第六章 決戦(ファイナルバウト)

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 決勝の朝は、昨夕からの雨が嘘だったかのように晴れわたっていた。

 コロッセオは超満員の観客でふくれあがっていた。

 この日のメインは各ブロック優勝者四台が同時に戦う挑戦者決定戦(ファイナル)だが、その前座として、一、二回戦で脱落した戦車によるバトルロイヤルや、ちょっとめずらしいランドシップ同士によるエキジビション・マッチなどが行われ、祭りの最終日にふさわしい盛りあがりをすでに見せていた。

 プログラムは順調に消化されてゆき、太陽が天頂にさしかかった。

 それまでのお祭りムードが一変し、観客席全体が落ちつかない感じになる。

 いよいよだ――

 四年に一度の大祭のクライマックス――

 勝つのは誰だ――

 そしてガンロードに挑むのは――

 最初はさざ波のようだった期待と興奮が、うねりをもちはじめ、いつしか人々の膝元を濡らし、さらには腰を払って押し流してしまいそうなほどに高まっている。

 時が来た。

 蒼天に花火が打ちあがり、不揃いなトランペットが力いっぱい吹き鳴らされる。

 アナウンスがファイナルバウトの開始を告げた。

 一気に歓声が爆発する。だれもが総立ちで、壕にこもる者などいない。

 まずAブロック優勝の《ヘイトリッド》が、正確無比、老練な女神・クァントローを擁して入場する。カスタムメイドの戦車である《ヘイトリッド》はひときわ長大な一二〇ミリ砲を搭載するおおぶりな機動戦車である。砲塔の位置は正中線から向かって左奥にややずれ、まるで標的をねらって伏せるスナイパーのように見える。ハッチから姿を見せたクァントローは軽く手をあげ、すぐにコクピットにもどる。

 続いてBブロックを制し、賭け率では一番人気の《般若丸》がひときわ大きな声援を受けつつ姿をあらわす。次代のアンシェント・ゴッデス最有力候補と呼ばれる《涅槃》の蓮華はめったなことでは顔を見せない。今日もハッチから姿を見せることはなく、伝説になっている『コクピットで正座』を続けているのだろう。白地に赤の隈取りのような意匠がほどこされた《般若丸》は、今大会まだ一度も被弾していない美しいボティを誇らしげに観衆に見せつけている。

 やや間をあけて、波乱のCブロックの覇者となった《デザート・ペンギン》が、その特徴的なホバーノイズを響かせて登場した。《ザ・ルーキー》アスタロッテはコクピットに引っこんだままだ。ブロック決勝の圧倒的な戦いぶりが評価されたか、二番人気を獲得している。

 そして――人々が静まった。

 四台出場するはずではあるが、四台目の出場をほとんどの者が信じていなかった。Dブロックを奇跡の逆転で勝ち抜いた《ライオット・スター》は、ほとんど半壊状態に陥った機体と、ボロくずのようになったパイロットの双方が再起不能状態にあると思われていた。車券こそ売り出されてはいたが、出場不可能な場合の払い戻しが前もって保証されていたくらいだ。むろん、掛け率も一台だけ桁がふたつ――いや、みっつ違う。

 ほんとうに出てくるのか――三組の強力な女神と辣腕パイロットたちが待ち受ける戦場に、女神に見捨てられた男が――。

 だれもがそのことを注視していた。

 しばらく時間が経過したが、四台めは現われなかった。人々の間に徐々に失望が広がっていく。だが、その表情のもうひとつの要素は安堵だった。そうだ。そんな愚かなことをする必要はない。勝てる可能性がないのだから、賞金を倍額で受けとって、身体と心の傷をいやせばいい――

 あきらめと納得のムードが収束しつつあった時――地下通路からの出口付近の観客からささやかなどよめきが起こった。そしてそれは潮のようにコロッセオ全体に伝播していった。

《ライオット・スター》が現われたのだ。しかも、つぎはぎだらけの姿でだ。塗装が間に合わなかったのだろう、いろいろな色の装甲板をむりやりくっつけているように見える。ぶかっこうきわまりない、まるでスクラップ再生品のような車体だ。

 しかし、笑いは起きなかった。


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 立ちあがりから、激しい攻防となった。

 まず動いたのは《デザート・ペンギン》だ。軽快な出足で《般若丸》に仕掛けていく。それに呼応するように《ヘイトリッド》も《般若丸》への攻撃を開始する。

 定石であるところの、『最強の敵をまず叩け』というやつだ。

 ジェイドはその場には近づけなかった。戦いの次元が違う。

《ヘイトリッド》の正確な砲撃に対し、蓮華は空気の壁を作って砲弾の軌道をそらして対抗、さらにサブ兵器のバルカン砲で牽制しつつ、《デザート・ペンギン》と《ヘイトリッド》の連繋を壊そうとする。共同で攻撃しているとはいえ、もともとが敵同士である。どちらかが優位なポジションになれば平気で後ろから撃つようになる。《般若丸》としては、まずは自分への集中攻撃をそらすのが先決だ。

 案の定、《デザート・ペンギン》の背後を取った《ヘイトリッド》が攻撃の矛先をかえる。今度は一転して《デザート・ペンギン》が二台から狙われることになる。

 火砲が集中して着弾する。《デザート・ペンギン》はトリッキーな機動でそれをかわし、あいている一角から脱出する。

 三者三様の戦い模様をよそに、《ライオット・スター》は完全に埒外に置かれていた。

 たがいに牙をむけあう三頭の猛獣の外周を、子ヤギがメエメエ鳴きながら走っている

――そんな状況だ。ジェイドは、とにかく流れ弾に当たらないように気をつけているしかない。


 アスタロッテは苦戦していた。機体のコントロールは完全にサンドマンに任せ、女神同士の情報戦に挑んでいるのだが――さすがは実力派の女神たちだ――つけいる隙はなく、逆にどんどん自分の目が潰されていく。基幹衛星を守るので手一杯というところである。

 女神カードでいえば、クァントローも蓮華もC(コンダクター)クラス、特に蓮華は限りなくB(バトルマスター)に近い。中小の都市であればガンロードとして君臨していておかしくないレベルなのだ。

 それでも、アスタロッテは周辺のDZから集めたデータをフィードバックして、サンドマンの砲撃の精度を上げるサポートを続ける。また、察知した敵の攻撃に対応した回避パターンを断続的に渡していく。それについてひとつひとつサンドマンが採点する。『当たり』ならばそれを採り、『外れ』ならばサンドマン独自の動きになる。

『当たり』のたびにアスタロッテは喜びを感じた。と、同時にイシュタルの記憶が強まっていく。

 ふいに相手の動きの間隙をつくパターンを思いつく。伝えた瞬間、サンドマンがウィンクしてそれに従う。完璧に二台の間を裂いて、《般若丸》に痛打を浴びせることに成功する。

