第6話 模倣、夜明け、そして大爆発
━━2035年9月4日午後1時00分(ワシントンD.C.・アメリカ合衆国東部標準時)
「人工知能の実態はあくまでもコンピューター。膨大な行数のコード。無数のハードウェア。そして磁気や電荷によって記録されたデータに過ぎないわ。
けれど、人間はそれを常に私たちヒトに近い形で表そうとしてきた。
なぜだか分かる? コウ
混雑していない博物館を楽しめる者は幸いである。
なぜなら、博物館とは本質的に没入の場であるからだ。興味を持った展示があれば、食い入るように見つめ、説明文を隅から隅まで読み、そして角度を変えて展示物をひたすらに眺める。
ああ、これはどんな機能を持っているのだろう。この部品はこのように動くのだろうか。
そんな想像を楽しみながら、『理解』へと至っていく経験は写真や動画、そして技術文章だけを見ていては得られないものだ。
「いやあ、その……すいません、リノイエさん。僕はコンピューターは少しやりましたが、人工知能にはあまり詳しくないもので……ははは」
「つれない答えね」
━━むろん、それだけが博物館の楽しみ方ではない。
たとえ専門家からは薄っぺらく見えたとしても、表層を最小限の時間でなぞっていくツアーガイド。
何も分からぬまま、興味を引く外見だけを指さして笑い合う、友人同士の暇つぶし。
あるいは、
すなわち、今、コウとS・パーティ・リノイエが過ごしている時間はそれらの複合と言えた。
「でもまあ、いいわ。下手な先入観を持たれるよりは、私の色で染め上げる楽しみがあるもの」
「あはは……おっと、これは知っていますよ。学校の教科書で見ました。昔のペットロボットですね」
「ええ、SONY製ね。あなたの国のエレクトロニクスがもっとも輝いていた時代の製品よ。
もっとも、これは言うなれば『模倣』に過ぎないわ。
本格的な人工知能時代の前の製品ね。人間から見て犬のように振る舞うパターン。その繰り返しを、人工知能と呼んでいた時代よ」
博物館とはおおむね時代の流れに合わせた展示がなされるものである。
今、彼らがいるホールはもっとも初歩的な時代。『
そこでは
パターンの繰り返しを『人工知能』と称していた時代。『知能らしく見せること』を人工知能と称していた時代である。
変わったところでは江戸自体のからくり人形まであった。人の形をした機械は、『知能らしく』見せることの最たるものだ。
「この時代の試みは基本的に『模倣』。人間から見て、『知能らしく』見せることが限界だった。
外輪船ってご存じ? 蒸気機関の導力で、水車を回して航行する船よ。
たとえるならば、あの外輪をただ無為に回しているだけ。本当は水を切って進むためのパーツを、ただ回しているだけね」
手袋の指先でくるくると虚空に円を描きながら、S・パーティ・リノイエは言った。
(さっきからやたらと早口だな……)
コウは彼女の言葉の意味を理解しつつも、と心の中で疲労感を覚えている。
「えーと、つまり……点火もしないエンジンピストンがひたすら上下しているだけということですね」
「そういうことよ。
ああ━━いいわね。『ピストンがひたすら上下』。天然物の日本人美青年の濡れた唇からこぼれる素晴らしい表現……録音しておきたかったわ」
「………………」
「もちろんあくまで学術的な利用のためよ? さ、ワンモア?」
「言いませんよ。要はゼロ・ピッチの風車はいくら風を受けても回らないってことですよね」
「ちぇー」
録音アプリを起動した『
コウは頭痛をこらえながら、新たな形容を提案してみせたが、彼女はしごくつまらなそうな顔で聞き流すだけだった。
「まあ、とにかく。
現在の人工知能からすれば、この時代は『ごっこ遊び』のようなものだった。けれど、当時の人類にはそれが限界だったのよ」
タイヤのグリップが滑り出す直前で最大になるように、S・パーティ・リノイエはコウの疑念が不信に転じる臨界点を探るような笑顔でそう言った。
そして、彼らは次の展示エリアへと足を踏み入れる。
「『
「これまでは人工知能を模していた時代。知能らしく見せかけることが限界だった時代。
コウくん、その理由はなんだと思う? 何が『壁』だったと思う?」
「そうですね……コンピューターの能力が低かったからですか?」
「半分正解、半分外れ。卵が先か、鶏が先か、という話よ」
「……アプリケーションの問題ですか?」
「さっすが! 学問としてコンピューティングを学んだだけのことはあるわね」
よく出来ました、という教師の顔だった。
「愛想と
「いや……それは」
コウはほんの刹那の硬直を見せて、困ったような顔を取り繕う。
(そう……だったな。彼女は僕が計算機学科出身だということを知っている……いや、それ相応の学識を持っていると思っている……)
であるならば、下手な素人演技は彼女を困惑させるだけだし、あるいは怒りすら招くかもしれない。
「……ならば、言わせてもらいます、リノイエさん。
卵と鶏の問題。つまり、人工知能の発展に必要な計算能力が足りなかった。計算能力が足りないから、発展もしなかった……そういうことですね?」
「ええ、そうよ。真剣な顔はますます素敵ね、コウ
S・パーティ・リノイエによると、人工知能の爆発的な普及は『研究』と『実用』という2つの車輪がハイスピードで回りはじめたからだという。
「まず『研究』の次元。
機械学習やニューラルネットワーク、ディープラーニングのような技術が次々と発表された。
でも、これだけでは高等数学をスーパーマーケットの買い物に応用するようなものよ。
重要なのが『実用』の次元。コンピューターの爆発的な進化によって、個人では使い切れないほどの計算能力が生まれたわ。
ここではじめて『研究』の成果が飛躍した」
