⑧
家に帰るとリビングで何やら両親が向かい合わせに座りながら話し合っていた。
「お帰り。あんずちゃん」
「ただいま」
私の姿を見るなり、父の足元に座っていたワンコが私に吠えながら尻尾を振って駆けてくる。だいたいワンコは家では、私がいる時は私、その次に何故か父親のそばにいる。
「どうしたの?」
「ん? 大したことないよ。お父さんが会社辞めるんだって」
え? と私は父の隣に座りながら、大した話じゃんと心の中で焦る。
「どうして急に、そんなことになるの?」
「いやいや、定年だよ。定年」
そうか。お父さんは今年で六十五歳。定年だ。
「でね、嘱託で残らないかと誘われたんだけど、お父さん断ったんだって」
私は不意に父の方を向く。お父さんは黙ってビールの缶を自分の口に持っていって一口飲んだ。
「そうなんだ。でも、辞めた後はどうするの?」
お父さんは黙っていた。嫌な予感がした。
「もしかしてその、体調が良くないとか?」
恐る恐る訊くと、母は高笑いする。
「そんなわけないでしょ。言うならばちょっと肥満で中性脂肪が多めとかかな?」
父は軽く会釈した。基本、父は無口だ。これで営業の仕事をしているというのだから、一度仕事ぶりを観て観たいと思っていたが、それも叶わなくなった。
そんな人だからこそ、そう言われても本当のことを言っているか不安になる。
「しばらくゆっくりしたいんだってさ」
母が付け加える。
「疲れたってこと?」
「まあ、そうなのかな? ね?」
父はそれに対して軽く首を傾げる。
「あれか、あんずちゃんは俺がずっと家にいると迷惑かなあ」
父がボソッと寂しそうに訊く。
「そんなことないよ。むしろ、、、」
そんなことはない。むしろ、そうなるとずっといてくれると困るのは私の方ではないか。
「むしろ、何?」
母が身を乗り出す。
うちにいくら預金があるか知らない。ただ、母は専業主婦で稼ぎがないし、老後のこと、これから稼ぎがなくなることを考えて私がお嫁に行くか働きに出ないと家計が厳しくなるのではないか。
「むしろ、、、家族が一緒にいる時間が増えていいんじゃないかな」
「本当にそう思っているの? ホントはずっといるのは嫌だとか思っていない?」
母はそう言いながら少し嬉しそうに微笑んでいた。
本音は言えなかった。言ってしまったら、本当にその時から変わらないといけない気がした。それでいいのか。自分に自問自答する。
「どうした? 浮かない顔して」
父が心配そうに顔を伺う。
「いや。大丈夫だよ」
「もしかして、本当は病気を隠しているとか心配しているとか?」
母が探りを入れてくる。
「そうだね」
それもある。病気を隠しているならば、私がしっかりしないといけない。
「大丈夫よ。仮にそうだとしても、あんずちゃんには迷惑かけないから」
「そんなわけにはいかないでしょ。家族なんだし」
それに対して真顔で返すと、笑っていた母から笑顔が消える。
「そうね。でも、大丈夫。本当に何もないから。何だろう、お父さんが辞めることに対して、あんずちゃんなんか思うところあるの?」
心配そうに母が訊く。
「ないよ」
ないのは本当だった。あったとしても、父の仕事に対してあれこれと口を挟めるわけがない。父には父の人生がある。それに対して、私がいつまでも自立できなくて邪魔しているのならばそれは嫌だった。ワンコと同じくらい、父のことも大好きだから。
「やっぱり俺、嘱託になろうかな?」
「え? どうして?」
「何か、あんずちゃんがいい顔しないからさ」
無口で叱られたことも一度もない。それでも、小さい頃は絵本を買ってきてくれたり、誕生日には必ず誕生日ケーキを買ってきてくれる優しい父親。その父が人生の大きな決断をしようとしている時に私が弊害になって決めかねているならば、それは不本意だった。
「そんなことはない。ちょっと驚いただけ」
そうか。と言って父はまたビールを一口飲む。
「よし。じゃあ、今度、退職祝いに一緒に焼き肉でも食べに行こうか」
母が明るく手を叩く。それに私もいいねと笑顔で返しながら、心の底ではこれからどうすればいいか揺れに揺れていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます