第五章 イシュタル

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 サイス・トーナメントもいよいよ残り二日。今日のカードは各ブロックの決勝戦――ここに勝ち残った四台が明日のファイナルに進出し、ガンロードへの挑戦権を競うことになる。

 むしろ最終日よりもおもしろいと言われる、いわば、大会のクライマックスだ。

 最初におこなわれたAブロックの決勝戦は、《サラマンダー》ヘイトリッド――女神は《サラマンダー》が一六歳のカーリー、《ヘイトリッド》は二四歳のクァントローと、新旧女神の対決となった。

 激闘のすえ、経験にまさるクァントローがカーリーを封じ、まずは《ヘイトリッド》が勝ちあがった。

 続いておこなわれたBブロック決勝は、優勝候補筆頭の《般若丸》と新鋭メイズ・ウォーカーの一戦。大会ナンバーワン女神、《涅槃》の蓮華に、今大会で頭角をあらわした《爆裂の乙女》ティルトウェイトが挑んでいったが、やはり実力の差は歴然で、《般若丸》が快勝をおさめた。

 そして、フィールドの整備時間をはさんで、Cブロック決勝が始まろうとしていた。



 時間の経過を感じさせない眠りからジェイドは醒めた。よだれをたらしていたのか、口許のシーツが冷たい。

 トレーラーハウスは、しん、としていた。だれもいないらしい。窓からさしこむ光はすでに午後のものだ。

 ジェイドはもう一度眠るべきかと考える。いっそ夜まで眠ってしまえば、すべてあきらめがつくかもしれない。

 そう思って目を閉じかけて、ふと枕元のぬいぐるみに気づいた。

 手垢で汚れたペンギンだ。左のヒレがちぎれかけているのを糸でぬいつけた跡がある。そういえば、これはアスタロッテが生まれて初めてやった裁縫だったな、と思い出す。お約束のように針を指に刺して大騒ぎしてたっけ。

 思えば、暴風雨に巻きこまれたような日々だった。これまで、あんなふうに怒ったり困ったりしたことはなかった。

 むろん、楽しいこともあった。トーナメントは刺激に満ちている。戦闘開始直前の張りつめた空気と、終わった後の解放感はたまらない。たとえ勝因の大半がアスタロッテの能力に依っていたとしても、その達成感と充実感はこれまで感じたことのないものだった。

 いや、それよりもなによりも、日々刻々と変化していくアスタロッテが不思議だった。彼女こそが嵐そのものだった。暴れ星(ライオット・スター)とはグレミーもよくぞ名づけたものだ。

 だが、その暴れ星はジェイドのそばから飛び出してしまった。

 もう他人のものだ――いや、たぶん、最初から。

 昨夜の《黒の女神》の言葉を思い出す。夢のなかの出来事のようにあいまいだが、その言葉そのものはくっきりと刻みつけられている。

『イシュタルのパートナーはサンドマンよ。名前もちがうし、姿もかつてからは想像もできないほど変わり果てているけれども。彼はこの一二年間、ほかの女神には目もくれず、ずっと待っていたのよ。イシュタルが再びこの地上に現われるのを』

 イシュタルのIDを持つ女神の生体反応が消滅した時点で、《カテドラル》に保存されている同じDNA情報を持つ胚の凍結が解除され、発育を開始する。そして、一〇年間の保育期間、二年の基礎教育期間を経て、見習い女神(アスタロッテ)として地上に降臨したのだ。

『イシュタルの記憶は《星》が保存している。そのメモリー・バンクにアクセスすることができるかどうか――そして、そのメモリーを受け入れるかどうか――は、すべて本人の意志にかかっている。アスタロッテがイシュタルの記憶を受け入れれば、彼女はイシュタルそのものになるわ』

 ――これでよかったのだ、ジェイドは結論づけようとする。自分は騒ぎにちょっと巻きこまれただけだ。もともと、いっしょにいるべきではなかったのだ。

 ジェイドは目を閉じて、寝返りをうった。振り払おうとする。眠ってしまおう――そう考える。

 だが。

 ジェイドは跳ね起きた。枕元のぬいぐるみを引っつかむ。

 こいつを返してやるだけだ。それくらいは――してやるべきだ。


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「ほんとうにいいのか」

 パイロットシートのサンドマンが訊いた。

 アスタロッテはガンナーシートで腕組みをしている。

「おまえもくどいな」

「わかった――回避アルゴリズムは憶えているか? その――以前使っていたものだが」

「イシュタルのメモリー・バンクはすべて掌握している。問題ない」

「そうか……」

 サンドマンはつぶやき、《デザート・ペンギン》をスタートさせる。

 コロッセオを歓声が揺るがす。

 いよいよCブロックの決勝だ。《デザート・ペンギン》ウィンディ・アッサム――いずれもトーナメントに参戦した時点では《女神なし》だったのに、いまでは女神を獲得しているという、大会屈指の変わり種対決となった。

 シン・ラクシュミが駆る《ウィンディ・アッサム》の新しい女神はアコンカグヤ――最初は《ヴォルカニック》のサポートをしていたが、一回戦で《ウィンディ・アッサム》に敗れ、《分捕り》のルールにしたがってシンと契約したのだ。

