第10話
数日後、アルムテイル神聖国は魔王に開戦宣言を行った。理由は魔王による休戦協定の反故と聖女誘拐。その翌日には聖女奪還を掲げ、聖騎士を中心とした魔王討伐隊が魔族領へと出発した。
その情報を魔王陣営が掴んだときには、すでに移住計画は既に進められていた。魔族と魔族の庇護下にある魔獣は
魔族のなかでも戦闘が不得手な弱者からドラゴンの背や籠に乗り移動する。その後ろを魔獣が引く荷車がついていく。
ドラゴンの案内なしでは人族は森を越えることが出来ないし、魔族も然り。例外は魔王だけ。次にドラゴンが心許す存在が現れるまでは人族と魔族は接触することがなくなり、争いは消える。
人族同士が再び争いを始め創造神マキナが動き出すことも考えられるが、下界に影響を及ぼせるまで時間が必要だと魔王は知っている。それでもできるだけ同族が平和でいるためには、保険が欲しかった。
再び魔族が搾取されるその日まで、できるだけ時間稼ぎをする必要があった。ドラゴンの協力もその一つであるし、魔王の死も含まれている。魔王の体が朽ちてできた砂からは、人族には猛毒の瘴気が発せられる。ドラゴンの森の手前に谷を作り、境界線となるよう大地に撒くのだ。
聖女には死を求め、フレミーには砂を撒くという使命を魔王は与えた。他の魔族たちにもそのことは伝えられた。
「魔王様、今まではありがとうございました」
「私たちは偉大なる魔王様を決して忘れません」
「うっ……魔王様っ、ぐず……」
四天王が魔王討伐隊を足止めしている頃――魔族たちは魔王城を離れる前に魔王に別れを告げていく。多くの者が涙し、魔王は「元気でな」と肩を叩き次々見送っていった。
「聖女様、どうか魔王様に安寧の眠りを」
「魔王の死後、あなた様が共に来ないことが残念です」
「我ら魔族に協力してくれてありがとう」
魔王だけではなく、聖女に声をかける者もまた多かった。「魔王殺しめ」と責める者がいないことが、聖女の胸に突き刺さる。
魔族は本来寿命が長いのにも関わらず、すぐそばに生け贄として死が当たり前にある。だから不本意な死に方より、好きな死に方が選択できる魔王は恵まれていると羨む者すらいた。
責められ、追い込まれ、正気を奪ってくれればこんなにも苦しまないというのに……と思わずにはいられない。それをおくびにも出さず「皆様どうかお元気で」と、聖女は精一杯の微笑みで見送る。
誰も魔王の死を否定しない。
魔王が存命の間、人族にはマキナ神の恩恵が与えられるとも信じられている。過去の勇者や、現在の聖女の出現がそれにあたり、それは魔族を滅ぼす大きな脅威。魔王が消えれば、脅威も生まれない。少ない犠牲で、多くが救われる。誰もが望んでいる。魔王が以前語ったように今回の魔王の死は『すべての救済』に繋がることだった。
それは理解していた。だけれど聖女の気持ちはいまだに追いつくことは無い。
隣に立つ彼の美しい赤い瞳はずっと見ていたいし、耳に届く声は心地よく、艶のある黒髪には触れたいし、温もりをずっと欲しいと思ってしまう。聖女として、人族として失格だと分かっていても、止まらない気持ちは砂時計の砂が少なくなればなるほど膨らんでいった。
**
魔王が死ぬと決めた日の前日、無事に全ての魔族を見送り終わった。見送ったのはドラゴンの森の奥地に行った者だけではない。魔王討伐軍の足止めに出陣していた魔族の死も多く見送った。
誰もが「先に待っています」と魔王に告げるような言葉を最後に大地へと還っていったことを、前線から撤退してきた四天王により伝えられた。
――あぁ、待っていてくれ。すぐ会いに行く
魔王は静かに報告に耳を傾け、天を見つめた。
黙祷を捧げたあと、すぐに四天王にもドラゴンの森へ行くよう指示を出した。その最後の案内を任せているのは
「ルージュ、今までありがとう。お前と出会ってから空の世界が楽しくなったよ」
ルージュは別れを拒むように魔王の体に頬擦りをし、低い声で唸る。魔王はいっそう優しく顎を撫でた。
「懐かしいな……森で卵を見つけ、食べよう割ったらルージュが出てきたんだものな、ははは。あれからお前と我は四百年も一緒にいたではないか……だから残りはあの子に譲ってくれ。四天王を頼む」
首に腕を回し、ルージュを抱き締めた。
ルージュは諦めたように体の向きを変え、四天王がまつ広場へと向かう。魔王の腕から赤い片割れが離れ、手から温もりがひとつ消えた。
己の瞳と同じ色のドラゴン。我が子、というよりは兄弟のようにじゃれ合いや喧嘩をした千年の寿命を持つ存在。ドラゴンの頂点ブランジュと繋がりができ、二百年かけて信頼を得る機会ができたのもルージュのお陰だった。ルージュがいなければ魔族の移住計画も実現していない。
千年の寿命をもつルージュの「早く死にすぎだ」という言い分も分かるが、片や神の化身で、片や世界の悪。存在意義が生を拒絶した。
「すまないルージュ、我は狂う前に死にたいのだ」
そう呟きながら、ルージュと四天王の姿を見送った。
地上からの移動を終えた時点で、遺灰を撒くための谷は既に作り終えていた。魔王は振り返り、魔王城を下から眺める。
地下深くから削り出した黒い石は数百年が経った今でも艶やかで、荘厳な雰囲気に陰りはない。人族にとっては宝石と同じ価値を持つ石でできた城は喉から手が出るほど欲しいものだ。魔族の里から遠ざけ、あえて目を惹き付けるために築いた城との別れまであと僅か。
