A MONKEY BUSINESS
楠乃木
第0話 クレヨン
「大害獣」は紀元前から存在し、現代にわたるまで人類の敵としてその猛威を振るい続けてきた。全ての個体に未知の精神汚染能力があり、高齢であればあるほどその影響は深刻なものとなる。
ぞっとする気味の悪い咆哮、奇妙な甘ったるい不快な体臭、精神汚染能力、そして異空間から「まど」と呼ばれるポータルを通じて地球上の全ての陸地に出現できる能力。これらによって忌み嫌われ続けてきた。
「しかし、私たちになんの勝算もないわけではない。」
人類はこの脅威に対し、「異能」という科学的に説明が不可能な身体能力や魔法のようなさまざまな超常的な能力を獲得した。異能は概ね20歳前後で能力の喪失を起こしてしまうものの、この力を持った一部の人間により、今日まで人類は繁栄を続けてきた。
大害獣を殺す仕事を指す言葉である"Hunter"は国ごとに呼び名が変わる。大害獣はその見た目や性質が地域により大幅に変化するためだ。
「
これを殺すために「
2019年3月10日午後21時50分 福岡県福岡市南区
公営団地の一室で少女がスマホを触っている。雑にブリーチされたシャギーの強いボブカットに仏頂面の少女はいかにも不良少女といった見た目で、着古したストーン・ローゼスのバンドTシャツとレザージャケット、リーバイス569に身を包んでいる。
少女がInstagramを見ていると、部屋の片隅から別のスマホの通知音が鳴った。開くと"Silence"という匿名メッセージアプリからの連絡が来ている。
『お疲れ様です、"エメラルド"の在庫はありますか?』
『お疲れ様です🫡ご用意出来ますよ👍』
仏頂面を浮かべたまま愛想のいい返事をする。
『ありがとうございます!5つお願いしたいです!22:15ごろに対応可能でしょうか?』
『大丈夫ですよ👍指定場所はこちらになります!つきましたら服装の方お願い致します😊』
メッセージと一緒に地図アプリのリンクを送る。それだけ返すと少女は2つのスマホをポケットにしまい、机の隅に置いてある電子はかりを取り出して引き出しから小さなチャック付きポリ袋とそれより大きいビニール袋を取り出した。ビニール袋にはエメラルドグリーンの粉が50gほど入っている。
電子はかりの電源を入れ、チャック付きのポリ袋を載せる、画面には0.1gと表示された。小さな匙を使いビニール袋から粉を取り出し、慎重に中に入れる。4.9gを入れてぴったり5gになったポリ袋をポケットに突っ込むと、枕元に置いてある黒いカランビット・ナイフを腰のあたりに差し込んだ。
そっと部屋のドアを開け、物音を立てないように玄関まで向かう。リビングの方からはテレビの音と楽しげに笑う声が聞こえてくる、少女はそれを聞き少しだけ寂しげな顔をして外へ出た。
団地の駐輪場に着くと、乱雑に停めてある自転車を蹴倒して奥に停めてある自分の古いスクーターを引っ張り出し鍵を差し込んで、半キャップのヘルメットを被り走り出した。耳にはめたイヤホンからは"I Wanna Be Adored"が大音量で再生されている。
10分ほど走ったあと、スクーターは公園の手前で停車した。少し広い園内には人はほとんどいない。少女はメッセージアプリを開いた、通知が1件来ている。
『到着しました!ニューエラに白Tです!』
『こちらも到着しました、向かいます❗️』
取引の指定場所である公衆トイレ脇のブランコに向かうとメッセージ通りの少年が佇んでいた、少女が話しかける。
「お疲れ様でーす」
「あっ…お疲れ様です!」
少年は少し驚いたような顔を浮かべた。どう見ても自分と同い年かそれより年下に見える少女が現れたことに驚いている様子だ。
「現物確認してもらっていいすか?」
少女はポケットからポリ袋を取り出すと少年に手渡す、少年は袋を街灯で照らし、きらきらと輝くものが混じった粉を眺めた。
「じゃあ5gなんで、2万円っす。」
「……え、あっ!!!…はい。」
粉を眺めていた少年は何故か少し焦ったような顔を浮かべ答えた。目線は少女を見ておらず、金を取り出す気配もない。
「いや…はいじゃなくて、2万っすよお客さ…」
少女は苛立って口を開きかけた瞬間、ジーンズのベルトに取り付けておいたカランビットナイフを握りしめて、裏拳の要領でナイフを後ろへ振るった。
「痛ッ!?!?があああ!!!!!!」
「あっぶねーな、やっぱ叩きかよ。」
すぐ後ろで悲鳴がする、少女はすぐさま目の前の少年の額をナイフで切り付け、素早く持ち替えて顔面を殴りつけた。
地面に尻もちをついて倒れた少年の顔へもう一度蹴りを入れる、後ろを振り返ろうとしたその時、脇腹のあたりを鋭い痛みが走り抜けた。
「っ!?てめえ…!!」
少女は一切うろたえず、そのまま脇腹に刺さったナイフと一緒に握っている手を掴んだ、背後にいた別の少年の顔は血まみれで、恐怖と困惑が入りまじった表情を浮かべている。掴んだ手をそのまま引っ張り足を引っ掛け少年を倒すと少女はその顔を蹴飛ばした。
「きめーんだよマジで、お前は殺してやろうか?あ?」
頭に血が昇った少女はそのまま少年の上に乗り顔面を殴り続ける。しばらく殴り続けていると、少年はごぷっと赤黒い血を吐いて痙攣し始めた。完全に戦意を喪失したのを確認してから、少女はポケットから取り出したタバコに火をつけてゆっくりと吸い込み、空へと吐いた。
「は?3万も持ってんじゃねえかよ、なんだお前。」メッセージを送った少年の財布を奪い取り中を確認した少女が怒鳴り、腹をもう一度蹴りつける。
「良かったねあんたら、あたしが相手で。次は殺すからな。」
そう言い捨てると少女は財布をポケットに突っ込んで公園を後にした。夜の公園には街灯に照らされた不良少年の荒い息と呻き声だけが響いていた。
公園を去った少女は少し離れた細い道の路肩でスクーターを止め、メッセージアプリから電話をかけた。2コールで応答があり、スピーカから少女の声がした。
『もしもしー梓佳。どうしたと?』
「お疲れ紅世ちゃん。悪いんだけど今からヤサ行っていい?」
『全然良いけど、なんかあったん?』
「いや、さっき手押しに行ったら叩きに遭ってさ。」
『は!?大丈夫だった?』
「余裕、ぶっ倒して来たから。なんなら金もゲットした。」
『あはははは!さっすが!いーよおいで、血まみれなんやろ?』
電話口から笑い声が聞こえてくる。少女はありがとうとだけ言って電話を切り、スクーターを再び走らせた。耳につけたままのイヤホンからは"Don’t Stop"が流れていた。
スクーターを走らせ、15分ほど経った。あたりの街灯は少なくなり、山道を進んでいく。しばらく走ると舗装されていない細い脇道が現れ、その中へと進んでいく。
スクーターは山の中にある古い民家の前で停車した。窓からは紫色の明かりが漏れ、ケンドリック・ラマーの"N95"が小さく聞こえてくる。少女が裏手にある金属のドアをリズミカルに5回叩くと、ややあってから少し背の高い少女が出てきた。M-51のミリタリーコートを纏った身体に髪は綺麗な赤に染められていて、耳にはたくさんのピアスがついている。二人の少女はハイタッチと軽いハグをしてから口を開いた。
「梓佳!お疲れー!」
「おっつー、紅世ちゃん。」
居間に行くと他に二人の少年がいた、部屋にはマリファナの青臭く甘い蠱惑的な匂いが充満している。梓佳は空いているソファに腰掛けるとポケットから奪ったサイフを取り出して札を机に広げた
「じゃーん、3万ゲットしたよ。」
「さすが梓佳だな、これで飯でも食いに行こうぜ。」
「良いけど、まず着替えてえな。余ってるシャツない?」梓佳が伸びをしながら訊く。
「あっちに洗ったプロクラブあるぜ。」
「ん、サンキュー。」
梓佳は衣装ケースからプロクラブの青いTシャツを取り出して着替え、それからケースの上に置きっぱなしになっていたヘアピンで重たい前髪を留め、少年が巻いたマリファナのジョイントを受け取って火をつけた。ゆっくりと肺に溜めてから吐き出す、しばらく天井を見つめていると少年が口を開いた。
「つーか、やっぱ梓佳って反則だよな。」
「何が?」
「異能だよ異能。ほぼ不死身だろ?」