 《女神つき》を倒すくらいだから、シンのパイロットとしての能力はもともと高く、さらにアコンカグヤを獲得したことで勢いに乗り、一気にブロック決勝進出を決めたのだった。

 いっぽうのサンドマンも凄腕のパイロットであり、そして電撃的に移籍したアスタロッテは今大会で最も躍進した新人である。すでに格上の女神を三人も倒しており、潜在能力の高さを見せつけている。

 注目の一戦だった。

「むりはしなくていいからな。押されていると思ったらさっさと退いて、戦車まわりの防御にまわってくれ」

「おまえはわたしをバカにしているのか」

「そんなことはないが……一人で戦うのに慣れちまってな」

 サンドマンは困ったように笑う。

 試合が始まった。

《ウィンディ・アッサム》が様子を見るように動きはじめる。

 アスタロッテは、アコンカグヤとの情報戦に突入する。相手も連勝中の女神らしく、なかなかの出足だ。それでも、幾つか相手のシールドミスを発見し、そこにつけこんで相手の陣地に食い込んでいく。

《ウィンディ・アッサム》の動きが変わった。持久戦になると不利とみたのか、速攻に切り替えてきたのだ。続けざまに砲を撃ってくる。

 アスタロッテはその軌道を読み、回避パターンを戦車に送りこむ。

 だが。

 予想しない方向に《デザート・ペンギン》が動いた。アスタロッテのコントロールをサンドマンが手動でキャンセルして、自分で操縦したのだ。

 砲弾をギリギリのところをかすめていく。

「なっ! なぜコースを変える!? あぶないではないか!」

「ちがう。あれは罠だ。よけやすい方に動いていたら、そこを狙い撃たれていた」

「そんな……!」

 アスタロッテは再計算する。見落としていたデータが存在し、たしかにそのリスクがあったことが判明する。

「心配するな。おまえは見て――そしてもういちど学べばいい。おれとイシュタルが時間をかけて磨いていった戦闘の技術だ。もともとおまえのものだ」

 サンドマンは優しい口調でそう言うと、またもアスタロッテの予想を裏切る方向にブーストをかけた。

 ホバー式戦車のトリッキーな動きに、アスタロッテは対応できない。イシュタルのメモリーを読めばたしかにそういう機動パターンがあることが認識できるが、肉体のほうがその動きに慣れていないのだ。

 それにしても――アスタロッテはシートに深く腰を落ち着ける――なんという見事な操縦だろう。こんなに安心して見ていられる勝負もない。アコンカグヤとの情報戦にもしゃかりきになる必要はない。

 サンドマンは確実に敵を追いつめていく。

《ウィンディ・アッサム》の装甲が弾け飛ぶ。アスタロッテは、電脳空間でアコンカグヤが泣き叫んでいる声を聞いた。パイロットに降伏を勧告している。パイロットに罵声を浴びせられたのか、アコンカグヤがさらに泣く。肉体的な痛みの波動さえ伝わってくる。もしかしたら殴られたのかもしれない。

 アスタロッテは暗い気持ちになった。つまらないパイロットに《分捕ら》れたものだ。

「はやく決めてやってくれ。むこうのGPSがかわいそうだ」

「わかった」

 サンドマンはうなずくと、敵戦車の足を止めるべく、照準をしぼりこんでいった。


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 ジェイドはコロッセオの外壁を見あげながら走っていた。

 コロッセオからすさまじい歓声が聞こえてきた。かなりの盛りあがりだ。

 ジェイドは出場者パスを見せて、関係者入口からコロッセオの地下通路に入る。

 地下通路いっぱいに、頭上の観客の興奮が反響している。足踏みをしているらしい。天井が崩れるのではないかという恐怖さえ感じる。

 試合はどうなっているのか――ジェイドは焦燥に駆られて走る速度をあげる。歓声と足踏みとジェイド自身の靴音――そして砲声が重なる。

 通路の果てに達した。壁に切られた覗き窓からフィールドの様子が見える。

 勝負がついたようだ。敗れた戦車の履帯がむなしく空転し、降伏の意志を示す白旗が掲げられている。

 歓声と拍手のただなかで、勝利者がウィニング・ランを始めている。

《デザート・ペンギン》の上部ハッチが開いて、黒髪の少女が顔をのぞかせた。大きなどよめきが起こる。アスタロッテが顔をあらわにするのは初めてのことなのだ。あちこちでフラッシュが焚かれる。女神としての正式なお披露目いうところだろうか。

 アスタロッテがおずおずと手をあげる。とまどったような表情をうかべている。

 突然、アスタロッテの全身があらわれた。

 下から肩車されているらしい。持ちあげているのはむろんサンドマンだ。どうやって操縦しているのかはわからない。器用なものだ。

 ジェイドのいる角度から、アスタロッテのくすぐったそうな顔が見えた。笑いをこえらながら、それでも歓声にこたえて手を振っている。

 動けなかった。

 胸が激しく痛んでいる。場所がわからない。どこを押さえれば、どこを撫でれば痛みが弱まるのか――それさえもわからない。

 発作的にぬいぐるみをつかみ出していた。投げつけて、踏みにじって――

 だめだ。それではだめだ。

 歯を食いしばりながらジェイドは泣いていた。自分でも信じられないが、声が勝手に漏れていた。いつ以来だろう、こんな子供のように涙の粒が転がるのを感じるのは。

 勝利者が凱旋してきた。関係者通路があわただしくなる。ジェイドは急いで目をぬぐい、水っぽい鼻水をかんだ。袖がベトベトになる。

《デザート・ペンギン》が通路に侵入してくるのが見えた。

 アスタロッテがサンドマンに助けられつつ戦車から降りる。なにごとか興奮ぎみにしゃべっている。サンドマンは苦笑しながらうなずいている。二人は並んで歩いて近づいてくる。ジェイドがいるほうに。

