第四章 サイスの夜
1
大会は順調に日程を消化していった。
そのなかで《ライオット・スター》は、意外や快進撃を続けていた。
二回戦の相手は、バート・グレイシャー駆る《タクラマカン》、守る女神はゾーディアック――五〇戦近くを経験したベテランの女神だった。
「ゾーディアックは《一二象限の悪魔》ってよばれているけど、それって自走地雷(オート・マイン)を前もって敷設する名人ってことさ。そこに敵を追いつめて、動きを封じてしまうんだ」
女神のことならなんでも知っているグレミーが、カードや雑誌から仕入れた知識を伝授してくれたものだった。だが、アスタロッテは戦前から自信満々で、グレミーのアドバイスすら聞き流していた。
ふたをあけてみると、最初の一分でゾーディアックとの情報戦を制し、自走地雷の展開中の《タクラマカン》を強襲。《ライオット・スター》に追い立てられた《タクラマカンは》みずから敷設した地雷原にはまりこみ、履帯を切って降伏した。
三回戦ではブロックの優勝候補にあげられていた《静寂の音叉》マインドシーカーとの対戦となったが、音波を使ったマインドシーカーの精神攻撃に対して、それをそっくり反転させた音波をぶつけることで無力化に成功し、大方の予想をくつがえして《ライオット・スター》が勝利をおさめた。
あとひとつ勝てばブロック優勝、ファイナル進出決定である。
トーナメント初参戦でありながら格上の女神を連破したことにより、アスタロッテへの注目度も一気に高まった。今大会限定ではあろうが《ザ・ルーキー》なる愛称もつけられた。
なかでもグレミーが狂喜したのは、女神カードの版元のバローコ社が正式に取材にきたことだった。グレミーが取材窓口を買ってでて、手製の能力分析表まで提出する始末。だが、シスター涙が「仮契約中ですので」とやんわりと取材を拒否、カードへの収録は見送られることになってしまった。おかげでグレミーの体積が一気に四分の一くらいになってしまったほどだ。
「ちぇっちぇっ、こうなったらヤケ喰いしてやるぅ」
と宣言した傷心のグレミーを慮ってのことがどうかしらないが、三回戦で劇的な勝利をものにした夜にはフォイエルバッハも財布のひもをゆるめ、サイスでも最高級にランクされる名店で宴席を張った。
「いやあ、ほんま驚きましたわ。うちのボロ戦車とぼんくらパイロットがなんと八強に残ったんでっからな。これはもうひとえに女神っこちゃんのおかげや。もうなんぼでも飲んで食うたってください」
ボウタイにタキシードに身を固めたフォイエルバッハは、ワイングラスを手に、すこぶるつきの上機嫌でアスタロッテに賛辞をおくる。
アスタロッテもまんざらではない表情で、赤い液体が満たされたグラスを取った。中味はむろん酒ではない。シスター涙の教育的配慮で、ぶどうジュースである。
シスター涙は今夜は正装で、エメラルドグリーンのイブニングドレスにパールのネックレスをつけている。おそらくはフォイエルバッハのプレゼントだと思われるが、かなり値の張るものだと想像される。清楚な涙によく似合っているが、胸ぐりがやや深すぎるのが、男性陣には目の毒だ。
アスタロッテもいつものローブとフード姿ではなく、白地のセーラーカラーのブラウスに深い臙脂のプリーツスカート、黒のニーハイソックスにパンプスというスタイルである。左手首のブレスレッドにはペンギンのマスコットがついている。
いっぽう、かろうじてご相伴にあずからせていただきました、といった形のジェイドとグレミーは、制服兼用ジャケットに油染みのついたシャツとジーンズという、いつもの出で立ちで、入店拒否される寸前だった。いまはテーブルの隅にふたり陣どり、この機を逃すまいと、必死に手とあごを動かしている。
「アスタロッテにもいろいろ買っていただいたりして――社長さん、ずいぶんもうけられたのですね」
アルコールが入ってすこし頬を染めたシスター涙が言う。ジェイドは不思議に思うのだが、《カテドラル》には飲酒についてのタブーはないのだろうか。それ以外にもいろいろと融通がききそうな教団である。
「もうけ、ったって、そんなん、微々たるもんですわ」
フォイエルバッハがすこし警戒感をにじませて答える。まだ「担保」のことが頭にあるらしい。
「まあ、それでも、大損っちゅう事態だけは避けられそうでっからな。女神っこちゃんとシスターに心ばかりのお礼を、と思いまして、この席をもうけさせてもらったんですわ」
「戦果に満足してもらえたのなら、わたしも嬉しい」
アスタロッテはうなずいた。自分の手首を見る。
「このブレスレッドも実によいものだ。気に入った」
「女神っこちゃんはペンギンが好きなんやな」
うんうんとフォイエルバッハはうなずく。
「それにしてもや、もしもブロック優勝でもしたらどないする? ええと、明日の相手はどんなんやったっけ」
「――《ウォータージェイル》って戦車で、女神はウンディネ――」
口のなかを食べものでいっぱいにしながらも、こういう話題にはかならず参加するのがグレミーである。
「ふたつ名は《水の記憶》っていうけど、どういう得意技があるかはわかんない。女神カードのランクではE(エッジ)だよ」
「それやったら、女神っこちゃんはD(ディヴァイナー)級の女神を二人もやっつけとるもんな、きっと楽勝やで」
「あとづけのランクなど関係ない。《星》の能力と各GPSの演算速度が勝敗を分ける――それだけだ」
ぶどうジュースのグラスを傾けながら、アスタロッテは余裕しゃくしゃくだ。なんとなくジェイドは気に入らないが、自分にはあまり関係ない話題だと判断し、料理を腹につめこむことに心をくだく。いろいろ苦しいこともあるが、トーナメント期間中、うまいものが食える機会に恵まれているのは素直にありがたい。
「ちゅうことはブロック優勝か――それやったら、ガンロードへの挑戦権を争うかわりに賞金倍増でめでたしめでたしやな」
さっそくフォイエルバッハは皮算用をはじめる。
