策略

昔々、あるところに孤独な王と心優しい王妃がいました。

王妃の包み込むような優しさは、孤独で冷え切った王の心を温かく溶かしていきました。他の誰にも心を開かなかった王ですが、唯一王妃にだけは絶大な信頼を寄せていました。心からとても愛していたのです。


そんなある日、隣国の王子が訪れました。若く美しい王子の姿に、王妃は見惚れてしまいます。それを心変わりと取った王は激怒し、王妃をその手で殺めてしまいました。


王は嘆き悲しみました。王妃を失った人生には何の意味もありません。王は、全てを滅ぼすことを決めました。

国を、人を、隣国の王を。

そして、戦争になりました。

たくさんの尊い命が失われました。

孤独な王も、死にました。


あとに残されたのは、黒い絶望と、底知れない深い暗闇でした。


「めでたしめでたし」


決してその言葉で括られるはずのない物語を、男はどこか楽しそうな声で足元にうずくまる愛犬に語って聞かせた。黒い狼の血を濃く受け継いだそれは、男の従順なペットだった。


「もうまもなくで国境に到着します」


怯えた様子で告げてくる側近の言葉に、男は不気味に口端を歪める。彼に仕える人々は、いつもこうして主人の顔色を伺い怯えていた。男の気分一つで、立場どころか首が飛びかねない。

隣国の民主的な政治とは違い、この国では王一人に独裁的な権限が与えられている。誰しもが彼に傅き、逆らう事は許されない。そんな恐怖で人の心を縛り付ける王が求めているのは、創国の物語のやり直しだった。



****


シャノンが妃修行と称して連れて来られたのは、古くから国境沿い一帯を治めているクランベリー卿の邸だった。


クランベリー卿は、今年めでたく90歳を迎える高齢で、流石に寄る年波には勝てず車椅子での生活を余儀なくされていたが、それ以外は至って健康で、特に昔は切れ者と謳われたその勘働きと巧妙なトーク術は今でも健在だった。


世間話と称して、さりげなく生い立ちや素性などに探りを入れてくるクランベリー卿をのらりくらりと躱し、何とかその日の晩餐を乗り切ったシャノンは、あてがわれた部屋のバルコニーでやっと息つく。


「疲れたか?」


いつのまにか、メリルが後ろの窓に寄りかかり、心配そうにシャノンを見ていた。シャノンは答えるのも億劫で、無言で頷く。

バルコニーの手すりにもたれかかり、夜風の心地良さに身を委ねているシャノンに歩み寄ると、メリルはその後れ毛をそっと耳にかけてやった。


「……俺は、スパイか何かだと思われているんでしょうか?」

「クランベリー卿は、昔から国境の警備も任されてきた一族だから、つい相手の思惑や裏を探ろうとしてしまうんだ。もはや癖だと思った方がいい」


だから、卿に悪気はないと暗に言うメリルだったが、生い立ちや兄弟構成など根掘り葉掘り聞かれたシャノンは、いつボロを出してしまうかと気が気ではなかった。

これが明日も続くなんて、自分の女装を隠し通せる自信がない。


ふと顔を上げると、夜の帳が下ろされた田園風景の中に一際高くそびえる黒い塔が目についた。天辺あたりにちらつく光は、見張りの兵だろうか。

それは、国境沿いに建つ隣国の物見の塔だった。一見ただの監視塔に見えるが、実際は戦闘配備がなされた実戦用の砦なのだろう。

民主的な政治を敷くこちらとは反対に、隣国は典型的な独裁国家だと聞く。両国間に今のところ大きな衝突は起こっていないが、日頃からの隣国の態度はお世辞にも友好的とは言い難い。