「そう?でもどこまですぐ治るかあたしもわかんねえよ、クソ痛いのは変わんねえし…」
「刺されても一瞬で治るとか俺らからしたら最強すぎるよな、叩きにビビんなくていいしさあ。」
「頭とか千切れても死なんのやない?」
少年の横でマリファナを巻いていた紅世が横槍を入れると、少年はむせてマリファナの煙を吐き出しながら笑った。
「流石にありえないっしょ!でも指ぐらいなら生えてきそうだよな、試してみる?梓佳。」
「ねえちょっとー、やめてよ。痛いどころじゃ済まねえっしょそれ。」
「てか、梓佳もついに中学卒業かー。てことはもう出会ってから3年目になるんやねえ。」
「卒業式行ってないけどね」
紅世はけらけらと笑った。梓佳は初めて紅世と会った中学1年生の時の事を思い出していた。
まずい、逃げないと。
3年前の夏休みのある日、けたたましく鳴くアブラゼミの声の下、資材置き場の片隅で梓佳は呆然と立ち尽くしていた。目の前には血まみれで荒い息を吐いた少年、梓佳の手には血まみれの錆びた鉄パイプが握られている。簡単な話だった、クラスで揉め事を起こした不良の男子グループと喧嘩になり、エスカレートした梓佳が鉄パイプで頭を殴りつけたのだ。数人いた仲間は走り去り、後には二人だけだった。
逃げるったってどこに?家には居場所がない、学校の人だからすぐにバレるだろう。頭に思考を巡らせていると後ろから複数の足音がした。
「私の舎弟ボコったの、お前?」
声のする方を振り返ると、黒いショートカットにたくさんのピアスをつけた少女と、先ほど逃げ出した少年たちが立っている。少女はストーンローゼスのバンドTシャツとアディダスのトラックパンツにくたびれた黒いエアフォース1を履いていた。
「藤田先輩…こいつです。ぶっ殺して下さい。」
顔に青あざを浮かべ血を拭った跡がある少年が叫んだ、少女はしばらく興味深そうに梓佳を見つめていたが、ふと梓佳の方へ走り出し、懐から取り出したポケットナイフを突き刺した。
「っ!!てめえ…!」
ギリギリで刃を手で握り腹に刺さるのを阻止する、手からは赤黒い血がぽたぽたと垂れ始めたが、数秒ののちにそれは止まった。
「?…お前……」
少女はさっと梓佳から距離を引き、ポケットナイフを折り畳んでしまった。
「お前、異能者?」
「だったら何だよ。」
「うーん…そっかー…なら、話変わっちゃうかも、なあ…」
少女は一人でぶつぶつ喋り出した。しばらく一人で考えたあと、何かを決めたような顔で少年たちの方へ向き直った。
「お前ら、あいつ連れて帰れ。」
「はっ?藤田先輩、何してんすか?あいつぶっ殺してくれんじゃないんす…」
話し終わるより先に少年の顔面を殴る。止まった鼻血が再び地面に落ちた。
「ごちゃごちゃうるせえよ、とっととあいつ連れて消えろ。あと、今回のこと誰にも言うなよ、言ったらお前を殺すから。」
少年たちの顔が期待から絶望へと変わっていく。頼みの綱が切れた時の顔ってこんな感じなんだ、と梓佳はそれをぼんやり見つめていた。少年たちは意味がわからないという顔で恐怖に怯えながら去っていった。
「ごめんねーいきなり刺そうとしちゃって。痛かった?」
「…いいんすか?あたし殺さなくて。」
「うん、殺さない。ってか、最初っから殺す気なんてなかったし。」少女がけらけらと笑う。
「でも一つ聞かせて。お前の異能ってなに?」ふと真顔になってたずねた。
「…自分でもよくわかってないんすけど、怪我とか、そういうのがすぐ治ります。何回か骨折したり、刺されたりしたこともありましたけど、全部2時間くらいで治りました。」
「…もしかしてお前、異能者登録出してないっしょ?」少女が怪訝な顔で訊く。
「……はい。」
「あっはは!親もやばいよそれ!親子で懲役じゃん!」
「あたし親いないんで…8歳から叔父さんの家に住んでます。」
「へー…、なるほど。ってことは身内にもバレてないんだ、尚更最高だ。にしても未登録の異能者なんてやばすぎるけど…。まあ、普通に暮らしてたら気づかれなさそうだしね。」
「あの」
「さっきから最高とかいろいろ言ってるっすけど、何考えてんすか?」少女はにやっと笑い答えた。