サイス・トーナメントでは、ブロックを制した四台の戦車に決勝戦への進出権が与えられるが、この権利を行使せず、かわりに高額の賞金を受け取れるというシステムがある。逆に、決勝へ進むことを選択すると、賞金の大半をあきらめなくてはならなくなる。勝てばむろんガンロードに挑戦できるのだが、負ければそれまでの勝利がほとんど無意味になってしまうのだ。
さらに、決勝で勝利したとしても、ガンロードとの試合はその日のうちにおこなわれるため、挑戦する側にとっては圧倒的に不利となる。そのため、時にはブロック優勝者が全員決勝進出権を放棄することさえあるのだ。
「ちょっと待て。わたしは試合放棄などしないぞ!」
アスタロッテがグラスをテーブルに乱暴に置きながら言った。
「次も勝ち、その次も勝つ。ガンロードとも戦う」
あわててフォイエルバッハはとりつくろう。
「いやいや、それは今回の主旨っちゅうもんを考えたら、ちゅうこって。ほら、賞金でもって、お支払いをお願いしているわけやから……。女神っこちゃんかて、ガンロードに絶対勝てるっちゅう自信はないやろ?」
「たしかに過去のデータからもガンロードの強さは明白だ。彼我の戦車の性能差は覆うべくもない。相手のGPSのスペックは不明だが、いままで戦った相手とは比較にならないだろうとは予測できる。さらに、パイロットの能力差はほとんど絶望的だ」
アスタロッテはパイロットについて言及するときにジェイドのほうをちらりと見て、言葉を続けた。
「だが、ガンロードとの戦闘は得がたいデータ蓄積の機会だ。逃したくない。それに、たとえ敗れたとしても、べつのトーナメントに挑戦すればよいではないか」
「別のトーナメントっちゅうたって……」
フォイエルバッハは絶句した。
ジェイドのほうを見る。
若鶏のから揚げを口いっぱいに詰めこんでいたジェイドには話がまったくみえていない。
微妙な空気のなかでシスター涙がさりげなく話柄をかえる。もうなんべんも繰りかえされている、今日の試合についてだ。
アスタロッテが上機嫌で展開をふりかえる。また、談笑がはじまった。
2
「アスタロッテ、起きろよ! おいったら」
ジェイドは、テーブルにつっぷしたアスタロッテの肩をつかんでゆすぶった。
しかし、少女はまったく目をさます気配がない。無邪気に眠りこけている。
「すごく元気だったけど、やっぱり疲れてたんだね――この顔いただき!」
グレミーがカメラのシャッターをおろしながら言う。
「修道女同士の闘いは脳内の演算系を酷使しますから、見た目以上に消耗するのです」
シスター涙の説明にフォイエルバッハはうなずく。
「まあ、女神っこちゃんはようがんばったからな――寝させといたり」
「でも、どうするんだよ、これ」
「おまえがおぶったればええやろ。宿はすぐそこや。それっくらいの労働はせい、仮契約とはいえおまえの相棒やろが」
「ちぇっ」
ジェイドは舌打ちして、アスタロッテの腕をひっぱり、自分の肩に乗っける。
「おい、グレミー、手伝えよ」
「いいなあ、ジェイド……いいなあ」
「あのな。べつに替わってやってもいいんだぞ」
「でも、ぼくだとアスタロッテをひきずっちゃうよ」
自分の短い手足をうらむようにグレミーはつぶやく。
なんとか少女の身体を背中に乗せて立ちあがる。無意識にか、アスタロッテも腕をまわしてくる。
店を出ても、まだ通りはにぎやかだった。人通りも多く、すべての店があかあかと灯をつけて客を誘っている。トーナメント期間中は一晩中こんな感じなのだ。
「まさか、連戦連勝の《ザ・ルーキー》がこんなところでおんぶされてるだなんて、誰も思わないだろうね」
グレミーが痛快そうにささやく。そうだな、とジェイドはうなずきながらも、先を歩くフォイエルバッハとシスター涙がひそひそと話しているのがなんとなく気になった。そういえば食事中にもへんな雰囲気を感じた。それに、いくら勝利に舞いあがったからとはいえ、あのケチなフォイエルバッハにしてはいろいろと張りこみすぎのような気がする。
宿に着くまでのあいだ、フォイエルバッハと涙はずっと話しこんでいた。
3
宿――といっても、急遽参戦をきめたフォイエルバッハ警備保障がそうそうまともなホテルを確保できるはずもなく、トレーラーを改造した臨時宿泊所を一台ぶん押さえるのがやっとだった。それでも、観戦にきた人々の多くが市城の外にテントを張ったりして野宿をしているのに比べればずいぶんマシだ。
トレーラーは内部が続き部屋ふうに改造されていて、奥が《カテドラル》勢の寝室、手前が居間兼フォイエルバッハ警備保障勢の寝場所、という感じだ。手前の部屋のソファはフォイエルバッハが専有するため、グレミーとジェイドは寝袋使用である。もうジェイドはすっかり寝袋に慣れてしまって、ベッドの寝心地を忘れてしまったほどだ。
ジェイドはアスタロッテを奥の部屋まで運び、ツインベッドのひとつに寝かせた。まったく目をさます気配がない。実に安らかな寝顔だ。こうやってみると歳相応というか、たんなる子供である。とてもではないが、頭のなかに超高性能の軍事コンピュータを詰めこんでいるとは思えない。
「ジェイド――ちょっとええか」
ドアの向こうからフォイエルバッハが手招きする。ジェイドは毛布をかけなおしてやってから、そちらに向かいかけ、アスタロッテの枕元にペンギンぬいぐるみが鎮座しているのに気づく。ずいぶんくたびれたが、まだ現役らしい。
ドアを後ろ手に閉めて、ジェイドは居間に入る。そこにはフォイエルバッハと涙だけがいた。
「あれ、グレミーは?」
「ちょっと外させようとおもてな――酒買いにいかせたった。駄賃でカード買うてもええっちゅうたったから、すぐはもどってこんやろ」
ソファにどっかり座りながらフォイエルバッハが言った。いつもとすこし雰囲気がちがう。椅子に腰かけているシスター涙もなんとなく――会った最初のころに戻ったような感じがする。
ジェイドは居心地の悪さを感じながら、フォイエルバッハが目で示した椅子に腰を落とした。
「いちおうおまえにはゆうとかなあかんとおもうたから話すんやが――」
フォイエルバッハが両手の指を組みつつ口を切る。
