駆け引きの朝食
「おはようございます。麗しき真珠姫」
「………やめろ」
奥庭にある水汲み場で顔を洗っていたメリルは、キザなセリフを携えて登場した宰相を睨みつけた。
「おや、お気に召しませんでしたか?昨夜、スタンリー殿下から賜った至高の褒め言葉ですよ」
「くだらん社交辞令だ。間に受けるな」
そう吐き捨てて桶の水を頭からかぶったメリルに、今度はメリオットの方が眉をしかめる番だった。
「何故こんな所に?使用人に言付ければバスルームで済ませられるでしょうに」
「外にいたい気分だったんだ。あるだろう、お前も?そう言う時」
「さぁ、私は根っからの貴人ですから」
ふん、とメリオットの返答を鼻で笑い飛ばすと、メリルは服が濡れるのも構わずに額を流れ落ちてくる雫を袖で拭い取る。
寝巻き姿ではなかったが、人前に出るにしてはあまりにも心許ない薄着のドレス姿で、白いシフォンの生地が風に遊ばれて裾をなびかせていた。いわば、ドレスの下に着るドレスのようなもので、決して下着ではないのだが、割と下着に近い。
少なくとも、それ一枚で外に出るなど普通の女性では到底あり得ない事なのだが、男装の身軽さに慣れてしまっている本人はその不味さに全く気が付いていない。
そもそも、人も連れず外に出る事自体問題なのだが、馴染みのある場所で油断してしまっているのだろう。
これは、いよいよお説教が必要だなとメリオットが考え始めた所で、メリルが性急に問うてきた。
「それで。クランベリー卿の事はシャノンに言ったのか?」
「ええ、驚いていました」
「そうだろうな。まさか、卿がシャノンの正体を知っているとは思わなかっただろう」
「“騙された!”、と言っていました」
「試すような事をして悪かったと伝えておいてくれ。信用していないわけじゃなかったんだが……」
「ですが、これは妃試練の中で最も重要な課題です」
意気込んで答えるメリオットに、メリルは濡れた髪をかきあげ小さく吐息を吐いた。
「わかってる。誰の目から見ても、果たしてシャノンが立派な淑女に見えるのか……だろ?」
「その通りです。あの観察眼の鋭い卿でさえ“言われなければ気付かなかった”と仰るくらいなのですから、さぞかし立派な妃になられる事でしょう」
その言葉とは裏腹に、あからさまに不服そうな態度を隠そうともしないメリオットにメリルは苦笑を漏らした。
「ともかく、クランベリー卿に打ち明けておいて正解だったな」
「ええ、お陰で昨日はあれ以上の混乱を招かずに済みました」
「そうだな……突然スタンリー殿下が現れた上に、シャノンが実は男だったなんて知れたら、あの程度の騒ぎでは済まなかっただろうからな」
「まぁ、それでも卿ならどうにかしてくれていたと思いますよ。それほどの胆力がある方だからこそ、先王もメリル様の事を打ち明けたんでしょうし」
水汲み場の縁に腰掛け、昔を懐かしむように天上をふり仰ぐメリルにメリオットの古い記憶も呼び起こされる。
「昔も、クランベリー卿にしごかれた後はよくここにこうして来ていましたね」
「そうだな……男としての振る舞い方から公人としての作法まで、卿には本当に世話になった」
簡単には返し切れない恩がたくさんある。複雑な思いを抱いて押し黙ったメリルに、メリオットは突然大きな声をあげ、背後を指差した。
「そう言えば、シャノン様も一緒なのをすっかり忘れていました」
「わざとらしいですよ」
白々しい芝居に呆れ眼を向けながら、本日もまた国王の衣装に身を包んだシャノンが姿を現す。
「おはよう、メリル」
「お、おはよう」
不意打ちのことでどんな顔をしていいかわからず、曖昧に笑ったメリルにシャノンが苦言を呈す。
「え、と……レディはその格好で人前に出ない方がいいと思うよ」
これは抜群の効果を発揮した。メリオットが言ったところで単なる小言として一蹴されるものが、シャノンに言われると正しく羞恥を感じるようで、メリルは慌てて胸元をかき合わせた。
「メリオット!何か羽織るものを寄越せ!」