「私と仲間になってよ。一緒に仕事しよう。お前みたいなやつが必要なんだ。ただのガキで、でもビビんない、そんでもって不死身のガキ。条件ぴったりだ。」
「…どうせあたしに選択肢無いっすよね、それ。」
「んー?まあ、そーだけど…安心してって、悪いようにはしないからさ。とりあえずうち来なよ。着替えないとでしょ?」
梓佳は困惑していた。確実にこいつに痛い目を見せられると思っていた相手に、気づけば仲間に誘われている。不信感は拭い切れなかったが、どうせ断れないだろうし、少女からは悪意が感じ取れなかった。答えは決まっていた。
「…はい。」
「よし、決まりだね。私は
「
「梓佳…可愛い名前してんじゃん、よろしくね。ってか、敬語とかダルいしやめてよ。」
「えっ…うん。ありがとう…」梓佳は先ほどとは打って変わってからっとした笑顔になった紅世に少し驚いた。
「そのシャツ、ローゼスだよね。好きなの?」焼け付くような日差しの中、住宅街を歩きながら梓佳が口を開く。
「おー、わかる?私大好きなんだ。」
「あたしも!大好き!」
「マジ?うちら気合いそうだね。」紅世はにかっと笑い梓佳の方を見やった。夏の陽光に黒いピアスがキラキラと光っている。
「よし、乗って。」二人は数分歩いた後、道端に止めてある原付スクーターに跨った。
しばらく走ったスクーターは山道へ入っていき、さらに脇道を進んで民家の前で止まった。
「ここは?紅世ちゃんの家?」
「いや、ここは爺ちゃんの土地なんだ。誰も使ってないから私が使ってんの。秘密基地ってやつ?電気も水道もちゃんと引いてんだよ、凄いっしょ?まあ、ガスはないけどね。」ドアを開けながら紅世が話す。
民家の中は古ぼけた外見から想像できないほど綺麗に掃除されていて、壁には映画やバンドのポスターにたくさんのCDが飾ってある。
「すっげ…」
「でしょー。まあ座ってて、着替えとってくるよ。タバコ吸うよね?勝手に吸ってて良いから、灰皿そこね。」
「うん、ありがと。」梓佳はポケットからJPSを取り出して火をつけた。紅世はコンポのスイッチを押し、部屋の奥へと消えた。部屋にはタバコの煙とストーンローゼスの"Waterfall"の小さな音が混じって漂い始めた。
「あった!」奥から紅世が歩いてきて、梓佳に一枚のTシャツを投げた。広げてみるとグレーのボディに大きくストーンローゼスのイラストがプリントされている。
「えっ!すげえ‥!」
「あげるよ、プレゼント。」
「えーっ!?ありがとう!」
「あはは、やっと笑った。」梓佳と紅世はけらけらと笑った。
「出生時検査で何かの異能があるってのはわかってたんだけど、去年気づいたんだ。まだ届けも出してない。」
ある日のこと、山小屋で紅世は梓佳にビジネスの計画をすべて話した。彼女自身が異能者であることも。
「座って。」
「THCってわかる?」梓佳は首を横に振る。紅世は苦笑いして続けた。
「正確にはテトラヒドロカンナビノールって言うんだけど、マリファナの成分のことなんだ。手、貸して。」そう言うと梓佳を手を取り、自分の指先の下に持っていく。
「わっ、すご…」紅世の指先が鈍く光り始めた、程なくして指先から小さな光の球がゆっくりと落ち始め、梓佳の手に染み込んでいった。
「今のは?」
「いいから。ちょっと待ってなよ。」
紅世がタバコを手渡す、梓佳はしぶしぶ火をつけた。数分ほどそのままタバコを燻らせていた梓佳は自分の身に起きた異変に気がついた。全身を小さく揺すられるような感覚に包まれ、コンポから聴こえてくる音楽の立体感が明らかに増して聴こえる。身も心も奪われる陶酔、梓佳は瞬時にこれが大麻の酔いとほとんど同じことに気づいた。
「ぁ…紅世、ちゃん……これ…ぇ…マリファナ…?」とろんとした赤い目のまま、タバコを指さして梓佳が訊く。
「あはは、それはただのタバコだよ。答えはこっち。」紅世は指を立て、その周りを光の球がくるくると回っているのを見せつけた。
「私は、一度体内に取り入れたことのある化学物質を身体の中で作れる異能があるみたい。」