「さっきシスターと相談してな――明日の試合で勝っても負けても、その時点で仮契約を終了することにした」
ジェイドはその言葉を頭のなかでゆっくりと反芻する。ということは、つまり――
「ど」
ジェイドは声が大きくなりかけるのを自覚してトーンをさげた。
「どうしてです――シスター、そんなに急に」
「ジェイドは最近のアスタロッテをどう思います」
涙はジェイドの質問には答えず、別のことを訊いた。
ジェイドはあっけにとられる。
「どうって……いわれても」
「表情のパターンや語彙が大幅に増えたと思いませんか」
「そ、そう言われればたしかに」
最初のころはめったに見られなかった笑いを最近ではよく見せるようになったし、はにかんだり、逆に意地をはるようなことも増えたようだ。なにより、さっきの寝顔のような無防備な顔を見せることが多くなった。
「前もお話ししたように、アスタロッテは保育カプセルから出て、ほとんど経験を積んでいない状態でみなさんに会いました。あの子は、みなさんの影響を受けることで、情緒面で大きく成長しつつあるのです」
それって、悪影響をあたえているってことを皮肉って表現しているのだろうか、とジェイドは勘ぐった。グレミーを外させたのはそのせいかもしれないと邪推してもみる。
「それは若い修道女にとってはとても大切なことで、みなさんには感謝しています。けれど、このままではアスタロッテの成長に大きな問題が発生する怖れがあります」
ほうら、きた、とジェイドは思う。やっぱりグレミーが教えた、女神カードに載るときの心得だとか、カメラマンの前でとるべき決めポーズとかがいけなかったのだ。
「アスタロッテは、ジェイドさんと正式契約を結びたがっています――というより、結べるものだと信じて疑っていません」
「――すいません、その正式契約っていったい……」
「正式契約とは、修道女――GPSの専属的なサポートを受けるかわりに、パートナーとしての義務と責任を負うことです。具体的には、各地のトーナメントをGPSと転戦してガンロードを目指すことです。たとえば――ヒカリとレオのように」
「それ……って」
「へんな話やが――」
フォイエルバッハは髪が残っている後頭部を撫でながら言う。
「結婚――みたいなもんや。ふつうの意味での夫婦とはちがうけど、同じ人生の目的を持って生きていくんや。やっぱり、結婚ちゅうてもええやろう」
「けっ……」
ジェイドはそれ以上声が出なくなる。
「でも、修道女の契約はそういうものであってはならないのです。情緒で決めるべきものではない。よきガンロードを育てるために、感情を超えて判断しなければならないのです。アスタロッテには、まだ、正式契約を結ぶ相手を見きわめる能力がそなわっていません。みなさんによくしていただいたから、その状態をこれからも続けたい――というわがままを言っているにすぎません」
シスター涙にはいつもの柔らかさは微塵もなかった。もしかしたら、これがほんとうの彼女なのかもしれない。職業的な倫理観がすべてに優先するプロフェッショナル――という感じがする。
「これはあまりやりたくはなかったのですが……アスタロッテの記憶を消去します」
「記憶を――消す?」
「ええ。記憶領域が最適化されたGPSは記憶の制御が外部から行なえるのです。情緒面での経験値が失われるのは残念ですが、戦闘データは残すことができます。彼女は非常に優秀なGPSとして、才能あるガンロード候補のサポートができるようになるでしょう」
涙は表情を変えずに言い切った。ジェイドはどう返していいのわからない。だが――
「記憶を消すのって、ひどくはないですか」
そのことだけは強く思った。だから、考えるより先に言葉がでた。
「記憶っていうか、想い出っていうか――それって、自分がだれなのかを確かめるための大事なもんだと思います。それを消したら、アスタロッテがかわいそうだ」
涙は静かにうなずいた。整った――整いすぎてさえいる唇がゆっくりと動く。
「それはそのとおりです。でも、いまのアスタロッテは、あるべきアスタロッテなのでしょうか?」
「どういう意味ですか」
混乱するジェイドに涙は口調をかえて言葉を続ける。
「言葉をかえましょう――いまのアスタロッテはジェイドさんやフォイエルバッハ警備保障のみなさんといることを望んでいます。でも、それではよきガンロードを育てるという本来の目的はかないません。トーナメントを転戦し、経験をつむことができないからです。それでは逆に、たとえばジェイドさん、あなたはアスタロッテのためにいまの生活を捨てることができますか?」
アスタロッテと旅をする――トーナメントを転戦しながら――ジェイドはフォイエルバッハを見る。
「おれは……社長に借金があるし……」
「あのな、ジェイド、借金のことやが……」
フォイエルバッハが言いかけるのをジェイドはさえぎった。
「知ってるよ。親父のぶんにおれのぶん――もしかしたら一生かかっても払いきれないかもしれないけど、おれは逃げたくない。それに、もしもおれがいなくなったら、会社はどうなるんだ」
戦車一台きりのフォイエルバッハ警備保障は常にギリギリの経営を迫られている。フォイエルバッハとグレミーだけになってしまったら、とても立ち行かないだろうことはジェイドにはよくわかっている。
「そのことやけどな――いよいよとなったら会社はたたもうとおもうとる」
「社長!」
ジェイドだけではなく、涙も驚いたような表情をうかべている。そこまでは打ち合わせていなかったらしい。
「わしも歳やしな。警備の仕事も組織力の時代や。そろそろ潮時やとはおもうとったんや」
「でも、そんなことしたら、グレミーはどうなるんだよ!?」
「それについても、前々からビーハイヴの社長に話だけはしとったんや。そのときは、おまえと、グレミーを二人とも、っちゅう話やったけど。グレミーもあれでメカニックとしての腕はなかなかやからな、ビーハイヴでもやっていける」
「なに気弱なこといってんだ、社長! おれとグレミーでフォイエルバッハ警備保障を盛りあげてみせるよ! あの会社はおれの家でもあるんだからな! 絶対に潰させるもんか!」
