ブラックスターサファイヤ
「メリル!ここだ!!」
あらん限りの力で振り絞られた大声に、部屋の中にいた二人は当然ギョッとした。特に女は、シャノンがそんな‘ドスの効いた’声をあげるなんて想像もしていなかったので、何事かと目を白黒させた。
「てめぇ……っ!!」
血相を変えて掴みかかってこようとした男は、勢い良く開いたドアに運悪く衝突し、派手に転がった。
薄暗い室内に光が差し込んで、その人物のシルエットを浮かび上がらせる。白い詰襟のジャケットとパンツに、足にも光沢のある白いブーツを履いている。右手にはサーベルを持ち、肩や胸まわりは金糸の飾緒で華やかに飾り立てられていた。全身をその髪色と同一色でコーディネートされた軍服姿のメリルの姿がそこにはあった。
その凛々しさと美しさと言ったら、まるで神話から抜け出してきた戦女神のようで、シャノンは目が眩んだ。
一方、メリルは扉を蹴破った姿勢のまま素早く室内に目を配る。そこに、ほぼ全裸に等しい格好の女と寝そべる形になっているシャノンの姿を認め、すっと目を細めた。
一見、何の変化もないように見えたその表情だが、切れ長のまぶたの奥にある榛色の瞳が底冷えする光をまとっている事に気付き、シャノンは慌てた。
「なんと、お取り込み中でしたか」
メリルの横から顔を覗かせたメリオットが、なんとも間の抜けた声でからかうような軽口を叩いたが、それもシャノンの顔にある殴打跡を認めるまでであった。
痛々しく腫れ上がり右の瞼がほとんど開かないその状態を見て取ると、顔から一切の表情を消した。
メリルの方はもっと顕著だった。表情筋をほとんど動かさないまま、壮絶な怒気だけをその顔にのせている。
これには、助けが来てホッとしなければいけないはずのシャノンでさえ、少したじろいだ。
「メリオット」
床に倒れ込んでいるシャノンたちに視線を当てたまま、メリルは抑揚のない声で言った。その声色に含まれている意図を正確に汲み取ったメリオットは、背後に控えていた部下たちに合図を出す。人差し指ひとつで指示を受けた兵たちは、一斉に室内になだれ込み、迅速な行動で主犯格である男とその共犯者である女を捕らえていく。その際、往生際が悪い女は自分が無防備な状態であることを主張し、あわよくばこの場での拘束を免れようとするずる賢さを発揮したが、それを許すメリルではなかった。
理不尽な暴力を受けて無抵抗なシャノンに、裸でのしかかっていたのだから、実質一番罪深いとしか言いようがない。
あらかたの捕り物劇を終え、室内に静けさが戻ってきたところで、やっとメリルが動き出した。鬼の軍曹のようにずっと部屋の入り口で仁王立ちしていたのだが、もうその必要は無くなったと判断して、右手に携えていたサーベルをしまう。
金属の擦れ合う音がして、腰に帯びた鞘と刃が一つになった。
そして、悠然とした足取りでシャノンの元まで歩いて来ると、数日ぶりに拘束を解かれ強張った両手をぎこちなく動かしているシャノンの前に跪き、切実な声で告げた。
「無事でよかった」
心から安堵の息を漏らし、続いて謝罪を口にする。
「遅くなってすまなかった。ここを探し当てるのに手間取ってしまって……」
慚愧の念に堪えぬ様子で歯噛みするメリルを安心させるように、シャノンは頬の痛みを堪え、引きつった笑いを浮かべた。そのほとんど笑みとも言えぬ痛々しい表情に、メリルは尚更胸を痛めた。
「俺は大丈夫。それに、こうして助けに来てくれた」
元の耳心地の良いシャノンの声とは思えない、掠れた濃い疲労を窺わせる声音だった。言葉を詰まらせたメリルの顔には、後悔の念がありありと浮かんでいて、こんな時でも生真面目に一人で全てを背負いこんでしまうメリルにシャノンは苦笑した。
なので、出来るだけあっけらかんと聞こえるように苦心しながら言った。
「昔、悪さをしていてよく兄貴たちに殴られたよ。だから、こんなのちっともへっちゃら。ちょっと手痛い勉強代だと思えばこそ、別に何でもない」
