第6話 休日は幼なじみの彼女と海岸清掃とかしてる

 こんなにも全力疾走するのはいつぶりだろう。教室から体育館まで数十メートルの道のりが永遠にも感じられる。それでも僕は一秒でも早く綾恵さんの元に駆けつけなきゃいけない。

 綾恵さんはたぶん、高柳に脅されている。奴に何かしらの弱みを握られ、その代償として体を要求されているのだ。これまでもきっと何度も同じことが繰り返されてきたのだろう。

 こんなことは、許されない。許さない。女性を、綾恵さんを痛めつけることなんて、僕が絶対にさせない。

 レイプは寝取られじゃない。綾恵さんが喜んでいない寝取られなんて僕は望んでいない。興奮しない。なぜなら、舞から聞かされてきた寝取られ報告にそんなケースは一度も含まれていなかったのだから。僕の妄想に女性が嫌がっているシーンが刷り込まれることはなかったのだ。

 だから僕が綾恵さんを寝取らせるのは、凶悪ながらも決して女性をモノ扱いしない間男だけなのだ。高柳もそんな男に当てはまると見込んでいたのだが……どうやらそうではなかったようだ。

「いやっ……! やめてください、先輩! こんなことはもう終わりにしてください!」

「あぁ? 何言ってんだ、テメェ。騒いでんじゃねぇ」

 体育館に駆け込んだ瞬間、館内後方の扉の向こう――体育倉庫から、綾恵さんの金切り声と、ガラの悪い男の蛮声が聞こえてきた。高柳だ。身長百八十五センチ、筋骨隆々で、中学時代は喧嘩に明け暮れていたという噂もある。

 一瞬、躊躇してしまった。僕なんかが行って何ができる? 返り討ちにあうだけじゃないのか? ……クソ! どこまでクズ野郎なんだよ、僕は! この扉の向こうで綾恵さんの心が今にも殺されそうになっているというのに! 何で、何でこんなときに足がすくむんだよ! こんなことなら普段からもっと鍛えておけば――

「嫌ですっ!! 私には大事な人がいるんです! あんな写真、ばら撒きたいならばら撒けばいいじゃないですか! 奏君はきっと受け入れて――いやああぁ! やめて……っ、助けて奏君っ!!」

 ――自然と、体が動き出していた。恋人の声が、臆病な僕に足を踏み出す勇気を与えてくれた。扉を突き破ることに何の恐怖も感じなくなっていた。

「うおおおおおおおおおおおお!! 綾恵さんを離せぇぇぇぇぇ!!」

「うっそでーーす♪ 寝取られてませんでしたー! 脅されてませんでしたー♪ 初対面でしたー♪ あはっ♪ どうかな、奏君? 興奮した? おピュッピュしちゃっ――って、え? 奏君!?」

「高柳ぃぃぃぃぃぃぃぃぃ!! てめぇ、よくも綾恵さんを!」

「うおっ、何だこいつ!? やめろ、危ねぇだろ!」

 倉庫の中で佇んでいたツーブロックの男――高柳の腰にタックルの勢いでつかみかかる。振りほどこうと体をねじられたり腕をつかまれたりするが、決して離しはしない。

「綾恵さんに謝れ! 写真のデータを消して、二度と彼女に近づくな!」

「やめて、奏君! 違うの、嘘なんだって! 私、この人に何もされてないから!」

「え? ――は?」

 泣きそうな顔で駆け寄ってきた綾恵さんにワイシャツを引っ張られて、僕はやっと腕を緩め、高柳から離れる。

 気付くと、体操マットの上で僕と綾恵さんが二人、腰を下ろして向かい合う形になっていた。

「ご、ごめんなさい……実は今朝、奏君と舞さんがお話しているのを盗み聞きしていまして……何故か私とこの先輩がごにょごにょ……という話になっていて、しかも奏君が興奮されているようにお見受けしたので、これを利用しない手はないと思いまして……わざと思わせぶりな態度をとって奏君を騙したんです……この先輩は偽の決闘の果たし状で呼び出しただけでして……」