ジェイドは激昂してフォイエルバッハに詰めよった。そして気づく。毎日身近で見ているため気づかなかったが――いつのまにか、フォイエルバッハの顔には老いがせまっている。目がおちくぼみ、頬の肉もたるみを見せている。
「あのなあ、ジェイド、おまえが行きたい道はおまえが決めればええ。借金うんぬんのことだって、どうとでもなる。さっき、仮契約を終了するって言ったのは、これを機会に正式契約にすることも選択肢のひとつにはあるということでもあるんや」
「いやだ!」
ジェイドは激しく首を横に振った。
「おれはガンロードになんかならない! もともとおれはトーナメントなんか大っきらいなんだ! 女神にだって興味ない! アスタロッテと契約するつもりは、これっぽっちもないんだ!」
涙がちいさくため息をついた。
「決まりですね――ランドシップの修理もおかげさまで終わったところです。明日、試合が終わったら、アスタロッテを連れてサイスを離れましょう――記憶の処置もランドシップの設備でおこなえますし――」
そのときだ。
寝室につづくドアがゆらりと動いた。
戸口のところに、髪を乱したままのアスタロッテが立ちすくんでいる。眼だけが赤くて、あとは白黒写真のようだった。
「アスタロッテ……!」
シスター涙が手で口をおおった。
ジェイドは痺れたようになって、まともに振りかえることもできない。視界の端に、少女の歪んだ泣き顔を見たような気がしたが――錯覚だったかもしれない。
アスタロッテがなにか叫んだ。言葉とはいえなかった。赤ん坊の悲鳴というか、けだものの絶叫というか――なにかそのようなものだった。
そして次の瞬間に衝撃波がきた。ジェイドはよろめき、テーブルの上のコップ類が吹き飛び、ガラスが砕けちる。
「待ちなさい! アスタロッテ――待って!」
床に倒れ伏した涙が叫んでいる。
ジェイドのそばを細い影が走りぬけていく。トレーラーの出口が内圧に弾けるように開き、人影がそこから駆けだしていく。
あっという間のできごとだった。
「あの子……DZを振動させて――あんな突風が起こせるなんて」
ガラスの破片で切ったのか、頬に血をにじませながら涙がつぶやいた。
「それにあの声は、マインドシーカーの共鳴波攻撃を応用したものだし――戦った相手の能力を採りいれながら、予測以上に力を拡大させている――」
「あほんだらっ!」
ソファにめりこんでいたフォイエルバッハがジェイドを怒鳴りつけた。
「こんボケなすが、いらん情けをかけくさって! とっととあの子を捜しにいかんかい!」
「あ……ああ」
ジェイドはよろめきながら立ちあがった。
4
アスタロッテは走りつづけていた。まとまった考えはなにもなかった。ただ足を動かしていただけだ。自分が裸足でいることも自覚していない。
話し声で目がさめた。ジェイドの声が聞こえた。フォイエルバッハと涙の声もしている。きっとグレミーもいるのだろう。自分だけ仲間はずれにしてけしからん、しかってやらねば――そう思った。
ドアが完全に閉まってはいなかった。アスタロッテはその影に立って、飛びだすタイミングをはかろうと思った。
――アスタロッテの記憶を消去します
涙がそう言うのが聞こえた。アスタロッテは混乱した。なんの話をしているのだ?
聞き耳をたてた――意識さえ集中させれば、DZを活性化させて、ドア越しの会話でもはっきりと聞くことができる。
脈拍が速度をあげていく。戦闘時よりもずっと速くなる。汗が吹き出し、知らず歯がカタカタ鳴る。
そして、決定的な言葉が耳に突き刺さった。
――おれはガンロードになんかならない!
――女神にだって興味ない!
――アスタロッテと契約するつもりなんか、これっぽっちもないんだ!
なにかが砕けた。
そこから先の記憶はない。気がついたら走っていた。そして、走っていることに気づくと、足の痛みを認識した。
走るのをやめる。足の裏が傷だらけだ。血がにじんでいる。
身につけているのはブラウスにスカートだ。着替えることなくそのままで寝ていたのだな、とようやく気づく。
そこは市街のどこかだった――どこをどう走ってきたのか、平常時なら問題なくトレースできるはずなのに、メモリーのどこをさがしても移動量と方角のデータが残っていない。
アスタロッテは生まれて初めて迷子になった。
さほど大きな通りではない。小さな酒場が立ちならんでいる。酔客が千鳥足で闊歩しつつ、たまに下品な声で歌っている。厚化粧の女が新たなカモを引っ張りこもうと、さまざまに媚態をつくっている。
アスタロッテは凝然として立ちつくした。
「おっ、どうしたい、お嬢ちゃん、こんなところで」
「いったいどうちたのかなぁ」
いい感じにきこしめした中年男の二人連れだ。今日のトーナメントで一山当てたのか、ずいぶんとご機嫌だ。
アスタロッテは眉をひそめる。比較的他人との会話には慣れてきたものの、こういうタイプの会話には経験値がすくない。
「だまってちゃわかんないなあ? どこから来たの?」
中年男はアスタロッテの姿をしげしげと見て頬をゆるめる。
「おうちはどこなのかな? 送ってってあげるよ」
その問いかけにアスタロッテはすこし考える。「うち」という言葉が指している意味からすると、《カテドラル》が一番近いかもしれない。彼女はそこで生まれたからだ。だが、そこに帰りたいという意識はまったくない。次いで、ムーバル・テンプルだが、これも乗り物であるにすぎない。「うち」という言葉でいちばんしっくりくるのは、実はフォイエルバッハ警備保障の三階だったりする。
しかし、質問の意図からすると、現時点での「うち」とは、宿にしていたトレーラーハウスのことになるだろう。
「宿には――帰れない」
道順をロストしたということもあるが――ジェイドと顔を合わせることはたぶんもうできない。明確に拒絶された。それに、もどれば記憶の消去が待っている。
男たちはすばやく顔を見交わした。二人とも酔いがするっと抜けて、別種の人格が立ちあがったかのようだった。
「それじゃあ、おれたちのところにくるか?」