 ジェイドは立ち去りたい衝動にかられた。いま、こんな顔をしているところを見られるのは死ぬよりつらい。

 だが――ジェイドは動かない。莫迦になれ、と自分に言いきかせた。笑われてもいい。いま逃げたら、笑われずにすむかもしれないが――ずっと悔やむことになる。

 サンドマンが先に気づいた。その雰囲気の変化を察したかアスタロッテが視線を動かし、ジェイドを見た。

 表情が変化する。まずい――という動揺、そして、逃げたそうな素振り――つぎに、ジェイドの周囲を確認するように目を動かす。

「――ジェイド、涙はそばにいるのか?」

「いないよ。おれ、ひとりだ」

「そうか、よかった」

 アスタロッテはすこし安心したようだ。

「シスターがいると困ることがあるのか」

「記憶を処理されてはかなわぬ――」

 アスタロッテは言いかけて、昨夜の不愉快な記憶を取りもどしたようだ。あからさまに不機嫌な表情をつくって、ジェイドをにらんだ。

「おまえもいったい何の用だ。わたしは不要なのだろう」

「忘れ物だ」

 ジェイドはペンギンのぬいぐるみを投げた。アスタロッテはあわてて両手をひろげてそれを受けとる。

「あ、あぶないではないか……落としたら、どう――」

 文句を言いかけるアスタロッテにジェイドは背をむける。

 一歩、二歩と歩く。このまま歩み去れば、それで終わる。

 終わらせるべきかもしれない。

 だが、ジェイドは三歩めを踏み出すのをやめた。振りかえる。アスタロッテと目が合う。黒髪の少女は、出しかけた声を途中で飲みこんだような顔をしている。

 ジェイドはサンドマンに視線を移した。老練な戦車乗りはまっすぐジェイドの視線を受けとめた。ゆるぎないものがそこにはある。

「ファイナル進出おめでとうございます」

 ジェイドは祝辞をのべた。

 サンドマンは笑わない。

「言いたいのはそんなことではないだろう」

 ジェイドはうなずく。前もって考えていたわけではないが、しかし、その言葉はよどむことなくすべり出た。

「おれも次に勝ってファイナルに出ます。そして、そこであんたを倒して――アスタロッテを分捕ります」

「ジェイド! おまえはなにを!?」

 アスタロッテが狼狽をあらわにして叫ぶ。

「おれはサンドマンに話してるんだ!」

 ジェイドは怒鳴った。アスタロッテは胸の前で腕を組んだまま黙りこむ。

 サンドマンは軽く笑うと、アスタロッテの頭をすっと撫でた。視線はジェイドに向けたままだ。目は笑っていない。

「まあ、そんなにいきりたちなさんな。挑戦は受けてやるよ」

 それから通路の奥の方を、あごでしゃくって見せた。

「だが、まずはファイナルへの出場権をとるのが先だろう。あんたんとこの社長がさっきオフィシャルと話してたぜ。棄権扱いにならないよう急ぐんだな」

 それには答えず、ジェイドは歩きだした。アスタロッテのすぐ横を通る。

「ジェ……」

 声をかけようとするアスタロッテを無視して、そのまま事務室に向かう。

 アスタロッテの顔をそれ以上見たら、たぶん自分を抑えられない。


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「出場するやと!?」

 フォイエルバッハが顔色をかえる。事務室にはオフィシャルのスタッフのほか、シスター涙の姿もある。

「もう棄権の話を通してしもうたぞ……!」

「おれは出ます。そのほうが、興行的にもいいんでしょう」

「そりゃあ試合数が増えたほうがええかもしれんが……」

 フォイエルバッハがオフィシャルの代弁者になって嘆息しかけるが、すぐに口調を引き締める。

「あかんあかん! 相手はD級ゆうたかて《女神つき》やぞ! かなうわけあらへん! それに戦車の整備かってしてへんやろ!」

「整備なら終わってるよぉ」

 顔を機械油で汚したグレミーがドアをあけて飛びこんでくる。

「んもう、調子はバッチリだよ! われながら最高の仕上がり!」

「グレミー、おまえなあ」

 フォイエルバッハが顔をおさえて嘆息する。

「そんなことゆうたかて、もう棄権するっちゅうて、発表されてもうたんや。いったん閉じた賭けを再開するっちゅうたら、たいへんなことやぞ。相手の承諾も得にゃあならんしな」

 ジェイドは、部屋の隅に顔をむけた。そこにはシスター涙がいる。神官服姿の涙はいつもと変わらず美しいが、帽子から金髪がこぼれだしているところが今までと少し違う。なんというか――すこし乱れていて、なおのこと艶っぽい。