何が大丈夫なものかと声を大にして訴えたいメリルだったが、一刻も早くシャノンを安静に休ませる方が先で、急いで後ろの宰相を仰ぎ見た。
宰相の方は心得ているもので、メリルに言われるまでもなく、シャノンに手を貸そうと歩み寄る。最初は肩を貸して立たせようと思ったのだが、シャノンの疲弊が思いのほか酷いことに気付き、方針を変えた。
「ちょっと失礼しますね」
「え!?なんっ、ちょ、ちょちょ」
慌てたのはシャノンの方である。事もあろうに、銀髪のたらし宰相に抱え上げられるはめになって絶句した。
しかし、メリオットも譲る気はないようで、居心地悪そうに身動ぐシャノンの耳元で、ここまでのメリルの様子をとくと聞かせた。
「陛下は、ここ数日お食事を召し上がっておりません」
「……!」
「理由もお聞かせした方がよろしいです
か?『今頃シャノンは何処とも知らぬ場所で、誘拐犯たちに手酷い目に遭わされているのだろうか。それを考えると食事も喉を通らない』だ、そうです」
「……さ…さようでしたか…」
完全にシャノンの反論を封じたメリオットは、その体を抱きかかえ颯爽と部屋を出た。廊下では、後始末に追われる兵たちが慌ただしく動き回っていた。ついでに、この娼館自体も徹底的に調査してやろうと言うつもりらしい。
メリオットの腕の中でひたすら小さくなりながら、シャノンが後ろを顧みると、メリルはまだ部屋に残り何事かを指示している。
その手際の良さに感心しながら、シャノンは人目を憚り声を落として聞いた。
「あいつらは、一体何者なんですか?」
「さぁ、それは現段階では私たちにもわかりません」
「あいつらは、メリルの秘密を教えろと言ってきました……でも、そもそもメリルの正体を知っていたかどうかさえ怪しいんです。もしかしたら、裏で操っていた人間がいるのかもしれません」
「………」
「けど、途中で誰かに連絡を取る素振りもなかったし……きっと黒幕との間に何人も仲介してる気がします」
「………」
なかなか鋭い読みである。しかし、これ以上ここでシャノンに名推理を披露させるのも、救出されたばかりの体には酷である。メリオットは彼との出会い以来史上最高の微笑を浮かべ、まるで子守唄でも聴かせるように優しく言い聞かせた。
「わかりました。ありがとうございます。ですが、詳しい話はまた城に戻ってからお聞きしましょう」
その言葉が言い終わるか終わらないかの内に、シャノンはメリオットの腕の中でスヤスヤと寝息を立て始めた。数日間の監禁生活で疲労困憊していたから、ほぼ気絶と言っていいかもしれない。
その様子を苦笑混じりに確認したメリオットは、彼の体を王室専用の馬車に送り届けてから、また現場の娼館へと足を向けた。
途中、あらかた指示を出し終えたメリルと行き合い、合流する。
いつもは軽口ばかりを叩いて飄々としているメリオットも、この時ばかりは真剣な顔つきだった。
「手がかりは?」
「特にない。この娼館の女主人は、本当に何も知らなかったらしい」
「では、あの実行犯の二人に聞くしかなさそうですね」
「主に、男の方だろうな。あの様子を見ると女の方は一枚噛ませられただけで、他は何も知らないと見た方がいい」
「陛下は、彼らの目的を何だと?」
「さぁな、さっぱりだ。思い当たる節も、探られれば痛い腹もありまくるからな。目的はどれなのか……」
そう言う意味でわからないと評したメリルだった。
とにかく、これ以上の混みいった話はここでするべきではないと避け、二人は乗ってきた馬車のある方角へと歩き始めた。
「……シャノンは?」
「先に馬車に乗せてあります。ちなみに、これ以上ないほど物々しく警護させているのでご安心を」
最後の方はちょっとめかして答えたメリオットだったが、メリルはさもありなんと深く頷いた。
「また同じような事があったら困るからな」
「困るでは済みませんよ。国の威信にかけても、二度とシャノン様には指一本触れさせません」
勢い込んで答えたメリオットだったが、ふとその表情を翳らせた。