「つまり、綾恵さんは誰にも乱暴なんてされていないし、脅されたりもしていない、と……?」

「はい……もちろんエッチなことしまくりなんていう噂もデマです……ていうかそんな噂初めて知りました……」

「そ、そうだったのか……は、ははは……はぁ……」

 体中から一気に力が抜ける。座っている体勢すら保つのが難しい。

「す、すみませんっ、明らかにやり過ぎでしたよね……! 来てくれるとは信じていましたけど、奏君がこんなにも感情的になってくれるとは思ってもいなくて……」

「いや、やり過ぎっていうか、程度に関してどうこう言うつもりはないし、そもそも僕のためにやってくれていることに文句なんてつけられないんだけど……でも、危ないことだけはやめてくれ……っ。こんなことをして万が一君に何かあったら……っ」

「奏君……っ」

「僕、君が傷つくようなことで興奮なんてできないよ……無理やり乱暴されるのなんて嘘でもダメだよ……君が嬉しそうにエッチなことしているのが好きなんだ……レイプなんて、絶対に……っ」

「奏君……っ、ごめんなさい、私……っ」

 綾恵さんが涙を流して抱きついてくる。ためらいながらも僕もそっとその背中に腕を回す。

「ううん、謝らないで。僕も悪かったから」

「でもっ、私の嘘のせいで奏君だって大怪我するかもしれなかった……!」

「いいんだよ、君を守るためなら怪我なんていくらでもするさ。嘘だって、君が傷つくようなものでなければ、これからもたくさんついてくれ」

 そうだ、気にすることなんてないよ、綾恵さん。だって、僕も君に大嘘をついているんだから。

 本当は、レイプされていてほしかった。

 心から期待していた。君が教室で怯えた表情を見せてくれたときから。君が先輩に無理やり犯されることを。ずっと前から犯され続けていたことを。

 ずっとずっと勃起して、我慢汁を垂れ流していたんだ。君が喜色満面で僕にドッキリを告げてくるまでは。

 なぜなら僕は寝取られクズ野郎だから。

 君に渡したリストに載っているのが安全な男たちだというのは事実だ。意図的に強姦魔を差し向けるところにまでは僕も行きついていない。踏みとどまれている。

 そもそも心までも完全に誰かのものになってしまうというのが理想なのだ。レイプではそれは成しえない。ノリノリで寝取られていなきゃダメだというのも本心だった。

 本心だったのだ。つい昨日までは。

 僕は、君の笑顔に恋をしてしまった。

 仄かに染まるその頬に。僕の気を引こうと上擦るその口角に。からかうように細められるその目に。寝取られたなんて嘘をついて僕を煽ろうするその媚薬みたいな甘い声に。そんな小悪魔のような君の微笑みが恋しくて恋しくて恋しくて、永遠に僕だけのものにしたくて堪らなくなってしまったんだ。

 だからこそ、その笑顔を奪われたい。うしないたい。寝取られたい。二度とあんな風に笑えないよう、グチャグチャに壊してもらいたい。

 安心して。そのときはたぶん僕も壊れるから。壊れるために望んでいるのだから。

 ただ、結局のところ、僕はその一線を越えられないでいる。分厚い倫理の壁に阻まれている。でもそれはきっと、君のためを思ってではない。ただただ社会の常識というものに縛られているだけだ。どこまで行っても僕は臆病で情けなくて、おちんぽの小さいクズ野郎なんだよ。

「ったく。何だテメェら、そういうことかよ。要するにそのデカ乳女がオタク君に嫉妬されたくて打った狂言ってわけか。ガキどもが俺様を舐めやがって」

 すっかり存在を忘れていたチャラ男先輩が高圧的な態度で、抱き合う僕たちを見下ろしてくる。ていうか一人称がガチで俺様だった。面識のない僕のことをガチでオタク君呼びしてきた。

 え、でも、まさか……! ここからの大逆転劇が……!?

