第27話 闇の精霊
「“闇の精霊”……?」
「……はい。おそらく、間違いないかと」
緊張感漂うシンとした部屋に、私とウェルジオの声が静かに響く。
白いレースのカーテンが揺れるこの部屋はセシルの私室だ。
いつもは温かみのあふれるこの部屋も、今は一足先に冬が来たような冷たさを感じる。
私たちの目の前には力なくベッドに横たわるセシルの姿。
触れるその手にいつものような温度はなく、その面差しはまるで人形のように、白い……。
何度声をかけても目を開けることのないセシルは、それでも確かに息をして鼓動を刻んでいる。それだけが救いだった。
――――“闇の精霊”。
精霊に関して調べる中で知った、その存在。
彼らは個体としての姿を持たない意識体。
けれど、はるか昔よりずっとその存在だけは知られていた。一説によれば人類と共に生み出されたものだとも。
闇が意識を持って形を成したのだとも、あるいはより集まった負の集合体であるとも言われているが、その真相は未だ明かされていない。
意識体としての存在でしかない彼らは他の生き物と混ざることがなく、ただ漂っているだけのモノでしかこの世に在ることができない存在だった。
だからこそ、彼らは求めずにはいられない。
己の目となり、手となり、足となる、肉体を。
「彼らの多くは人の生気を糧に生きています。精神に干渉し、心を弱らせて喰らう。そうして抜け殻となった肉体を己が取って変わる……と、そのように記載されていました」
「……っ」
「……先ほど動いた、セシルの影のような“ナニか”……。まさにあれと同じような絵が書物にも描かれてました……。間違いありません」
ウェルジオがくっ、と顔を歪めた。
それを見つめながら、私は先ほどの光景を思い出していた。
セシルが気を失う直前、その身を飲み込むように轟いた黒い靄。
あれが、闇の精霊……。
ピヒヨとはまるで違う。背筋が凍りつくようなおぞましささえ感じた。
精霊を知る。そういう名目で書物を開き、半分怖いもの見たさのような好奇心で書物をめくった。
見ておいて良かった。知らないままだったら、きっとこんなすぐに原因を突き止められなかった。
「セシル……」
額にかかる前髪をさらりと払う。今は閉じられたエメラルドグリーンの瞳は少しも開く気配がない。
(どうしてセシルに……)
闇の精霊は確かに人の心に巣食うが、誰でもいいわけではない。彼らが付け入りやすいものを持つ者だけ。
“誰にも言えないような秘密”を心に抱えている者だけだ。
それをたった一人で抱え込むことの辛さや葛藤。そんな心の隙をついて彼らは巣食うのだ。
(セシルの、秘密……)
いつも明るくて元気いっぱいで、一緒にいるとこちらまで元気になってくる。
そんな彼女の、誰にも言えないような秘密とは何なのだろう。
普段の姿からは何かを抱え込んでいるようには見えなかった。
(でも……)
先程の彼女の様子……。
あれを考えると、その秘密とやらには少なからず“私”が関係しているのではないかと思える。
私の何かが彼女を追い込んでいたのだとしたら。
それらをひた隠して、一切悟らせることもなく、今まで一緒にいてくれたんだとしたら……。
(セシルは、私と一緒にいるのは苦しかったのかしら……)
だから、こんな距離ができてしまったんだろうか。
そんな思いを抱えていることも、密かに苦しんでいたことにも、まるで気づけなかった。
あんなに一緒にいたのに。近くにいたのに。そばにいたのに。
こんなになるまで、ちっとも気づかなかった……!