今更と思いながらも、メリオットは上着を脱いでメリルの肩にかけてやる。先程豪快に水を浴びたせいで、肩周りがしとどに濡れていた。目のやり場に困ったように視線を逸らすシャノンに気まずさを押し隠せず、メリルは小声でメリオットをなじる。
「どうしてシャノンがいる事を言わなかった!」
「言う言わない以前に、メリル様がそんな格好でいらっしゃるのが悪いんでしょう」
「この時間なら誰もいないと思ったんだ!」
「全く、浅慮ですね」
はっ、と小馬鹿にするように吐き捨てたメリオットに、メリルもつい躍起になる。
「お前……っ!それが主人に対する態度か!?」
「残念ながら、今のメリル様はその主人の妃であらせられます。ご自分の立場を履き違えられませんよう」
「……っ」
再び反論しかけたメリルだったが、淑女としての振る舞いに欠けている事は否めなかったので、ぐっと言葉を詰まらせる。この状況では、いつ何時でも「ボロ」を出さぬよう用心するのに越した事はない。
「………確かに、その通りですわね。これは大変失礼致しました。宰相殿」
「おわかり頂ければ結構です」
静かに火花を散らす二人の横で、シャノンは困ったように両手をあげた。
「あの、喧嘩はそこまでに……それで、肝心のスタンリー殿下は?」
「ああ、それなんですが、殿下はお二人と一緒に朝食を召し上がりたいと仰っています……厳密には“お妃様”と、ですが」
含みのある視線を向けられ、メリルは軽く眉根を寄せる。
「一体、何が目的なんだろうな?」
「何、と申されましても……」
「やっぱり、メリルは気付かないよね……」
自分だけが知らない真実を二人が掴んでいる事を知り、メリルは愕然とした。
「どう言う事だ!?奴の目的がわかったのか!?」
「わかったも、何も……最初からメリル様しか見ていなかったじゃないですか」
「見て……?」
「メリルには到底察し難いものだよね」
ますます頭に疑問符を浮かび上がらせるメリルだったが、どうやらシャノンもメリオットもそれ以上説明する気はないようだった。
これまでずっと男性として生きてきたメリルが、自分が女性として見られ、その上好意を抱かれようなどとは1ミリ足りとて想像した事がなかったに違いないーーーシャノンを除いては。
「とにかく、早くドレスに着替えて広間に来てください。話はそれからです」
「……わかった」
メリオットとシャノンの顔を交互に眺め、メリルは神妙に頷いた。
****
着替えを終えたメリルが急いで広間に行くと、そこにはもうすでにシャノンとメリオットがいた。
「どうやら無事に着れたようですね」
「もちろん、彼女たちの手は借りたがな」
淡いブルーのドレスに身を包んだメリルの姿に、シャノンは眩暈を起こしそうになった。ドレスと同色のチョーカーから繋がる生地は肩周りを隠すのみで、背中や胸元などは大きく開いたデザインになっている。
朝の明るい陽光に映えるメリルの素肌が眩しかった。
「メリルだってバレなかった?」
思わず生唾を飲み込んだシャノンが出来るだけ平静を装って聞くと、メリルは無邪気に白い歯を見せて笑った。
「ああ、出来るだけ高い声を出して女を演じた」
女を演じる、とは少し妙なフレーズであるがメリルにとっては正しい表現だった。ちなみに、ここで言う彼女たちとは例の盲目の使用人たちの事である。
「それで、殿下はまだお見えになっていないのか?」
「ええ、ですが、もうまもなく現れるでしょう」
「そうか。では、先に座って待っているとしよう」
緊張で鉛を飲み込んだような顔をしているシャノンの前を通り、すでに食器とナプキンが用意されている席に着こうとしたメリルの肩を、メリオットが掴む。
「お妃様、陛下が先でございます」
ハッとして慌てて飛び退いたメリルの横に、シャノンはぎこちない動きで腰を下ろす。
「……大丈夫か?」
「手と足が一緒でしたよ」
改めてメリオットに椅子を引いてもらい腰を落ち着けたメリルは、硬直しきったシャノンの横顔を心配そうに見つめた。
「不安なら、ずっと手を握っていようか?」
「やめてください。横でイチャイチャされてると思ったら、食事が喉を通りません」
「見なきゃいいだろう」
「無理です」
憎まれ口を叩きながら自分の横に腰掛けたメリオットを、メリルは軽く睨む。
