第8話 祈りの先

 


「――――大丈夫。落ち着いて」


 すると、そんな私に横からかけられる、静かな声……。


「ゆっくり息を吸って、空気が全身に染み渡るように」


 うっすらと瞳を開ければ、視界の端に落ち着いた色合いのドレスの裾。


(誰……?)


「深く息を吸って、そぅっと吐いて。大丈夫。ね?」


 ポンポンと、優しく背中を撫でるように叩かれる。

 まるで幼い頃、母にそうしてもらっていた時のように。


 どこか優しくて、不思議と安心できた。


 呼吸が落ち着いていく。遠のいていた思考が徐々に戻ってきて、最後に大きく息を吐いて肺の中を空っぽにした頃には、蝕んでいた頭痛も治っていた。


「もう大丈夫ね」

「……ありがとう、ございます」


 お礼を言うとその女性はにっこりと笑った。

 目元は薄いヴェールで覆われていたが、上品な赤い口紅が塗られた唇が綺麗な弧を描いている。


「どうぞ、こちらに。せっかくのドレスが汚れてしまうわ」


 窓のそばで蹲っていたままの私の手を優しくひいてソファーへと導いてくれる。

 隣に腰掛けた女性は「医者を呼びましょうか?」と聞いてくれたが、丁重に断った。


「でも……」

「本当に大丈夫です。ちょっと頭痛がしただけで……、もう収まりましたので」


 心配をかけないように笑顔でそう言えば、目の前の彼女もそれ以上は何も言わなかった。


「無理はダメよ。何かあったらすぐに言ってちょうだい」


 しっかり釘は刺されたけども。


「ありがとうございます。あの、私、アヴィリアと申します」


 名前だけで家名を名乗らなかったのはわざとだ。

 このような場所であえて身分を示すことはないだろう。


「私はベラよ」


 案の定、彼女もそれに乗ってくれた。優雅な所作や身のこなしから察してはいたが、彼女もそれなりの貴族だろう。


「アヴィリアさんは十三歳くらいかしら? こちらには祝福を受けにいらしたの?」

「はい。先日成人を迎えたばかりです」

「あらあら、いいわね初々しくて」


 そう言う彼女は三十代後半といったところだろうか。頬に手を当ててコロコロと笑う姿は優雅な貴婦人そのものではあるが、年上のお姉様と言ってもいいくらいの雰囲気があった。


「ベラ様はこちらへはお祈りに?」


 そう問いかけたのは反射的に。

 けれどその途端、彼女の表情は明らかに沈んだ。


「……ええ。随分昔、いなくなってしまった大切な子の無事を祈っているの」

「……あ、すみません……」


 思いもよらなかった言葉に私は慌てて失言を詫びた。しかし彼女はさほど気にしていないのか、小さく首を振るだけに届めてくれる。


「……お子様、ですか?」

「ええ、息子がね。突然いなくなってしまったの……。今どこでどうしているのか、無事でいるのかさえ分からなくて。……周りにはもう諦めろ、なんて言う人も多いのだけど……、お腹を痛めて産んだ我が子だもの。諦めるなんてできないわ。それでこうして、よくアステル様に祈りを捧げているのよ。どうかあの子が無事で、元気でありますように、って」


 薄く微笑んだ彼女は、儚いほどに美しかった。


「…………」


 かけられる言葉が見つからない。ベラの言葉に向こうの両親の姿が重なる。

 自分もこんなふうに二人を悲しませてしまったんだろうか、と。

 そんな感情が胸を締め付けて。


「ぴ。ピチュ!」


 そんな私の代わりとでも言うように声を上げたのはピヒヨだった。


「ピッピチュ、ぴーーちゅ!」

「あらあら、なぁに?」

「ピチュ!」


 パタパタと何かを訴えるように鳴き声を上げていたピヒヨは、不意に私のほうを見上げ、くりっとした瞳でじっと見つめてくる。


 視線というものは、時に言葉よりも雄弁だ。


「きっと、大丈夫だよって言ってるんですよ」


 なんとなく、この子の言いたいことが分かった。


「あなたの息子さんは、きっとどこかで元気で、幸せでいますよ、って」


 それは、私が二人に伝えたい言葉と同じ。



 一緒にいられた時間は楽しかった。幸せだった。

 悲しませてごめんね。泣かせてしまってごめんね。

 想ってくれてありがとう。


 大丈夫。私はちゃんと幸せだよ。



 きっと、この人の息子さんもそう伝えたいと思ってくれてるはずだから。


「ぴっちゅ!」


 私の言葉に肯定するようにピヒヨが体全体を使って大きく頷いた。



 ――――――ポタリ。



「……え」


 雫の落ちる音。

 気づけば目の前の彼女は声もなく静かに涙を流していた。

 その意味を察して、慌ててハンカチを差し出す。


「あ、あの、すみませんっ。無神経なことを言ってしまって……」


 自分の軽はずみな行動をこれほど恥じたことはない。

 この人からすれば、何の根拠もない安っぽい気休めの言葉にしか聞こえないだろう。

 息子の身を案じて祈ることしかできない母親に対して、簡単にかけていい言葉じゃなかった。


「……いいえ、違うのよアヴィリアさん。嬉しかったの……」


 ベラは涙を拭いながら首を振った。

 そしてゆっくりと顔を上げると、今度ははっきりと分かる笑顔を浮かべてくれた。


「ありがとう、あなたたちがそう言ってくれるなら、あの子はきっと大丈夫だわ」


 さっきまでの切なさの滲んでいた悲しい笑顔とは違う、心から安堵したような、そんな笑顔。

 その様子にこちらも思わず胸をなで下ろす。


「ふふ、やっぱり今日ここに来てよかったわ」

「え?」


 きょとんとする私を見て、ベラはまたコロコロと笑みをこぼす。


「親バカさんったら渋ってなかなか会わせてくれないから……」

「親バカ?」

「あらやだ私ったら、ふふふ」

「あの、どういう……」

「ふふふ」

「あの、……」

「ふふふふふふふ」

「…………??」


 結局、面白げに笑う彼女が何を言っているのか、最後まで教えてはもらえなかった。


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