第15話 蝶の羽ばたきは少しずつ……
その後、ファンタジー要素満点の内容に思わず熱中してしまったアヴィリアが本から視線を上げる頃には、もうすっかり日が傾き始めていた。
その間ずっと付き合わせることになってしまったウェルジオに仕切りに謝っていたが、たかが数時間ずっと立ち続けることなどウェルジオにとっては造作もないことだった。
「その程度で音を上げるようでは城勤めの騎士など務まらん」とのことらしい。
申し訳なさそうにしていたアヴィリアが馬車に乗り、帰路についたのを見送った後、ウェルジオも早々に帰宅した。
「お帰りなさいませ、ウェルジオ様」
「お帰りなさいませ」
「ああ」
屋敷に足を踏み入れれば出迎えたメイドたちが揃って同じ角度で頭を下げる。
こういうところに教育がしっかり行き届いているようだと感じる。
「坊ちゃま」
そのまま足を進めるウェルジオの背後から新たな声がかかった。
「お帰りなさいませ。本日もお勤めご苦労様です」
振り返れば、シワひとつないピシッとした執事服に身を包んだ初老の男性がこれまたメイドたちと同じ角度で頭を下げる。
「……じい。何度も言うがそろそろその“坊ちゃま”はよしてくれ……」
「これは失礼。しかしながらじいにとっては坊ちゃまはいつまでたっても坊ちゃまですから」
どんな理由だ。ウェルジオは思わず不満に眉を寄せる。
父が自分と同じくらいの年の頃にはすでに執事としてこの家に仕えていたと言う彼はウェルジオやセシルにとっては祖父のような存在だった。
そのせいかなぜかいつまでたっても頭が上がらない相手でもある。成人を迎えた辺りからその呼び名をやめてくれないかとそれとなく繰り返し言っているのだが、残念なことにいつもホケホケと笑って流されて終わる。
以前父から聞いた話では自分も公爵位を継ぐまではそう呼ばれていたらしいから、多分今回も聞き入れてはくれないだろう。
「ときに坊ちゃま」
ほらな。早速だ。
「お食事の用意も出来ておりますが、すぐにお召し上がりになりますか?」
「ああ、頼む。……そういえばセシルは部屋にいるか?」
「はい、自室で休んでおられます。本日も朝からお忙しそうにしておられましたので」
「先に顔を出してくる。準備ができたら呼んでくれ」
かしこまりましたと優雅に頭を下げるじいの姿を横目にウェルジオはせかせかと足を進めた。
ニ階の端、南向けの日当たりのいい大きな部屋がセシルの部屋だ。
――――コンコン。
「セシル。僕だ。入る……ぞ……」
数回のノックの後、特に返事も待たずに扉を開け部屋の中を覗き込んだウェルジオは即座に眉をしかめた。
ぐでーーーーん。
文字にするならそんな感じだろうか。
赤い大きなベルベットのソファーの上に華奢な手足をだらしなく伸ばしてセシルが力なく寝そべっていた。
「……おい。さすがにはしたないぞ。誰か来たらどうするんだ」
「おかえりなさいお兄様ー。人払いはしてるから、だいじょうぶよぉー……」
寝そべったままの姿でひらひらと手を振って答える。
口調こそ呑気だがその声にはいつものような覇気がなかった。
「もうちょっとの間だけ勘弁してぇ……。朝からずぅっとお母様の呼んだ仕立て屋が変わる変わるやってきて、延々と着せ替え三昧だったのぉ……」
それはきっついな。
なるほどこの状態も止むなしとウェルジオは納得した。
仕立て屋を屋敷に呼んでの衣装合わせは基本、本人は鏡の前から動けないものだ。
じっとしていることが嫌いなセシルにとっては苦痛の時間でしかないだろう。
ウェルジオはふぅとひとつ息を吐いてそれ以上の小言は飲み込んだ。
「今日、城で彼女に会った」
「アヴィに? お城で?」
「精霊に関する書物を読むためにな。今となっては城の書庫くらいにしか残ってないからな」
何とも不似合いな場所にいるなと思えば理由はいかにも彼女らしかった。
「お前のことを気にしていたぞ。最近顔を出せていないだろう?」
