第3話
聖女レティシアが目を覚ましたのは二日後の昼だった。体は柔らかなベッドに包まれ、太陽の香りがする毛布が暖かく、頬を撫でる風が心地よい。聖女はここを楽園かと思った瞬間、現実を思い出し飛び起きた。
「お、ようやく起きたか。おはよう、聖女よ」
「――!?」
「もう立てるようなら心配ないな。きちんと休めたようで良かった……元気になって安心した」
「――な、な、なっ!?」
ベッドサイドの椅子には寛ぐように魔王が座り、本を読んでいた。しかも目覚めが心底嬉しいとばかりに蕩けた笑顔を聖女に向け、彼女が目を疑う前に魔王が労りの言葉を放つ。失敗したとはいえ、殺そうとした天敵に向ける態度ではない。
「あれはよく効いた。また頼む」
「……」
想定外のアンコールに聖女は「ツッコミきれない」と諦めてベッドにへたり込んだ。偏った性癖を疑い非難の目線を送るが、魔王の期待の籠った眼差しとぶつかるだけだ。
「聖女は暗殺に躊躇しないほど、我を恨んでいるのか?」
「……はい。巡礼でいくつもの襲われた村や街を見てきました。あれは目を背けたくなるほどの殺戮の跡でした。知人も失いました……もう嫌です! だから私は聖女として、仇を取りたいと願っております!」
もう隠す必要はないと聖女は憎しみを込めた眼差しで魔王を射ぬくが、通用しない。ここで怒りのまま再び聖魔法を使っても心の乱れで本領は発揮できないし、出来たところでどうせ通用しないのは痛感したばかりだ。
人族の悲願達成かと思ってみたら、身体を崩しながら目の前の魔王は声をあげて笑い、格の違いをさまざまと突きつけてきた。今も人族すらも魅了する美貌を取り戻した顔には傷痕ひとつ残っていない。聖女は寝間着の裾を強く握りしめ、下唇を噛んで耐えるしかなかった。
「良かった。ようやく私は殺してくれる存在に会えたようだ」
「あの……死にたいのですか?」
「あぁ、長く生きすぎてしまってなぁ……困ったことに何度自殺を図っても死ねず、途方に暮れていたのだ。だが、そなたが現れてくれた」
魔王の消え入りそうな儚い自嘲に、聖女は理由を問うことをやめた。魔王の自殺願望は聖女にとっては好都合。問題は今の実力では無抵抗の相手だというのに到底討伐できなさそうな事だ。
「しかし魔王様、私は全力を出して失敗しました。殺してほしいのであれば、その長年の知識でご協力とご鞭撻のほどお願いできないでしょうか?」
聖女が膝を揃えて頭を垂れれば、魔王はそれはそれは嬉しそうに「喜んで」と快諾した。
**
「い、いい加減に死んでください魔王様!」
「おぉ! 新しい武器を手にいれたか。だが魔力の練り方が足りぬ。それではまだ殺せぬぞー? あはははははは」
聖女は聖なる魔法を高める錫杖を横に薙ぎ払うが、闇の魔力を纏う魔王の爪に弾かれる。反動を利用して身体を捻り、錫杖を上から振り下ろし脳天を狙った。しかし切っ先が魔王の鼻を掠め僅かに砂にしただけで、聖魔法は地面に叩きつけられ霧散した。
二人が対峙する魔王城の裏庭の芝生は剥げ、土が抉られあちらこちらにクレーターが出来ている。何度も魔法を放っていた聖女はついに息を切らし、膝に土をつけた。魔王がパチンと指を鳴らすと、フレミーが聖女にドリンクを差し出す。聖女は躊躇うことなく受け取り飲み干せば、魔力は戻らないものの疲労感が消えていった。三人にとっては慣れた流れだ。
「魔王様、ありがとうございます」
「いや、聖女には苦労かけているからな。当たり前のことだ。お昼は甘味を用意してあるからな。期待しておけ」
「――っ!」
聖女はデザートの存在に素直に目を輝かせ、魔王はそれを眩しそうに眺めた。
あの初夜の日から、聖女は遠慮なく正面から魔王を殺しに来るようになった。魔王もそれを認め付き合うが、簡単には攻撃を受けるようなことはしない。まだ滅してもらうには聖女の力が足りず、痛いだけのやられ損なのだ。
だから魔王は勝手に襲ってくるのを利用して聖女を鍛えていた。魔力を短時間で枯渇ギリギリまで使用し、全回復したらすぐに使う。そうすることで後天的に魔力量が増えるのだ。