アスタロッテは顔をあげた。
「泊めてくれるのか?」
「もちろんさ。きみさえよければね――」
「それは助かる」
アスタロッテは礼をのべた。ひとに親切にしてもらったら礼を言え、とはジェイドにくりかえし言われたことだ。最近はほぼ反射的にそれが言えるようになった。
「いやいや、感謝するのはこっちのほうさ。おれたちは今日はツイててね。《ザ・ルーキー》ってのに賭けててさ。それがけっこういいもうけになったのさ。そのツキのおかげかな、きみみたいな子とも出会えたし」
「ほう」
アスタロッテは興味を惹かれる。
「おまえたち、《ライオット・スター》に賭けたのか?」
「ああ、そんな戦車の名前だっけっか」
「《ライオット・スター》はよいチームだろう? そうは思わぬか」
「え? あ、まあ、そうだな」
男は言いつつ、アスタロッテの腰を抱いた。アスタロッテは抵抗せず、そのまま歩きながらしつこく訊く。
「強いチームであろう。GPSとパイロットのバランスがとれていると思わぬか」
『この子――ちょっとアタマがアレだな』
『まあ、いいだろ。そのほうが都合がいい』
男たちはひそひそと会話をする。ニヤニヤ笑いが互いの顔に刻まれている。
二人でアスタロッテをはさむようにしながら、暗い路地に入ろうとする。そこに。
「ちょっと、待った」
間延びした感じの声だ。緊張感がまるでない。
男たちが振りかえる。その顔面にパンチがたてつづけに入る。
拳と拳のタイムラグ、コンマ数秒の間隔をあけて、男たちは地面に叩きつけられた。
「すまんなあ――ちっとばかしトサカにきていてよ、警告するヒマがなかった」
拳のぬしである不精髭の男が唇の端をゆがめる。口調は穏やかだが、目つきはものすごい。
「なっ、なんだ……てめえっ!」
鼻をおさえながら男の一人がわめく。
「おれたちは、まだなにも……っ!」
「あのな。おれは議論はきらいだ。アタマよくないんでな。おまえらがたとえ超ウルトラ善人で下心ゼロパーセントだったとしても、おれはおまえらが視界に入っているかぎりぶん殴る」
「こ……こいつ……サンドマンだぜ」
顎をおさえながらもう一人の男が涙目で言った。トーナメント期間中、売り出されている新聞にはパイロットや女神の写真が掲載されている。顔出ししていないアスタロッテはともかく、サンドマンの顔はじゅうぶん知られているのだ。
いずれにせよ屈強の戦車乗りで、三回戦も突破した強豪だ。腕っぷしでも勝負にならない。
「ちくしょおっ! 素人に手をだしやがって!」
「おまえの車券、もう買わねえからな!」
妙な捨てぜりふを吐きつつ、男たちは路地裏に逃げ去った。
「おい! わたしの宿はどうなる!」
アスタロッテは男たちを呼び止めようとしたが、もう姿が消えた後だ。
「――困るではないか。彼らに宿を提供してもらう予定だったのに」
唇をとがらせてサンドマンを見あげたアスタロッテは表情をかえる。
「おまえか」
「よお、お嬢ちゃん。いつもいっしょの坊やはどうした?」
「――べつに。わたしはひとりだ」
顔をそむけて言いよどむアスタロッテを、サンドマンは不思議そうに眺める。
「どういうこった? パートナーをほっといてパイロットはさっさとおねんねか? それにしたっておまえ、なんで裸足なんだ」
「うるさいな。おまえには関係ない」
アスタロッテは歩きだす。サンドマンはビーハイヴだから敵だ、というシンプルな認識がアスタロッテにはある。
「待てよ。さっきのおやじどもじゃねえが、このあたりでそんな薄着でふらついてりゃ、襲ってくれといわんばかりだぞ? ここいらには、おまえくらいの歳の娼婦だってめずらしくないんだからな」
サンドマンは困り顔でアスタロッテの後を追う。
「悪いことは言わねえ、宿へもどれ。送ってやるから」
アスタロッテは立ちどまり、くるっと振りかえる。どこかで耐性を超えてしまったらしく、泣きべそをかいている。
「だから……宿には帰れぬと言っておるだろうが……」
「なんなんだよ、まったく……」
サンドマンは髭面を情けなく歪めて嘆息した。
5
「ほう、これが《デザート・ペンギン》か。間近で見るのは初めてだな」
アスタロッテは、黒い装甲をぺたぺたと触った。
ホバー式の高機動戦車だけに、装甲も素材からしてちがう。重量を減らすために複合素材を大胆に使っている。
「たしかに、腹のほうは白っぽくて、ペンギンに見えなくもないな」
「おいっ、あんまり騒ぐな。人に見られるだろ」
そこは出場者用の駐機スポットだ。宿を確保していない出場パイロットたちは自分の戦車のまわりでキャンプを張るのだ。三回戦も終了して、駐機スポットもずいぶん淋しくなっているが、まったくの無人というわけでもない。
「人に見られて、なにか問題があるのか?」
無邪気に聞きかえすアスタロッテにサンドマンは頭をかかえる。
「ブロックこそちがえ、おれとおまえはこの先対戦する可能性があるんだぜ。ヘタをしたら八百長疑惑をかけられて、縛り首だぞ」
「む。なるほど」
アスタロッテはおとなしくサンドマンのほうにやってきた。足音をしのばせているつもりのようだ。
サンドマンは先に立ち、グラン・クルーザーの船腹のハッチを開けて中に入る。
グラン・クルーザーというのは、ランドシップを小型化し、そのかわり運動性を高めたものだ。それなりの居住性と運搬力を備えながら格闘戦にもある程度対応できる、という中間的なタイプである。
「おまえはこれで旅をしているのか? 《デザート・ペンギン》ではなく?」
タラップをのぼってハッチのふちに手をかけながらアスタロッテは訊いた。
「ああ。《デザート・ペンギン》は分解して格納庫に積むのさ。まさか、小型の機動戦車で大陸を走りまわるわけにもいかないだろう」
手を差しのべながらサンドマンは言う。ひょいとつかんで少女をひっぱりあげる。
「力持ちだな」
感心したように若い女神が言う。サンドマンは困ったように鼻を鳴らした。
ハッチから入ったところからすぐ前がコクピットで、後ろがキャビンになっている。サンドマンはキャビンにアスタロッテを招き入れた。