「…?」
「んーと…要は、マリファナを吸ったら自分の身体の中でマリファナの成分が作れるし、他の成分でもそうってこと。他にも色々試してみたんだけど、常温で保管できるような物質は大抵コピーできるみたい。しかも、この異能は"罰"もないんだ。」
紅世の言った"罰"とは、一部の異能者がもつ副作用のことであり、強力な力を持つものに多いなんらかのマイナスな作用のことだ。
「ってことは、元になる物さえ一度取り込めば無限にコピー出来るってこと?」
「そ、正確にはめちゃくちゃよく似た別の成分なんだけど。気になってネットで買った検査キットに通しても反応しなかったんだ。…これの意味わかる?」
「わかんない」
「ははは!要は、私を通してドラッグなんかをコピーしても成分が微妙に違うから合法なんだよ。どれだけ作っても捕まんないの。もうわかるよね?」
「売るんだ、これを。」紅世は真っ直ぐな目で梓佳を見やって言った。
「誘ったのは、超少数のチームで動くつもりだから、梓佳みたいな仲間が必要だからってわけ。売る時に叩かれる心配が少ない、でも警戒されないような子が。」
「なるほどね…」梓佳はマリファナそっくりな紅世の異能による酔いに浸かって目を閉じながら応える。
「こっからは忙しいよ、梓佳。手始めに私が色んなドラッグを食いまくらなきゃいけないし、それの調達から始めないと。」
「……」
「不安?」
「ちょっとだけ、ね。だってこれ、すごいよ。もしサツにバレたら速攻で
「そう、だから最初に決めとく。私の異能について教えるのは梓佳だけ。梓佳が中学を卒業するまでの間で稼ぎ切って終わろう。それからは、その金でお互いの好きなことをすればいい。」
紅世は梓佳に手を差し出した。
「改めてきくよ、梓佳。私とこのビジネスをやってくれる?」
「…うん、やろう。紅世ちゃん。」
梓佳は紅世の手を握り返した。陶酔した二人のいる部屋には、マリファナの匂いのかけらも漂っていなかった。
「…か、梓佳。…梓佳!」
「…っは、何?」
「何ぼーっとしてんの、梓佳。」
「ちょっと昔のことを思い出してて…」
「何浸っちゃってんだよー」少年が横槍を入れる。梓佳はうるさいと答えて手をひらひらと振った。
「でもこの"エメラルド"ってほんとすげえよな、ほぼコカインと変わらんのやろ?どっから仕入れてんの?」少年が口を開く。梓佳は何も答えなかった。
「んー?秘密、でも超安く取れるパイプがあるからね〜」そう言って紅世はにやっと笑う。
「グラム4000円でチャリとほぼ同じもん売ったらそりゃみんなこれしか買わねーよな。」
紅世の作ったグループはこの部屋にいる4人で全てだった。販売役の梓佳と少年2人に仕入れ、というより製造の紅世。昔の約束通り紅世の異能について少年たちは知らなかった。
「そろそろメニュー増やしてもいいかなって思ってるんだけど、みんなどう思う?」
「シャブは?」
「いいじゃん、多分めちゃくちゃ売れるよ。」
「それは思ってるんだよね。確かに覚醒剤は量が捌けそうだし。ただちょっと問題があって…」紅世と梓佳が苦い顔をする。
このビジネスにはまず、紅世がコピー元のドラッグを摂取しなければいけないという避けては通れない問題があった。今の主力商品になっている"エメラルド"はコカインをコピーしたもので、そのせいで紅世は一時期ひどいコカイン中毒に悩まされていた。覚醒剤ともなるとその影響はもっと大きいだろう。
「それに、もうすぐこのビジネスも3年経つ。今更増やしてもって言うところはあるんだよね。」
「ああ…そうか。ついに終わるんだな。」
「みんなは何する?」紅世が訊く。
「俺はこいつとアメリカに住むって決めてんだ、な?」少年が肩を組む。
「はは、いいねそれ。私たちも一緒にどっか行こうか、梓佳?」
「えっ、それって…」
「実は私、東京に行こうと思ってるんだ。一緒に行こうよ。」
「く、紅世ちゃん…本当に…?」
「当たり前じゃん、梓佳はもう私の妹みたいなものだよ。」
「…っ!もう…大好き!!」梓佳は抱きついた。
「なんだ、結局みんなバラバラにはならねえみたいだな」少年たちも笑った。
