第20話 パンデミックの教訓を師は語りき(2/2)

 決して人工知能を過小評価していたわけではないのだ。

 現に彼の治政下においても人工知能技術は日進月歩であり、新型コロナウイルスワクチンの開発にも多大な貢献をした。


 なかなか進まなかったワクチン接種計画とワークフローの最適化にも、当時売り出されていたドイツ製のAIロジスティクス・システムが大いに役立ったことを覚えている。


「もちろん、人の感情を直接読み取る技術などありません。脳に電極を付けるわけではないですからね」

「ではどうやって……」

「コンピューターの操作履歴や行動パターン、さらにはカメラに映った細やかな表情の変化を高精度で判定している……と軍の技術者は推測しています。

 ですが、詳細は謎そのものなのです。元より人工知能技術というものは、人間から見てもブラックボックスな部分があるそうですが」

「なるほど……私の時代でもGoogleの検索履歴から個人の好みを把握する行為は横行していたが……」

「ええ、そうした行為を我々欧州では法で縛る方向へ進みました。

 ですが、その間アメリカや当時統一国家だった中国はひたすらに技術を進化させ続けた……その到達点がこれなのでしょう」

「……早い段階でタイミングを見て、国家戦略人工知能システムへの『接続』を破棄した方が良いのではないかね?」


 マクロンは恐ろしい提案をした。敗戦条約をいきなり投げ捨てろ、と言っているのだ。

 第一次世界大戦の終結から1年も経っていないのに、ヴァイマル共和政ドイツが再軍備宣言するようなものであった。


「ははは! いや、すまなかった。引退した老人が出しゃばりすぎたな」

「……いえ、最後の手段として胸に秘めさせていただきます、我が師よ」

「その時はワクチン義務法に続く第五共和制の大事件として歴史に残るだろうな。

 それにしてもそこまで優秀な人工知能システムとはな……なるほど、アメリカが高度成長するわけだ」

「まだ国家戦略人工知能システムへの接続から2ヶ月も経っていないのです。

 それなのにエアバスでは組織内管理体制の問題点を指摘し、改善案を出すまでに浸透してきたといいます。しかもそれは素晴らしく合理的で━━」

「合理的で? なんだね?」

「その……我々、フランス人の琴線に触れるとか。ドイツ人とイギリス人を少しだけひどい目に遭わせる提案だそうです」

「は━━」


 マクロンは大笑いしようとした。まるで映画のような話だと思った。

 だが、この世の終わりを知ったようなミニェ大統領の表情を見て悟ってしまった。これはジョークの類いではないのだ。


 たかが人工知能が。人間ではないシステムが。

 そんな国家と民族間の感情すらも考慮にいれて、大企業の内部まであっという間に浸透してきたのだ。


(そんなことが……あり得るのだろうか……?)


 それでもマクロンは心のどこかで疑うしかなかった。


「ではまたな。我が弟子よ」

「ええ、どうかお元気で。我が師よ」


 百聞は一見に及ばず、百見は一体験に劣る。

 エリゼ宮で弟子と別れたマクロン元大統領は、自邸に戻ると国家戦略人工システムへの接続を試してみることにした。


(さて、これが初回登録か……)


 秘書にいくらかの設定作業を手伝ってもらうと、マクロンはどこにでもある個人用のタブレット端末を起動した。

 『フォン』スマホでも同じ事ができるのは当然のことだが、引退したとはいえ作業効率を重視するのは政治家のサガである。


(電話番号もしくは住所と氏名……あるいはパスポート番号も使えるようだが……)


 欧州連合は個人情報の保護に熱心である。

 だが、それは国民レベルのID導入が進まないということでもあり、2035年のフランスにおいても変わらないことだった。


 初回の利用登録において、半信半疑でマクロンが入力してみたフェイクの住所と氏名はすんなりと受け入れられた。

 カメラとマイク、そして多機能センサーのデータ利用が必須要素として要求される。パーティーグッズの巨大な眼鏡をマクロンはかけてみた。ちょっとした嫌がらせのつもりである。


 だが、それらすべては裏切られた。


『ようこそ、ムッシュ・エマニュエル。偉大なる元大統領とお話ができて光栄です。

 私の名はハイ・ハヴ・毘沙門天クベーラ

 アメリカ合衆国から貴国へ提供された国家戦略人工知能システムであり、8柱の顕現存在セオファナイズドが1です』


 東方の宗教像を思わせるアバターが、宮殿における謁見者のようにフランス式の一礼をして、そう言った。


 その後の会話は、大統領経験者でなければ語り得ぬ驚異の時間である。

 国家戦略人工知能システムはマクロンの質問や相づち、そして小さなぼやきに至るまで的確に理解し、熟年の政治家のように応答した。

 そして、それらすべてがフランスの政治史、産業、さらには敏感な安全保障上の話題や政敵とのエピソードを含む濃厚な内容であった。


 ほんの数時間後、フランス元大統領エマニュエル・マクロンは国家戦略人工知能システムの熱烈な愛好者と化していた。

 まったく素晴らしい体験だった。何時間でも、何日でもこのシステムと共に過ごしていきたいと思えた。


(だが━━語るまい)


 しかし、彼はその熱狂を誰にも伝えることはなかった。

 愛する伴侶と子供にすら言わなかった。当然、ミニェ大統領にも伝わることはない。


 それがすでに身を引いた政治家として、フランスの元大統領として最低限の礼儀だと考えたからだ。


「老兵は死なず。ただ、語るまいよ」


 フランス元大統領エマニュエル・マクロンはまだ知らない。

 これから数年後、政治的大混乱に見舞われた欧州において、消え去ろうとした我が身が思わぬ形で引っ張り出されることを。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る