そんな国が突然、外遊に訪れたいと言い出せば、何か裏があるのかと警戒するのは当然の事だった。


なのに、あろうことかそのもてなし接待に、妃修行もろくに済んでいない自分を任命するなんて、宰相も思い切ったことをするとシャノンは半ば呆れてさえいた。


「不安か?」

「……まぁ、そうじゃないって言ったら嘘になりますけど」


躊躇いがちに素直な心根を吐き出すシャノンに、メリルは寄り添う。


「大丈夫、シャノンならきっとやれるさ」

「………無条件に信頼されると、逆にプレッシャー…!」


励ますつもりで背中をさすったのが逆効果になったらしく、頭を抱え大げさに嘆くシャノンにメリルは苦笑した。


「そんなに重く考えないで、シャノンはいつも通りにしていればいいんだ」

「それで女装だってバレたらどうするんだよ……」

「クランベリー卿の目だって誤魔化せたんだ。自信をもて」

「まだ誤魔化しきれたとは言えない」


言っている内に、また明日の不安が蘇って来たのか。身を震わせたシャノンは、救いを求めるようにメリルの腰に手を回しその体を引き寄せた。


最近、シャノンは二人きりになるとこうしてよくメリルに触れてくる。メリルは、あれ以来シャノンに触れられる事に少し敏感になっていて、“そう言う雰囲気”になるとつい身構えてしまう。

この時も、全身に力を入れ緊張しているメリルに、シャノンは思わず苦笑を漏らした。


「そんなに警戒されると、ちょっと傷付くな」

「こ、これは、そう言うんじゃ……」

「大丈夫、メリルが嫌がるような事はしないよ。ただちょっと、こうしていたいだけ」


底上げブーツのおかげで10センチほど背が高いメリルの肩に、シャノンは無防備に頭を預ける。

メリルが負担を感じない程度に体重を預けてくるシャノンの重みは、不思議とメリルの心を落ち着かせてくれた。

その代わり、触れ合った腕越しに、このうるさい心臓の音が相手に伝わらないかと心配になる。


「落ち着く……」

「そ、そうか?」

「うん、ずっとこうしていたい」


そんな事を言われれば、メリルも期待に応えたくなって、暫くの間は息さえ潜めてじっとしていた。

短いようで長い時間が過ぎ、まさかシャノンはこのまま寝てしまったのではないかとメリルが不安に思い始めた時、不意に肩の重みから解放される。

あっけなく離れていく栗色の後頭部を少し寂しく思っていると、シャノンが心配そうな顔をして覗き込んできた。


「ごめん、体勢辛かった?」

「いや、全然そんなことない」

「ごめんね、メリルも疲れてるよね。今日はもう俺も休むから、メリルもゆっくり休んで」


先ほどよりも疲労がにじむ声でそう言われれば、今日は余程神経をすり減らしたのだとわかって、なんとなく去りがたくなる。


「あの、もう少し……」

「じゃあ朝まで一緒にいる?」


冗談とも本気ともつかない調子で返されれば、その言葉の意味を深読みしてしまい、またそんな自分に羞恥を感じてメリルは赤面した。


「わ、私を体良く追い返そうとしても……」

「ううん、本気だよ。どうする?」

「ど、どう……」


こちらを見つめてくるシャノンの瞳にからかうような光を見つけ、メリルはハッと我に返る。


「この、小悪魔……っ!」


思わず流されてかけていた自分を悟られまいと、メリルはシャノンの頬をつねり平静を装った。


「ほんっとに、お前は人たらしだな」

「いひゃいいひゃい……人たらし?何ひょれ?」


これだから、無自覚は恐ろしかった。皆から可愛がられて育った末っ子は、こうまでして憎めないものかとメリルは身をもって知る。


ひとしきり頬をいじめ倒したおかげで、その顔に少しばかり血色が蘇ってきたのを見てメリルはホッと息を吐いた。わずかでもシャノンの気が紛れたのなら、今はそれでいい。



「じゃあ、今度こそ本当に戻るぞ」

「うん、遅くまでごめんね。また明日」

「そうだな、明日……」

「……うん」


互いに別れの挨拶を済ませ、あとは扉に向かって歩き出すだけなのに、メリルは何故かその一歩をためらっていた。自分でも何に後ろ髪を引かれているのかわからない。


もしかしたら、シャノンに何かを期待しているのかもしれなかった。でも、何を?その先が想像出来ずに、メリルは尚更戸惑う。

それに、例えその答えをシャノンが持っていたとしても、ここで求めてはいけないような気がした。自分がもっと欲深く、後戻り出来ない場所へ行ってしまいそうな錯覚を覚える。