「おれはコクピットで寝るから、おまえはここを使え」
もともとグラン・クルーザーに許された居住スペースは小さい。四人も入って席につけば、それでいっぱいというくらいだ。それでも、ベッドを兼ねているらしい造りつけのソファとテーブル、ミニキッチンなどの設備は整っている。
だが、キャビンは殺伐としていて、生活臭がなかった。ソファに毛布がかかっているのと、床に酒の空き瓶が転がっているのがせいぜいだ。壁に写真の類が飾られているわけでもなく、このキャビンに起居する人物のプロフィールをうかがわせるものはどこにもなかった。
「なにもないな」
アスタロッテは感想をのべた。
「ペンギンの人形などがあるのではないかと期待したのだが」
サンドマンは顔をしかめる。
「なんでそんなものがあると思うんだ」
「なぜなら、おまえは戦車に《デザート・ペンギン》と名づけているからだ。それは明らかにペンギン愛好家の行動パターンだ」
アスタロッテは断言する。ますますサンドマンは苦る。
「おれがつけたわけじゃねえ」
「む? ならばだれが命名したのだ? その人物はなかなかよいセンスをしていると思うぞ」
アスタロッテは、ペンギンのマスコットがついたブレスレッドに視線を落して、うんうんとうなずきながら言う。
サンドマンは顔をそむけた。見てはならないものを見てしまったかのように。
「おまえ……どうしてそんなにペンギンが好きなんだ?」
サンドマンの問いに、アスタロッテは目をあげる。
「飛べないうえに走れもしないのに、それでも泳ぐというのがおもしろい。ジェイドが教えてくれたのだ」
「――そうか」
サンドマンはつぶやいた。
「偶然ってのは、あるもんだな」
6
ジェイドは通りを走りまわっていた。
サイスの繁華街はまったく眠ることを知らず、あきることなく宴を続けていた。そんな喧騒のなかで、一人の少女をさがすのは絶望的に困難な仕事だと言えた。
いろいろな人をつかまえては訊いてみたが、ほとんどが酔っぱらいで要領をえない。たまに似たような背格好の少女を見掛けると娼婦だったりして、ジェイドは赤面して退散する羽目になった。
途中からはグレミーも加わって捜索範囲を広げてみたが、まったく手がかりさえつかめない。
もう夜半をとっくにすぎている。ジェイドは雑踏のなかで立ちどまった。
アスタロッテはいまどうしているのだろうと思う。身を守る力はあるはずだ。DZを振動させて空気を盾にすることができる。声を武器にすることもできるようだ。
だが、その力を適切に使えるかどうかはわからない。あまりにも常識というものがない。
それに、最近の傾向として、他人に対する警戒感というものが弱まっている気がする。はじめのころとは一八〇度反対だ。
たしかに、涙のいうとおりだ。アスタロッテはジェイドたちといっしょにいることで変化して――それはきっと女神としてはふさわしくない方向にむかっている。
見つけなければ、と思う。そして、涙のもとに返さねばならない。本来のアスタロッテに戻すために。
――矛盾している。
自分のことを忘れさせるために、アスタロッテを捜している。
だから、見つけられないのかもしれない、と思った。
もしかしたら、自分はアスタロッテを連れもどしたくないのかもしれない――自分のことを忘れてもらいたくないのかもしれない―――
ばかな。
ジェイドは浮かびあがった疑念を振りはらおうとする。そのとき――
既視感(デジャ・ヴ)が襲う。
雑踏のなかに、黒い影をとらえた。
黒いローブの女だ。
ヒカリの言葉を思いだす。
『あとは自分で答えを探しなさい――あの子といっしょにね』
ここにアスタロッテはいない。答えを見いだすためにはジェイド自身が動かなければならないのだ。
ジェイドは走った。酔客のあいだに割りこみ、罵声を受け、こづかれながらも、なんとか雑踏をぬける。黒いローブの女が角をまがる。それを追う。
そこはいつぞやの路地だった。ヒカリがいた場所――女が曲がった小径。
そして今日は、その路地の奥にちいさな灯火が光っていた。
看板のない店だ。オープンテラスがあって、そのテーブルに女は着いている。
ローブの奥で唇が笑みの形になる。白くて長い指が動いて、ジェイドを招く。ジェイドはよろめきながら、そのテーブルにまで進む。
テーブルには赤いワインを満たしたグラスがひとつ。女が指を鳴らすと、ウェイターが同じものをジェイドの前においた。
「おかけなさいな」
女がハスキーな声で言う。聞いたことのあるような、ないような。いずれにせよ、耳のうしろがぞくぞくとふるえるような感じがする。
ジェイドは警戒しながら椅子に腰かける。女がグラスを持ちあげるが、ジェイドはそれにはならわない。
「乾杯しないの?」
「訊きたいことがある」
「わかったけど、乾杯が先――それがルールよ」
ジェイドはグラスを取った。チン、と硬い響きがあって、赤い液体が女の唇に消えていく。ジェイドも形ばかり、口にふくんだ。甘い――香りのつよい酒だ。ワインはワインだが、たぶんそれだけではない。
「お話は?」
女の口調は楽しんでいる。
「あんたは――だれだ」
「ストレートな質問ね。でも、あなたは答えを知っているはず」
女の唇が笑みをかたちづくる。ジェイドはそこから目が離せない。
「ほんとうは、サイスのガンロードのパートナー……だろう」
グレミーがコクピットに持ちこんでいた新聞に載っていたような気がする。顔は写っていなかったが、たしかにこの女に似ている。でも、それだけじゃない――
「それで?」
女は肯定も否定もせず、ジェイドを試すように先をうながした。
「一二年前――あんたは白い女神と闘っていた――おれは親父とその試合を見ていた」
「そんなふうに言われると、自分が歳をとったみたいでいやだわ。もうそんなに経つのね」
女が肩をすぼめた。ローブから覗く肌には一点のくすみもなく、テーブルに置かれた指にも年齢をまったく感じさせないというのに、たしかにその言葉にはある程度の年齢を経た者の憂いが感じられた。
