第37話 自然に潜む脅威
その物騒な話の詳細は、父の口から語られた。
「熊、ですか……?」
「ああ、今年は少々暖冬だからね……。冬眠から目覚めたのか、そもそもしなかったのか……。食料を求めて森をうろついているらしい」
珍しく眉間にしわを寄せて重々しい口調で語られるそれは、現状が決して良いものではないのだと教えてくれる。
「お父様、それで……? おじ様たちはご無事なんですか?」
「……幸いなことに、まだ死者は出ていないが。それもいつまで続くか……」
「まあ……」
(冬眠していない熊による被害……。前世でも聞いたことはあったけど……)
いわゆる『穴持たず』。
冬眠の機会を逃してしまったり、身体が大きくなりすぎたことで適度な穴を見つけることができなかったり……。そんな理由で冬の間も餌を求めて彷徨う熊による被害は前世でも何度か耳にしたことがある。
中には何人もの命を奪うような、ひどい被害を生んだという例も……。
(そんな危険なものが、おじ様たちの住む森の中に……)
自分が直接関わりを持ったことのある森の民はルークス一人だが、たとえ会ったことはなくても、彼らとの繋がりは決して浅くはない。
ハーブ好きな自分にとって、彼らの住む森はとても興味深く、いつか是非とも行ってみたいと、そんな話を彼と交わしたのはいつだったか。
彼らに今、凶暴な牙が向けられようとしている。
その事実はかつてないほどの恐怖を感じるには十分すぎて、知らぬ間に強く握り締めていた手のひらがドレスにシワを刻んでいた。
「心配いらないよ、アヴィリア」
「お父様……」
うつむいていた視線を上げれば、いつものように優しく笑う父の顔があった。
「知らせを受けて、すぐに討伐隊が結成されたんだ、彼らが助けに行く。大丈夫。この国の兵士たちは優秀だよ」
ポンポンと。大きくて暖かい手のひらが何度も髪を撫でる。
自分より二回り以上も大きい手のひらは、所々皮が分厚くて肉刺のつぶれた跡がある。
いつもは屋敷の執務室で書類にペンを走らせている姿しか見たことがないけれど、その手が、父は確かに剣を握る武人なのだと、教えてくれる。
そんな父のとなりには、同じように笑みを浮かべる母の姿。
私は知っている。いつも優雅にティーカップを傾けるその手にも、同じような跡があることを。
現騎士と元騎士の言葉は、多くを語らずとも確かな安心感を与えてくれて。
白くなるほどに握りしめた手のひらから、ようやく力を抜くことができた。
その、わずか二日後。
「ウェルジオ様が討伐隊に……!?」
「ピ!?」
「そ。お兄様、自分から志願したみたいだけど」
いつものように屋敷を訪ねてきたセシルから聞かされたのは、思いもよらぬ言葉だった。
「そんな、どうして……」
「ほら被害にあった森って、東のほうにあるじゃない? バードルディ領に近いのよ。ヘタをすれば森を抜けて領のほうに入ってくるかもしれないからって」
「そ、う……」
確かに、地元に危機が迫っているとなったら黙ってはいられないかもしれない。
彼はバードルディ家の次期跡取り。いづれ自分が納めることになる場所と言うのならばなおさら。
なにより、彼はとても責任感の強い人だ。他人に任せてじっとしているなんてこと、するわけがない。
彼が強いのは十分知っているつもりだが……。
それでも、自ら危険に身を投じるということには変わらない。
怪我とか、しないといいんだけど。
「ぴぃ……」
沈んだ顔色を察してか、膝の上でうずくまっていたピヒヨが案じるような声で小さな身体をすり寄せてくる。
「心配しなくても大丈夫よ。このての討伐って兵士の間ではよくあることらしいわよ?」
「そう、なの?」
「お兄様に聞いた話だけどね。熊とか狼とかの被害が出るたびに、討伐隊は結成されてたんですって」
「詳しいわねセシル」
「ふふん。これでも一応公爵家のお嬢様ですから!」
紅茶片手にえっへんと胸を張る姿は、正直そんなご大層な存在には見えないけれど。
そういえば剣術大会のときも、騎士の内情を教えてくれたのはセシルだった。
(……あれ? もしかしてただ単に、私がもの知らずなだけ……?)
父から仕事の話を聞いたことはないし、こちらから特に聞こうとしたこともなかった。
女の私には関係のないことでもあったし、正直に言うならあまりその手の話には興味がなかった、というのもあるけど……、仮にも将軍という立場にいる父を持つ身として、これはちょっとまずいだろうか。
あとでお父様かお母様にお話を聞いてみようと、内心で密かに決意。
「こういうときのための訓練もちゃんと受けてるから大丈夫よ。なんだかんだ言って、やるときはちゃんとやる人だから!」
だいじょぶだいじょぶ。
自信満々に語られたその言葉に思わず口元が緩んだ。結局、いつだってウェルジオの腕を一番信用しているのはセシルなのだ。
(なんだかんだ言っても、って。一体どっちのことなんだか……)
ウェルジオのツンデレはもはやテンプレだが、彼に関することに限っては、セシルもわりと素直じゃない。
ツンと塩対応しているかと思えば、こんなふうに絶対的な信頼感を見せたりもする。
それが彼女の、お兄ちゃんに対する精一杯の『甘え』のように見えて。誇らしげに兄を語るその表情が、なんだか微笑ましかった。
「ま、それでも危険があるってのは事実だから油断はできないけど。…………えーと、それでね、アヴィ。実は、お願いがあるんだけど……」
「うん?」
さっきまでの態度とは一変して、急にしおしおと萎れた花のように勢いをなくすセシルに首をかしげる。
「その……ね、無事に帰って来られますようにって……お守りを、お兄様に渡そうと思ったんだけど、ね……」
気まずそうに視線を逸らしながら恐る恐る差し出される白い布切れ…………。あれ? なんだろう、すごくデジャヴ感じる……。
ぐしゃぐしゃにひきつった布。その表面に鮮やかな朱色の糸で縫い付けられているこの何とも言えない模様は…………。
「………………ヒトデ?」
「ふしちょぉー……」
…………まぁ、とりあえず毛虫よりかは成長してるってことで。……うん。
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