「それだ、昔のおまえが――イシュタルが得意だったパターンだ」

 サンドマンにほめられて、アスタロッテは『そうか』と思う。いまひらめいたと思ったのは、過去にイシュタルがすでに試していたことだったのだ。自分のなかでイシュタルの存在が大きくなってきたのを自覚する。記憶の流入量が増え、さらに固着しはじめる。

 これまではアスタロッテの意識の上にイシュタルの記憶が随時読み出される、という感じだった。だが、今ではその境界があいまいになっている。アスタロッテとして考えているのか、イシュタルとして考えているのか――自分でもよくわからない。

 ただ、より経験値の高いイシュタルの認識の方が、戦闘時においては優先されてしまうのはやむをえない。

 情報戦の情勢が変化した。

 命中弾を受けた蓮華が、ディフェンスにリソースを割きはじめたのだ。今大会初となる被弾に動揺したのかもしれない。

 それによって変化したパワーバランスを利して、一気に陣地を広げたのはアスタロッテだった――いや、イシュタルか。

《星》(ISHTAR)の人工知能チャンネルが連鎖的に開いていく。遠い過去に、イシュタル自身が鍛えた戦術AIだ。それらを同時並列で走らせて、衛星ネットワークへの侵食(インヴェイジョン)を開始する。

 これまでは無意識だったが、今ではイシュタルの経験、蓄積された戦闘データが、その人工知能に活かされていることが実感できた。過去のアスタロッテのパフォーマンスも、それに負うところが大だったと認めざるをえない。

 爆発的に衛星の支配圏を拡大。それにともなって、戦場のリアルマッピングが可能になってくる。戦術人工衛星を一気に半ダースも獲得し、解像能一センチメートル以下までの視界を確保、さらにはDZをセンサーにして、地形・風向・湿度などの環境データを採取、統合して完全なジオラマをつくりあげる。データが充分にそろえば行動予測の精度も格段にあがる。すなわち、戦場の時間をも支配できるようになるのだ。

 アスタロッテは圧迫される意識のなかで、すこしだけ怖くなる――自分が消えてしまいそうな感覚。

 だが、その感情も一瞬――。

 増殖するイシュタルの記憶が、膨大な戦術プログラムと渾然一体になって、アスタロッテの意識を満たしていく。

「フォース! クァントローを墜としたわ! 《ヘイトリッド》を叩いて!」

 イシュタルがさらりと言った。サンドマンが目を見開く。

「いま――なんといった?」

「なによ、戦闘中に。しっかりしてよ、フォース・エンフィールドくん」

 指でほつれ髪をかきあげながら、少女が言う。その仕草を、サンドマンは凝視している。

「おまえ……ほんとうに……イシュタルなのか……」

「ばかなことを言ってないで、ちゃんと仕事してよ!」

「あ……ああ」

 うろたえつつも、サンドマンはマシンの制御に意識を戻す。《ヘイトリッド》の動きは目に見えて悪くなっている。

「蓮華はあたしが押さえているから大丈夫。やっちゃって」

 イシュタルがけしかける。

 サンドマンは《ヘイトリッド》に向けてトリガーを引いた。

 戦場のデータを完璧に掌握した上での砲撃は、外れることがない。

《ヘイトリッド》の一次装甲が弾け飛び、砲身がヘシ折れる。コクピットごと潰しかねない猛攻撃だ。《ヘイトリッド》はたちまち戦意を喪失し、白旗を掲げる。

「やりぃ!」

 イシュタルが笑いながら、サンドマンの肩に身体をぶつけてくる。

 一台脱落――それも、女神なしの《ライオット・スター》ではなく、老練なクァントローがサポートする《ヘイトリッド》が、だ。賭けが外れた観客の一部がブーイングするも、強烈な撃破シーンにコロッセオの興奮はさらに高まっていく。


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 残りは三台。しかし、実質は一対一。

 フィールドを微妙に狭くする第三の戦車(ライオット・スター)の存在は、真剣勝負をする二台にとっては『不確定要素』だった。

 破壊するのは簡単だ。だが、それにかまける一瞬を相手に突かれてしまうかもしれない。

 いわば、《ライオット・スター》はジョーカーなのだ。最後の一瞬まで、それがどちらのカードになるかわからない。

 イシュタルは舌なめずりしながら、いびつな三すくみのバランスを分析していた。

「一台は問題外。動く障害物ってとこね。でも、蓮華って娘は手ごわいわ。ガードが固くて、ネットワークから完全に追い落とすのは無理そう。といって、戦車とパイロットの質でもよくて互角――フォース、あんた、戦車の整備サボってたでしょ? 出力、ぜんぜんMAXに届かないじゃない」

「うむ……すまん」

 サンドマンは返答に窮しつつ、わびる。

「まあ、いいわ。なんとかなるでしょ」

「おい……おまえ……」

「なに?」

 気忙しげに髪をかきあげながら、イシュタルが聞きかえす。

「アスタロッテは……もういないのか?」

「なに、それ。あんたの新しい女? いいかげんにしてよね、こんな時に」

「いや……」

 サンドマンは言葉を飲みこむ。これは完全にイシュタルだ。それも、出会った頃の。ケンカばかりしていたころの――

「なによ、フォースくん、ピクルスをまるごと口に突っ込んだみたいな顔して――きみ、まさか、泣いてんの?」

 おもしろがっているような口調で、イシュタルが言った。



 コクピットの中は静謐だ。

 むろん、エンジン音や砲撃の炸裂音は聞えてくる。だが、遮音ボードで囲まれた空間のなかでは、それらの音も遠い下界の雑音にすぎないかのようだ。

 蓮華は端然と座っていた。身体を固定するバケットシートの上でも正座は崩さない。袖のゆったりとした彼女の衣服は、緻密に糸を織りこんで、主題不明の複雑な意匠が表現されている。遠く海を隔てた異国の伝統的民族衣装である。

 白面に加え、髪さえ白い少女は、まるで雪人形のように見える。まつげの長いまぶたを閉じたまま、まるで眠っているようだ。

「蓮華――平気かい? 辛くはないかい?」

 操縦者のキョオがいたわりの言葉をかける。蓮華は首を横に振る。

「へ、いき」

 だが、その白いかんばせには汗の玉が浮かび、顔色もかなり悪い。

「意外だったね、ガンロードと戦う前に、こんな強敵と当たるとは。アスタロッテだっけ……新人だっていうのに、蓮華と互角に渡りあうなんて」

 秀麗な顔だちをしたキョオがつぶやくように言う。そうしつつも、手足は忙しく動き、戦車を制御している。

「あすたろって……じゃない……あいては……いしゅたる」

 蓮華がたどたどしい口調で訂正する。キョオは驚いたように眉をあげた。

「イシュタルだって? 先代のガンロードのパートナーだった、あのアンシェント・ゴッデスかい?」

「その……同型ゆにっと」

「同じDNAタイプということか。じゃあ、手ごわいはずだ。シジフォスと互角ってことじゃないか」

「そこまで……まだ……ない」

 蓮華の小さな唇が動いた。笑ったのか。

「だいじょぶ……わな……かける」


 ジェイドは痛みと戦っていた。ほかの二台に相手にされていないとはいっても、激しく揺れる戦車のなかでは踏ん張らずにはいられず、折れた左脚の痛みはさらに増しているし、脇腹の痛みは横Gがかかるたび悲鳴がもれるほどだ。