「シスターから頼んでもらえませんか? おれが出場できるように」

「おいおいジェイド――シスターにそんなんゆうたかて……《カテドラル》は大会運営とは関係しとらへんのやで……」

 フォイエルバッハがあきれたように口をはさむが、ジェイドは涙から視線を外さない。涙もまっすぐジェイドを見つめかえしている。

 ややあって、涙が言った。

「わかりました……手をうちましょう」

「えっ……シスター?」

 驚くフォイエルバッハを尻目に、涙はオフィシャルに耳打ちする。オフィシャルの態度がたちまち変化する。なにごとかを確認するように小声で質問し、ますます表情が変わっていく。そして、あわただしく部屋を出ると、大声で部下に指示を出しはじめる。どうやら、《ライオット・スター》の棄権を取り消すための手続きが始まったらしい。

「いったい、どないなっとんのや……」

 フォイエルバッハはあっけにとられてつぶやいた。


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 観客席がざわめいていた。

 Dブロック決勝の開始が遅れていた。いったんは《ライオット・スター》の棄権により《ウォータージェイル》の勝ちあがりという情報が流れたが、その後、その情報は訂正された。車券売り場で客の一部が騒ぐなどのトラブルがあったものの、ほどなくそれも落ち着き、あとは試合を待つばかりという状況になったのだが、予定時刻を過ぎても試合は始まらなかった。

 しかも、雲がふえ、陽も傾いて、空が薄暗くなってきている。むろん、コロッセオに照明設備などはないため、日没後は試合はおこなえない。

 車券のレートも異常だった。だれもが《ライオット・スター》から女神が逃げたことを知っている。対する《ウォータージェイル》はここまでクジ運にも恵まれたとはいえ、D級にランクされる女神ウンディネを擁してブロック決勝まで進んだ強豪だ。したがって、《ライオット・スター》に賭ける者はほとんどおらず、あっという間に一〇〇対一を超える格差がついてしまい、車券売り場もシャッターを下ろしてしまうほどだった。

 予定時刻から一五分も遅れて、出場する戦車がようやく入場を開始した。まずは《ライオット・スター》だ。観客席からブーイングが飛びだす。待たされたことに対する怒り、結果が見えている試合に対する不満――それらが入りまじった憤懣の声だ。また、嘲りの声もあちこちから飛んでいた。

『女神にフラれて残念だったなぁ!』

『サンドマンに取られたんだってなぁ! 黒髪の彼女、さっきの試合で嬉しそうにしてたぜ!』

『よくものうのうと出てこられたもんだ!』

 むろん、戦車はなにも答えず、黙々と走って初期位置まで移動する。

 続いて《ウォータージェイル》が入場する。こちらにはそれなりの歓声と同情の声がとぶ。不戦勝がほとんど決まっていたのに試合に駆りだされたことを慰める声だ。

 ジェイドに罵声を飛ばしているグループのなかに、ダレンもいた。

 契約が終了したとはいえ、いちおうビーハイヴの看板を掲げて出場していた《デザート・ペンギン》の応援のためだったが、ダレンの機嫌はさほどよいものではなかった。朝から賭けを外しまくっていたのだ。《デザート・ペンギン》の応援に来ていながら、レートに惹かれて相手側に賭けたりしていたから自業自得なのだが。

「けっ、ジェイドのやつ、いい気味だぜ――と言いたいところだが、なんで《ウォータージェイル》の車券が買えないんだよっ! あのボケ、アホな勝負を挑みやがって――」

 しかたなく――というところがダレンらしいのだが、ジェイドの車券を一枚買っていた。

「へっ、あとでこの外れ券をヤツの顔に叩きつけてやるさ。ダメなやつはけっきょくダメだったってな」

 ダレンはニヤニヤしながら試合開始を待った。ジェイドがコテンパンにのされるところを見るために。



 地下通路の覗き窓の前にアスタロッテとサンドマンはいた。関係者はここで観戦するのだ。壕も兼ねているので安全性はかなり高い。もっとも、あまり見やすい場所とはいえないが。

