第9話

 



 世界が暗転する直前に見たのは、涙のない泣き顔だった。




 聖女は魔王城の広場を目指して走っていた。純白のドレスを捲し上げ、血糊の付いた裾を靡かせる。廊下ですれ違う魔族たちは聖女のただならぬ様子に目を白黒させ、あまりの剣幕に声もかけられない。



 ――魔王様! 魔王様! 魔王様!




 式典の最中に聖女は影に飲み込まれ、数秒後には明るい世界へと放り出された。魔王によって強制転移させられた場所は、帰りの転移先にもなっていた祈りの部屋だった。そこには式典の景色を写し出す鏡を凝視するフレミーの姿があった。慌てて聖女も覗き込み、結末を見届けるか否や部屋を飛び出した。



 ――魔王様!どうか、どうかご無事で!



 聖女の脳裏では光に飲み込まれた魔王の姿ばかり繰り返されている。あのまま聖魔法を受け入れ、死を選ぶと思っていた魔王が『生』を渇望するように見えた。空を見上げ叫び、崩れそうな手を伸ばし、苦しみもがく姿は今まで聖魔法を自ら受けた時とは全く違う、初めて見た反応。



 ――あぁ……魔王様。魔王様っ!神よお願い致します――魔王様をお救いください。創造の神マキナ様、魔王様もあなた様が生み出した存在なら、救いを!あの人の望む救いをお与えください――っ!



 そう願う聖女の切望が届いたのか、魔王は紅蓮のドラゴンのルージュによってあの場からの離脱が叶った。帰ってくる場所は魔王城しかない。その中でもルージュが降りられる場所は魔王城の正門広場。聖女は一刻も早く会いたくて三階の窓から正門広場が見える屋根へと飛び降りた。肩を上下させ、空を見上げるがルージュの姿はまだ見えない。



「聖女様、あまり一人になってはいけません。既に四天王には今回の騒ぎが伝わっております。人族である聖女様が脱走を企てていると誤解されかねませんよ」

「……フレミー様、ごめんなさい」



 聖女は隣に舞い降りたフレミーに忠告を受ける。脱走などするはずはないが、自分だけが人族であることを思い出せば反論など出来ない。指摘の通り、屋根の上には四天王のうち三人が現れ聖女を囲んだ。

 鱗の肌をもち魚のヒレのような耳をもつ二足歩行の半魚人、狼の上半身をもつ狼男、ドレスの仕立ても手掛けた蜘蛛女のアラクネだ。残りの1人吸血鬼は鏡に映像を写すための目として、蝙蝠の姿でアルムテイル神皇国に潜入していた。

 四天王の三人の冷ややかな瞳を受け、聖女は膝をつき頭を下げた。


「――私を如何様にもお使いください。その代わり共に魔王様を待つことをお許しください」


 地に手をつき更に頭を下げようとする聖女を止めたのはアラクネだった。


「魔王様の寵愛を受けている聖女様に、四天王と言えど手を下すことは出来ないわ。それに吸血鬼があの場で助けに入れなかったのよ。無力なのは同じ。私たちが出来ることは聖女様とこうやって魔王様を待つことだけだわ……」

「……はい」


 下唇を噛み、聖女はアラクネに倣って空を再び見上げた。今にも雨が降りそうな曇天の下で五人は魔王たちの帰りを待ち望んだ。


 しかし一時間が経過しても状況は変わらない。単騎で馬を走らせたら一週間の距離も、ルージュの力であれば着いてもいい頃合いだった。「雲の上を見てきます」とフレミーが空へと飛んでいったが、一向に戻ってこない。

 近年、飛行を可能にした魔道具が開発されている。もしかして空にも罠を仕掛けたのではと、聖女の不安と焦りは募るばかり。祈るように呼び掛けることしかできない。



「魔王様……会いたい。帰って来てください」

「我の妻は素直で可愛いな。帰ったぞ?」

「――え?」



 聖女の冷えた体が温もりに包まれ、聞きなれた声が鼓膜を揺する。横を向けば先ほどの深刻な状況を微塵も感じさせない、甘さが含まれた魔王の微笑みがあった。聖女は自然と体が動いた。正面になるよう体を翻し、両手を魔王の頬を包むように滑らし――つまみ上げた。



「おひっ!なひをふるっ!」

「……本物ですね。亡霊の類いではないか確認を少々」

「ほんほのだ。はなへ」


 魔王はルージュの飛行の途中で回復したが、業火を浴びた結果またもや全裸になっていた。その姿で広場に降りることが憚られ、途中で転移し服を着てきたのだった。

 魔王は聖女の手を引き剥がし包み込むと困った笑みを浮かべた。



「本物だから泣かないでくれ。我は聖女の涙には弱いのだ」

「なら、悲しい想いをさせないでください」

「すまない。そうしたいが……それは約束できなさそうだ」

「――っ」



 聖女の不安は膨れ上がる。止まっていた砂時計の砂が落ちる気配がした。

 フレミーが帰還した吸血鬼と共に降りてきたタイミングで、魔王は表情を引き締め四天王に向き直る。



「今後に関わる重要な話をする。我の命に関わることだ」



 空気が一瞬で張りつめた。



 **



 まず魔王は今回の式典についての考えを述べた。人族は側に何かを企んでいる様子はあった。だがこの六百年で休戦を表だって実行されたのは初めてで、少し信じてみた結果が人族による手のひら返し。

 しかも同族である聖女の命すら捨てる行為があり、それに対して魔王は静かに怒りを滲ませた。


「何故、私までもが命を狙われていると?」

「そなたの命が我らの手にあるというのに攻撃してきたからだ。聖女返還の交渉すらなく、躊躇なく攻撃してきたということは……人質同然の聖女が死んでも良かったということだ。一応、ワインをかけて我と引き離そうと試みたようだがな」

