第9話 遠い彼の地の君を想う

 


「母上、おかえりなさい」

「ただいま、レグ」


 ベラが日課である神殿での祈りから戻ると、息子のレグがその帰宅を迎えた。

 ベラ、――――――ベラトリックス・アースガルドは目元を覆っていたヴェールを外し、その奥に隠れていた綺麗な紫水晶アメジストの瞳を息子へ向けて楽しそうに微笑んだ。


「今日神殿であの子に会ったわよ」

「……それを見越して行ったんでしょうに。アヴィに変なことしてないでしょうね?」

「あらあらあらあら失礼なこと言うのはこの口?」

「いひゃいいひゃい」


 うふふふふと上品に笑いながらも頬を抓る力は一切容赦ない。


「まったく伯爵といいあなたといい……私を何だと思ってるのかしら」


 ぷりぷりと肩を怒らせながら手を離したベラに、解放された頬を優しくさすりながらレグは思った。


(なんで俺の周りの人たちって、みんな俺の扱いが雑なんだろう……)


 遺憾ですとでも言いたげだが、もしもこの場に彼に散々振り回された人たちがいたら皆同じことを思っていただろう。

 自分の胸に手を当てて今までの行いを振り返ってみろ、と。


「そんな心配しなくても大丈夫よ。あの子、最後まで私のことに気づかなかったみたいだし」

「でしょうね」


 自国の王子のフルネームさえ記憶に止めないような子だ。本当にこの手のことに全く興味がないんだな。

 そういうところも母的には好印象だったようなので何よりだが。


「あの子にね、レギュラスのことを話してみたの」

「母上!」

「行方知れずになった息子がいるということだけよ。名前も出していないから気づいてないと思うわ」


 悪びれない様子の母にレグは不満げに顔を歪めた。

 ベラはそんな息子の肩を抱いて、まぁまぁと宥める。


(伯爵からも止められてたはずなのに……)


 彼女が不死鳥の主になったと聞いて、母はすぐにでも会わせて欲しいとロイスに頼んだ。

 けれど彼はそれになかなか頷いてはくれなかった。


 ベラがアヴィリアに会って何を聞きたいのか。言われるまでもなく分かっている。

 精霊によって連れ去られた第一王子レギュラスの居場所。そしてその安否を。


 だがそれをアヴィリアが答えられるとは思えない。あの子はただ精霊に懐かれたというだけの普通の子だ。

 精霊の力を使おうなどと考えてすらいない。むしろ一生気づかれずにひっそりと過ごしていきたいとすら考えている。

 何より、レギュラス王子の真相は国の上層の一部のみが知る極秘事項。

 彼のことを尋ねるのならば、それをアヴィリアには話さなければならなくなる。

 精霊の主などという肩書きを背負ったばかりなのに、そのせいで国の重要機密まで知ってしまうとあっては、背負うものの重さに潰されかねない。

 だからこそロイスは時間の猶予をもらった。レギュラスのことは折を見て自分から娘に尋ねるから、と言って。


 もちろんベラは渋った。会うくらいいいじゃないかと。

 ロイスとてベラがアヴィリアに何かするとは思ってはいないが、息子を思う母の執念が暴走しないとも限らない。それが万が一にでもピヒヨの逆鱗に触れでもしたら元も子もない。

