第51話 少年は自覚する
夢を見ていた。
果てなく広がる雪原のように真っ白な世界。
僕はそこに一人で立っていた。
足を動かせば足元の水面がパシャリと揺れる。
――――ぱしゃ、ぱしゃ……ザブッ
足を進めるたびに深くなって、身体を飲み込んでいく。
それでも僕は足を止めない。そうすることが正しい進み方のようで。
ふと、視界の端をひらりと舞うものがあった。
羽だ。
ひらひらゆらゆら。踊るように舞う鳥の羽。
なんだろう。前にもどこかで、同じような光景を見たような……。
気付けば僕は足を止めてその羽に手を伸ばしていた。
伸ばさずにはいられなかった。触れずにはいられなかった。
ふわりと揺れるその朱い羽が。
自分のよく知るあの薔薇色と、あまりにもそっくりだったから……――――――。
***
僕の身体を慎重に診察するバードルディ家専属医マーテルの顔は驚愕に満ちていた。
「……傷はふさがっています。脈も極正常。ですが流した血の量が多かったため不足気味です。こちらは血の出来る食材を摂れば充分補えるでしょう……。もう命の心配はないかと思われます……」
「そうか」
「旦那様……、これはいったいどういうことです? ウェルジオ様の身に何がおきたと……」
「すまない、マーテル。どうかそれ以上は聞かずにいてくれ……」
「ですが……」
「頼む」
「……わかりました。では、私はこれで失礼いたしますわ。ウェルジオ様のお食事について、料理人と話すこともありますので」
聞きたいこと、知りたいことを何ひとつ明かされていないにもかかわらず、何も聞かずに背を向ける彼女は本当に出来た人だと思う。
おそらく今後二度と聞き返すこともしないのだろう。
「では、ウェルジオ。今日はもう休みなさい。無理に身体を動かさないように、まだ本調子ではないのだからね」
「はい、父上」
そう言うと、扉の前でじっと待機していたヴィコット伯爵を連れて父は部屋を出て行った。
扉が閉まる前、ふと見えた二人の顔は真剣そのもので、事の重大さを物語っているようだった。
「お兄様、私も失礼するわ。レ……リオン殿下から詳しく話を聞かないと!」
そんな二人の様子には気付かず、後に続くようにセシルも腰を上げる。
ふんす、と鼻息荒くまくしたてる姿は、話を聞くというよりは、問いただしてやんよとでも言いたげな雰囲気だが。
「……お手柔らかにな。一応王子だぞ、一応」
ほんの少し前、突如落とされた爆弾発言に白目をむいてふらりと卒倒しかけたアヴィリアを引っ張って部屋から出て行った親友は、今頃別室で詳しく事情を説明しているはずだが……、果たしてまともな話ができているだろうか、すごく不安だ。このまま妹を投入して大丈夫か?
「お兄様、こちらの服は処分するわね」
本人に知られれば間違いなく拳が飛んでくるようなことを考えていると、治療の際に脱がされた隊服を処分しようとセシルが片付け始めたので、慌てて止めた。
「待て、それはそのまま置いといてくれ」
「え、血みどろのズッタズタよ?」
「……いい。後で自分で処分するから」
妹よ、言い方。
ふさがったはずの傷が言葉の刃で無惨に切り刻まれたような気がするぞ。
僕の態度に不思議そうな顔を浮かべてはいたが、それ以上追求することもなくセシルも部屋を後にした。何かあったらすぐに呼んでくださいねと釘を指すことだけは忘れずに。
「……っ痛、」
妹の気配が完全に離れたことを確認し、横たえていた身体をゆっくりと起こす。
その際、身体に鋭く走った痛みは、塞がってはいても傷が完全に癒えたわけではないのだということを知らしめ、思わず眉間にシワが寄った。
これはしばらく絶対安静だな。剣を振ることも無理だろうと思えばため息しか出ない。
傷が完全に癒えたら、まずは体力を戻すことから始めなければ。
そんなことを考えながらセシルが置いていった隊服に手を伸ばす。
正面が大きく裂かれ、血で真っ赤に染まった隊服は確かにひどい有様で、どう見ても修繕不可能だった。
我ながらひどい怪我をしたものだと他人事のように感じる。
いまだ乾き切らぬ血で周りを汚さないように気を使いながら隊服の内側を探れば、目的のものはすぐに見つかった。
同じように赤く染まり本来の色彩を完全に消してしまっていたが、どこにも損傷はないように見え、ひとまず安心した。
いや、仮に今回汚さずにいられたとしても、元々すでに汚れていたのだが……。
本来は雪のように真っ白だった、一枚のハンカチーフ。
そっと広げれば、翼を広げた一羽の霊鳥が姿を現した。
朱い糸で縫い上げられたその姿は、通常なら白地にくっきりと映えていたはずだが、今は大部分が同じ色に染まってしまっていて、その美しさを完全に失ってしまっていた。
それでも、その姿が原型を損なっていないことに安堵した。
不死鳥の周りにさりげなく添えられた小さな花を指でなぞる。
暖かな春を彩る、彼女を象徴する花。
渡されたその日に血で汚してしまった。
変えの品を贈った後も何故か捨てることができず手元に置き続けた、安全祈願のお守り。
“――――よろしければ、このままお持ちください。”
緩やかな日差しの中、そう言って笑った彼女の顔が脳裏をよぎる。
“――――誰のせいだと思ってるんですかっ!!”
あんなふうに、彼女が声を荒げる姿を見るのはニ度目だった。
一度目はセシルを想って。そしてニ度目は他でもない、僕のために。
“――――……っほんとに、無事で……よか……っ”
流れる涙につっかえながら、必死で紡がれた言葉は痛いほどに胸に響いた。
縋るように伸ばされた手は、まるで指先で存在を確かめるかように、どこかおぼつかなくて。
普段の彼女からは想像もできないような、儚げで頼りなさそうなその姿が、ひどく胸をしめつけた。
小さく震えるその肩に手を伸ばしたのは、ほとんど無意識の行動だった。
(――――――ああ、もう)
強く握りしめたハンカチが手のひらの中でくしゃりと歪む。
限界だと、頭の中で叫ぶ声がある。
心の奥深くに何重にも鍵をかけて隠し続けてきたものが早く出せと暴れている。
兆しはあった。おそらく自分が思うよりもずっと、ずっと前から。
多分、あの夏の日に。日差しの下でくるくると戯れる妖精女王のような彼女の姿を見つけたときから。
ずっと気づかないふりをしていた。目を背けて否定し続けた。そんなはずはないと、いっときの気の迷いだと、己の心をごまかし続けて。
……だけど、もう無理だ。これ以上は、もう。
何故、このハンカチをいつまでも持っていたのか。
何故、危険の伴う討伐に持っていこうなどと思ったのか。
答えなんて、とうの昔に決まっていたのに。
彼女の肩を抱きしめたときに、僕の中に確かに湧き上がってきたもの。
自分の無事を知って涙を流す彼女が、自分が生きていることを、あんなにも全身で求めてくれる彼女が。
いっそ泣きたくなるほどに、目眩がするほどに、――――――……愛おしくてたまらなかった。
(……ああ、くそ)
こんなの、もう認めるしかないじゃないか。
彼女に対して感じるこの気持ちはなんなのか。どんな名前が付くのか。
それが分からないほど、僕は子供じゃないんだ。
(もうだめだ)
これ以上、誤魔化せない。
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