(……ごめん、セシル)
自分の不甲斐なさにきつく手を握りしめた。
今の自分には、セシルの手を握りしめる資格すらないような気がして。
「よせ、傷がつく」
不意に、握りしめた手のひらに触れるぬくもり。
うつむいていた顔を上げれば、心配そうにこちらを覗き込むウェルジオの顔があった。
促されるように込めていた力を抜けば、手のひらに食い込んだ爪痕がくっきりと残った。
「僕は一度城に行く。父上に話を通して、精霊の文献を詳しく調べる。君はこのまま屋敷に戻れ」
「でしたら私も一緒に……っ」
「駄目だ。戻れ」
「ですが……!」
「自分の顔を鏡で見てみろ。そんな状態でついて来られても迷惑だと言ってるんだ」
厳しい言葉に思わず口をつぐむ。
鏡なんて見なくても今の自分がろくな表情をしていないことなど分かりきっていた。
「焦ればその分冷静さを欠く。緊急な時ほど冷静にならなければいけない。今の君にはそれが全くできていない」
それでも……と食い下がろうとして口を開きかけた私を、彼は遮るように言葉を重ねた。
その眼差しはとても強くて、有無を言わせないような力強さがあった。
彼は、いつも正しい。
セシルが倒れた時は一緒に声を上げて、精霊の話にはきつく唇を噛んでいたのに。
本当は誰よりも一番、心が荒れ狂っているはずなのに。
いつの間にか、まっすぐ凛と前を向いている。崩れることなくしっかりと立っている。
こんな時、この人をとてもすごいと、強い人だと思う。
同時に私はまだまだ未熟な甘ちゃんだとも。
「幸いにも君のおかげで原因ははっきりしている。調べるにもそう時間はかからないはずだ。セシルのことは僕に任せろ。だから君は安心して家に帰っていろ」
その声音には、ここからすぐにでも遠ざけたいという思いが滲み出ていた。
姿は見えなくても、闇の精霊はまだセシルのそばにいる。
ピヒヨがずっと警戒するようにセシルから目を離さないのもそのせいだ。
彼が、私をここから遠ざけようとするのも、きっと……。
(セシル……)
できるなら、離れたくない。目が覚めるまでそばにいたい。でも。
(ここにいても、私にできることなんて……、何も、ない……)
きゅ、ときつく唇を噛めば、かすかな鉄の味を感じた。
「……分かりました」
***
パタンと音を立てて馬車の扉が閉まる。
律儀にも見送るために一緒に外まで来たウェルジオが外鍵を閉めてくれた。
単に、きちんと帰る姿を確認しておきたかっただけかもしれない。
「……では、失礼いたします」
「ああ」
不意に視線を上げれば、セシルの部屋の窓が目に映る。
あの風に揺れるカーテンの向こうで、今もセシルは……。
そう思うと顔が歪んだ。
「心配するな。セシルの目が覚めたら真っ先に君に知らせてやる」
「はい、ありがとうございます……」
短い挨拶の後、馬車はゆっくりと進み出した。
後ろに遠ざかるバードルディ家の屋敷を眺めながら思う。
どうして、こんなことになったんだろう。
本当だったら今頃、いつもみたいにお茶を飲んで、お菓子を食べながらおしゃべりしてたはずだったのに。
「ぴぃ……?」
うつむいたままの私を心配してか、ピヒヨがこてんと首を傾げながら気遣うような鳴き声を上げる。
「……ピヒヨ。ごめんね、お前はずっと警告してくれてたのにね……?」
ピヒヨは闇の精霊の存在に気づいてた。
だからあんなにも激しく鳴いていたんだ。危険だから近づくなと、ずっと教えてくれてた。
私はそれにも気づかなかった。今日は変だなってただそれだけで済ませた。
もっと早く気づけていたら、こんなことにはならなかったかもしれない。
いつも、いつだって、あの子の存在に助けられた。
あの子がいてくれるおかげでこの世界の日々はいつも明るくて楽しかった。
でも、私は?
私には何か、あの子の助けになれたようなことがあったのかしら。
……ポタリ。
頬をつたった雫が握りしめた拳の上に落ちる。
情けない、なんて情けないの。
そばにいることもできず、こんな風に泣くなんて。
こんなんじゃ、帰れと言われて当たり前じゃない!
「……っ」
「ぴっ⁉」
私はおもむろに、バシンっと力いっぱい自分の両頬を叩いた。
驚いたピヒヨがビクリと飛び跳ねる。
頬が痛い。けれどその痛みが今の私を叱咤する。
(しっかりしよう、泣いてる場合じゃない)
原因が精霊なのは分かってる。だったら私にも何かできることがあるはずよ。
(とはいえ、精霊に関するものは城に行かなきゃ見れない……。今行ったら確実にウェルジオ様と鉢合わせることになる……)
それでは結局再度追い返されて終わりだ。
(闇の精霊は心の隙をつく……。セシルの心の隙……それが分かれば。何だろう、絶対私に関係するもののはずよ)
考えろ。考えろ。何か、何か思い当たることはないか。
“――――思いださないで!”
“――――思いだしたりしないでっ‼”
(
セシルがあんなにも取り乱すほどの“何か”。
考えてみても思い当たるものは何もない。
(もしかして、
セシルは私が前世の記憶を取り戻す前からの、アヴィリアが性悪令嬢だった頃からの友人だ。今の私に思い当たるものがなくても、前のアヴィリアにならもしかして……。
(いや、待って)
“――――私のせいであなたは車にっ”
セシルは確かにこう言った。
(車……、セシルは車を知ってた。つまりセシルもレグと同じように向こう側を知ってるってことだわ。それに、この言い方はまるで……)
私の前世の死因を、知っているような言い方ではないか――――?
セシルは、“咲良”を知っている……?
じゃあ、何かあるのは
「……あっ!」
その時ふと思い出したことがあった。
これが正解かどうかは分からない。けれど確かめずにはいられない。
今はほんの些細な手がかりでも掴んでおきたい。
「ねぇ、待って! お屋敷の前に行って欲しいところがあるの!」
私は慌てて立ち上げると馬を操る従者に声をかけた。
急に窓から顔を出した私にびっくりしたようだが、すぐに持ち直しどちらへと尋ねてくるあたりがプロだ。
「アースガルド神殿へ――――!」
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