 それでも、自分から戦いの輪に参加すれば、瞬殺されるだけだ。チャンスを持つしかない。

 と――

《般若丸》が方向をかえた。突如としてジェイドを襲ってくる。

 苦鳴をもらしつつ、ジェイドは戦車を操って、砲撃をかわす。至近弾がたてつづけに降り注ぎ、装甲に破片がつきささる。

「くそっ!」

 いよいよ邪魔なカードを切りにきたのか――ジェイドは時が迫ってきたことを感じる。熾烈な砲撃は、直撃を避けるので精一杯だ。バトルフィールドの中心に押し出されていくのがわかるが、どうしようもない。

《デザート・ペンギン》がだしぬけに視界に飛び込んでくる。しまった――ジェイドの血が冷える。

 すぐ目前にある砲塔が、激しく火を噴いた。


「イシュタル、やめろっ!」

 サンドマンが制止する。だが、イシュタルはガン・コントロールを掌握したままだ。

「なぜ、とめるの!? どうせ雑魚でしょ!」

「ばかっ! おまえがよくても――」

 だが、すでにトリガーは引かれていた。

《ライオット・スター》を至近距離でぶち抜く。

 装甲に大穴があき、コクピットを貫通する。

 黒煙を噴き出しながら機体が静止する。

 サンドマンは顔をゆがめる。こういう始末のつけかたは本意ではなかった。

 だが、心の中でさえ、手を合わせている暇はなかった。

「フォース! 目の前!」

 狼狽したようなイシュタルの声――《般若丸》がいつの間にか肉薄している。しかも、横腹を突く形で。


「じょーかーは、こう、つか、う」

 蓮華が、にう、と笑った。


《般若丸》のバルカン砲が火を吐いた。大口径弾が、《デザート・ペンギン》の複合素材の軽量装甲を叩き壊していく。

 エンジンに弾丸が食い込んだ。異音とともに、《デザート・ペンギン》は落下する。ホバー駆動が不可能になったのだ。補助用の履帯を出してなんとか着地に成功するものの、すぐには動力は切り替わらない。


「とど……め」

 蓮華の白い指が空に文字を描く。DZを扱うのにも、女神ごとに流儀がちがう。

 斬――という形に空気が光る。

《般若丸》の主砲に弾体が装填される。身動きできない《デザート・ペンギン》据物斬りするかのように、狙いをじっくりと定めている。

 撃つ。

 その、瞬間――


「イシュタル! 頭を下げろ!」

 サンドマンはわめきながら拳を握った。パネルを今から叩いても、降伏用の白旗の射出は間に合わない。一撃をくらって、はたして《デザート・ペンギン》の装甲がもつかどうかはわからない。いちかばちかに賭けるしかなかった。

 イシュタルは動かない。彫像のように固まっている。

 その刹那――《デザート・ペンギン》の側をなにかが通過した。風が切り裂かれる音、エンジンの咆哮。

 なんの迷いもない、一本の槍――返しを考えない、ただ一心の突き。

 イシュタルが目を見張った。DZを通じて、なにかを感じたのか。

「なに――こいつ!?」

「ジェイドか!」

 驚愕の声をあげるイシュタルの横で、サンドマンが吠えた。

《デザート・ペンギン》のすぐ脇を駆けぬけた《ライオット・スター》がその日はじめての一撃を放った。

 勝利を確信していた《般若丸》にとっては、それは死角から飛び込んできた不意の一撃だったにちがいない。

 真っ白な装甲がひしゃげる。リアクターの作動により吹き飛ばされた一次装甲の下から、錆色の二次装甲があらわになる。まるで内臓のようになまなましい。

「フォース!」

 イシュタルがとっさに送った射撃データにをそのまま受け入れて、サンドマンは補助履帯を使って超信地旋回、すぐさまトリガーを押す。

《般若丸》が砲弾に叩かれ、ピンボールの球のようにパーツを跳ねとばしながら、変形していく。大会随一の優美な機体が鉄屑にかわっていく瞬間だ。

 優勝候補が敗北した。観客席を覆うように、白い紙吹雪が舞う。破りすてられた車券のなれのはてだ。


          4


「なに……なんなの? ジェイドってだれよ?」

 黒髪の少女が頭を抱えてつぶやいた。まるで初めてその名前を口にするかのように。

「なんで飛びこんできたの? 黙って見てればよかったのに」

《般若丸》がイシュタルたちを片づけた後、奇襲をかけてもよかったわけである。そうすれば、おそらく《ライオット・スター》が最後の勝者になっていたはずだ。だれもが――イシュタルでさえ、それが戦闘可能だとは思っていなかったのだから。

「ジェイドがアスタロッテを見殺しにする、わけはない……だろうな」

 サンドマンがため息とともにつぶやく。それをイシュタルが非難するように睨む。

「なんなのよ、さっきから……アスタロッテって――」

「おまえの身体の本来の持ち主さ」

 サンドマンは言った。淡々と。

「おまえと同型のDNA情報を持った、新米のGPSだよ。イシュタル……おまえは、一二年前に死んだ。このサイス・トーナメントで」

「あたしが、死んだ? なにを言ってるの、フォース」

 イシュタルの表情が不可解げに変形する。その顔を自らの掌で撫でさする。

「生きてるわ。こんなに元気じゃないの。ほら、お肌だってスベスベ。ばかなこと、言わないで」

「だから、その身体は借り物なんだ。アスタロッテとおまえは、別の人格だ――悔しいけど、そうなんだ。記憶を時系列にソートしてみろ。おまえがトレスできる最後の日付はいつだ? その時、おまえは何歳だった? いまの肉体がおまえのものではないことは、それでわかるはずだ」

「うそ……うそよ」

 イシュタルはゆっくりとかぶりを振った。赤い瞳が焦点を失っていく。さまざまな表情が――まるで記憶バンクに貯めこまれている感情表現のパターンをなぞるように――浮かんでは消えていく。怒り、笑い、泣き、驚き、気づき、哀しみ、悩み、迷い、うろたえ、縋る。

