第2話
「どうやったら殺してくれる?」
確実に死ぬためには聖女の全力の聖魔法を無抵抗で受ける必要がある。魔王にはふたつの選択肢があった。
ひとつは聖女に対して横暴に振る舞う手段。己に対する恨みを募らせ、憎しみを己にぶつけるように魔法を放ってもらうルート。次に聖女をもてなす手段。豪華絢爛の生活を送らせ、その見返りに殺して欲しいと願うルートだ。
書棚から人族の生態に関する文献を読んでみるが、決定打にかける。腕を組んで脳内でシミュレーションするが、いまいちピンと来ない。悩んでいる間に夕食の時間をむかえてしまっていた。
セッティングされた部屋に赴けば既に聖女は着席し、魔王の訪れを待っていた。
「すまない、待たせたな」
魔王がそう言うと、聖女は一瞬だけ目を見開き、すぐに微笑んだ。
「いいえ、ご主人様である魔王様より先に着席していたことをお詫び申し上げます」
「そうか、冷めぬうちに食べるとしよう」
魔王が着席したタイミングで料理がテーブルに並べられていく。指示を出した通り人族に合わせたメニューは彩り鮮やかだ。口に含めば魔王には慣れぬ味付けで、美味しいかどうか判断がつかない。
しかしチラリと聖女を見やれば僅かに頬を緩ませており、胸を撫で下ろした。会話も食事の邪魔にならぬ程度に続き、雰囲気は悪くない。瘴気の森をひとりで抜けてきた聖女の逞しさに感心し、褒めてしまったくらいに和やかだった。
「魔王様、とても豪華で美味しい夕食でしたわ。魔王城ではいつもこのようなお食事を?」
「いいや。何せ六百年生きていて、嫁どころか人族をもてなすのは初めてでな、人族の料理を試しに作らせてみたが良かったようだな」
「──っ、お気遣い痛み入ります」
時折、聖女に動揺する仕草が見受けられる。しかし文化の違いに驚いているだけだろうと魔王は気に止めなかった。
「あの、魔王様……今宵、私はどこで寝れば良いのでしょうか?」
「……ん? 与えた部屋にベッドがあったであろう?」
魔王は素できょとんと首を傾けた。だが聖女は視線を泳がせ、ほんのり耳を赤らませ黙ってしまう。意味がわからず魔王の首の角度が大きくなっていく。
そして首筋が伸びきったところで、思い出した。人族には『初夜』と呼ばれる結婚当日に褥を共にする風習があることを。聖女が引き下がらないところを見ると、遠回しに望んでいることにも魔王は気付いた。
――魔族にない風習だが、これは人族に合わせるべきなのか? その行為になんの意味も得られないし……今日が結婚したことになるのか? 人族は宴を開いた日を結婚した日と定めるのではなかったのか?
聖女の真意を窺うように、鋭く赤い瞳を向ける。視線がぶつかり一瞬だけ聖女の肩がピクリと跳ねたが、すぐに少し困った微笑みを返してきた。恥じらう内容をあれこれ聞くのも憚られ、魔王は諦めたように席を立った。
「寝る準備が出来たら我の部屋に来るが良い。寝所は広くふたり並んでも寝やすかろう」
「――はい、ありがとうございます」
横目で聖女の安堵の微笑みを確認し、魔王はマントを翻して私室へと転移した。私室にふわっと舞い降りた瞬間、結界を張った。
「くそっ! 何だあの生き物は。いい子か、真面目か、健気か!」
両手で顔を覆いながら、埃ひとつない絨毯の床を転がる。休戦のための望まぬ結婚だというのに、人族の妻として務めを果たそうとする姿勢に心を打たれていた。何も言わなければ仮面夫婦で過ごすことも可能だというのに、自ら歩み寄ろうとする聖女がより純粋な生き物に見えてきた。
数回部屋を往復すると、すっと思考が冷える。魔王は見た目年齢三十歳であっても実際は六百歳を超え、完全に枯れていた。二十歳ほどの聖女は子供よりも幼い存在で、手を出すなんて考えられない。
――孫の添い寝だと思えばいいんだ。身を重ねる必要はない。望めば腕枕くらいは……聖女は孫、聖女は曾孫、聖女は玄孫!