魔王は週に一度全身に聖なる魔法を使ってもらうが、少しずつ進歩していることを全身で感じている。「魔王様はドMに目覚めたのですか?」というフレミーの言葉は聞かなかったことにしている。死ぬ感覚は気持ちいいが、痛いのは好きではない。
そして魔王は大変聖女を可愛がっていた。好きな食べ物を用意し、綺麗な服を仕立てて、惜しみなく自分の知識を与える。それが案外楽しく、魔王は数百年ぶりに充実した時間を過ごしていた。
聖女には魔王に対する明確な殺意があると分かった今、恨んでもらうために横暴に扱う必要が無くなった。そのためもうひとつの選択肢、おもてなしルートを全力で実行するのみだった。
そんな事を知らない聖女は錫杖を大切そうに磨きながら、魔王に訝しげな視線を送った。
「あの……お聞きしてもいいですか? 魔族、眷属の皆様は私がずっと魔王様を殺そうとしているのに、誰も止めないんですけど……人望大丈夫ですか?」
「失礼な。皆には聖女は大切な妻だと説明している。ただの夫婦喧嘩に見えているのだろう」
聖女は疑いの目線を強めた。
「夫婦喧嘩って……こんなに地形が変わるような戦いをですか?」
「そうだ。魔族の喧嘩は拳と拳。魔法と魔法をぶつけ合う力のゴリ押しだ。強いもの同士の痴話喧嘩なら数日続き、見学が娯楽になって賭け事も行われる。魔族たちは聖女に武器を自ら作ってくれたりと協力的だろう? きっと魔王と聖女の喧嘩を盛り上げて、祭りでもしたいのだろうな。ふっ、困った奴等だ」
困ったと言いつつ、魔王の顔は緩み楽しそうだ。唯一魔王の自殺願望を知るフレミーも羽根で口元を隠していているが、目が笑っていた。眷属は魔王が負けて死ぬはずがないと全幅の信頼を寄せているからこそ、余裕をもって喧嘩を楽しめている。聖女は何となく面白くなく、唇を突き出した。
「魔王様が死のうとしているとは知らないで……私が本当に殺しちゃったらどうするでしょうね」
「それは数分後にそなたも我と同じく、この世とお別れであろうな」
「……最悪ですわね。頑張った甲斐も何もないではありませんか」
聖女は淑女らしからぬ苦虫を潰した表情を浮かべる隣で魔王は喉をならして笑う。
「くくっ、なら自殺幇助の褒美に色をつけて前払いしてやろう。我にできることなら何でも言え。叶えてやる」
「そうですか。考えておきます」
聖女は会話を切り上げ、ひとりで与えられた私室へと戻る。今や慣れてしまった魔王城の廊下を歩きながら、この生活を楽しんでいる自分に戸惑っていた。
聖女レティシアは八歳まで貴族令嬢として悠々自適に過ごしていた。しかし教会の洗礼式で聖女の信託を受け、強制的に母国アルムテイル神聖国の大聖堂で仕えるようになった。それからの生活は優雅とはかけ離れていた。
私腹を肥やし、権力の簒奪を狙う司教たちの傍らで、レティシアは理想の聖女像を求められ、その枷は重く強固だった。己は欲や贅を手離し、苦を当たり前とし、常に微笑みを保たなければならなかった。癒しの力で民を救い、純粋に感謝される言葉だけが糧となっていた。
だから何度も民を傷付け命を奪っていく魔王の行為は許しがたいもの――――のはずだった。
実物は『殺戮を喜びとしている魔王』という人族の共通認識である姿とは程遠い楽天家。特殊性癖の疑いはあるが、魔王は人族よりも仲間を慈しむ心を持ち、優しかった。側近フレミーだけではなく他の魔族も聖女を快く受け入れ、獰猛なはずの魔獣に手を伸ばせば「撫でろ」と言わんばかりに腹を見せて甘えてくる。
――本当に魔王や魔族は悪い存在なの? なぜ人族都合の休戦に協力的なの? これだけの強さがあれば、世界制覇を目指せそうなのにしない理由は?
数々の矛盾と疑問が殺意を鈍らせていく。その度に聖女は新たに芽生えそうな気持ちを振り払い、『魔王は絶対悪、騙されるな』と自分に言い聞かせた。しかし魔王と共に過ごせば過ごすほど、聖女の迷いは膨れるばかりだった。
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