「お前のそう言う態度がシャノンを追い詰めるんだ。少しは緊張をほぐしてやろうとか思わないのか?」
「この程度で緊張しているようでは、公衆の面前で妃役を演じられるか甚だ疑問ですね」
「女装の方が簡単です!」
堪え切れなくなったようにテーブルの上に突っ伏したシャノンに、メリルは同情的な視線を寄せる。
「その通りだ。性別を偽るのはさほど難しい事じゃないが、国王の代わりとなると話は違うだろう」
「………だから、あなた達はズレているんですって」
大分趣旨が外れた発言に、メリオットは呆れた。一体、どこの世界に性別を詐称する方が簡単だなんて言う人間がいるだろうか。
「とにかく、あとは私達がフォローするから、シャノンはもっと気楽に構えていてくれ」
「まぁ精々、威厳があるように振る舞うんですね」
「………頑張ります」
その心中を察して、そっと背中に手を置き励ますメリルだったが、そんな感傷的な時間は長く続かなかった。
まるでタイミングを見計らったかのように広間に現れたスタンリーに、二人は慌てて立ち上がる。続いてメリオットも緩慢な動作で立ち上がるが、その不躾な態度も彼は特に気にする様子がなかった。
「悪いね、待たせてしまったかな」
「いいえ、私たちも今来たところですから」
挨拶のために差し出されたシャノンの手を無視して、スタンリーは隣にいたメリルの手をうやうやしく持ち上げ、口付ける。
もちろん、生まれて初めてそんな事をされたメリルは、全身を総毛立たせて硬直した。
「おはよう、真珠の姫君。本日も一段とお美しい」
歯の浮くようなセリフを平然と口にするスタンリーに、メリルは目眩がした。彼は、こんなに軽率な男だったのか。
「ところで、 早く席に着かないかい。もうお腹がペコペコでね」
遅れて来ておいて悪びれた様子も見せない彼に、メリオットは内心怒りで震えた。
だが、ここで感情的になれば、彼の思惑を探る折角の機会が失われる。全ての理性を総動員して冷静になろうと努めたメリオットは、固い動作で席に着く。
スタンリーを前にして、テーブルを挟みシャノン、メリル、メリオットの順に並んだ。
全員が腰を落ち着けたところで、この館の主人であるクランベリー卿が姿を現わす。執事に車椅子を押され、長テーブルの端に着いた。
「おはようございます。昨晩は、よく眠れましたかな?」
目礼をする一同を見渡し、クランベリー卿が最初に声をかけたのは招かれざる客である隣国の王だった。
「ええ、お陰様で。夢の中でも姫は宝石のように輝いておりました」
意味深な視線を送られ、メリルは思わず身を引いた。
「これはこれは、殿下は本当にお世辞がお上手でいらっしゃる。ですが、まだ仮とは言え未来のお妃候補が褒められるのは嬉しい事ですなぁ」
そうは思いませんか陛下?と、水を向けられ、シャノンはぎこちなく相槌を打った。
あからさまな思慕の表し方、それなのにどこか冷めたような表情と態度。その裏腹な言動の目的が読めない。
そして、全員が揃ったところで最初の料理が運ばれてくる。前菜は、ほうれん草とクレソンのポタージュだった。寝起きの体に温かいスープが沁みわたる。
特にスタンリーは余程空腹だったのか、ほとんど一瞬で飲み干した。
続いて運ばれてきた料理も一瞬で平らげ、シャノンとメリルは顔を見合わせる。
「あの、もしかして……食事はいつぶり、ですか?」
慌てて次の料理を運んでくる給仕たちに憐れみの視線を送りながら、シャノンが遠慮がちに尋ねる。
「さて……あまり覚えていないけど、昨日の昼ぶりくらいじゃないかな」
デザートのフルーツジュレを頬張りながら、冗談とも本気ともつかない調子で答えた彼に、メリオットは露骨に軽蔑の眼差しを向けた。
「一国の王ともあろうお方が、そんな品位に欠ける行動をなさっておいでなんですか?」
これには、スタンリーも食事中の手を止め、怪訝な顔で聞き返した。
「ちょっとお聞きしたいんだが、品位に欠ける行動とは具体的にどんな事を仰っているのか?」
「例えば、供も連れず単独で行動するとか」