「あた……あたしは……イシュタルよ……帰ってきたのよ……きみと……もういちど……旅をするために……」

 イシュタルは泣いていた。泣きながら、怒りの表情をうかべる。

「出て行きなさい! あんた、邪魔なのよ!」

 自分で自分の髪をかきむしった。その瞳に殺意が宿る。

「そう! ならば、その男を殺してやる!」

 イシュタルはすばやく立ちあがると、ハッチを開け放って外へ出る。

「なにをする気だ、イシュタル!?」

 サンドマンはイシュタルを引き戻そうとする。だが、間に合わない。

 白いローブの少女は身軽に戦車の上に立つと、次の瞬間、ハッチを閉じる。

 サンドマンはハッチを叩いた。ロックされている。解除できない。

 イシュタルがシステムを完全に制御下に置いてしまったのだ。

 ばかな! これではまるであの時の再現だ。イシュタルの記憶は、同じ運命を繰りかえすようにプログラムされているとでも言うのか――



 あまりの光景に観客席が静まりかえった。

 決勝戦――残った戦車は二台――しかもいずれも中破、動くのがやっとという状態で、しかもそのうちの一台から、女神が出てきたのだ。

 女神が戦車から出て戦うことはめったにない。当たり前だ。危険すぎる。女神がそれをあえてするのは、《星》との連絡密度を最大にするため――すなわち、持てる能力のすべてを投入する必要を感じた時だけだ。

 自らの命を犠牲にすることを覚悟して戦う――ということだ。

 それが今だというのか。

 観客はうめくような声をあげて、足踏みをした。その音はスタンドそのものを共振させ、構造材にさえ異音を出さしめた。会場が倒壊するかもしれない――そんな恐怖も、目の前の光景がもたらす興奮の前にはささいなことだった。

 あまりといえばあまりな展開だ。ノーマークの《女神なし》が生き残り、その脆弱なはずの相手を屠るために女神が自分の命を危険にさらしている――しかもその女神は、敵対するパイロットのかつてのパートナーだったのだ。

 深い事情を知らずとも、因果を感じてしまう。

 どんな結末が待っているにせよ――それは悲劇だろう。もはや避けようはない。



「アスタロッテ……なにを……」

 頭上に大穴があいた悲惨なコクピットのなかで、ジェイドは戦慄している。

 剥き身をさらした白服の乙女が、《デザート・ペンギン》の上に立っている。砲塔の突起に手をかけてバランスを保っているようだが、今にも転げ落ちそうに見えてしまう。

 あせりにあせってジェイドは通信機をオンにする。決して使うまいと思っていたホットラインだ。戦闘中、アスタロッテの声を聞いたら心が挫けてしまう。そう考えてのことだったが、もはやそんなことは言っていられない。

「サンドマン! 聞こえるか!? なぜアスタロッテを外に出した!?」

『自分で外に出たんだ! あいつはおまえを殺す気だ!』

 すぐさま返事がある。むこうもコンタクトを取ろうとしていたのかもしれない。雑音はひどいが切迫した口調は伝わってくる。

「なんだと……!?」

『いまのあいつはアスタロッテじゃない! イシュタルなんだ! イシュタルにとって、アスタロッテの意識は邪魔だ――だから、アスタロッテの記憶と結びついたおまえを排除しようとしているんだ!』

「ばかな……」

『いまは戦車のコントロールはイシュタルが完全に掌握……て……おれ……』

 雑音が激しくなる。車上のイシュタルが険しい表情を浮かべている。もしかしたら、通信を嫌って、妨害しているのかもしれない。

《デザート・ペンギン》が動きだした。車上の少女が振り落とされたような気がしてジェイドは声をあげる。だが、イシュタルは見えない《場》のようなもので支えられているらしく、平気で立っている。

 ジェイドは《ライオット・スター》を駆動させた。エンジンは先程から異音をあげて、時に咳き込む。履帯も半ば切れかけだ。動くのが不思議なくらいだが、《デザート・ペンギン》よりは状態はよいと言える。向こうは補助用の履帯であるために、高速移動はもはやできない。

 だが、砲撃は邪悪なまでに正確だ。次々と砲弾が襲いかかってくる。

 スライド、スピンなど、考えつくありとあらゆる技巧を駆使して回避を試みるが、いずれにせよまったく無傷というわけにはいかない。

 それよりもなによりも、ジェイドには反撃の方法がない。もしかしたら、イシュタルの《場》はジェイドの砲撃も防いでしまうかもしれない。だが、その保証はない。イシュタルを傷つけることはできない。

「どうすれば……くそっ!」

 ジェイドはコンソールに頭を叩きつけたい衝動にかられた。

 その間も激しく砲弾が迫ってくる。向こうの機体が万全ならば、あっという間に沈められているだろう。いまのところ、相手の機体を上まわる動きができているからこそ命が続いているのだ。だが、《ライオット・スター》の機動性のデータを収集し、射撃データを修正することはイシュタルには容易だ。すぐに読まれる。

 来た。

 砲塔のすぐ横に一発食らう。装甲が弾いたが、その一撃で火砲の微調整機能が死んだ。

 さらに来る。よけようがない。衝撃。スコープの左側視界が消失する。

 ジェイドにできるのは、少しでも距離を取って、被弾の威力を減らすことだけだ。

 ――なぜだなぜだなぜだ

 反芻する。

 ――こんな戦いを望んでいたのか、おれは

 形はどうあれ、アスタロッテが乗りこんでいる戦車との闘いを望んだのはジェイド自身だ。装甲に守られた状態だったら、平気でアスタロッテを撃っていたのだろうか。

 ――撃っていた

 そう思う。たぶん、アドレナリンを放出させて、昂ぶりながらトリガーを絞っていただろう。

 ――おれは復讐がしたかったのか? 裏切られた仕返しを

 そんなはずはない。これは、アスタロッテを取りもどすための戦いなのだ。

 ――取りもどすとは、思い上がりだ

 そうかもしれない。だが、自分に嘘はついていない、はずだ。

 真後ろからの衝撃――《ライオット・スター》が宙に浮いて、前に押し出される。純粋な衝撃波が身体を突き抜けて、一瞬気が遠くなる。

 後ろから一発もらったのだ。スコープもやられた。たぶん、一次装甲がぐすぐずになっている。二次装甲がやられていたら、ジェイドはすでに焦げた肉塊になっている。

 ――もう一発、くる!

 明白な殺意が伝わってくる。

 ジェイドの脳が、理性をこえて死の恐怖を叫びだす。骨折を忘れて足をふんばり、身体をねじる。バキバキという異音とともに内臓を圧迫するような痛みが全身を焼く。それでも、後ろを振りかえらずにはいられない。

 ――ころ、され、る!