魔王は心を立て直し、魔法を使って部屋の隅々まで綺麗に整える。人族は悪臭に敏感で香水を吹きかけるほどであると文献で読んだ魔王は、加齢臭がすると言われてしまわないようしっかり湯船に浸かる。
そうして深夜を向かえる直前、聖女は魔王の寝室に足を踏み入れた。長い蜂蜜色の髪を緩く三つ編みにして肩口から垂らし、真っ白なワンピースタイプの寝間着にアイボリーのカーディガンを羽織っていた。翼があったら完全に天使のような姿だ。
「……っ」
魔王は静かに奥歯を噛み締める。法衣ドレスを脱いでも神聖なオーラに「己を殺してくれるマキナ神の遣いに間違いない」と確信し、思わず歓声をあげるところだった。
しかし落ち着かない態度は隠しきれず、聖女から見たら魔王はそわそわと挙動不審なのは明らか。聖女は少しだけ瞳を細め自ら魔王のいるベッドの上に上がり、隣に座れば魔王の肩に頭を預けた。魔王の鼻腔をふわりと甘い香りが擽り、思わず嗅ぎたくなるがぐっと堪える。
「聖女よ、ここは魔族領だ。魔王の妻となったのならば、人族の決まりごとに無理に倣う必要はない。そんなに取り入るような真似をせずとも殺して捨てたりはせぬ」
体を離して、しっかりと聖女と目線を合わせた。なんせ自分を殺してくれる大切な救世主だ。反抗的な魔族や魔獣から守るくらいの器量はあると示す。すると聖女の肩から力が抜けるのが分かった。魔王は努めて柔らかく微笑み返した。
「途中から眷属の迎えがあったとはいえ、旅路は疲れただろう? もう寝よう」
「はい、おやすみなさいませ」
聖女があっさりと引き下がったことに安堵し、ベッドに背を預けた。聖女は軽く頭を下げ、人ひとり分の隙間を空けて横になった。
魔王は瞼を閉じたが冷めぬ興奮のせいで暫く眠れそうにない。ただ妙に焦り、浮ついてしまった心情を落ち着かせようと、ゆっくりと呼吸を繰返し瞑想することにした。次第に意識は微睡み、深く沈んでいった。
が闇夜の真上から魔王城を見下ろす頃、それは突然起きた。
「――っ!ぁ……かはっ!」
瞼の向こうに強い光を感じた瞬間、全身が熱く焼かれるような痛みに襲われた。痛苦の声を出そうにも、開けた口へと流れ込む聖なる力が喉を焼く。いつもなら自己修復するはずの魔法が発動せず、身体が滅びていく過程が鮮明に感じられる。魔王は立ち上がり、無音の叫びをあげた。
――これが死か! これが……素晴らしい!
腹の底から沸き上がる喜びが抑えられず、胸を掻きむしれば鋼の皮膚が枯れた木の皮の様に崩れていく。目を焼くような光が収まり、ひきつる瞼をそっとあけた。魔王の前には光を纏う両手を突き出し、額に汗を浮かべた聖女の姿があった。自分の手の平を見ると表面が砂のようにサラサラと流れていた。
ニヤリと魔王は口角をあげる。魔族領に単身で踏み込む度胸と実力、無防備な寝所へ堂々と入るための押しの強さ、魔族だけに効く酩酊作用のある甘い香り――可愛い顔に隠された殺意は見間違いではなかったと、笑わずにはいられない。
「グッ、ガッ、ア”ッ、ア”ッ、ア”ッ」
「――っ!?」
僅かに働いた声帯から成される笑い声は不気味で、聖女は絶望の表情を浮かべ後退った。魔王は夕食の時と同様に首を傾けた。彼は抵抗や反撃する気は微塵もないし、聖女は魔王討伐の成功まであと一歩なのだ。ここは絶望ではなく魔王と同じく嬉々の表情を浮かべ、さっさと止めを刺すべきなのだ。
魔王は光が収まったタイミングで、内包する魔力が身体を治そうと動き出したのを感じていた。このままでは死ねないと焦り、仕方なく喉だけ治して聖女に一歩近づいた。
「なぁ、もうひとつ強めをくれないか?」
まるでバーテンダーにお酒を頼む軽さで、聖女に魔法をリクエストする。だが聖女は絶望の色を強めただけで、動こうとしない。そして「化け物」と小さく呟き、白目を向いて後ろへと倒れていく。
「待ってくれ! 殺してくれぇぇえ――」
魔王が手を伸ばし懇願するが虚しく、聖女は魔力の枯渇で意識を手放した。
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