 すこしはなれてフォイエルバッハとグレミーもいるが、距離があるのと、サンドマンが間に立っているのとで、アスタロッテとの接触は断たれている。

 いずれにしても、いまは敵と味方なのだ。笑って談笑できる間柄でない。

 アスタロッテはぬいぐるみを抱きながらフィールドを見つめている。

「ジェイドは……勝てるだろうか」

「勝ってほしいのか」

 サンドマンは感情をこめない声で訊く。

「――わからない」

 少女は小さな声でつぶやいた。


         6


 ジェイドはコクピットのなかで自分の呼吸音を聞いていた。

 せまいと思っていたのに、一人で乗りこむとコクピットはやけに広く――そして寒く感じられた。

「さあ、行くぞ――」

 むろん、返事はない。

 アスタロッテが隣にいる――どうやら、それがジェイドの「ふつう」になっていたようだ。

 相手は《ウォータージェイル》――パイロットはシェイン・ラドック、女神はウンディネ。特に派手さはないが、これまでの戦いぶりにそつはない。

 女神のサポートなしで勝てる確率は限りなくゼロに近い。

 呼吸が知らず速くなる。それに合わせるように、エンジン音が高まっていく。

 試合開始を告げる炸薬が爆ぜた。Dブロック決勝が始まった。

 つがえられた矢が放たれるように、《ライオット・スター》はダッシュした。

 万が一、勝つチャンスがあるとすれば、それは奇襲だ。

 照準もへったくれもない。懐に飛び込んで、撃つ。

 トリガ・オン。

 轟音がほとばしる。砲弾と追っかけっこをするように、ジェイドは戦車を走らせた。

 突きすすむ砲弾の後尾がたしかに見えた。

《ウォータージェイル》が動いた。必要最小限の動きで砲弾をかわす。

 爆炎が土埃をともなって巻き起こる。一の矢を外したのだ。

 次の瞬間、敵がカウンターを撃ってくる。完璧な照準だ。ジェイドは進路をむりやり変える。

 失った突入コースと速度は取りもどせない。次の瞬間主客は転倒し、ジェイドが追われる側になる。

 後方につかれた。

 観客席から失笑がもれる。不器用で、ぶざまな戦いぶりに見えたのだろう。

 だが、ジェイドはあきらめない。いまは逃げるときだ。

 後方から《ウォータージェイル》が撃ってくる。ジェイドはカンに頼って回避を続ける。

 二発三発とかわし、よし、と思った瞬間、四発目が至近弾になった。装甲をかすったかもしれない。

 激しい震動が車体を揺らし、履帯が悲鳴をあげる。

 かまわずジェイドは左右の履帯を反転させて超信地ターンをかける。ヘタをすれば履帯がちぎれてふっとびかねない乱暴さだ。

 回転するパワーを使って大きくコースを変える。

 アスタロッテが多用する回避パターンだ。むろん、アスタロッテならば、もっとスマートに、履帯に負担をかけずそれをやる。

 車体がすべっていく。砂煙があがる。これは煙幕のかわりだ。

 相手の横腹が見える。チャンスだ――が、まだ撃たない。

 アスタロッテが横にいたら、「撃つな、愚か者」という距離だ。

 待つ。

 待つ。

 もう一呼吸――

 いまだ!

 敵のバックが見えた瞬間にトリガーを押す。

 命中した。

《ウォータージェイル》が激しく揺れる。

 驚きのどよめきがあがった。圧倒的に押されていた《ライオット・スター》が先制したのだ。

 だが。

《ウォータージェイル》は揺らいだものの、沈みはしなかった。ジェイドの位置を正しくつかむと、ただちに反撃に転じる。

 ジェイドはよけそこね、前面装甲に二発食らう。一発は弾いたが、もうひとつは一次装甲を破った。

 コクピットそのものがひしゃげるような衝撃が襲う。実戦用の徹甲弾ならまちがいなく貫通ものだ。

 ジェイドは離脱コースをとりながら、全身総毛立っている。

 ――まだだ。まだ、戦える。

 呪文のようにつぶやく。そうすることで、血中にアドレナリンの分泌をうながすのだ。アドレナリンは毒だ。人間は自分のなかで作りだした毒を血中に流しこむことで、細胞を奮いたたせるのだ。心拍はすでに毎分二〇〇を超え、浅く早い呼吸になっている。それでも全身の細胞が酸素を求めている。足りない――足りないとわめいている。

 ジェイドは脳の芯の部分が揺らぐのを感じた。血中の糖の濃度が急速に下がっているのか。視界が暗くなり、指先の冷たさしか感じなくなる。それでも容赦なく横Gが体内の液体を偏らせる。

 動きが鈍った《ライオット・スター》に対して、《ウォータージェイル》が砲火を浴びせてきた。よけろ! ジェイドの脳が命じるが、指と足がうまく動かない。

 当たる。

 弾ける。

 機体が浮いている。履帯が空転する音が聞こえる。

 しまった――!

 ジェイドは制御を喪失した。


「ジェイド!」

 地下廊下の覗き窓にむかってアスタロッテが身を乗り出した。切れ長の瞳を見開いて、赤い虹彩の面積を極限までせばめている。次の瞬間、目を閉ざし、それでもたりず手で顔を覆う。

 爆裂音が連続した。戦場に煙がもうもうとたつ。

《ライオット・スター》は擱座していた。フィールドに放置されたスクラップに半ば乗りあげ、浮かんだ履帯が空転している。接地した側の履帯も完全には地面を捕らえてはおらず、地面を引っかいて、虚しく回っている。