          5


 彼女は獲物を追い詰めつつあった。相手の動きは鈍い。

 だが、彼女の意志に反して、自機の速度が上がらない。外すはずのない照準も、わずかに狂いが生じている。いつもなら二秒で屠れる相手だというのに、すでに一二秒が経過してしまった。

 意識の内側に視線を向ける。

 自分と同じ顔をした少女が透明な壁ごしに拳を振るっている。怒りをたたえた形相だ。

 照準データに《ノイズ》を送りこんでいるのはこいつなのだ。

 分立したもうひとりの自分。この肉体の本来の統御者。

 だが、イシュタルにしてみれば、彼女は一二年の空白時間を埋めるための暫定的な管理者にすぎない。しかも、その役目はもう終わっている。

「邪魔をしないで」

 イシュタルは、意識の内側に言葉を投下した。それは波紋のように広がって、透明壁の手前で拡散し、その透明度を下げる。

 ノイズが減衰する。

 イシュタルの記憶が連続性を増していく。ささいな連想がパスワードになって、過去の記憶データバンクのロックを外していく。

 アスタロッテの人格データが主領域からデリートされていく。

「あなたには悪いけど、最初からやり直すには、残された時間はあまりに少なすぎるのよ」

 イシュタルは、封印されていた記憶をよみがえらせる。辛くてどうしようもなくて、固く固くシールしておいた記憶を――


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「そんな――適性がない――なんて」

「しかたがありません。遺伝子タイプの適合検査の結果です」

 僧服をまとった《カテドラル》の優生保護委員が事務的に言った。

「彼はガンロードになったのよ!?」

「ガンロードになるのは条件のひとつに過ぎません。それは、可能性を補強するものであっても、保証するものではないのです。被験者の生殖細胞にはDZの滞留は認められませんでした。遺伝子レベルでの検査も陰性、あなたの卵細胞を分割させるための因子は含まれていませんでした」

 彼女たちの口調はかわらない。

 ガンロードのパートナーになったGPSの間を定期的に巡回して、その健康管理をチェックするのが彼女たち優生保護委員の仕事だ。彼女たちの多くは、一線を引退した元女神でもある。

「現契約を解除することを進言します。あなたはまだ若い。別の候補者を見つけ、育成すれば、もしかしたら――」

「いやよ!」

 イシュタルはわめいた。

「彼はガンロードとして特筆すべき素材よ! 戦績だって……」

「《カテドラル》の教義を思い出しなさい。あなたたち修道女の役目を。ガンロードを育て為政者を善導し社会に安定をもたらす――それ以外に設定された真の目的のことを」

 尼僧は辛抱強くそう言った。かつては彼女たちも女神と呼ばれた存在だった。そういう意味でいえば、彼女たちも適性のあるパートナーを得ることがなかった――いま、こうしてここにいるということはそれを意味する――のだ。

「……時間を、ください」

 イシュタルはようやく答えた。目は開いているのに、なにかが見えているという認識がない。自分の内側にある、灰色のもやの存在だけを感じていた。その奥には暗くて硬い芯があることを彼女は知っている。ただ、これまでも、気づかないふりをしてきただけだ。

「あなたの中では、もう既に結論は出ているはず。回答を引き延ばすことに意味はありません。決断なさい。」

 尼僧の声だけが鮮明に響いてきた――


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「ペンギンも知らねえのか? なんにも知らねえんだな、おまえ」

 少年が太い眉をしかめた。ゴーグルの形に肌が灼け残った顔には、まだ髭の生える気配はない。そのくせ、人を物知らずと莫迦にしたがる、いけ好かないやつだ。

「飛べないくせに泳ぎが達者な、ヘンな鳥さ。砲弾みたいな、ツルンとした形をしてるんだ。おまえに似てるよ――胸がないところとか」

 なんだと。

「やるよ、これ」

 ふっかり、とした感触が掌に残った。「やる」ってどういう意味の言葉だっけ、と記憶バンク内を検索する。あまりにも唐突だったので、文脈解析がうまく働かなかったのだ。

 おかげで、反応も遅れた。少年が立ち去っていく。彼女は口を半分あけたまま、突っ立っていた。悪口ならばいくらでもキャッシュに残っていたのに、「ありがとう」という語彙は出てこなかったのだ。

 少年の背中が遠ざかっていく。まだ大人じゃないのに、すっかりそのつもりで肩を揺すっている。

 今回は、負けだ――そう思った。

 次は、かならず、仕返し、してやる。


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「おれは、ガンロードになんか興味ねえな。人の上に立つなんて、ぞっとしねえ。おれは命令されるのは嫌いだ。だから、命令するのも、いやだ」

 装甲の破れた戦車の上に寝転んで、すこし顔が長くなったあいつが言う。夜の空は星がいっぱいだ。

「だけどな――負けるのはもっと嫌いなんだよ。だから、トーナメントでガンロードとやらをぶちのめしてみてえ――」

 でも、昼間の戦いでは、あっさりと負けてしまった。戦車も自分も傷ついたのに、修理のあても何もないのに、少年は星を見ながら笑っている。

「トーナメントで優勝すれば、ガンロードになろうがなるまいが、誰に対しても顔を伏せなくていいだろ? だからさ」

 彼女は確信する。彼にはガンロードの素質がある、と。そして、彼をガンロードにするのは自分しかいないのだ、と。

 だが、その判断が必ずしも冷静なデータ蓄積の結果くだされたものではないことは、彼女にもわかっていた。

 だからこそ、彼らは成功しなければならなかったのだ。

 一緒にいつづけるために。


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  現在進行ファイル 22100408123548 随時上書き中


「そうよ――負けるわけにはいかないの。たとえ、相手が自分自身だとしても……!」

 イシュタルはリアル・ワールドへと意識を戻す。

 敵はのろのろとフィールドを移動中だ。芋虫のようにぶざまな動き。

 たとえ、相手が才能のある若い戦車乗りだったとしても――

 打ち倒さなければならないのだ。


          6


「くそっ! コントロールが戻らねえっ!」

 サンドマンは操向レバーをガチャつかせる。反応はない。女神がコントロール系を掌握してしまったが最後、パイロットはたんなるコクピットの錘(ウェイト)にすぎない。

 そんなことはわかっている。いつだって決定(ジャッジ)するのは女神なんだ。あるいは、女神をコントロールしている法(ロー)。パイロットにできることは、せいぜいわがままを言って女神を困らせることくらい。泣いたりわめいたり胸にすがったり、そして、ほんの時たま、頬を張り飛ばしたりすること――だけだ。

 サンドマンの記憶は女神のそれほど正確でも緻密でもない。想い出に識別ラベルなんか貼りつけられない。タイムスタンプもない。でも、忘れられない――忘れてはいけないことは、確かにある。


 たぶん――一五年くらい前。

「おれはな、ガンロードにならなかったら別れるっておまえが言うから、嫌々やってんだぞ!?」

 そう怒鳴って、なにかを壊した。グラスだったか、灰皿だったか――二人で買ったクリスタルまがいの置物だったかもしれない。

「好きで王様になったんじゃねえ!」

 喚きちらした。それでも、王様になってからいろいろ楽しんだことのも事実だ。そして、胸の一部がチクリと痛んだことも――それを表情に出すまいとしたことも――追想できる。

「なんでだよ!? なんで子供を作っちゃいけねえんだ!?」

 だれのせいなんだ?

