第3話 私はいません
フルタイムで働いていたころ、帰宅までが長くてつらかった。ようやく最寄り駅にたどりつき、部屋に戻る途中、誰とも接したくなくて、コンビニに寄るのさえ、嫌だった。
なのに、そんなときに限って、信号待ちで話しかけてくる人がいる。天気の話、程度なのだが、疲れ切った私には苦痛で、思わず、
「私はいません!」
と叫びたくなるのだった。
早期リタイアして、家計はきつくても、精神的には本当に楽になった。誰とも話す義務はない。気ままに散歩する程度で、ストレスは解消された。早朝散歩が、特にいい、ほとんど人通りがないから。
ある日、午前十時ころ、いつものように近所をふらついていると、何か声がした、気がした。
「ガーーーッ!」
男の叫び。
こちらへ怒りが、向けられている。
目の端に、偏屈そうな老人の姿が。
その老人は、私に「こんにちは」と言った、らしい。
しかし、通りの向かい側からだ、私は、そちらを見てもいない、例によってボーッとし顔は前に向けていた。気づけといわれても困る。
前方から歩いてきたのなら、嫌でも気づくし、挨拶に応えるくらいはした、と思う。
寂しい人なのだろう。
誰も、彼に話しかけない。誰からも必要とされない。
お気の毒だが、こちらにも都合がある。他者に愛想を振りまくために生きているわけではない。人づきあいが嫌で、早期リタイアした人間なのだ。
他者に構ってもらって当然、挨拶を返されて当然、という発想は、いかがなものか。
ふと気づいた、数か月前にも、似たようなことがあったと。
あの老人と、やはり、この道で出会い、挨拶され、少し言葉を交わした。長くなりそうだったので、それじゃ、と、と逃げてきた。挨拶には応えたし、少し話もしたから、それで済んだのか。
あの時も、この道だった。ここらの住人なのだろう。
もう、ここを通るのは、やめよう。
そう決めた。
あれ?
あの老人は、どうして私が見えたのだろう。
前回は、見えて当然だ、生きていたのだから。
が、私は、もういない。
二か月ほど前、布団の敷きパッドのゴムに足をひっかけて転倒。打ち所が悪くて、そのまま昇天した。
それはともかく。
がさつなようでいて、あの老人。
そんな力があったのか、侮れないな。
やっぱり、この道を通るのは、よそう。
これ以上、あの老人と、かかわりたくはない。
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