 その時だ。

 雨が落ちてきた。

 突然の豪雨だ。

 地下通路にすら、その飛沫が飛びこんでくるほどの物凄さだ。

 観客席では悲鳴や怒号が響いていた。肌に痛みをすらあたえる雨足らしい。

 その雨に打たれながらも《ライオット・スター》は動かない。いや、動けないのだ。履帯さえ動かなくなってしまった。

 装甲板にもうもうと水煙をたてながら、《ウォータージェイル》は砲の照準をあわせる。横腹をさらした《ライオット・スター》は、まったくの死に体である。

「これまでだな」

 サンドマンはつぶやいた。アスタロッテを見やる。

「終わりだ。行こう」

 しかし――

「まだだ……」

 少女は震えをおびた声で囁くように言う。

「まだだ! ジェイド、まだ戦える――わたしなら、まだ戦う!」

《ウォータージェイル》の火砲が吠える。とどめの一撃をはなつ。

 その寸前。

《ライオット・スター》の接地した側の履帯が急速始動した。粘り気のある泥濘を噛んで、弾き飛ばす。機体が、スクラップを支点にして、ゆらり、回転を始める。

 半回転して、火砲の先端が《ウォータージェイル》に正対する――一瞬。

「撃てえ、ジェイドぉっ!」

 アスタロッテが叫んでいる。拳を突きあげる。

《ライオット・スター》の一〇五ミリ砲が炸裂した。

 一直線に走る砲弾は、その軸線上に、射撃体勢にある《ウォータージェイル》をとらえた。そのまま砲塔にぶち当たり、装甲を突き破る。

 ハッチがけ飛び、搭乗していたふたりが肩を抱きあうようにして脱出する。次の瞬間、《ウォータージェイル》は爆散した。

 豪雨のなか――コロッセオが大きく揺れた。人々がいっせいに声を放ち、足を踏み鳴らしたのだ。

 それは轟音だった。まちがいなく、大会最大の音量だった。


「やった! やったぞ、ジェイド!」

 アスタロッテはその場で小さく跳ねながら快哉を叫ぶ。

 が、その狂騒もすぐに沈静化した。

 勝者であるはずの《ライオット・スター》も、また、ぴくりと動かないのだ。

 ひと目見ただけでは、砲塔が吹き飛んでしまった《ウォータージェイル》と破損度はさほど変わらないように見える。

 オフィシャルが《ライオット・スター》に取りつき、ハッチを強制開封し、パイロットを運び出す。

「ジェイド……」

 アスタロッテはつぶやいた。

 少年は意識を失っているようだった。左脚が、あきらかに異常な方向にねじ曲がっている。

「あれはだめだな」

 サンドマンが冷酷に論評した。

「機体も乗り手も、明日の試合には間に合わない」


         7


 コロッセオ内にある医務室のベッドにジェイドは横たわっていた。腕にチューブを刺され、左脚をギブスで固定されて、まぶたを閉ざしている。

「左腓骨の骨折――コクピットの構造材にはさまれたんですな。単純骨折でよかった。あと肋骨も二本ばかり――これはヒビが入ってます。低血糖症も起こしていましたが、これは点滴で回復するでしょう。いまは鎮静剤の影響で眠ってますが、死ぬことはありません」

 コロッセオ専属の医師が負傷の状況を説明する。

「そのう……明日の試合は」

 グレミーが恐る恐る質問する。医師の眉があがった。

「そちらの戦車の操作方法にもよるが――左脚が使えないのは厳しいでしょうな。それに激しく揺すぶられるわけだから、まず痛みに耐えきれんでしょうね。まあ、戦車乗りってのは神経が通っていないような輩が多いから、べつに止めはせんが」

 こういうことには慣れている、とでも言いたげだ。戦車で撃ちあいをやっている人種を専門に診ている医者ならではの感覚なのかもしれない。

「おれは……出る」

 目をつむったままジェイドが言った。眠っていたのではないらしい。

「ええかげんにせえよ、おまえ」

 フォイエルバッハが強い声をだした。

「実力をわきまえいや。今日の相手にもボロボロやったやないか。勝てたのは万に一つの幸運や。あそこで雨が降ってこんかったら、おまえ、今ごろ穴だらけで死んどるんやぞ」

「おれが死んだら、死亡保険金で借金が返せるだろ」

「アホか! トーナメントで死んだヤツにいちいち保険金払っとったら、保険会社は破産するわい!」

「――そうか。そりゃそうだ」

「おまえは生きて、借金を返さなならんのじゃ。さいわい、ブロック優勝したんやし、ここで棄権すれば、賞金倍額や――おいしい話やないか」

 フォイエルバッハが熱心に口説きにかかる。

「賞金倍額となったら、もう一台戦車も買えるがな。足の速い、装甲もガッチリしたやつがな。な、会社を助けると思うて――」

「社長――おれ、うそついてた」

 フォースの言葉に、フォイエルバッハは黙る。

「ほんとうは町から逃げたかった。借金だとか、仕事だとか、そういうのをぜんぶ放りだして、どこか遠くに行ってしまいたかった」

 少年は目をふせたまま、つぶやくように言った。

「どんな形でもいい――おれが町から飛びだせる理由になるなら、それに飛びつきたいと思ってた。でも、そんな自分がいやで、会社のためだとか、グレミーだとか、理由をつけて、ごまかしてたんだ」