ゆっくり石畳を踏みしめて、城の中を歩き生涯を振り返る。思い出したくもなかった灰色の長き記憶が色づき、頭の中を駆け巡る。
努力が報われない理不尽な人生だと悲観していたが、楽しいこともあった。六百年経っても新しい事を知り、感情が死んでいないことを知れた。
「まさか、人族にそれを与えられるなんてな……」
人族には進化を期待したものの変わることは無かった。愚かで可哀想な生き物、それが魔王から見た『人族』。彼らから与えられるものは落胆だけだと思っていた。そこに現れたひとりの女性が、魔王の乾いた心に水を与えた。
光を集めたような笑顔の聖女が与えた潤いは奥まで届き、乾いた心を甦らせた。聖女を育てる楽しさは未来を明るく見せ、彼女の成長に救いを感じた。
己が死ねれば後はどうでも良いと思っていたのに、魔族たちの行く末を案じてしまった。遂にはドラゴンを巻き込んでまでの大計画に発展だ。マキナ神の愛する人族を見捨てる行為だというのに、罪悪感よりも充実感が遥かに勝っている。
(この状況はマキナ神からの褒美か?ただ聖なるものに葬られる最後を想像していたが……あまりにも甘美な時間だった)
一つ一つの記憶を噛み締めるように、転移を使わず階段を一段一段ゆっくりと登る。城の塔の最上階にたどり着いた魔王は、遠くを眺める聖女の隣に立った。蜂蜜色の髪は夕陽に照らされ茜色に染まっている。
「迎えが見えるか?」
「……」
聖女は視線をアルムテイル側に向けたまま何も話さない。
魔王も先へと視線を移せば、瘴気で霞んでいた国境の霧が少しずつ晴れていく。ドラゴンでの移動の目隠しで産み出された瘴気はもう役目を終えた。魔族が完全に撤退したことで作り出していたそれが薄れ、聖騎士によって急速に浄化されているところだった。
日没を迎えれば人族の進行は止まる。しかし翌日の昼頃に城に着くだろうと魔王は算段をつけた。
「明日の午前中に頼む。大丈夫か?」
「……怖いです」
聖女の横顔が苦しげに僅かに歪む。
「大丈夫だ。我を殺したところで、復讐するような魔族はもうここにはいない。潜んでいたとしてもフレミーがきっと守ってくれる」
「そうではなくて……」
「あぁ、人族側か?そなたは魔王討伐の英雄になる。式典の時のように安易に消そうとはするまい。きっと大切に」
「そうでは……」
「魔族が消えた言い訳か?それは確認した通りだ。追い詰められた魔王が錯乱して自ら同族を殺そうとして逃げ散ったと――」
「だから、そうではないのです!」
聖女は額を押し当てるように、魔王の胸に抱きついた。背中に回された腕は見た目の細さよりも強く魔王の体を締め付けた。
「あなた様を失った明日が怖いのです。共に過ごしたこの一年が幻になってしまいそうで……」
「そうか…………そうだな。これは幻だ。魔族への情など忘れろ。そうでなければそなたは壊れてしまいそうだ」
魔王は壊れ物を触るように抱き締め返す。分かっているのだ。分かっていて、先ほどは話を逸らしたのだ。
「酷い。優しくしたのは魔王様だというのに……」
「そうだ。魔王は悪き存在で、側にいるだけで相手を傷つける存在だ。殺してもらえるよう――己の望み通りになるように聖女を惑わす最低な存在なのだ」
「では、あと一年……いえ、あと一日でも良いですから私を惑わしてくださいませ。魔王様のお力ならできるでしょう?瘴気の谷で誰にも干渉されず二人で……っ!」
魔王は体を離し、力なく首を横にふった。困り果てた笑顔を浮かべ、聖女の若葉色の瞳に溜まった滴を親指で掬う。
「駄目だ。我は今すぐにでも死にたいのだ」
魔王は感じていた。共に過ごしていると日に日に愛しさと後悔が押さえ込めないほど増していくことに。
聖女は愚かなほど純粋すぎた。出会った頃のようにずっと魔王を恨んではくれなかった。罪を知っていて、正義という言葉に振り回され、それでも側にいる者へと寄り添って手を差しのべ、『生への諦め』を揺るがそうとする。
途中から優しくするべきでは無かったと思うも、情を移した聖女にそんなことできるはずがなかった。
今回だって彼女が心痛めないよう、魔王討伐軍の被害はほとんど出さずに収めた。もちろん眷属の被害も最小限に……聖女は命あるものであれば種族関係なく涙を流すのだから。
――あぁ、これ以上この子といたら私は死ねない。しかしこの子は我より先に老い、確実に死ぬ。そうでなくてもこの機会を逃したら我はまた……
色付いた記憶は楽しかったことだけではなく、痛みも鮮明に呼び覚ました。積み重ねた罪が心を押し潰していく。運命を放棄した魔王をマキナ神が許すとは思えない。その罪を被せられるのはいつも己ではなく側にいた大切な存在。
魔王は眉間にシワを深く刻み、一筋の涙を溢した。
「我を救ってくれ。そなたを殺したくはない」
「愛しております!だから」
「愛しているのなら尚更、我のために殺せ!我が愛しいと思うそなたが死ぬ前に!」
「――っ、あ……あぁぁぁぁあ」
ついに聖女は嘆くように声をあげ、その場に崩れた。魔王は「すまない」と何度も呟き、震える聖女の体を抱き締めた。お互いに涙が枯れるまでの間ずっと、存在を確かめあった。
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