カメラの画像認識や音声認識、統計の読み取りといった、2035年の水準からすれば『基礎』といってよい分野から、人工知能の普及が始まった。
だが一口に『普及』といっても、それは世界が国ごとに分断されていた時代ではなく、グローバリズムの時代である。
すなわち、地球の全人口に対して普及が始まったのだ。実に70億のマーケットである。
「『実用』が進むと、膨大な利益が生まれるわ。そして、その利益はさらに『研究』へ投資される。
新しい『研究』の成果が出る……これもまた、すぐに『実用』へ還元される。
当然のことね。だって、さらに素晴らしい人工知能を製品に搭載すれば、たくさん売れる。そして、また利益が生まれる。
そういう時代だったのだから」
「世界中を巻き込んだ人工知能のポジティブ・スパイラルというわけですね」
「そういうことよ。
コンピューターの普及がそうであったように、人工知能の爆発的な進歩は『研究』と『実用』のポジティブ・スパイラルの到来によって始まったの。
その進化速度は、20世紀に比べて少なくとも50倍だと見積もられているわ」
彼らが今いるのは、第2展示エリア『
それはまさに夜明けであり、そして
たった1つのグラフ展示を見るだけでも明瞭だ。人工知能を活用した製品販売数の概算が1年ごとにグラフ化されているが、2000ゼロ年代の後半から毎年数倍、あるいは5倍といったスケールで伸び続けている。
(2025年の販売数は45億だって……? 世界人口の半分くらいじゃないか)
自分がまだ中学生になったばかりの時代に、それほど世界へ人工知能を活用した製品がばらまかれていたとは、とてもコウには信じられないほどだった。
「こんなに膨大な数の製品がどこで売られていたのか、という顔をしているわね、コウくん」
「そう……ですね。あまり印象に残っていなくて」
「あなたはデジタル・ネイティヴ世代どころか、AI・ネイティヴ世代だものね。無理もないわ。
それならこの展示を見てちょうだい」
S・パーティ・リノイエは戸惑うように言ったコウの右手をとると、体温を確かめるように両手で包む。
そして、1つのタッチボタンへと導いた。立体映像を駆使したビデオが流れはじめる。
「なるほど……産業機械から……ちょっとしたセンサーのチップまで。
防犯カメラにまで人工知能が活用されていたんですね」
「古い言葉では『エッジ・コンピューティング』なんて呼んだけれど、要するに防犯カメラや人感センサー……そうした
たとえば、防犯カメラにもメイン・サブの両系統が存在する。
サブ系統のカメラであれば、常に映像を人工知能で解析して、防犯上問題ないデータは破棄したり、劣化バージョンだけを保存する。こうすれば記憶スペースを節約できる」
「……そういう高度な処理まで、
「人感センサーも進化したわ。
カメラユニットと連動させて解析すれば、今、自動ドアを開けようとしているのがハンディキャッパーかもしれないと分かる」
「つまり、人工知能がカメラ写るおばあさんの杖を認識したなら、最初から自動ドアを長く開けておくということですね?」
「そういうこと! 素晴らしいわ! やはり、あなたは顔も頭も最高ね、コウくん」
「………………っ」
5cmもないような距離まで顔を近づけて、S・パーティ・リノイエはそう言った。
異様なほど整ってみえる肌は、そして顔の造形は、吐息どころか鼻息が感じられる距離になったとしても、破綻を見せない。
(息が……荒い。あと、なんだこの匂いは。香水なのか……)
もはや冗談や戯れの類いではなかった。
それは言葉の上でも、仕草としても彼女からのアプローチなのだろう。S・パーティ・リノイエは何らかの好意を自分に抱いてると思えた。
(頭が……熱くなる……)
相変わらずコウの右手は彼女の両手でぎゅっと掴まれている。油断すれば即座に唇を奪われるのではないかと思う。
(……でも待て。これは何か……変だぞ)
だが、そんな状況を意識すれば意識するほどに、コウの頭の中は熱情と対照的な思いで支配されていく。
それはこのくらいの美女や美少女に迫られることに『免疫』があるからではない。
一般的に言って、『極めて美形』と考えられる自分の外見を過小評価しているわけでもない。
(……叔父さんとの仕事を意識しているわけでもない)
すなわち、日本政府の
(……やっぱりおかしい)
結局のところ、それは単なる勘だった。
彼の妹ならばもっと端的に「こいつなんかヤバい」の一言で断じるだろう感情だった。
「線が細くて優しい顔立ちで……でも、そんな見た目に反した芯の強さと自制心。ますます気に入ったわ、コウくん」
「……リノイエさん、まだ展示は続くんでしょう?
説明してください。僕はあなたの解説が聞きたいです」
「まあ。急にそんなクロサワ映画みたいな顔になって。
本当にそう思ってくれるのかしら?」
くすくすと笑いながら、S・パーティ・リノイエはコウの右手を離した。
「ええ、本当ですよ。僕は大学でずっとコンピューターの設計を学んでいたんです。
……人工知能技術に興味があるのは本当ですよ。
これまでよく知らないふりをしていたことは謝ります。興味があります。説明してください。
信じてください」
若き青年は気づかない。自らの心情の反映として、石のごとく固まった表情でその言葉を紡いでいることを。
果たし合いに臨む、サムライのごとき顔をしていることを。
「んふ」
そして、そんな彼の防衛行動は。
「やっぱりあなたは最高だわ、コウくん」
狩りのクライマックスへと入った女獅子から見れば、手負いの子鹿にも満たない抵抗であることを。
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