「や、やめろっ、高柳! お前がどんな残忍非道の暴力を振りかざそうとも、僕は命にかえて綾恵さんを守ってみせる!」「奏君……きゅんっ」

 さぁ、かかってこいよ! 今からでも遅くないぞ! 僕の蛮行をネタに強請ゆすってこい! 綾恵さんの体を要求してこい!

「何だこいつら……ンなことするわけねーだろ。俺様は女子供や自分より弱ぇ奴にはぜってー手を出さねぇ。ましてや性的な乱暴なんて……そんなクズみてぇな男は全員ぶっ潰す。だいたい俺様が愛してんのは昔馴染みの美沙子だけだしな」

「何言ってんだこいつ……きめぇ……」「なに遠い目をして照れているんですか、チャラ男というよりただの硬派番長じゃないですか」

「しかしテメェ、そこのオタク。やるじゃねぇか。ンな細ぇ体で俺にタックルとはよ。正直なかなかだったぜ。半グレの金属バットで頭やられたときの百倍は効いたぜ」

 なるほど、それでイカれたのか。そいつ僕に紹介しろ。

「ふっ、まぁ邪魔して悪かったな。あとは二人でせいぜい頑張れよ。男見せてやれ、オタク君。でもゴムはちゃんとしろよ? 愛し合ってるとは言え、まだガキなんだからよ」

 誰が避妊の大切さを説いてんだよ。お前は無責任に中出ししまくれよ。何のためのツーブロックだ。美容師さんが泣いてるぞ。

「本当に何だったんだ、あいつ……」

 へたれツーブロックがご丁寧にコンドームを三つ置いて倉庫から出ていき、残された僕と綾恵さんは揃ってため息をつく。こんなもの、僕には一生使い道がないのだ。つーかそもそもXLサイズとか僕のちんぽじゃユルユルなんだよ。くそっ、髪型通りなのはちんぽサイズだけかよ、あいつ。

「でも奏君、足の方は大丈夫なんですか……? 私に心配かけまいと我慢しているのかもしれませんが、そんな必要はありません。念のために病院に行った方が……」

「ん? 足? いやあの番長先輩、本当に軽く振りほどこうとしてきただけで、僕は何の暴力も受けてないし、ましてや足なんて使ってすらいないよ。大丈夫、大丈夫」

「え、でも。奏君、ここに飛び込んでくる前――その扉の向こうで、ずーーっと、立ち止まっていましたよね?」

「え……?」

 心臓が、早鐘を打つ。

 綾恵さんの頬が仄かに染まっていき、

「ここに走ってくるときに足を負傷してしまったからそこで一旦動けなくなってしまったんですよね? だってそれ以外の理由がないじゃないですか。奏君は、私がここでレイプされる寸前だって思い込んでいたわけなんですから」

 その両目が細められ、その口角が上擦り、

「動けなくなっちゃうくらい足が痛いのに、必死で我慢して助けに来てくれたんですよね。先生や他の男子でも連れてくればもっと簡単に事が済みそうなところを、わざわざ一人で、しかもあんなに体格が違う相手の腰に怯むことなくつかみかかって……蹴られてしまえばそれで終わりなのに、自分が惨めにボコボコにされるのも恐れずに……本当にかっこいいです……っ、奏君は私のヒーローですっ♪」

「――――き、気づいてたんだ……僕が、そこでずっと、立ち止まってたの」

「いいえ♪ 鎌をかけてみましたっ。あはっ♪」

 麻薬のような甘い声で、僕の鼓膜をくすぐってくる。

 全て、見透かされていた。僕が本当は君が襲われるまでの時間を稼いでいたことも、あえて高柳の反撃を受けて、最高に惨めな姿で、君が犯されるのを為すすべもなく眺めようと図っていたことも。