そのせいで微妙な沈黙に支配された空気を気まずく思うメリルの首に、白く長い腕が巻きつけられた。ギョッとするメリルの眼前に、首を傾げ薄眼を開けたシャノンの顔が迫る。

拒否する気は起こらなかった。ただ漠然と、自分が求めていたものは‘これ’だったのだと気付く。もっと彼に触れたかった。そして、彼をもっと深く知るためには、何が必要なのか、代わりにシャノンが教えてくれる気がした。



「ン、ン」


唇が触れ合う直前、わざとらしい咳払いの音が聞こえ、二人は慌てて離れる。呆れた様子のメリオットが、腕を組み入口の扉にもたれかかっていた。


「人様のお宅まで来て、不埒な行為に及ぼうとはいい度胸です」


うっすらと額に青筋を立て、口調はあくまでも穏やかなのに、その目は笑っていない。気まずそうに視線をそらすシャノンとは反対に、茹で蛸のように顔を真っ赤にしたメリルは、堪らず反論した。


「ふ、不埒な行為など……!」

「していないと言いたいんですか?」

「こ、これは……おやすみのキスをしようと……」

「5歳児ですか。あなた達は」


鼻で笑い飛ばされ、メリルは首まで真っ赤に染まる。苦し紛れにメリオットのタイミングの悪さをなじった。


「お、お前は、いつもいつも変なタイミングで現れるな……!」

「失敬ですね。タイミングが良いと言ってください」

「……悪いんですよ……」

「シャノン様、何か仰りましたか?」

「……いいえ、何も」

「お前、まさかずっと見張ってるんじゃないだろうな?」


メリオットならあり得なくもないと思ったが、流石にその問いかけは予想外だったらしく、メリオットは大げさに目を見開く。


「メリル様……まさか、私がそんな暇だと思っているんじゃないでしょうね?」

「いや、それは……」

「諸々の書類整理に報告書の不備確認、各所への指示出しに陛下のスケジュール管理…それらを一体誰がやってると思っているんですか?」

「そ、それはだな……」

「メリル、だめだ諦めよう」


早々と白旗をあげたシャノンは、追い詰められて苦い顔をしているメリルに首を振った。メリオットに口で勝てるわけがない。それを誰よりもわかっているメリルは、溜飲を下げるしかなかった。


「で、私を呼びに来たのか?」

「いいえ、シャノン様を」

「俺ですか?」


これには二人とも驚いて顔を見合わせる。流石にもう気力が尽きかけていてシャノンは、辟易して尋ねた。


「まだ……何かやる事があるんですか?」

「ええ、今回の修行で一番重要な仕事です。メリル様と服を交換してください」


耳を疑ったのはシャノンだけではなかった。メリルも寝耳に水だったらしく、慌てて問いただす。


「ちょっと待て、メリオット!どういう事だ?」

「陛下はこれからご入浴の予定です」

「入浴?いつも断っているはずだが?」

「ええ。今まではそうでしたが、これからは妃も一緒となるとそうはいかないかと」

「……待遇が手厚くなると?」

「お風呂嫌いな女性はいませんからね。妃を入浴させたのに、陛下を入れない手はありません」

「あの、俺だったら入らなくても大丈夫です」

「だから、そう言う訳にはいかないんです。こう言う時、女性は疲れを癒すために是が非でも入浴したがるものなんです」


力強く断言されてしまえば、確かに二人が思い描く女性もその通りだったので、何も言えなくなった。意固地に拒否すれば、逆に怪しまれる原因となる。


今日はもうこれ以上、何もしたくなかったシャノンだったが致し方ない。


「……わかりました。俺はメリルのふりをしていればいいんですね?」

「もちろん灯りは限界まで落とします。そもそも入浴介助は盲目の使用人が行なっているので、よっぽどの事がない限りバレないとは思いますが、念のため絶対に声は出さないように」