「ほんとに? 心配かけさせちゃったのね……。ん〜、でももうしばらく時間が取れなさそうなのよねぇ……」
私もアヴィに会いたい、アヴィのお茶が飲みたいと、うーうーうなり始めたセシルに苦笑が漏れる。
声が聞きたい抱きつきたい匂い嗅ぎたいと内容がだんだん怪しくなっていったのはスルーする。僕は突っ込まないぞ妹よ。
「会う時間は取れなくても、話くらいはできるだろう。せめて連絡くらい取ってやったらどうだ?」
「そうね。ちょうど便利な道具もあることだし……。レグにはほんと感謝しなくっちゃ!」
「…………」
「何?」
「……いや、あの道具を作るために付き合わされた時のことを思い出してな……」
急に明後日の方向を向いて遠い目をしだした兄に何事かと問えば、帰ってきた答えは何とも心痛を察する内容だった。
さりげなく胃をさする姿が痛々しい。
――――コンコン。
すると、扉の外から短いノック音が聞こえ、一人のメイドが顔を出した。
「失礼いたします。ウェルジオ様、お食事の準備が整いました」
「ああ、すぐ行く。……じゃあ、後はもうゆっくり休め。連絡を取るならあまり遅い時間にならないうちにしろよ」
「分かってるわよ」
小さな小言を残してメイドと共に扉の向こうへ消えていく兄の背中に小さく手を振って見送った。
少しずつ遠ざかっていく足音を聞きながら、セシルは知らず口元を緩ませた。
「ふふっ、あのお兄様がアヴィのことを気遣うなんてね……」
本当に変わったんだ。自分の知っているストーリーが。
そう思うと、セシルは胸が熱くなる思いだった。
セシルの望み。セシルの願い。それはいつだってひとつ。
『アヴィリア・ヴィコットの幸せな結末』
それだけをひたすらに求めてきた。ずっと、ずーっと。
でも、もう大丈夫だ。今のアヴィリアには護ってくれる存在が沢山いる。
そこにウェルジオが入っていることがセシルは純粋に嬉しかった。今のウェルジオならば、きっとアヴィリアを全力で護ってくれる。
だからもう、大丈夫だ。
自分の知る彼女の結末がやってくることはない。
それが何よりも、泣きたくなるほどに、ただただ嬉しかった。
自分の望んだ結果だ。願いが叶ったのだ。
――――――――……なのに。
「……どうして」
どうしてこんなに不安になるのだろう。
自分の知る道筋からあまりにも離れてしまったからだろうか。
これから先が全く分からないということは、こんなにも恐ろしく感じるものなのか。
ううん。きっと、そうじゃない。
“――――私たち、それより前に会ったこと、あったかしら…………?”
「…………っ」
耳の奥でよぎった声を遮るように、セシルはソファーの上でくるりとまるまり、自分の体をかき抱くように強く抱きしめた。
嫌よ。やめて。お願いだから思い出さないで。
私に気づいたりしないで。
ずっと、このままでいたいの。
いやだ。やめて。ねぇアヴィ、お願いだから……っ。
『――――あなたのせいで死んだのよ!!』
「うぁ……っ」
ああ、声が聴こえる。私を責める声が。
もうずっとずっと、頭の奥で。
繰り返し繰り返し、お前のせいでと叫んでいる。
ボロボロとこぼれ落ちる涙がソファーを濡らす。
抱きしめる腕がガチガチと震えて爪が皮膚に食い込み痛みを訴えても、そんなことはどうでもよかった。
『お前のせいで』
『お前なんかを助けたりしたせいで』
『痛かった』
『苦しかった』
『みんなお前が悪いのよ』
やめて。もう聴きたくない。
いやだ。ねぇアヴィ、お願い。お願いだから……。
私を嫌いにならないで――――……。
ゆらり、ゆらり。
ランプに灯されたオレンジ色の灯りがほのかに揺れる。
彼女の瞳と同じ。暖かなお日様の色で。
ゆらり、ゆらり。
灯りで作られた影が壁の上でダンスを踊る。
それはやがて、意志を持つかのようにずるりと形を変え、セシルを覗き込むようにして。
――――――にやりと嗤った。
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