 足がすくんで動けなくなってしまったとか、喧嘩なんてしたことがなくて冷静になれなかったとか、いくらでも言い訳はできるのかもしれない。本当の僕を知られるくらいなら、頼りない男だと思われた方がはるかにマシだろう。

 でもそんな逃げ道は、君のその悪魔のような微笑みに悉く塞がれてしまった。逃げることの意味のなさを思い知らされてしまった。君の方が何枚も何枚も上手うわてだった。

 この子は初めから全部、わかっていたのだ。

「あ、あ、あ、綾恵さん……僕、は……」

「うふふ♪ いいんですよ――さすがです、奏君。大好きです♪」

「え……」

 綾恵さんが僕のことを、迷子の子どもを慰めるように優しく優しく抱きしめ、注射を嫌がる子供を諭すかのように優しく優しく言い聞かせてくる。

「うふふ♪ 何度も何度も言ったじゃないですか。奏君はどんな手を使ってでも私を寝取らせにくればいいって。私は何があっても寝取られないようにしますからって」

「で、でも、僕がやろうとしたことはさすがに、」

「自分の欲望に嘘をついちゃダメですよ。手加減なんてしても不完全燃焼に終わるだけです。だから私は自分の欲望にだけは嘘をつきませんし、手加減をするつもりもありません」

「それは……どういう……」

「あは♪ ごめんなさい、本当に。先ほども謝りましたけれど、改めて謝ります。たとえ奏君に『あれをやめろ』『これをやめろ』と言われたとしても。たとえ自分自身がやり過ぎだと感じたとしても。目的を達成するためなら私は永遠にブレーキなんて踏みませんっ♪」

「も、目的……?」

「もーっ。寝ぼけてるんですか? 奏君を絶対興奮させてみせるって、私、宣言したじゃないですか! 私でいっぱいおピュッピュさせてあげるって! そんなエッチなこと言うの死ぬほど恥ずかしかったんですよ……? 忘れないでくださいよ、ぷんぷんっ!」

「…………っ、だからって、限度が……」

「大丈夫ですよ、奏君がどんなことをしてこようと、私は絶対に寝取らせられませんから。何があっても寝取られない綾恵さんですから。永遠に信じ続けてください。私のことを信じ続けられているのなら、どんな手段を講じることにも迷いはなくなるはずです。赤信号なんて全部無視です! だから――レイプはダメとかクソつまんねぇこと絶対に言わないでくださいねっ♪ 大ちゅきですっ、ちゅーっ」

 綾恵さんが、その艶のある唇を僕の唇に重ね合わせてきた。思えば、昨日から散々ちゅーちゅー言っておきながら、これが初めてのキスだ。

 僕自身にとっても人生初めてのキスの味は、

「――ぐぅぁっ……!? だあああああああっ!」

 心臓を射抜かれるような、体を焼かれるような、雷に打たれるような――一生忘れられることはないであろう――激痛だった。

「あれれ? スタンガンって、こんなにぎゅぅーってくっついていても、こっちにはビリビリ来ないんですね。むぅ……奏君とイチャラブちゅっちゅしながら、一緒に『――ぐぅぁっ……!? だあああああああっ!』ってやりたかったのに……あはっ♪」

「……うぐぅ……う…………あぁぁ……」

 床を転がる僕を、綾恵さんは恍惚の表情で見下ろしてくる。

 ああ、クソが。何度見誤れば気が済むんだ。僕はとことん見る目がない。

 でもたぶん、今度こそ正解だ。

「ところで奏君! 実は、サプライズがあるんです……じゃじゃーんっ、跳び箱の中にクーラーボックスでーす♪ ヨーグルト持ってきちゃってましたー♪ うふふ♪ 奏君、楽しみにしてくれていましたもんねっ♪ それではダーリン、さっそく……あーん♪」

 悪魔が、天使のように笑った。

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