「了解しました」

「メリル様も同じです。見知らぬ人間に体を触れられるのは落ち着かないでしょうが、おとなしく我慢していてください」

「まぁ、仕方ないか……」


もっと拒否反応を示すかと思いきや、思いのほか二人が素直に承諾したのでメリオットは拍子抜けしたようだった。


「随分素直ですね……悪いものでも食べましたか?」

「早く終わらせて休みたいだけですよ」


失敬な言い草に憤慨しつつ、ドレスの肩紐に手をかけたシャノンはハッと動きを止める。


「ごめん、メリル。隣の部屋を使って」


慌てて言えば、メリルが焦った様子で隣の部屋に駆け込んで行った。珍しく気がきかなかったシャノンに驚いて、メリオットはしみじみと呟く。


「ほんとに疲れてるんですねぇ」

「ええ、だからとっとと終わらせましょう。はい、服!」


押し付けられたドレスを片手に、メリオットは寝室の扉をノックした。わずかに開かれた扉の隙間から、シャノンのドレスとメリルの衣服を交換し、それをまたシャノンに手渡す。


まだ温もりが残るそれを手早く身にまとっていくシャノンを見るともなしに見つめながら、メリオットがぽつりと呟いた。


「脱いだ服の交換って、何かいやらしいですね」



****


「全く……メリル様、結構本気でやりましたね」


痛むふくらはぎを庇いつつ歩くメリオットに、シャノンは呆れ眼を向ける。


「メリオット様が余計な事を言うからですよ」

「余計ねぇ……ちょっと冗談を言っただけじゃないですか」

「だから、メリオット様が言うと冗談にならないんです」


あの後、背後からメリルに強かな蹴りをお見舞いされたメリオットだったが、本人はその事に至って納得のいっていない様子。


「自分たちの行動はさて置いて、人の発言には目くじら立てるんですから。全く」

「それは……きっとメリオット様に、“くさされてる”と捉えてるからなんだと思います」

「なんですって?いつ、私があなた達の関係に水を差すような事を言いました?」

「いや、それは……」


割と常にです。とは言えず、シャノンは曖昧に笑ってやり過ごした。

わざとなのか無意識なのかは分からないが、その時々によって自分達の味方をしたり釘を刺したりと、メリオットの真意はどこにあるのか掴みづらい。


そのハッキリしない彼の態度を、メリルが不満に思っているのをシャノンは薄々感じていた。

かと言って、シャノンがそれをここで聞き出すのも躊躇する。


そうこうしている間に、目的のバスルームへ到着してしまい、シャノンはまた別の意味で緊張に身を強張らせた。


「ここから先は、出来るだけ声を出さないように」


メリオットに念押しされ、神妙に頷いたシャノンは恐る恐る使用人たちが待つバスルームへ足を踏み入れる。

室内で待ち構えていた女性たちが、その気配を察して一斉に頭を下げた。その光景にすっかり怖気付いたシャノンを無理やり前に押し出しながら、メリオットは高らかに告げた。


「陛下をお連れしました。くれぐれも粗相のないように」


そう言って、自分はバスルームの扉の前に下がり鋭い監視の目を光らせる。


狼の群れに放り込まれた羊のような気分で、シャノンは無数の手が衣服を剥ぎ取っていくむず痒さにじっと耐えた。

実家では、気心の知れた男の使用人が身の回りの世話をしてくれているが、所詮六男坊の身なので当主や長男などと違って、あまり多くの使用人に傅かれるのは慣れていない。

よって、入浴に際して一から十まで付き添われるのは初めての事な上、その相手が女性なのだから始末が悪かった。


「陛下、どこか不快な所はございませんか?」


うやうやしく全身を擦る手を止め、尋ねてくる女の格好は体の線が透けて見えそうなほどの薄布一枚。今は、それも所々お湯に濡れ、その下に隠された白い肌を扇情的に浮かび上がらせている。

あまりにも刺激が強い光景に、シャノンは目を瞑り必死に無になろうと努めた。


「大丈夫です。そのまま続けて」


そんなシャノンを薄笑いで眺めながら、メリオットは“陛下”の代弁をする。

遣わされた女たちは、近隣の村々から集められた見目麗しい女性たちだ。陛下の秘密を知られる心配がなく、運良く“お手つき”になれば褒美を貰って村に戻れるので、村の娘たちにとっても憧れの仕事である。