「私たちみたいな子供は誰も助けてくれないしね。この金で人生やり直して、今度こそまともな暮らしをするんだ。」
「このヤサとももうお別れだな。あーあ、早く4月になんねえかなあ。」
「結局いくら貰えんだっけ?」
「今までこのビジネスで稼いだのは4800万ぐらいだから、上の人たちが保管してくれてるのをきっちり4人で山分けして1200万だね。」
「まじかよ!一生働かなくていいじゃん!」
「そんなことないだろ」4人の笑い声が部屋の中に響いた。
「よっしゃ、とりあえずこれで飯食いに行こうぜ。」机の上の3万円を握りしめて少年が言う、4人は立ち上がって支度を始めた。
「あたしトイレ」
「おう、早くしろよー。」
梓佳は家を出て外れにあるトイレへ走った。にやにやと笑いが止まらない。こんな人生に終止符を打って、しかも大好きな紅世と東京で暮らせるなんて。夢でも見ているみたいだ。
「やったんだ、あたしは。」
次の瞬間、家の方から悲鳴が上がった。
「はっ…?」一瞬、理解が及ばなかった。再び叫び声と、今度はドタドタと暴れる音。
まずい。右手にカランビットナイフを握りしめて走り出した。
家からトイレまでは走れば10秒もかからない。それが永久のように感じる。最悪の光景が頭を巡る。誰だ?警察?叩き?なんで今の今まで気が付かなかった!
裏口のドアを蹴り開ける。物音は止んでいた。部屋には嗅いだことのない甘い匂いが充満している。
「皆!!!」ナイフを構えたままリビングの引き戸を開ける。
血、血、血。つい5分前までみんなで笑い合っていた部屋はおびただしいまでの血の海と化していた。
「…っは、…か…」
足元で小さな声がする。さっと目をやると少年が仰向けに倒れていた。白いTシャツの腹は赤黒く染まっている。
「おい!龍弥!!どうしたんだよこれ!!ああクソクソクソ……なんなんだよ!!!」
「逃げ…ろ…」
「おいっ!!ダメだ喋んな!!きゅっ、救急車…!!」
梓佳が顔を上げると、ソファーの奥に足が見えた。
「紘太…!!」ソファーの裏を覗くと、少年の全身が見えた。頭は何か強い力で握りつぶされたのか、ぐちゃぐちゃに潰れて原型を留めていない。
「っ…おぇ、ぇ…」胃の奥から熱いものが込み上げてくる。精一杯の力を込めてそれを抑え込み、顔を上げる。わけもわからず涙が止まらない。
「っああああああ!!!!!!!なんだよ…!!なんなんだよこれ……!!」
ふと気づく、紅世がいない。
「っ!!!紅世ちゃん!!!!」叫びながら家の中を走り回る。キッチンにはいない。物置にしているもう一つの部屋にもいない。
2階への階段をドタドタと駆け上がる。2階は紅世が普段寝泊まりをしてる部屋だ。いるならここしかない。祈るような気持ちで押しドアを開ける。
「あ……」
目の前に紅世はいなかった。部屋の中央には紅世がさっきまで羽織っていたグリーンのミリタリーコートが血まみれになって落ちていた。
ゆっくりとそれに近づく、動悸が止まらない。
「っ………!!夢だ、全部夢だ……」紅世がどうなったかを想像して床にへたり込む。
何が起きた?警察じゃない。叩きにしてもこんな事をする道理がない。混乱した頭で必死に考える。
そして、気づいた。甘い匂いが強くなってる。さっと後ろを振り返った瞬間、黒い塊が身体にぶつかった。
咄嗟に突き出した右手の指先に激痛が走る。しばらく揉み合った後、足で蹴り飛ばしてそれを突き放した、指に目をやると、薬指と小指が根本から千切れていた。黒い塊から距離を取った梓佳は立ち上がり、それが何か理解した。
異猴だ。1.5mほどの大きさの異猴が飛びかかって来たのだ。目は黄色く濁っていて、2本の鋭い牙が生えている。口と手は血まみれだ。
今の状況を瞬間的に理解していく。点と点が線になっていくにつれ、梓佳の脳にある気持ちが芽生え、一瞬のうちに膨れ上がって感情を支配した。
こいつを殺す。異猴がまた飛びかかってくるのと同時に梓佳も飛びかかった。異猴が身体に不釣り合いな長い腕で梓佳に殴りかかる、それを躱してナイフで真っ直ぐに目を突き刺した。
