなければならない。

 とはいえ、実は俺は結構この仕事をかなり気に入っている。アルバイト、楽しいんだこれが。


「ワンちゃんが来てくれて、本当に助かるわ~」


 そう言って笑うのは、東京郊外の隔離されたこの場所から一番近い住宅街、吹堂町すいどうちょうよりはるばるパートにやってきている空栖からすさんだ。殺伐としたこの学校の所謂オアシス的な存在で、戦いに疲れて卒業までモラトリアムを楽しむことにした生徒たちの間ではママだったりお母さんだったりと呼ばれている。

 因みに、年齢と体重は不明。結婚してるのか、子供はいるのか、それすらも不明。だから、本当にママなのかどうかも不明で、なんならどうしてこんな所で働いているのかも不明だ。

 とにかく、いつもニコニコで緑のエプロンを身に着けている、胸がやたらとデカい謎の存在が彼女。ミステリーですよ、こいつは。


「母さんがそう言ってくれるのは嬉しいけど、そのワンちゃんってのはどうなのよ」


 母親が居ないから、母さんだとかママだとかそうやって人を呼ぶことに憧れてた俺は、他の生徒たちの例に漏れず彼女を母さんと呼んでいる。

 恥ずかしくはあるけど、最初からモラトリアムを楽しむ気でいるワケだし、それにこう呼ぶと彼女はちょっとだけ嬉しそうな顔をするから差し引きゼロ。まぁ、そのうち慣れるでしょ。


小戌こいぬ君だから、ワンちゃん。かわいくていいでしょ?ウフフ」


 妙なクネクネとした動きを見せると、母さんは頬に手を当てて自分よりも身長の高い俺の頭を撫でた。

 俺は密かに、この人は世の中の女の母性が集合して出来上がった化け物なんじゃないかと思っている。だからだろうか。この学校で唯一異能人類メタモルヒューマンではない彼女に対して、誰一人逆らう事をしないのは。


 ……この一週間、実は母さん以外とまともに話していない。何故なら、クラスメイトに「仲良くやろうぜ」的なノリで話しかけてもほぼ全員にシカトされるか「うるせぇ、バーカ」と丁寧に断られてしまったからだ。

 しかしその仕組みは単純で、それはこの学校がバトルによって序列が決まる場所だからだ。だから、本当の格付けも済んでいないうちから付き合う人間を決める事はしない。それどころか、俺は彼らにとってこの早い時期から無意味に近づいてくる不気味な奴と認識されて、つまるところ敵扱いされてしまったのだ。


 南無三。こうなってしまっては、もうどうする事も出来ない。だから俺はこうしてバイトを始めて、再び幸せになれるチャンスを伺っているという事だ。

 まぁ、技能テストが終わった頃にはヒリついた空気も薄れて、次第に仲良く出来る奴も出てくるだろう。


「そろそろ時間ですね。俺、片付けやっときますよ」

「ホント?助かるわ〜。実は原付きが壊れちゃって、今日はバス停まで歩きだから時間がギリギリだったんだよ〜。遅れたら、ワンちゃんの部屋に泊まっちゃおうかと思って」


 からかわれる事すら心地よい。これが、大人のひとか。


「そうなんですね。まぁ、タイムカードも押しとくんで安心してください」

「ウフフ、ありがと。それじゃ、また明日ね〜」

「お疲れ様です」


 言うと、彼女はエプロンを外してから、狭いバックヤードのフックに掛けてカバンを手に取った。


「……やっぱ、バス停まで送ってきますよ。学校の外だし、危ないですから」

「あら、カッコいい。なら、お願いしちゃおうかしら〜」


 そして、俺はバス停まで母さんを見送ってから再び売店に戻って片付けを始めた。と言っても、雑誌のラックは店の中に閉まって出たから、後は掃除をしてレジの金を金庫にしまうだけだ。


 100年以上も昔のロックバンド、ザ・ブルーハーツの名曲、1000のバイオリンを口ずさんで箒を動かす。楽しい事、たくさんしたい。


 なんて思ってると、突然店の外で物音が聞こえた。どうやら、誰かが中を覗いているみたいだ。影は小さくて髪が長い。恐らく、寮生の女子生徒だろう。


「ホントは閉まってるけど、お金だけ置いてってくれたら見逃しますよ」


 夜にカップ麺が食べたくなって、思わず外に出てしまう事はよくある。……らしい。だから、母さんは閉店後のこの時間でも訪れた生徒は見て見ぬ振りをするのだ。今の言葉も、完全に受け売りってワケ。


「……やっぱり、いい匂いなの」


 ひょっとして、さっき開けたチェリーコークの事を言ってるのか?この独特の甘さが分かるとは、中々の慧眼、いや慧鼻の持ち主であるらしい。


「でも、これは売り物じゃないんですよ。入学する前に自分で仕入れたモノで……」


 言って振り返ると、そこには同じクラスの女子、雪常ゆきつねくるりが立っていた。彼女は、話しかけたらシカトしたタイプの生徒だ。


「学年最強候補筆頭が、こんな遅い時間に外出なんて不良だな」

「強いから、不良なの。先生より強いって、たくさんお得なの」


 なるほど。彼女が入学試験で戦闘教員をブチのめしたっていう噂は嘘ではないらしい。


 雪常は、少し長いピンク色の髪を緩く2つに結び、どこか無邪気さを覚えさせる瞳の、それでいて同学年ではかなり発育の良い胸を持ったアンバランスなスタイルをしている。顔は、色は真っ白でちょっと不健康そうだが、品があって清楚な感じがする。なんか、あらゆるマニアの欲しがるモノを持ってるって感じだ。

 制服は、自分で改造したのだろうか。ブレザーは僅かに胸を強調する形になっていて、ノーマルのモノにはないピンクの差し彩が、胸のポケットに入っている。プリーツスカートも随分と短い。器用なヤツなんだろうな。


 そんなことを考えながら、互いを見つめ合う謎の時間が幾ばくか訪れた。雪常は、虚ろな目をしてしきりに鼻を動かしている。ずっと、匂いを嗅いでいるみたいだ。

 それを見て、彼女は本当にチェリーコークが好きなんだなと思った。俺には感じないけど、彼女はきっと鼻の効く変異人類なんだろう。


「どうしたよ」

「欲しいの」

「そんなにか?」

「うん。くるり、大好きなの」


 なら、部屋からストックしてる分を取ってくる必要がある。まぁ、これがお近付きの印になるんだとすれば、それくらいの面倒は請け負ってもいいだろう。


「わかった。じゃあ、片付け終わったら取ってく……」


 突然の事だった。俺が言葉を言い終わる前に、彼女が俺の胸に抱きついて、首の匂いを嗅ぎ始めたのは。

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