それ故に、隙を狙いあざとく陛下に擦り寄ってこようとする者もいるだろう。

そう、これはその誘惑を跳ね除けられるかどうかの、シャノンへの一種の試練のようなものでもあった。


メリオットの言いつけ通り、一言の声を発する事もなく、ただじっとバスチェアの上に座るシャノンの姿は彫像のようにも見える。


やせ我慢などせずに、近くの女の胸にでもさり気なく触れてくれれば、すぐに判定をくだしてやれるのに。と、メリオットは少し意地の悪い気持ちで目を光らせていた。

シャノンに、このまま合格点でいて欲しいのか。それとも、こちらを幻滅させて欲しいのか。自分でも一体どちらを望んでいるのかわからなかった。

もしかしたら、これはメリルを他の男へ渡したくないと言うささやかな抵抗心の現れなのかもしれないと、漠然と思い始めている。


メリルの成長を幼い頃からずっと見守ってきて、自分は保護者のような存在だと自覚しているし、子離れできない親と同じなのかもしれなかった。

だとしたら、何て俗っぽい感情でこの国の指揮を取っているのだろう。


無性に笑い出したくなる衝動を抑え、目の前の光景に意識を戻したメリオットは、不審な動きをする女に気付いた。先程からやけにこちらを気にしつつ、隙あらばシャノンに擦り寄ろうとする女は、お手つきを狙っているだけだろうか?


もしそうでなければ、刺客の可能性があった。武器などを隠し持てる服装ではないものの、小さな毒針程度であれば身の内に忍ばせて置く事も不可能ではない。一気に警戒心を高めたメリオットは、戸口にもたれかかっていた体を起こし、万が一に備えた。



一方シャノンは、体のあらゆる所に他人の手が触れていく感覚に、そろそろ我慢の限界を覚え始めていた。目の前に広がる耽美な世界から目をそらそうと目蓋を閉じれば、体に触れてくる女たちの手のひらや、その息遣いをよりリアルに感じてしまい、頭に忍び込んでくる邪な考えを追い払うのに必死になる。


その誘惑から逃れるために別の事に意識を向けると、先程衣服を交換した際に見たメリルのドレス姿が思い浮かんだ。

思いがけず可愛らしくて、シャノンはドキリとしたのだった。普段は隠されている肩やデコルテが華奢な女性らしさを演出していて、もう少し眺めていたかったのだが、急かされるようにして連れてこられたのが残念でならない。


彼女が持つ透明感は、男装時には凛々しさを醸し出し、また本来の性に立ち戻った時にはその生命力の瑞々しさを引き立たせる役割を果たしていた。

その容易には近付きがたい高嶺の花の存在感は、シャノンの心を掴んで離さない。



そんなメリルも今頃、同じように入浴を済ませているのだろうかと、メリルの事を考え過ぎて、最初は幻聴でも聞いてしまったのかとシャノンは疑った。


しかし、それにしてはやけにリアルに鼓膜に響いた気がして、シャノンは思わず目を開ける。しどけない格好をした女たちが相変わらず目の前をチラついていたが、それとは別に右半身に押し付けられる生々しい感触にシャノンはぎこちなく首を巡らせた。


一人だけ、明らかな他意を持って接触してくる女がいた。シャノンの背中に覆いかぶさり、メリオットからの視線を遮るようにしている。右腕に押し付けられた胸は弾力があり、やわらかい。

思わずゴクリと生唾を飲み込んだシャノンは、次にその肉厚的な唇が動く様を目に映した。


先程の幻聴かと思った声の主は、その女だった。



「陛下、お妃様が危険です」



****


早々と入浴を済ませたメリルは、火照った体を冷やそうと、窓辺に近寄った。周囲を深い森林に囲まれている邸は、不気味なほどに静まり返っている。

シャノンの方は、きっと手厚いもてなしを受けているだろうから、もう少し時間がかかるはずだ。それまでどう時間を潰そうかと、メリルは手持ち無沙汰に闇のベールに包まれた中庭を眺めた。

寝心地の良さと肌触りを追求して作られたナイトドレスは、シルクの総レースで出来た最高級のものだが、普段男物の服に慣れているメリルにとってはどうにも心許ない。


特に空いた胸元から忍び込んでくる夜風の冷たさに、メリルは自分の体を抱きしめた。慣れない格好で風邪をひいては叶わぬと手近にあった上着を羽織ろうとして、ふと視界の隅で何かが光った気がしてそちらに意識を向ける。

発生源を辿ろうと目を凝らせば、暗闇にぽっかりと浮かぶ二つの目があった。


「狼……?」


暗闇と同化しどこが境目だかわからなくなっているその体の中で、唯一その金緑色の瞳だけが爛々と輝いてこちらを見つめていた。


この辺りに狼などいただろうか…?