挑戦的な瞳で真っ向から見つめ返してくるメリオットを、スタンリーは鼻で笑う。
「それが低俗であると言いたいのか?俺とて王である前に一人の人間、単独で行動する事だってあるさ。それに、今回は狼の逃亡で人命に被害が出る恐れがあった。それとも、この国では人の命よりも王としてのプライドが優先されるのか?」
「そんな事は言っておりません」
「メリオット、やめろ」
不穏な気配を察し、思わず制止の声をあげたメリルだったがそれが仇となる。
「なるほど。この国では、王よりも妃の方が強そうだ」
可笑しそうに笑って葡萄酒を一気にあおるスタンリーに、メリルは身を強張らせた。
今の自分はあくまでも妃候補の女に過ぎない。なのに、そんな正妃でもない女が国王を差し置いて宰相を叱り飛ばすなどあり得ない。己の失態に歯噛みするメリルの横で、シャノンとメリオットも緊張の様子を呈した。
そんな中、ここでもやはり一番経験値の高い卿がその場をうまく取り成す。
「まあまあ、折角こんなに良いお天気なのですから、もっと楽しく食事をしましょう……ところで、殿下はこの後どうなさるおつもりなのですか?」
自然な流れで話題を変え、スタンリーの気をそらす。彼も特に訝しむ様子はなく質問に答えた。
「あと2.3日もすれば、きっと配下の者たちが痕跡を見つけてここまで辿り着くでしょう。それまでここに滞在させてもらえると有難いんだが」
「もちろん、こちらは大歓迎です。それに、その服もお似合いのようで良かった」
そう言ってスタンリーの全身に視線を移した卿に、シャノンは驚く。
「もしかして……その服は卿のお召し物なのですか?」
「左様、若い頃に着ていたものなので古いデザインですが、クラシカルな雰囲気が殿下によく似合っていらっしゃる」
「光栄です。しかし、きっと卿のセンスが良いのでしょう。シックで落ち着いたデザインがとても気に入りました」
襟元とボタン周りに縁取られたフリルが黒一色の中にも華やかさを演出し、スタンリーのエキゾチックな顔立ちを更に甘く仕上げていた。
「もし、他にも何かご入用でしたら遠慮なく仰ってください」
「ありがとうございます。それでは早速ですが、少しの間姫君をお借し頂きたい」
あまりにも無遠慮な申し出に、もちろんメリオットは黙っていなかった。
「貸す貸さないなどと、彼女は物ではないのでそのような言い分は全くもって許容できません」
毅然として答えたメリオットに、シャノンも同意する。彼の魂胆を探る事は最重要課題だが、それでメリルが引き換えになってはいけない。
「本当に小姑みたいだな」
「……何?」
低く毒づいたスタンリーにメリオットが険のある声で聞き返すが、もちろん彼は返答しなかった。メリオットも、わざわざ聞き返さずとも良い言葉でないのは分かっていたので、それ以上追求しなかった。
しかし、そんな凍え切った空気など意に介さず、スタンリーは不敵な笑みを浮かべメリルの方を向く。
「姫君を誘うのに監督者の許諾を得なければいけないと思ったが、どうやらその必要はなかったようだな。こちらとしても、姫君に直接当たれるのはありがたい」
「それとこれとは話が……!」
都合良く解釈したスタンリーに抗議の声を上げるメリオットを制し、メリルは彼の顔を正面から見据えた。
「私に何か?」
「もしよければ、この後一緒に散歩でもどうかと思ってね」
「ええ、是非」
即答したメリルに、シャノンは仰天し耳打ちする。
「危険だよメリル!罠かもしれないんだよ!?」
「わかってる。だが、攻めは最大の防御と言うだろう?このままいたってラチがあかない。ならいっそ、奴が仕掛けた罠に飛び込んでみるのも手だ」
更に反対意見を唱えようとしたシャノンだったが、食事を終えたスタンリーがナプキンで口元を拭いながら強引に約束を取り付ける。
「では、後程また」
そう言うとメリルの返答を待たずに立ち上がり、クランベリー卿に軽く会釈をして立ち去ってしまう。
残された一同は、すっかり興のさめた朝食を物静かに食べその場は解散となった。
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