 おれのせいなのか?

 おれのせいじゃないはずだ、おれはむしろ被害者だ。

 被害者ほど強いものはない。だから、そうであろうとした。その立場を補強するために、あいつに投げつける《よりひどい言葉》を探した。

「おれのタネじゃあ不満だってのか!? だったら、他の男をくわえ込めばいいだろ! おれを引っかけたみたいによ!」

 女神が泣いた。

 あいつが泣く声を初めて聞いた。

 泣かしてやった――勝った――ちっとも嬉しくない。



 最初の大祭が近づいていた。おれたちは、もうメチャクチャだった。

「終わりにしなければならない……」

 初めて逢ったときのように、あいつは機械みたいな声で言った。そして、感情のこもった声で言い直した。

「でも、終わりにしたくない……」

 ということは、まだ続けるっていうことなんだろう。

 結論が出せないままの猶予期間(モラトリアム)を、あと四年。

「いいさ……。しばらく茶番につきあってやらあ。王様暮らしってやつを楽しませてもらうよ。せっかくのご厚意だからな」

 あと少し、この関係が続けられることに、少しほっとした。王様でいつづけたかったからじゃない。その役柄を演じていれば――

 あいつと別れずにすむからだ。



 なのに。

 戦場に出ると、あいつはかんたんに結論を出しちまいやがった。

 おれを棺桶に閉じこめて。

「死ぬな! やめろ、イシュタル!」

 叫んだ。わめいた。ハッチを叩いた。

「おれが悪かった! ガンロードなんてどうでもいい! おまえさえ――おまえさえいてくれれば、おれは――」

 ――それではだめなのよ

 あいつが言ったような気がした。

 たしかに声が、一瞬だけど聞こえた。

 でも、それはとだえてしまった。

 たぶん、あいつは別れ際になにかを言ったのだろう。

 でも、聞えなかった。

 おれの耳には、聴きとれなかったんだ。



 棺桶の外では真っ白な光がすべてを包み――溶かしていた。

 血痕すら残さず、あいつは消えた。



 そして――今。現在進行形の今。

 血がにじんでいる。サンドマンは自分の拳を見た。ようやく、ヒフが破れて肉が覗いていることに気づく。

 状況は何もかわらない。喉と拳が痛くなっただけだ。《デザート・ペンギン》は戦場をゆっくりと走りながら、《ライオット・スター》を追い回している。

 すでに《ライオット・スター》は半壊状態だ。度重なる至近弾に装甲は剥がれ、構造材すら剥き出しになっている。たぶん、パイロットも無事ではないだろう。

 まるで、ねずみを虐ぶる猫だ。舌なめずりするように照準をわずかにずらし、相手を追い詰めている。窮鼠とは違い、《ライオット・スター》には反撃する余力さえ残っていないのだ。

 このままいけば、ジェイドという名の少年は死に、同時にアスタロッテという少女の人格も消滅するだろう。

 残るのはイシュタルだ。若々しい肉体を取りもどした、A級の女神(アンシェント・ゴッデス)だ。

 このトーナメントでは無理としても、失った地位や財産を取りもどすのはそんなに難しくないだろう。ガンロードに再びなることもできる。

 いや、そんなことはどうでもいい。

 あの時、失ってしまったもの――いちばん大切なものを――もう一度抱きしめることができるのだ。

 一二年ごしの望みが、かなう。

 サンドマンは目を閉じて、背もたれに身体を預けた。

 あと少しだけ数を数えてみよう。いくつか数えれば、そうすれば、きっと、何もかも元どおりになっているはずだ。

 幾度となく夢見たように――


           7


 涙が流れ出ていた。雄々しくもなんともない、恐怖にかられての涙だ。全身の水分がほとんど汗で流出しているなかで、奇跡的な涙だ。もうひとつ奇跡が起これば、たぶん失禁することもできるだろう。だが、そこまでの水分は残っていない。

 爆音が耳のすぐ後ろで断続的に続いている。熱すら感じる爆音だ。もしかしたら鼓膜はとうに破れてしまって、耳骨が直接、空気の振動を感じているのかもしれない。

 必死でレバーを操作する。横と縦のでたらめなGが身体を引き裂き、シートから転げでそうになる。突発的な嘔吐。まともな嘔吐ではなく、鼻の穴から酸っぱくて熱い液体をほとばしらせる。目もだ。涙腺を通ったのか。

 呼吸と視界を失ったジェイドは車体のコントロールを一瞬忘れる。ただでさえ速度が落ちているなかでのこの遅滞は、まさに致命的だった。

 横っつらをハンマーで殴られたような衝撃とともに、ジェイドの視界が回転する。戦車ごと転がっているのだ。

 壁に頭部を打ちつける。シートベルトがなければ、コクピットの中でボールのように転がって、いい具合に角が取れて丸まっていただろう。

 回転が止まったとき、どちらが上なのか下なのか――見当識を喪失していた。

 額が熱い。視界が真っ赤だ。血か。でも、たいしたことはない。次の瞬間には死ぬのだ。

 ジェイドは吐寫物と血にまみれながら、アスタロッテのいないガンナーシートに手をふれた。

 そこには誰もいない――そのこと自体が敗北のしるしなのだと思った。

 戦う前から、すでに敗れていたのだ。

 ジェイドはおぼろな意識のなかで待った――死を。

 だが、その刻はなかなか訪れなかった。あるいは、もう自分は死んでいて、最期の瞬間を永劫に待たされるという刑罰を受けているのかとさえ思った。

 ジェイドは顔の横にあるハッチの開閉装置に手をのばした。

 ハッチがこの位置にあるということは――機体はいま横倒しだ。

 だが、レバーを操作する必要はなかった。コクピットには大穴があいていた。

 ジェイドは、身体を固定していたハーネスを外すと、穴から外へ、ずるずると這い出した。

 まずそこが地獄なのかどうなのかを知りたかった。

 地獄ではなかった――だが、戦場の続きだった。地獄よりもひどい。

 数万――おそらくは一〇万に近い観客がフィールドを取り囲んでいる。まるで人に見えない――粒のようだ。そしてその粒は寂として声を出さない。静かだ。

 そして、ジェイドは顔をあげた。驚くほど近くに、《デザート・ペンギン》が停まっていた。アスタロッテが――いや、イシュタルがその上に立っている。白のローブを微風になびかせ、幼い目鼻立ちをあらわにしている。濡れたような黒髪が波打ちながら流れている。