狼は群れで暮らす習性がある。もし他所からやってきた狼たちが縄張りを築き始めたとあれば、近隣の村や町に被害が出る恐れがあった。農作物ならまだしも、人的な被害があってからでは遅い。


一刻も早く事態の把握に努めねばと焦ったメリルは、らしくもなく軽率な行動に出る。メリオットが戻ってくるまでのタイムロスを惜しんで、とりあえず羽織りものと護身用の銃だけを持って部屋を飛び出した。


もし、たまたま迷い込んできただけの一匹狼であれば、威嚇射撃でもして追い返せれば縄張りを築かれずに済む。邸の者たちは少し驚かせてしまうかもしれないが、狼は夜行性だし、今の内に行動しておく事が重要だった。


メリルは走りざま、廊下の壁にかけられているカンテラを手に、一目散に階段を駆け下りる。クランベリー卿の邸は昔から何度も訪れているため、その見取り図はすっかり頭に入っている。


東棟から西棟へ続く渡り廊下を走り抜け、中庭を望めるガラス張りの回廊へ躍り出た。日中なら陽の光が差し込み、ステンドグラスが床に幾何学模様を描いているのだが、今は冴え渡る月光が部屋を青白く染め上げていた。


メリルは乱れた息を整え、中庭へ続く扉を開け放つ。慎重に一歩足を踏み出せば、自分が踏みしめる草や木の音がやけに耳についた。ゆっくりと周囲を見回し、あの金緑色の光源を探す。

クランベリー卿自慢の中庭は、自然の造形を活かした作りになっていて、まるで本当の森の中にいるようだ。これでは、いつどこから飛びかかられるかわかったものではない。


首筋にじっとりと嫌な汗をかきながら、メリルは月光が照らし出す小道を進んだ。鬱蒼と生い茂る植え込みの間に、カンテラの灯りに反射する金緑色の瞳を見つけ、息を呑む。

緊張に強張る体を叱咤し、ゆっくりと照準を合わせ、引き金に指をかけようとした時、どこか遠くの方で微かに共鳴音のようなものが聞こえた。狼の遠吠えにしてはあまりにも細く短かったので、一瞬耳鳴りと錯覚するくらいだった。


だが、その音を合図にいきなり身を翻した狼を見て疑念が生まれる。まさか、誰かこの狼を操っている人物がいる…?

閃めきがメリルの脳髄を駆け抜け、理性よりも直感がそうだと告げていた。

だとしたら、尚更捨て置けない。



「メリオット、早く気づけよ……」


一刻も早く、メリオットがこの事態に気付いて追いかけて来てくれる事を祈りつつ、メリルは前に前進した。


狼はメリルを誘うように歩いては止まり、歩いては止まるのを繰り返した。時折、後ろを振り返ってメリルの姿を確認するような素振りを見せるので、誘導されているのは間違いない。


「一体、誰が……」


いや、今は考えるのはよそう。ここで怖気付いても、もう遅い。

自分は完全に罠にかかった獲物だ。蜘蛛の巣にかかった蝶は自力で逃げる術をしらない。だったら、逆に居直ってその魂胆を確かめてやると奮起し、メリルは大股で闊歩した。


中庭の塀を飛び越え森の中へ消えていく狼を追って、メリルも普段使用人達が水汲みのために使っている裏口をくぐる。木製の古びた扉が軋んだ音を立てて開いた。



「さて、鬼が出るか蛇が出るか……」


吐息さえも吸い込まれそうな深い闇の中へ、森の小道は続いていた。引き寄せられるようにして奥へ進むメリルの前方から、不意に闇から溶け出したように男が現れる。

全身黒ずくめで、漆黒の髪と瞳が濡れたように光っていた。


左目の下にある泣きボクロが、メリルの記憶と一致する。



「……ス、タンリー……殿下…?」

「こんばんは」


それは、隣国の王だった。



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