異猴の甲高い吠え声が上がり、動きが乱れる。梓佳はその隙を見逃さず、ナイフをさっと持ち変えて異猴の首元に引っ掛けて勢いよく引いた。
赤黒い血が吹き出す、異猴は半狂乱になって暴れだした。出鱈目に振り回した手足が左肩に当たり、梓佳は顔を歪める、おそらく折られたのだろう。
物凄い力で引き剥がそうとする異猴に必死でしがみつきながら、何度も首元をナイフでえぐり続けた。
「あああああああ!!!!!!うあああああ!!!!!!!死ね!!!!!!死ね!!!!!!!!」
赤黒い血がシャワーのように頭の上に降り注ぐ、だんだんと殴りつけてくる力が弱々しくなり、梓佳が最後にもう一度首元にナイフを深く突き刺してグリグリと抉ると、異猴は小さく叫んで動かなくなった。
「はぁっ………!はぁっ………!」
不良少女たちの輝かしい未来への計画は、たった1匹の異猴により一瞬で全てが壊された。後に残ったのは血まみれの梓佳だけだ。絶望一色。梓佳は壁にもたれて座り込んだ。
「何で……何でだよ……」
下の階から物音が聞こえて来た。ぼそぼそと話し声が聞こえる。しばらくすると足音がこちらへと近づいてきた。
「うおっ、こいつもう死んでるぞ。」
「っ!?おい、この子生きてるぞ!」
「まさか、この子が一人で?」
梓佳が顔を上げると、目の前に2人の男がいた。手には拳銃が握られていて、ボディーアーマーを身につけている。アーマーには"対猴庁"と書かれ、端には特徴的な犬のバッジがついている。
猴士だった。少年たちの通報で駆けつけたらしい。しかしもう全てが遅い、梓佳は飛びかかり殴りつけた。
「っ!!!遅えんだよ!!!クソッタレが!!!」
「おい、よせ!!」もう一人の猴士に引き剥がされる。
「あああ!!!死ね!!!お前らが遅いから!!!みんな死んだんだ!!!」
「落ち着け!!」
「遅えよ……畜生……」
しばらく暴れた梓佳はそのまま気力を失ってしまった。
「君、大丈夫か?指が…」
「この異猴、君がやったのか?」梓佳は答えない。
「とりあえず一緒に来てくれ。」
何も考えられなかった。猴士の二人に連れられ、外に出た。あたりにはパトカーが何台か来ている。
警官と猴士が何か揉めていたが、内容はわからなかった。ふと警察が近づいて来て言った。
「朝夏梓佳だな?」
「君に大麻取締法違反の容疑がかかっている。一緒に来てもらうぞ。」
「はっ……?」そこで気がつく、部屋に大麻を置きっぱなしにしていた!
「ちょっ…おい!離せよ!!クソ!!」
「おい暴れるな!!来い!!」
「おい!その子は怪我してるんだ!!もっと丁重に扱ってやらないか!」後ろで猴士が叫ぶ。
「怪我?怪我なんてどこにもないぞ?」
梓佳はふと指先に目を向ける、食いちぎられた指はいつのまにか完璧に再生していた。安堵の声が出そうになったが、異能がバレるのはまずいと必死に堪え、そのまま梓佳はパトカーに乗せられてその場を去った。
「いい加減認めろよ。お前らがあの大麻売り捌いてたんだろ?知ってんだよこっちは。」
「だから違えって言ってんだろ!!」
「おい!!あんま警察舐めてんじゃねえぞクソガキ。」
午前2時35分、梓佳は取調室の中にいた。目の前には鬼の形相をした警官2人が立ち、梓佳に凄んでいる。取調べを受けてから何時間経ったのだろう。梓佳は辟易していた。
「現場に残ってた電子計りにチャック付きポリ袋、乾燥大麻15g。明らかに販売の証拠が揃ってんだ。指示役は誰だ?藤田紅世だろ?」
「は…?何で紅世ちゃんの事知ってんだよ…!」
「お前らの事なんてこっちは全部丸わかりなんだよ。あいつだけ死体が見つかってないんだ。大方逃げ出したんだろ。」
「それかもう異猴に喰われたかだな」警察が鼻で笑う。
「ってめえ…!!」殴りかかろうとした所で取り押さえられ、床に頭を押さえつけられる。
「あんなガキ一人死んだって誰も困らねえぞ?お前も同じだ。こうなるなら一緒に喰われたら良かったなぁ」警官2人の嘲笑う声が梓佳の頭上に降りかかった。
「てめぇ!!殺す!!!絶対殺す!!!」床に頬を押し付けられたまま梓佳が叫ぶ。すると取調室のドアが開き、一人の男が入って来た。