 そして、その砲身はジェイドにぴたりと合わされていた。

「終わりよ」

 イシュタルが――破壊の女神が静かにつぶやいて、ジェイドの死を宣告した。

 ガコン――砲弾が装填される音をジェイドは聞いた。この距離で一〇五ミリ砲を食ったらどうなるのだろう。肉片ひときれでも残るだろうか――

 ジェイドは顔をあげた。最後にアスタロッテの顔を見たかった。話をしたかった。できれば――あやまりたかった。

 そして――ありがとう、と言いたかった。

 ジェイドに『人生』を意識させてくれた、初めての存在だったから。


 その時だ。

 コロッセオの空気が静止した。


 彼女は呆然として一点を見つめていた。それは《デザート・ペンギン》の機体の一部だ。緊急用の白旗掲示装置――そこから降伏をあらわす旗が伸び出していた。

「なぜ……」

 イシュタルがつぶやいた。それは次の瞬間、叫びにかわる。

「なぜえええっ! フォオオオオスウウウウッ!」

 ジェイドはなにが起こったのかまだ理解できない。

 観客も同様だったらしい。だが、徐々にその意味が伝わり、うねりになっていく。

 非難の声か、あるいは落胆か――すくなくとも賞賛の声はなかった。そこには勝利者がいなかったからだ。

「これは――無効よ。装置の故障よ!」

 イシュタルはわめき、装甲板の上に跪き、小さな拳でそれを叩いた。

「無効じゃない。降伏用の白旗は全システムがダウンしていても出せるように、手動になっている。つまり、女神(おまえ)でもロックすることはできない――たったひとつのシステムだ」

 ゆっくりとハッチが開いて、サンドマンが顔を見せた。イシュタルによるシステム封鎖が解除されたのだろう。

 イシュタルは涙目でサンドマンを見た。信じられない、と言うように首を左右に振る。

「あなたは――わたしを愛してないの? 戻ってきたのに――ようやく戻れたのに――」

「おれが愛した女は、イシュタルは――もう死んだ」

 サンドマンは静かに宣告した。その表情にはなにもない。哀しみも怒りも、諦念さえも、そこにはなかった。

 だが、イシュタルは立ちあがった。憤怒に形相が変わっている。

「わたしは生きているわ! 負けてなんかいない! 一二年前だって、わたしは負けていなかった! それを証明してみせる!」

「待て、イシュタル――勝負は終わったんだ。よせ」

 サンドマンがイシュタルを制止しようとローブを掴む。だが、少女はするりとローブを脱ぎ捨てると、ボディスーツ姿で砲身のすぐ脇に降り立ち、腕を振るった。

 DZ発光。そして、トリガーは引かれた。

 科学エネルギーが運動エネルギーに変換され、巨大な弾丸が長い筒の中で回転を与えられながら加速していく。



 壁が砕けた。透明な、尖った破片とともに、血まみれの少女が飛びこんでくる。アスタロッテだ――正確には、その人格プログラム。イシュタルが張り巡らせた防御壁(ファイヤ・ウォール)を打ち破ってきたのだ。

「ジェイドを殺すな!」

 必死の少女が足にすがりついてくる。

「お願いだ!」

「放しなさい! あなたになにがわかるの!? 子供のくせに!」

 イシュタルは精神領域に検疫プログラムを展開し、侵入してきたアスタロッテの意識を排除にかかる。少女の血と涙にまみれた顔がいびつに変形する。巨大な瘤が脹れ上がり、醜くなる。

「その少年があなたの何だって言うの!? かりそめのパートナーに過ぎないじゃない! そんな記憶なんか消去してしまえばいいでしょ!?」

 言葉を叩きつける。アスタロッテの紅い眼が見開かれる。

「そんな……こと……いやだ。ジェイドのことを忘れるなんて……絶対いやだ!」

「ばかな子! GPSとしての責任はどうしたの? ガンロードになれる戦車乗りは一〇万人にひとり――〇・〇〇一パーセントの才能――その可能性を見出し、善導することこそがGPSの……」

 言いつつ、イシュタルは混乱する。その言葉は、かつて、自分が優生保護委員に言われたのとそっくり同じだ。

 いや、ちがう。だって、フォースはガンロードになった。だから、自分は間違っていない。

 でも――

「お願いだ、イシュタル……ジェイドを殺さないでくれ」

 泣きじゃくる少女を振り払えない。

「なぜ……なぜなの。たったあれっぽっちの思い出、消したってかまわないじゃない。わたしとフォースの記憶に比べたら……ほんの……わずかな……」

「わたしにとっては、それがすべてなんだ」

 打ちのめされる。

 フォースとの記憶がフラッシュバックする。

 そのすべてを検索するのにインデックスだけならコンマ一秒もかからない。確かに、ほんのささいな記憶だ。

 だが、それを守るためにイシュタルはすべてを賭けたのだ。

 イシュタルは、リアル・ワールドの戦場で砲弾が近づくのを茫然と見つめている少年の顔を知覚した。

 その顔に――記憶バンクのセンサーが反応した。

 厳重にシールされていた最期の数秒間の記憶が再生される。


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  ファイルナンバー 21980411151551


 光が降ってくる。莫大なエネルギーを秘めたサテライト・レーザー。天空より来る怒りの槍。

 その白熱光のなかに浮かんだひとつの顔。

 父親に連れてこられたらしい、ほんの四、五歳の子供だ。たぶん、自立した人格が芽生えはじめたころだろう。

 なにも知らない瞳だった。水晶体を通じて、その無垢な心が透けて見えそうなほどに。

 ――引き換えにしてよいのか

 イシュタルは目を閉じた。

 ――いや、だめだ

 自分の昨日を繰り返すためだけに、この子の明日を奪うことはできない。

 ――ごめんなさい、フォース

 イシュタルは決断したのだ。サテライトレーザーの着弾点をおのれ自身とすることに。



 そうか。

 フォースを裏切って勝利を捨てたのは、わたし、だったんだ。

 フォースを捨てたのも、わたし、だったんだ。



「わたしは、ジェイドと一緒にいたいんだ」

 イシュタルと同じ顔をした少女が言った。

「それは、いけない願いなのか?」

 いけなくはない。でも、その願いは間違っているかもしれない――たぶん、一〇万分の九万九千九百九十九まで間違っている。

 それでも、とめられない想いはあるのだ。イシュタルはそのことを知っている。

 生きているものは、同じことを繰りかえす。

 よいことも、悪いことも、同じように。

 人も女神もそれはかわらない。

 けっきょく同じ過ちをおかすのかもしれない。

 ついに賢くなれないまま終わるのかもしれない。

 それでも――

 代替わりすることで何かが前に進むかもしれない。

 ほんのすこしでも、良くなるかもしれない。

 その可能性はある。

 人が、そして女神が――生きていく限り。

 だから、神さまは贈物をくれるんだ。

 生きるための糧をくれるんだ。

 愛すべきものをこの世に送りだしてくれるんだ。

 