「ジェイド、わしはな」

「アスタロッテとの契約の話が出たときもそうだった。考えるより先に、卑怯者と言われるのがこわくて叫んでた。でも、おれは――おれのほんとうの気持ちは――」

 ジェイドはフォイエルバッハを見あげた。まっすぐに目を合わせる。

「おれはアスタロッテと行きたい。いまがいやだからとか、ここにいたくないからじゃない。ただ、そうしたいから、そうする――」

「ほんな……あったりまえのこと……よおゆう」

 フォイエルバッハが顔をそむけた。

「もともとおまえの人生やろ。好きにしたらええ」

「社長……」

「そのかわり、ぜったい勝てよ。でなかったら、借金一〇倍づけにして、おまえの息子の代まで払わせたるからな!」

 フォイエルバッハはいつもの口調で吠えた。続いてグレミーを睨みつける。

「おまえはなにしとんじゃ――とっとと《ライオット・スター》の修理にかからんか!」

「でも、あの状態じゃ……パーツもないし……人手だって……」

「アホんだら! ここはサイスやど。しかもトーナメント期間中や。パーツなんぞ腐るほど売っとるやろ。いままでの賞金つぎこんだら、なんぼでも手に入る。人手が足らんやったら雇ったらええ!」

「ぼくひとりで、そんな手配ぜんぶはムリだよぉ」

 グレミーが悲鳴をあげる。

「人のほうはこっちでなんとかしよう」

 入口のほうから声がした。

 初老の女を先頭にして、蜂の巣マークのついたツナギ姿の男たちが医務室に入ってくる。

「ビーハイヴの」

 フォイエルバッハが意外そうな顔をする。

「どういう風のふきまわしや」

 杖をついた初老の女が唇の端を持ち上げた。見事な銀髪を持ち、若い頃はさぞかし美人だったろうと想像させるが――いまはどちらかというと魔物に近い。

「今回はどうも、うちの若いのがいろいろ跳ねまわったようなんでな――ダレン! おまえ、ジェイドに言うことがあるんじゃなかったかい!?」

 ドスのきいた声を響かせて、背後にいる長身の男に鋭い視線を飛ばす。

「あっ、はい、社長」

 ダレンはひょこひょこと前に出て、愛想笑いを浮かべた。

「いやあ……実は、ジェイドの車券を買いましてね――これがものすげえ配当で――おれ、すげえもうかっちまって……ジェイドにはいろいろ悪いことしたなあ、と」

「なんやそら――現金なやっちゃ」

「もちろん、それだけじゃなくて……ジェイドの戦いぶりを見てて、こう、身体が熱くなっちまったというか、女神なしでもあんなふうに戦えるんだって思ったら、なんつーか、今までのことを、その……あやまりたくなっちまったというか」

 ダレンは頭をガシガシと掻きつつ言う。

「親父さんのこと、いろいろ言って、すまなかったな、ジェイド」

「いいよ、もう」

 ジェイドは片頬をあげた。

 ビーハイヴGSの社長、エレナ・ビーハイヴが銀髪のほつれを指で直しつつ言う。

「まあ、そのかわりといってはなんだが、うちの会社のメカニックを全員使ってくれてかまわないよ。サンドマンとはもう契約も切れているからね。同じ町のよしみってやつさ」

 フォイエルバッハはうなずいた。

「わかった。今回は助けられたる。そのかわり、修理の仕切りはうちのにやらせるよってにな――グレミー! おまえがビーハイヴの連中を使って、今夜じゅうに《ライオット・スター》を直すんや! ええな!」

「うっ……あっ……はいっ!」

 グレミーが敬礼する。


          8


 夜が更けていく。

 コロッセオ内部のガレージでは《ライオット・スター》の修理が突貫でおこなわれていた。金に糸目をつけずにかき集めたパーツを使い、グレミーの指揮のもとで、ビーハイヴの社員たちが仕事を進めている。

「ああ、ダメダメ! 《ライオット・スター》のギア比はジェイド用にチューンしてあるんだから、そっちのじゃなくて、こっち!」

 ねじりハチマキをしたグレミーが怒鳴り声をあげる。怒られているのはダレンだ。

「なかなか堂に入ってるじゃありませんか、グレミー」

 すこし離れた壁際に立って、いつの間にか現われたシスター涙が言った。

「ああ……あいつもちょびっとだけマシになりよった。ジェイドのやつもそうやが――若いもんってのは油断ならん」

 腕組みをしたままフォイエルバッハが言う。あごから頬にかけての不精髭が伸びて、顔の下半分がごま塩状になっている。

「でも、うれしそうじゃありませんか、社長さん」

「はっ! 社員としては全然話にならん、あんなもん」

 フォイエルバッハは吐き出すように言い、それから照れたように顔を崩す。

「いや……まあ、社長のわしも経営者としては失格でっけどな。もう大損や」

「そんなことありません。社長さんはすてきです」

 涙は前を向いたまま、ふんわりと言う。

「ジェイドの借金の件だって……ほんとうは積み立てていたんでしょう? 彼の将来のために」

 フォイエルバッハは驚いたように涙を見上げる。

「なんで、それを……」

「修道女のパートナーを選ぶにあたっては、それなりに事前調査はかけるんですよ。《カテドラル》もそこまで行き当りばったりじゃありません」

「じゃあ、あの野盗騒ぎも……?」

 涙はすまし顔のままだ。そうだとも違うとも言わない。

 フォイエルバッハはとうとう笑いだした。

「シスターにはかないまへんわ……脱帽や」

 視線をあげて、なにかを懐かしむように頬をゆるめた。

「ジェイドの父親もわしも元は戦車乗りでしてな。そりゃあ、やっぱり若い頃はガンロードを目指したもんですわ。まあ、わしはすぐあきらめて商売を始めましたけどな。ジェイドの父親はあきらめんやった。それがちょっと羨ましかったんですわ。だから、あいつが期待をかけとった息子が一人前になるまでは……ちゅうかですな。まあ、ずっとやもめやったんで、息子っぽいモンがほしかっただけかもしれまへんけど」