「おい!取調中だ。許可は取ったのか?」
「その子を離しなさい。そんなものは取り調べなんかじゃない、明らかに違法性がある。」
「失礼ですが、どちら様で?」
「対猴庁の者だ。その子の身柄を引き渡してもらいたい。」
「悪いがそれは無理です。こいつは大麻取締法の現行犯だ。」
「これでも?」男が一枚の書類を取り出して、警官に手渡した。
「…特殊令状?」
「ああ。警視総監の指示には反せないでしょう?」
「先輩、これは…」警官たちの表情が一気に暗くなった。
「…ちっ。」梓佳を取り押さえていた警官が立ち上がって部屋を出た。
「先輩!良いんすか!?」
「いいから行くぞ!おい梓佳、お前が無罪になったわけじゃねえからな。絶対にムショにぶち込んでやるぞ。」警官はばつが悪そうにそう吐き捨て部屋から出ていった。
「勝手に名前呼んでんじゃねえよカスが!!」梓佳は去っていく警官に中指を立てた。
「…で、あんたは何だよ。」床に座ったまま梓佳が男に向き直る。
「まあ座ってくれよ。コーヒーは飲めるかい?さっき下の自販機で買って来たんだ。」男は机の上に缶コーヒーを2つ置いた。梓佳は怪しそうに睨んだまま座り直す。
「…朝夏梓佳、私は湯浅光一郎。日本猴士高等学校で学長をしている。我が校についてはご存知かな?」
「テレビくらいでしか知らないっすね。あたしバカだし、縁なんてないから全然詳しくないけど。」梓佳はコーヒーを啜って答える。
「なるほど。では質問を変えよう。なぜ私のような者がわざわざここに来て、君と話していると思う?」
「さあ?」湯浅の顔がすっと冷めた。
「君は"異能者"だろう?」
「…違います。登録確認してもらえばわかりますよ。」
「それは君が異能者登録を出していないからだ。どうやったのかは知らないがね。」
「失礼」湯浅が梓佳を手を取った。右手の指をじっくりと見つめ、ふと思いついたように胸元にあるペンを取り出し、まっすぐ梓佳の手の甲に突き刺した。
「っあああ!!痛ってえ!!何すんだクソ!!」
梓佳は手を振り払い、痛みを誤魔化すために椅子を蹴り飛ばした。床に赤黒い血がぽたぽたと垂れる。
「すまないね。でも、君の口から教えて欲しいんだ。君は異能者か?」
「……これを見ればわかるでしょう?」梓佳は血まみれの手を突き出した。ペンの刺さった傷口がみるみるうちに塞がっていく。それを見た湯浅は急に元通りの表情に戻り言った。
「いや、うん。素晴らしい!最高だね。」
「現場にいた猴士からの報告では君が異猴の一種である
「…はい。あたしがやりました。」
「いやはや凄いな、最高だ。」
「あの」梓佳が口を開く
「さっきから最高だのなんだの言ってますけど、何が目的なんですか?」
湯浅はわざとらしく考えるふりをしてから言った。
「君に一つ提案をしようと思う。君の人生を全て変える提案だ。」
「私には我が校に来て欲しい。君には猴士の才能がある、生活の全てを保証しよう。もちろん入学試験なんて一切必要ない。うちがどれだけ難関校かは知っているかい?」梓佳は首を横に振る。
「今年度、1次試験の倍率は60倍、2次試験は25倍だ。今ちょうど我が校で3次試験の真っ最中だが、これの倍率も5倍はある。君を悪く言うわけじゃあないが、普通ならまず1次試験すら突破できないだろう。これを一切免除しようと思う。」
「まあ、今のような暮らしには戻れないがね。」湯浅はそう付け加えると梓佳に向き直った。
「…どうせあたしに選択肢なんてないっすよね、それ。」
「うーん、まあ…そうだね。」
梓佳は考えた。今の自分には本当に何もない。仲間は一人残らず消えて、それどころか犯罪者になってしまった。このままでは異能も警察にバレて普通の少年院では済まないだろう。答えは一つしかなかった。
「…はい。猴士高校で、あたしは猴士になります。」
A MONKEY BUSINESS 楠乃木 @kussnogi707
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