第52話 「月が綺麗ですね」
「ほら」
「ありがとうございます」
ベンチの上に散った桜の花びらをサッと払い、その上にハンカチを敷くと、ウェルジオは私をそこへと促した。
貴族の男性はこういう気遣いがとても紳士的だ。記憶を取り戻したばかりの頃は、こんな些細なところにも戸惑ったものだ、なんだか懐かしい。
「覚悟はしていたが、今年はまた注目度合いが違うな……」
「2号店のことがありますからね。すでに噂も広まってますし……」
同時に漏れたため息は、お互いにかすかな疲労を宿していた。
毎度のことながら、ホールでは次から次に声をかけられて、心身ともにくったくただ。
挨拶から始まり、用意したハーブメニューの説明、『ハーバル・ガーデン』で取り扱ってる商品の話題。中でも一番多かったのは、やはり近々開店予定の『ハーバル・ガーデン』2号店についての質問だった。
これらひとつひとつに笑顔で対応するのはなかなかに重労働で、何度経験しても、こればっかりはやはり疲れる。付き合ってくれるウェルジオには、本当に感謝しかない。
「招待客への挨拶は済んだんだ。しばらくはここで休んでいても大丈夫だろう」
「そうですね」
パーティーはまだ続く。休めるうちに少しでも休んでおいたほうがいい。
ふう、と小さく息を吐くと、夜の闇の中に静かに溶けていく。
春の夜は、まだ若干の冷たさを感じるけれど、火照った体には逆に気持ちいいくらいだ。
ザザッと音をたてて、屋敷から漏れる仄かな明かりに照らされた夜桜が揺れる。
十一歳の誕生日に、お父様がくれた桜の木は、あの頃よりもさらに大きくなり、ヴィコット邸のお庭の象徴のような存在になっていた。
アヴィリア=桜、というイメージを周りに持たれたのは、この桜の存在もあるかもしれない。
こんな風に、ウェルジオと桜の木を眺めるのは一体何度目だろうか。
「そういえば、あの鳥はどうしたんだ?」
「お部屋でお留守番させています。さすがに人が溢れかえっている会場に連れてくるわけにもいかなかったので」
ピヒヨに限って、どうこうされる心配はないと思うが、たくさんの人にもみくちゃにされてプッツンしたピヒヨが周りをどうこうしてしまう心配はあったからね。
あと、万が一にもピヒヨの正体に気づくものがいないとも限らないので、その対策を兼ねて……という意味もある。
留守番を言い渡されたピヒヨはめちゃくちゃ拗ねていた。多分今も部屋でふてくされているだろう。
(あとでちゃんとご機嫌取りしないと……)
じゃないと後々八つ当たりされかねない、主にウェルジオが。
何がいいだろう、やっぱり食べ物かな。ちょうど今年も桜の塩漬けが出来上がっていることだし、それを使って何か作ろうか。
(蒸しパンとかがいいかな……。たまにはしょっぱいお菓子っていうのもいいわよね。……あ、これもお店の商品にできるんじゃないかな? 多めに作ってお父様にも意見を聞いてみよう!)
なんてことをつらつら考える私。すっかり経営側の人間である。
――――♫、♪……
頭の中であれこれ考えていると、ホールのほうから楽団が奏でるチューニングの音が聞こえてきて、思わず視線を上げた。
もうすぐダンスタイムが始まる。
「もうそんな時間か、早いな」
「さすがに戻らないといけませんね」
「……今戻ったら逆に注目される気もするが」
ダンスタイムが始まった途端、パートナーとともに颯爽と現れる主役。まるでいつかの誕生日みたいだ。招待客から抜けられる生暖かい視線はさらに増すだろう。
「まだしばらくは戻らなくても平気だろう。周りの目を引いてくれる奴らもいることだし」
「そ、そうですね……」
言われてみれば確かに。
王子と公爵令嬢のコンビは会場内でもひときわ目立っていた。そもそも、主役であるにも関わらず、こうして会場内を抜け出してのんびりしていられるのも、周りの注目が彼らに移り、こちらへの注目が若干和らいだおかげなのだ。
彼の言う通り、もうちょっとここにいても大丈夫だろう。セシルとレグには後からぶーぶー言われるかもしれないけど。
(うーん、これは二人にもお詫びの品が必要ね)
アフターケアは大事だ。じゃないとしばらくネチネチ言われることになるだろう、主にウェルジオが。
その時、ザッとひときわ大きな風が吹いた。
桜の花が揺れて、ひらりひらりと風に乗って花びらが舞う。
月明かりに照らされた淡い花びらは、光り輝いているようにも見えて、どこか幻想的だった。
ホールでは、ちょうどダンスタイムに突入したのだろう。緩やかなワルツが聞こえてきて、まるで桜の花がダンスを踊っているかのようだ。
「きれい……」
その美しい光景を眺めていると、なんだか自分も踊りたくなってくる。
「ほら」
「え?」
そんな気分を見透かされたのか、隣に座っていた彼が立ち上がり、私の前に手を差し出した。
「ダンスなら、ホールでなくてもできるだろう」
やっぱり見透かされいてたみたいだ。
それはなんだか悔しくて、少しばかり照れ臭い。
「そうですね」
そんな気持ちを誤魔化すように、私は笑いながらその手の上に己の手をそっと重ねた。
二人同時に、一歩を踏み出す。
軽やかなステップは、風に舞う花びらのように。
桜の下のダンスホールは、とても空気が緩やかで、心はどこまでも穏やかだった。
「……先日、騎士団の訓練で、初めてヴィコット伯爵に一撃入れた」
「聞きましたわ、大奮闘だったようですね」
ふいに、ウェルジオが口を開いた。
語られたのは、数日前、やけに興奮気味のセシルから聞かされた内容と同じこと。
ウェルジオは今現在、アースガルドで三本指に入ると言われるほどの実力を持つ騎士であるが、その中でも一番強いとされているのが、王国騎士団将軍を務める我が父、ロイス・ヴィコットである。
普段はお母様の尻に敷かれてたり、周囲の行動に胃を痛めてたりする姿ばかりが目立つけど、実はアースガルドでいっちばん強い人なのだ。
そんな父からは、一本取るどころか、一撃入れることさえも難しいと言われている。
だがつい先日、その父を相手に、この青年が一撃を入れた。
手合わせを見ていた他の騎士たちはたいそう盛り上がったらしいし、その話を私に教えてくれたセシルの興奮ぶりもとにかくすごかった。よほど兄の快挙が嬉しかったらしい。
ちなみに父本人は、将来有望なものが育つのは嬉しいと口では言っていたが、その顔はひどく悔しそうだった。
まだまだ若手と言われるウェルジオに一撃入れられたのが、そんなに悔しかったんだろうか。お父様ってそんなに負けず嫌いだったかしら? いや、ウェルジオに関しては、わりと昔からそうだったような気もするけど。
「……それくらいはできないと、認めてはもらえないだろうからな」
「何がです?」
騎士にとって、自分よりも強者を相手に一撃入れるというのは、やはり大きなことなんだろうか。
騎士でも男でもない私には、ちょっと分からない世界だ。
ピタリ。
私の問いに答えることなく、ウェルジオは突然動きを止めた。
「ウェルジオ様?」
いきなりのことに驚いて、私は彼の顔を見上げる。
その後ろで煌々と輝く月の光が影を作り、表情を伺うことはできなかった。
そういえば、今日は満月だ。
なんだか本当に、いつかの誕生日の夜みたい。
「…………き、が」
ウェルジオが口を開いた。
心なしか、少し震えているような気がしたのは、気のせいか。
「…………月が、綺麗だな……」
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