「社長さんは誠実な方ですのね」

「いや……ただのアホですわ」

 それでも、フォイエルバッハの表情は穏やかだ。そのフォイエルバッハを、涙は悪戯っぽく横目で見る。

「社長――なにかお忘れになってません?」

「忘れるって――なにをでっかいな」

「担保のお話ですわ、た、ん、ぽ」

 涙の言葉にフォイエルバッハは怪訝そうに首をかしげる。

「仮契約をアスタロッテが勝手に解除してしまった以上、社長には担保物件の引き渡しを要求する権利がありますけど――どうなさいます?」

 涙は艶っぽい笑みをうかべてフォイエルバッハに顔を寄せる。

 フォイエルバッハの頭部がゆだったように赤くなり、ひげが震えた。

「るっ、涙はん……そんなこと……」

「わたしはかまいませんのよ?」

 やさしい顔で涙が言う。金髪の一房がさらさらとふれて芳香をはなつ。

 フォイエルバッハの上気した顔が、すこしずつ平静にもどっていく。

「いやあ……その言葉は死ぬほどうれしいですわ。天にものぼる心持ちや――でも、あきまへん」

「どうして?」

「あんたはんは――わしにはもったいなさすぎる――というより、住む世界がちがいすぎる。これは逃げかもしれんけど――あんたはんが背負っているものはあまりにも大きいし、おもたい。わしがもっと若かったら、その荷物の何分の一かでも持ってあげられたかもしれんけど――」

「……気づいてらした?」

 涙は笑みを崩さずに訊いた。

「ジェイドの態度とか、オフィシャルのあわてぶりとか――それと、《カテドラル》がなんぼ砕けた団体ゆうても、あんたはんは聖職者とはちゃいます――ええ意味で、やけど」

「そう――わたしのふたつ名は《偽僧侶》というのですよ」

 涙は澄まし顔になる。

「もしも……もしもやけど……ジェイドとやり合うことがあったとしたら――」

 フォイエルバッハが言いかけるその口許に、涙は自分の唇を押しあてた。

 涙のほうが長身だから、ちょっとかがんでいる。

 数秒間、唇は重なりあって――離れた。

「その時は――わたしもベストをつくしましょう」

 そう言うと涙は歩み去っていく。後ろを振り返ることなく、まるで闇に溶けるように。

 ただ薫香のみをほのかに残し、シスター涙は消えた。

 フォイエルバッハはしばしその場に立ちつくし――唇に指を触れる。逃げていく感触を惜しむように、つぶやいた。

「うわあ、おっしいことしたなあ……」


         9


 サイスの夜は更けていく。トーナメント最後の夜だ。

「眠れないのか」

 サンドマンがキャビンを覗きこんだ。

 ソファーベッドにアスタロッテが腰かけている。ペンギン柄のパジャマだ。どうやら新しいものらしいが、少しサイズが大きすぎるようだ。

「――眠くない」

 アスタロッテはサンドマンを見ずに答える。装甲をたたく雨の音はすこし弱まったようだ。

「悩むことはない。あいつが心配なら戻っていい。おれは一人でもだいじょうぶだ」

 サンドマンは肩をすくめて見せる。

 アスタロッテの表情が動く。いくつもの感情を同時に含みつつ揺れ動く。

「だめだ。おまえは……一二年も……わたしを待っていたのに」

 サンドマンは黙る。

「わたしのなかでイシュタルの声が強くなっている。自分でもよくわからない。この声に従ったほうがよいのだろうか」

 アスタロッテは困惑したようにサンドマンを見上げる。

「今夜はここで……一緒に……寝てほしい」

 サンドマンはすぐには答えない。アスタロッテの顔が赤くなった。

「いまのはイシュタルの希望だ。わたしではないぞ。過度の身体接触は困る」

「わかってるさ」

 サンドマンがうなずき、アスタロッテの隣に腰をおろした。

 身体が触れあうか触れあわないか、ぎりぎりの距離だ。

 ただ、おたがいの体温は感じることができる。

「おれたちは――やり直せるんだろうか。やり直すことが、正しいんだろうか」

 いつものサンドマンの口調ではない。もっと若い――傷つきやすい――若者の声だった。

「正しいのかどうかなんて、知らない」

 アスタロッテが答える。いつもより大人びた声で。それがイシュタルの言葉づかいなのかもしれない。

「でも、イシュタル(わたし)は――それを望んでいる」

「イシュタル……」

 サンドマンはアスタロッテの肩を抱き寄せた。少女のなかで相反する力が一瞬せめぎあい――最終的にはサンドマンの腕のなかに落ちた。

「おれたちは何度――おんなじ問いを発しなくちゃならないんだろうな……?」

 装甲を叩く雨の音はやまない。ずっと、鳴りつづけていた。

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