だが、ジェイドには相手を観察している余裕はなかった。自分の記憶を追いかけるので精一杯だ。
「すごい戦いだった――でも、結末をおぼえていないんだ。あんたが勝ったのは確かだ。いま、ガンロードのパートナーなんだから。でも、どうやって決着がついたのか――思い出せない」
黒の女神の唇がかすかに動いた。笑いか――つぶやきか――
「白い女神が逆襲していた。あんたは押されていた。そうだろ?」
「ええ。そうよ。あの子は強かった。戦車もパイロットもこちらより一枚上だった。当時、大陸最強のチームだったわ」
「あんたは追い詰められながら、手を差し上げた――こんなふうに」
ジェイドは天を指差した。黒い女神は、そんなジェイドを見つめている。
「白い女神が……フードから髪がこぼれて……」
わからない――思い出せない――すごく大事なことのようなのに。
ジェイドはテーブルに突っ伏した。頭が、舌が痺れる。ほんの少ししか飲んでないのに――酔っている。
ろれつがおかしくなった。
「女神って……なんなんだ?」
ジェイドはのどの渇きをおぼえてグラスにまた口をつける。今度はごくごくと飲み干す。
「おれにはわからない。《カテドラル》もわからない。なんのために、女を戦車に乗せるのか――なんで、ガンロードなんてものをつくったのか……。みんな、それについて、だれも疑問を口にしない。女神は、なんのために、戦わなくちゃ、ならないんだ……」
「あなたは《大戦》を知らない」
女は静かな口調で言った。
「世界が、地球っていう名のちっぽけな玉にすぎなくて、ボタンを押しあうだけで、燃やし尽くせてしまえる、そんな戦争が起こりえたことを知らない。だから、そんなふうに思えるのよ」
ジェイドの朦朧とした頭に、女の声だけが入りこんでくる。
「《大戦》は、そんな地球を、昔の地図のように平べったくする戦いだったの。そのためのDZだったのよ。戦争当事者たちは、戦局を不利にしないために、それを使うしかなかったのだけれど、DZが撒かれることで、世界は確実に広くなっていった。空を飛ぶことを封じ、遠くの国と交信することを不可能にした。電子機器――コンピューターの多くを破壊して、コミュニケーションの手段を削っていった。だから、この大陸も、ほかの世界から隔絶された」
女は、なおも続ける。
「人の手にあまるほど世界が広くなれば、全滅戦争はもはや起こしえない。ひとつの地域の支配権を永遠に争うように仕向ければ、その地域のなかで戦いは循環し、安定する。エスカレートしようのない戦闘が定期的に起こる場所は――平和なのよ。そのひとつの方法論がガンロード・システム。そして、それを誘導するのが女神よ」
「それが……《カテドラル》の……」
「でも、それは建前。そういう使命がある――というのが《カテドラル》の教義。女神のそれぞれは、そんな理由で戦っているんじゃないわ」
黒衣の女のフードがわずかに上がって、形のいい鼻とサージカルテープが見える。漂ってくるのは不思議な香りだ。ジェイドも知っている。名前はなんといったか――
「女神はね……女よ。ちょっと変わった、ただの女」
そう言っていったん言葉を切る。そして、うすく笑いをうかべて言葉をつむぐ。
「だから、殺しあうの」
ジェイドの身体はもう動かない。それが女神の術なのか、飲んだ酒になにか入っていたのか――判断はできないし、しても無駄なことだ。
「わたしは、シジフォス(SISYPHUS)――戦略的インターリンクシステム&暫定指令ユニット搭載衛星(Strategic Interlink SYstem; Provisional Headquarters Unit Satelite)の《星》のもとに生まれた女。そして、一二年前、わたしと戦った女神は、イシュタル(ISHTAR)――侵略衛星・戦略的人工知能指令ユニット搭載型(Invading Satelite Headquarters; Tactical ARtificial intelligence)――を《星》にいただいていた。わたしたちはほぼ同時にカプセルを出て、修行をはじめた」
同じ型のローブとフードに身をかためた新米の女神ふたり。期待と不安に胸をときめかせながら、それぞれのパートナーを捜す旅に出たのだ。
「イシュタルとわたしはガンロードの資質を持つ男を探す旅に出掛た。そして、イシュタルはサイスの守護女神になり――わたしは敗れた」
かんたんな言葉で表現しているが、きっとそこにはいろいろなことがあったのだろう――そんな気がした。多くの闘争が――勝利と敗北が――友愛やいたわりの時もあったかもしれない。だが、ひとつの席にふたりは座れない。
「わたしは復讐の女神となった。アズールと契約を結び、サイス・トーナメントに挑んだ。それが一二年前のこと。あとはあなたのほうがよくおぼえているのではなくて?」
記憶が誘導される。ジェイドの過去の空白部分を埋めるように、止まっていた時間が流れ出す。
シジフォス、そしてイシュタル――その勝負が決する一瞬を。
「あんたは空から光を降ろして――白い女神を撃った」
「サテライト・レーザーよ。軍事衛星のとびきりのやつ。《大戦》期の究極兵器。地球上のどこにでも――地球外の敵さえ――狙うことができるのよ。これを扱える女神がすなわちアンシェント・ゴッデスなの、実のところはね。だから、禁じ手。使ってはならない。わたしはその禁をやぶった」
黒の女神の声に自嘲の色が濃くなっていく。
「おまけに照準ミス――観客席に直撃――それをあの子が、曲げた。自分のほうに。イシュタル――ばかな子」
フードのなかで女神が笑っている。いや――泣いているのか?
はっきりと記憶が蘇る。幼いジェイドは、女神が手を差し伸べるのを見ていた。
ローブからあふれた濡れたような黒い髪――あかい瞳。見たことがないほど美しくて、それでいてよく見知っているその顔は――
「……アスタロッテ?」
黒い女神がうなずく。
「そうよ。アスタロッテはイシュタルと同じ胚から育った子。同じ《星》を持つ、イシュタルの生まれ変わり、よ」
7
――なぜ、わたしはここにいるのだろう?
