第35話  まぶしくて

 松本久子は、夫・和夫の訃報に、はじめは茫然とし、やがてじわじわと喜びがこみあげてきた。

 ギャンブルの借金、アルコール依存、久子へのDV。どれも年を追うごとに酷くなり、特にDVには命の危険さえ感じるようになっていた。本気でシェルターに逃げ込むことを考えていた矢先の朗報。

 そう、これは朗報だ。借金はチャラになり、これ以上、久子の稼ぎを奪われることはなく、補償金ももらえ、生命保険も降りる、子供たちが怯えることなく、平和な生活ができるのだ。


 今朝。和夫は横断歩道を歩いていてバスに轢かれた。左折したバスの運転手が日差しのまぶしさに、よく道が見えなかったということで、全面的に非を認めた。

 運転していた田村修58歳は、すべてを失い絶望した、あと数年、勤め上げれば、妻と共に穏やかな老後に入っていけるはずだったのに。


 和夫も、自分の遺体を眺めながら、心底ほっとしていた。

 自分を殺してくれた運転手に、心から礼を言いたい。

 遺体のそばの無表情な妻にも、詫びたかった。

 今まで本当に済まなかった、口が利けるならそう言いたかった。

 仕事が上手くいかないときにギャンブルで一発当てたのが災いし、まじめに働くのが馬鹿らしくなった。しかし、ビギナーズラックの後は負け続け、それを取り戻そうと借金をしてまでギャンブルにのめりこみ、負けた憂さを酒で晴らす。挙句の果てに妻への暴力、それも次第にエスカレートしていき、これではいけないと思いながら、どうにもならなかった。

 今朝も、いっそ自殺しようか、その方が家族のためになる、だが、そんな勇気はないし、とうだうだ悩んでいた。信号が青になったのに気づくのに遅れて歩きだし、そこへバスが。


 公判が始まった。久子は、夫に苦しめられてきたこと、田村のおかげで人生が開けたことなどを正直に書き、減刑嘆願書を提出していた。

 被告席から田村が、久子に向かって深々と礼をした。

 久子も、感謝をこめて頭を下げた。

 貴方は命の恩人、私たち家族の救世主です、どうか刑が軽く済みますように。

 久子の隣では、和夫の亡霊が、久子以上の感謝をこめて、田村にお辞儀をしていた。

 ありがとうございました、おかげで道を誤らずに済みました。

 もし妻を殺しでもしていたら、いま被告席にいるのは自分だったはずなのです。

 あの朝、日差しがまぶしかったことに、和夫はただひたすら感謝するのだった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る