「一体どこから漏れたんでしょう…?」
「シャノンの事か?」
「はい。まだ公式には発表していなかったので、こちらも油断していました」
「知っている人間は限られているんだ。その中の誰かが漏らしたとか考えられないだろ」
「ええ、もちろん……」
メリオットは、その中の‘誰が’漏らしたのかが重要だと言いたいのだろう。その意図を察したメリルは、非常に固い声で後の言葉を引き取った。
「どれもこの国に欠けてはならない重臣たち、か……」
「ええ、完全な情報規制を敷いていたので、知っているのは自ずと政治の中枢に関わる人物たちに限定されます」
二人の間を重々しい空気が包んだが、メリルは意外にも明るい声で告げたものだった。
「今ここでそれを論じあってても拉致があかない。とにかく、あの誘拐犯二人からしっかり聴取するのが先だ」
「ええ、それはもう、もちろんじっくりと」
この時ばかりは、いつも以上に笑顔が怖い宰相であった。
そんな二人の姿を集まった野次馬に混じり、何食わぬ顔で見物する男の姿があった。何分、こんなうらぶれた娼婦街に突然、高級な四頭立て馬車と物々しい警護隊が現れたのである。騒ぎにならないはずがない。
人でごった返す沿道を警護の者たちが列を組み、真ん中を歩く二人組に近付かせないようにしている。これでは逆に、あの二人がそれ相応の身分だと吹聴しているようなものではないかと、男は失笑した。全く、身分のある人の考えはわからないと首を振り、もう興味を失ったふりをしてさりげなく人混みを離れた。
しかし、しばらく歩き一際寂れた建物の裏通りに入ると、途端にその表情を低所得の労働者階級から、高慢ちきな成金貴族の顔へと変貌させた。
そのまま悠々とした足取りで大通りまで出ると、いかにもな仕草で辻馬車を捕まえ、郊外の邸宅まで送り届けさせた。
すると、今度は仕事熱心な老齢な執事を装い、堂々した足取りでその大豪邸の中へ足を踏み入れると、書斎を掃除していたメイド長を見つけ、厳かな口調で指示を出した。
告げられたメイド長は慌てて部屋を飛び出すと、庭園でバラの手入れをしていた庭師に同じ内容を告げ、庭師の方も急いで館を飛び出した。
それから何度か似たような事が続き、やっと本命の元へ辿り着いた時には、ざっと10人近い人を経ていた。
最後にその情報を受け取った男は、厳粛な顔つきでそれを聞き終えると、黒い宮殿の中を重い足取りで闊歩した。今、彼の中にあるのは、これを報告したあとに受けるであろう主からの強い叱責であった。だが、今更どうしようもなく、諦めにも似た気持ちで重く黒い扉をノックした。
「失礼致します」
「入れ」
短い答えと共に大きく開いたドアの向こうに、漆黒を写し取ったような主の姿があった。
黒い髪。黒い瞳。その反面、肌は透けるように白く、身にまとったこれまた黒一色の衣装がその肌の白さを異様に際立たせていた。
「状況は?」
「どうやら失敗に終わったようです」
これに、意外にも主は怒らなかった。すっかり戦々恐々としていた男は、安堵の息を漏らすと、一息に告げた。
「誘拐後5日目に国王とその部下たちが救出に乗り込んできたそうです」
「存外遅かったかな」
嘲けるように一蹴し、主はその顔に不遜な笑みをのせた。
「まぁ、いい。重要なことはこれでわかった」
「と、言いますと?」
「少なくとも、女は人質の価値がある」
そう言い置き、乱雑とした執務机の上にある赤ワインを一息にあおった。年代物の高級ワインが見る間にその体に吸い込まれていくのを些か心配そうに見つめながら、男は控えめに尋ねた。
「いかが致しますか?」
「さて、どうしようかな」
この問いに、言葉とは裏腹に楽しそうでさえある口調で、主は言った。
「向こうからご足労願えないのなら、俺が出向くしかあるまい」
そうしてメリルの元に、隣国からの交流を求める書簡が届いた。
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