「なるほど……そうですよね。私はただの捨て駒らしいですから」



 聖女は魔王の説明に納得した。思ったほどショックは受けていない。元より聖女を嫁に仕立て、使い捨ての暗殺者代わりにするような国だ。一年前に魔王を暗殺できれば御の字で、失敗し聖女が死ねば「魔王が休戦の象徴を殺した」と真偽はどうであれ宣言できる。または暗殺を仕掛けられた魔王の復讐を狙い、魔王軍から休戦協定を破らせたかったのかもしれない。

 民に慕われている聖女の死で生まれた魔王への憎しみは膨れ、戦力となる。それをまとめるアルムテイル神興国は更なる強大な力を手に入れるきっかけとなるはずだった。



 でも結果はどちらにも転ばなかった。魔法によって聖女が死ねば砕けるはずの契約水晶には傷ひとつなく、魔王軍は静かなまま。

 人族は「魔王軍は密かに弱体化しており、休戦協定の間に戦力の回復を図っている」とでも予測し、休戦の長期化は危険と判断され式典に罠を張っただろう。魔王を倒せるのであれば、聖女の犠牲は軽いのかもしれない――と聖女は考えた。その意見に魔王は肯定も否定もせずに誉めた。



「ここに来た当初は与えられた使命の理由を考えることなく、ただ実行するだけの小娘だったが……成長したな」

「魔王様が私に知識を与えて下さったからです。今まではあまりにも人族……いいえ、アルムテイルの上層部にとって都合のよい人形でしたから。洗脳のようでした」

「うむ、なら分かるな?今後のそなたのやるべきことは」

「……っ」



 魔王からの真っ直ぐな視線を受けて、聖女は体を強ばらせた。誰も傷付けず離脱できた式典で魔王が虐殺を行い、聖女を手離さなかった理由は他にもあっていいはずなのに、何故かひとつしか思い付かない。

 葛藤で黙り混む聖女を置いて、魔王は四天王に目線を移していく。ひとりひとりに己の覚悟を伝えるように、言葉を並べる。



「例の魔族の移住計画を明日より実行に移す。囮は我が行い、移住が完了した後は聖女の力を借りて死ぬことにする。一度、人族の世界との関係を白紙にしよう」



 会議室が凍りついたように温度が下がった。聖女は四天王が反論すると期待したが、誰もが固唾を飲んで動かない。視線は魔王と聖女の間を揺れ、その空気に耐えられなくなり椅子から立ち上がり魔王に抗議する。



「私には魔王様を滅せれるほどの魔力を保有しておりません。ご希望に添えられないかと!」

「嘘を申すな。数か月前から我の体を思って喧嘩で手加減していたのはお見通しだ。誰がそなたを鍛えていたと思う?殺し方もバリエーションを増やせただろう。好きな方法を選んでくれ」



 突き放すような言葉に、聖女はヒュッと息を飲んだ。色々な否定の言葉を浮かべて言葉にしようとするが、喉で詰まり音にならない。魔王の透き通る鮮血色の瞳が、今さら嘘など通じないと伝えてくる。

 魔王の元に来て九ヶ月経った頃、聖女は自分が本気を出せば相手を滅ぼせると直感した。でも平和なひとときを手離したくなくて、ずっと内に秘め、実力を偽っていた。



「いつから、ご存じでしたのですか?」

「つい二ヶ月ほど前だ」

「そうでしたか。ですが……四天王の皆様は宜しいのですか?人族である私に主を殺させて!なんで誰も反論したり、止めたりしないのですか!?」


 自分の力では魔王の意思を変えられないことを悟り、周囲の力を煽ろうとするが誰ひとり口を開かない。一番の側近フレミーが「僭越ながら……」と一歩前に出て聖女に問う。


「魔王様を殺すも生かすも聖女様のお心次第だというのに、何故私たちに聞くのでしょう? あなた様が嫌だと言えば、拒否できるではありませんか」

「だって、だって……拒否なんて」



 聖女は脱力し、椅子に体を沈めた。



 ――殺すことが魔王様の救いになると知っていて、突き放すことなんて出来ないわ



 この一年そばで見て、学んでいたからこそ分かる。魔王がどれだけ神に尽くし、人族相手に心をすり減らしてきたかを。これ以上生かし、魔王が搾取され続けていく姿は望めなかった。


 それに魔王が潔白の身でないことも理解していた。数えきれないほどの人族を殺し、街や村を滅ぼしてきた経歴は殺戮者という言葉が相応しい。今日だって目の前で簡単に命が失われていった。恐怖の対象であることを見せつけるように。魔王の使命と言われても、聖女にとって納得できる行為ではない。



 また言葉に明言しなくとも、聖女よりずっと長く魔王をそばで見てきた四天王が魔王の考えに気付かない訳がない。聖女は自分の無力を嘆いた。


 先日まで式典が成功すれば、人族との魔族の共存も夢ではない。魔王が心変わりして死ぬことをやめるかもしれない。そう淡い夢を抱いていたことが馬鹿馬鹿しい。

 六百年もあって魔王が試みたことが無いはずはなく、その結果は今回の件と過去の事例を考えれば想像に容易い。そうやって何度も魔王は心を痛めてきたのだ。



「分かりました。私が聖女として生きる者に対して、平等に慈悲を与えなければなりません。それは魔族でも変わりません。魔王様をお助けします」



 これは救済なのだと聖女は自分に言い聞かせた。聖女としての使命と、魔王が殺さず生かしてくれた理由を胸に、嬉しそうに微笑む愛しい人に深く頭を下げた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る