 実際に息子を奪われたベラもその説得には納得するしかなかった。だからこそ無理やり城に呼び出すこともできなかった。


 それでもやっぱり息子に繋がる唯一の手がかりを簡単には諦めきれなくて。

 アヴィリアが神殿に祝福を受けに行くだろう日を狙って自分から訪ねたのだ。


 この行動力はさすがに我が母とレグも思わざるを得ない。

 まさに自分も同じことをしているのでよけいに。


「……精霊様がね。あの子は無事だと、言ってくれたのよ……」


 突然告げられた内容にレグは思わず目を見開いて母の顔を見上げる。

 綺麗な紫色の瞳にはうっすらと膜が張っていた。肩に触れる母の手がか細く震えている。


「何気ない会話の中だったけど……、あの子が、無事で、元気でいるはずだと……、そう言った言葉に、精霊様は確かに頷いたのよ……っ」


 ベラの瞳からはとうとう涙がこぼれた。


 きっとアヴィリアは何も気づいていないだろう。

 精霊は愛する主に嘘などつかない。たとえそれがどんなに小さく、ささやかなことであったとしても。


 だから。レギュラスは無事だと、どこかで元気で幸せでいるはずだと言ったあの言葉にピヒヨが頷いたというのなら。


 それはきっと限りない真実。


「無事でいると、元気でいてくれると分かっただけでも十分よ。やっぱり会いに行ってみて良かったわ」


 息子が消えて十六年。その存在を想わない日は一日たりとてなかった。


 どこにいるの。無事でいるの。元気でいるの。どうしているの。

 今、何をして、何を思っているの。


 毎日毎日そんな思いが胸を締め付けて。せめて一目と、ずっと願い続けてきた。

 そんな思いが今日、確かに報われたのだ。


「そうですか……。よかった……」


 そんな母の言葉にレグは心からそう思った。


 レグは兄に会ったことはない。記憶もない。自分が産まれたときには、既にいなくなっていたから。

 だからレグにとっての兄の姿は周りの人間から聞いた情報で形成されていた。


 自分と同じ黒い髪とアメジストの瞳。

 生まれながらに精霊に愛された『フォーマルハウト』

 誰もがその誕生を喜び、誰もがその存在に国の素晴らしい未来を想った。


 そんな話を幼い頃からよく聞かされた。

 周りはきっと、兄について何も知らない自分を思って教えてくれたのだろうけど。

 幼い自分は兄の話を聞くのはあまり好きではなかった。


 自分と同じ髪と瞳。同じ血を引いた兄弟のはずなのに。

 兄は精霊に選ばれた愛し子で、自分はごく平凡な子供。

 健康な体を持って生まれた兄に比べて、病弱な体を抱える自分。


 嫌でも比べてしまうのだ。存在からして特別だった兄と。


 自分のミドルネームは兄からもらったもの。

 周りが自分のことを“リオン”ではなく“レグ”と呼ぶたびに、そこに求められているのは自分ではないように思えた。

 けれど、そんな思いを口にすることもできなくて。一人でずっとベッドの中でうずくまって抱え込んできた。


 そんな時にあの夢を見たのだ。


 夢のおかげで自分は変わった。

 ベッドを抜け出して自分の足で走れるようになった。

 気兼ねなく話し合える親友を得ることができた。

 狭かった世界は無限に広がった。


 その折、こんなことがあった。


「名前の加護があったかしら」

「え?」

「昔はね、体の弱い子供が生まれた時に親兄弟の中からふたつめの名前を貰うと言う風習があったのよ。そうすると丈夫になって長生きできる、と言われているの」



 ――――“レギュラス”

 精霊の加護を受けた一等星の名前。



「きっと、あなたを護ってくれると思ったの」


 丈夫になった自分を見て母が言った言葉。

 その言葉は自分でも驚くほどすんなりと、心の中にすとんと落ちてきた。


 そうなんだろうか。自分はずっと心の中で兄に対して劣等感を感じていたのに。

 特別すぎる兄が羨ましくて、妬ましくて、仕方なかったのに。

 そんな感情を抱いてるような弟を。見たことも会ったこともない、存在さえ知らないような、そんな弟を。護ってなんてくれるのかな。


 でも、もし。

 もしも本当に、そうだったのだとしたら。


(それは、嬉しいな……)


 その瞬間、心の奥底から湧き上がってきた。くすぐったくて、泣きたくなるような暖かい気持ち。

 それをレグは今でもよく覚えている。


 レグが“レグルス”という名を心から受け入れた瞬間だった。

 今ではこの名前と共に在ることで、いつでも兄がそばにいてくれるような気さえする。


「神殿に行くのは今日で終わりにするわね」

「え、よろしいんですか?」

「ええ、あの子の無事が分かっただけでも十分だもの」


 精霊が護ってくれるはずだと思ってはいても、生きているのか死んでいるのかすら分からない現状は地獄のように苦しかった。

 けれど無事なら、元気でいてくれるなら。

 いつか必ず逢えると、そう希望を持ってこれからは生きていける。


「……ああ、でも。無事と分かったら分かったで他のことも気になってくるわね」

「母上」

「ちゃんとご飯食べてるかしら、一人で寂しい思いはしてないかしら、ちゃんとあったかくして寝てるかしら、あと」

「母上」


 十分だとのたまった舌の根も乾かぬうちに心配が暴走を始めた母の姿に息子は呆れるしかない。

 結局、ひとつの悩みが解決したところで別の悩みが新たにできるだけじゃないか。


「母上、心配いりませんよ。兄さんなら大丈夫にきまってます。なんたって俺の兄さんですからね!」


 とりあえずは落ち着けさせるに限ると、レグは自分に言える精一杯の言葉で母に胸を張った。


「……」

「母上?」

「……今まで聞いたどの言葉より納得している私がいるわ……」

「どういう意味ですか」


 自分の胸に手を当てて今までの行いを振り返ってみろ。


 思った以上の説得力をもたらすこととなったレグが唇を尖らせてぶーたれていると、ベラはふと思い出したように口を開いた。


「そういえばあの子、神殿で体調不良を起こしたみたいだけど大丈夫だったかしら?」

「早く言ってくださいよそういうことは!?」


 このマイペースさ。さすが我が母である。


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