 イシュタルはまぶたを閉ざし、それからアスタロッテを見た。

「ごめんね」

 そう言いつつ、手をさしのべた。


          8


 ジェイドは死が近づくのを静かに見ていた。

 こんなふうに砲弾が近づいてくるのを見る人間はそうはいない。

 一瞬ですらない、ごく短い時間のはずなのに、奇妙に間延びして感じられた。

 これは、人生を振り返れ、ということなのだろうか。はしれ走馬灯、というやつだ。

 だが、そんなに豊かな人生を送ってたわけではない。すべてはこれからだと思っていた。

 別れを惜しむべき相手もそうはいない。社長と、グレミーと、そして――

 アスタロッテ。

 車上の少女を見た。ボディスーツ姿の優美な肢体。全身がDZ発光に包まれ、黒髪がなびいている。その姿は――女神と呼ぶにはおさなすぎるが、しかし、じゅうぶんに神々しい。

 その唇が開く。

「ジェイド! にげろっ!」

 なんだと。

「はやくっ! 走れっ!」

 そんな言葉を発して、さらにそれがジェイドに届く時間があったとは思えない。だが、それでも、ジェイドは確かにその声を頭のなかで聞いた。

 ジェイドは手を地面について、反動をつけて立ちあがった。そのまま、折れたほうの脚で地面を蹴る。変な角度で地面が近づいてくる。急いで右の脚で踏みとどまり、身体を押し出す。

 ――走れっ! 走れ、おれの脚っ!

 次の瞬間、衝撃波が身体を叩いていた。飛んでいる。宙に浮きながら、ジェイドはアスタロッテを見た。恐怖にゆがんだ顔をうかべ、ジェイドに届けとばかりに手をさしのべている。

 ――届くわけないだろ、ばか

 わきでてくる笑いを久しぶりに感じながらジェイドは落下していった。

 ――これなら、死んでもいいかもな



《デザート・ペンギン》が放った一撃は、発射直後から微妙に軌道がそれていた。それは、突如発生した横風のためだった。

 その突風は、横倒しになった《ライオット・スター》をさらに吹き飛ばすほど強烈なものだった。

 軌道をそらされた砲弾は、そのまま防御壁にぶち当たり、その衝撃で観客の何人がフィールドに落下した。ケガはしたが、死ぬまでにはいたらない。

 いっぽう、爆風に飛ばされた少年は十数メートルを飛んで、落下した。

 ぴくりとも動かないその少年のもとに、戦車から飛び降りたボディスーツ姿の少女が、倒けつ転びつしながら走っていく。

 ぼろぞうきんのような身体にすがって、少女は悲痛な声をあげた。

「ジェイド! ジェイドぉっ!」

 揺すぶられる感覚に少年の意識が反応する。

 もっと眠っていたい。

 悪夢続きの最後の最後で、ちょっとだけマシな夢をみたんだ――だからそのまま眠らせてほしい。

「目をあけてくれ――たのむ、ジェイド……」

 ほんとうにうるさい声だ。どうしてそっとしておいてくれないんだ。だいたいにして、起きたらきっと全身痛いんだ。それどころか脚がなくなっていたりとか、腕がないとか、

きっとひどいことになってるに決まってる。だから、このまま眠ってたほうがいいんだ。

「死んだのか? わたしが殺したのか? 起きてくれ、ジェイド! 命令だ、起きろ!」

 命令されてしまった。ジェイドは目をあけた。条件反射かもしれない。

 すぐそばに、見たことのない女の子の顔があった。ぐしゃぐしゃに歪んでいて、涙とか鼻水とかいろいろで、それでいてなぜだかとても懐かしい感じの――

 その顔があっけにとられたように弛緩していく。それも初めて見る表情だ。

「生きているのか、ジェイド」

「おまえはだれだ」

「冗談をいってるのか?」

「名前をいえ」

「アスタロッテに決まっている」

 ジェイドは安堵の息をついた。そのまま意識が飛んでしまいそうになる。アスタロッテがあわててジェイドの首を抱いてゆさぶる。

「し、死ぬな!」

「い、痛い、動かすな」

 身体じゅうが痛くて意識をうしなうどころではない。やっぱり思ったとおりだ。でも、たとえ脚が消えていても腕がなくなっていても、目をさましてよかった、と思った。

「おい、わかってるだろうな」

 ジェイドは言った。

「なにがだ」

「降伏したのはそっちが先だからな。つまり、おれの勝ちだ」

「む」

 アスタロッテは眉をしかめる。負け、と言われるのは不本意らしい。

「あれはわたしがやったのではない。サンドマンが勝手に――」

 言いかけて、ジェイドを殺しかけたのを思いだしたらしい。声が小さくなる。

「おまえを撃とうとしたのはイシュタルだ。いや、それもわたしなのだが――なんというか、イシュタルはわたしの身体を勝手に使って困る」

「そんなことはどうでもいい。おれは勝ったんだ。認めるよな」

 アスタロッテの腕のなかで念を押す。それからジェイドは宣言する。

「だから、おれはおまえを分捕る」

 アスタロッテの表情がくるくる変わる。最後に、悔しそうに吐き捨てる。

「――わかった。分捕られてやる」



 サンドマンは、ハッチから上半身を出して、肘を装甲板についた姿勢のまま、外を見ていた。

『寂しそうね』

 女の声がした。ふつうではない。DZが運ぶ声だ。どこか遠くから、サンドマンにだけあてた言葉だ。

「おまえこそ、出番がなくなったな。これで今期も防衛だ」

 サンドマンは空に向かって答えた。どちらを向いてしゃべったってかまわない。相手に聞く気があれば、その声は届くだろう。

『ふふっ』

 女の声が笑った。どうやら届いたようである。

『ほんとね。一二年も待ったのに。あなたとイシュタルに返したかったわ、こんな荷物』

 まるで世間話をしているかのように屈託のない声だ。

「荷物……か。それを欲しがっているやつがこの世にはゴマンといるっていうのにな」

『白旗なんか掲げなかったら、あなたのものになったのに』

「一度なくしたモンだ。要らねえよ」

 サンドマンは低く吐息をもらした。

「それに、おまえだって、最後に《風》を起こして、イシュタルの邪魔をしたじゃねえか」

『いろいろ、しがらみができちゃってね』

 女の声がちょっと物憂げになった。サンドマンは唇の端をゆがめる。

「一〇万人にひとりの確率……か。おまえたちも莫迦なものを求めて旅をするんだな」

『だから、ガンロードを育てるのよ。確率はほぼ同じだものね。求められてる特質も同じだし』

「外れを引くかもしれないのにな」

 サンドマンは笑った。自嘲かもしれない。

『なにが当たりだったかは終わりの時までわからないわ。それに……』

 女の声のトーンが落ちた。

『宝物を手に入れたからといって、幸せになれるとは限らない。もっと辛いことが待っているかもしれない』

「――そうか。そうだったな……」


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