アスタロッテは懐かしいコクピットに座っている。《ライオット・スター》のコクピットのようだが、細部がちがう。
どうやら戦闘中のようだ。激しく震動が伝わり、身体のあちこちが痛む。
パートナーは防戦に手一杯な様子だ。まったく、いつまでたっても頼りにならないとアスタロッテは思う。でも腹はたたない。だって、だからこそ自分の居所があるのだから。
助けてやるかと思いつつ《星》に意識をつなぐ。DZをかけ橋にして、さまざまなデータが流れこんでくる。
ランダムで無秩序なデータだ。まるで、おもちゃ箱をひっくり返したような――
莫大な量のメモリー。消去するに忍びなかった想い出のかけらたち。
アスタロッテはそれらと直面する。今までは存在すら気づかなかった『イシュタル』のラベルのついたメモリー・バンク――そのチャンネルを開いてしまったのだ。
ようやく、気づく――これはイシュタルの――わたしの――過去だ。《星》のなかに、それは保存されていたのだ。
心が、はねおどる。
姉妹のことを思い出す。
同じタイミングでカプセルを出た。だからふたりは姉妹になった。
きょうだいの名前はシジフォスだ。金髪にブルーアイのとてもきれいな子。容貌についてはいつもコンプレックスにさいなまれた。
二人はほとんど同じ時期に修行に出て――そしていくつかのトーナメントで顔をあわせた。親友であると同時にライバルだった。こっぴどく負かされたこともある。それが悔しくて必死に努力もした。
勝ったり負けたり――その経験のすべてがイシュタルを成長させた。
トーナメントのたびに仮契約を重ね、契約が終了するとパートナーの記憶だけを消去していく――そうしないと戦えないから――
だが、ついにイシュタルは出会った。自分が育むべきガンロードの卵をみつけた。
それは、向こう意気ばかり強い、口の悪い少年だった。顔を合わせればケンカばかりした。それでいて、遠くを見つめる目が澄んでいた。だれにも黙して語らないが、大きなものを秘めているように思えた。
初めていっしょに戦ったとき、それがわかった。この少年となら、いっしょに戦いつづけられる。いや、それはそんな理由ではなく――
こいつのことを、忘れたくない。
だから、契約を結んだ。たがいにギリギリまで意地を張っていたから、最後までドタバタだったが――おさまるところにおさまった。
転戦を続け、先輩女神にコテンパンにやられ、ひたすら貧乏暮らし。移動のための足さえ事欠き、レンタル戦車でワンナイト・トーナメントを勝ち抜き、賞金を稼いでなんとか生き長らえたこともあった。
なんとか戦車を手に入れ――次にグラン・クルーザーにステップアップし――それがふたりの家になった。
戦車には、大好きなペンギンにちなんだ名前をつけた。グラン・クルーザーには《ペンギン・ママ》、機動戦車には《デザート・ペンギン》――と。パートナーは心底いやそうな顔をした。そんな名前の戦車で戦えるかよと言って、トーナメントでは、別の、武張った名前で登録申請したものだった。それに対して、イシュタルは猛烈に抗議をおこなうのが常だった。
そんなくだらないケンカもしたし、いつもいつも楽しいことばかりではなかったけれど、《ペンギン・ママ》のキャビンで抱きあって眠れば幸せな夢がみられた。きっと明日にはいいことがある、と信じることができた。
そして、いつしかイシュタルの能力は最高レベルに達していた。サイスのトーナメントで強豪を次々と倒し、気がついた時には頂点に立っていた。
ついにパートナーをガンロードの座に押しあげたのだ。その日の夜――プロポーズされた。忘れない。その夜のことを忘れない。一秒あまさずレコードして、パッケージして、いちばん深いところにしまいこんで――
でも。
それがゴールだったのだろうか?
頂点に達したら、それがいつまでも続くと――そう信じていたのに。
なにかが少しずつ変わっていく。気づいたときにはすべてが変化を始めていた。
でも、それはやむをえないことだ。人間は――女神も――完璧ではない。
最後の答えはいつも幸運に頼るしかない――あるいは奇跡に。そして、プレゼントは彼女の枕元までは届かなかった。
それでも守らねばならなかった。ふたりで築きあげてきたものを失うことはできない。
わずか四年――いや、その四年でイシュタルは疲弊しきっていた。限界に達していた。
そして、イシュタルの前にシジフォスがあらわれた。トーナメントを勝ちぬいた挑戦者として。かつての親友。姉妹同然、いや、分身といってもいい存在。だが、その表情はすでに見知らぬ人のそれだった。
イシュタルにはわかっていた。シジフォスに勝つことはできないことを。
女神としての実力は拮抗している。パイロットの能力も――たとえふやけていても、イシュタルが選んだ男だ――引けはとらない。戦車だって、かつてのボロではない。フルチューンの高性能マシンだ。
だが、頂点の四年間を経たイシュタルには決定的な何かが失われていた。
それでもギリギリまで粘った。相手よりも少しでも《星》へのアクセス速度をあげるため、戦車から出た。自分自身をアンテナにして、DZとシンクロさせ、莫大なデータのやりとりをし、それを処理しつづけた。
衛星の陣取りは互角だった。こちらが押せば、むこうが押しかえす。千日手の様相さえ帯びはじめた。なにしろ、シジフォスとは幾度となく戦い、たがいの手の内は知りつくしている。
だが、イシュタルが欠いていたものをシジフォスは持っていた。
それは執念だ。どうしても相手を倒す、という心の力だ。
シジフォスが抜いた禁断の刃――サテライト・レーザー――を感知したとき、イシュタルは敗北を覚悟した。
だが、サテライト・レーザーの照準はほんのわずか狂っていた。イシュタルはそれに気づいた。
守りぬいた――そう思った。サテライト・レーザーを稼動させれば、女神の機能のほとんどすべてが約一秒ブラックアウトする。一秒は、アンシェント・ゴッデスにとっては無限に近い時間だ。どのようにも料理できる。
だが――
見てしまった。観客席で、父親に抱きかかえられて、大きく目を見開いている少年を。
無限の可能性を秘めたその瞳を――
8
視界がゆがんでいる。キャビンのなかに天井から光がさしこんでいる。天窓があるのだ。戦闘時にはむろんシールドで覆われるのだろうが。
アスタロッテはソファーベッドの上で身じろぎする。ブラウスが乱れていて胸元が露わになったりしているが、たじろがない。
自分におおいかぶさったままのサンドマンをおしのけて、起きなおった。
「まったく、がさつな」
あきれたように言い、壁を振りかえった。
黄色く変色した新聞の切り抜きが貼ってある。棚の影に隠れていて、寝転ばなければ見えない位置だ。剥がしそこねたような跡がある。
『若手コンビ、初勝利!』
小さな見出しの、どうってことのないベタ記事だ。粒子の荒い写真が載っているのが奇跡に思えるくらいの。
まだひげのないサンドマンが緊張して写真におさまっている。そのかたわらに、アスタロッテがいた――いや――アスタロッテと同い年くらいのイシュタルだ。
懐かしげに、アスタロッテはその写真をみつめる。
「ん……あ……たま……いてえ……」
うめきながらサンドマンが身体を動かす。目をしょぼつかせて、アスタロッテを見た。ぼんやりした視線が、はだけられた胸元に移動する。
「わっ!」
奇声をあげてのけぞった。
「なんだ、おまえっ!」
さらに自分がズボンを半ば脱いだ状態であることに気づき、あわてて引きあげる。
「おまえっ! 裸っ――て、いったい、なにがあった!?」
「知らん。そんなことをわたしに質問するな」
アスタロッテはブラウスのボタンをはめていきながら眉をひそめる。
「むしろ、こちらが訊きたい。いったい、なにをした?」
「……大丈夫だ、やってない……いくらなんでもこんな子供と……」
自分の掌を見つめながら、ぶつぶつとサンドマンがつぶやいている。おのれの良心と会話しているようだ。
その間に着衣を整えたアスタロッテは、ゆっくりと室内を見まわした。
「明るくなってみると、このキャビンの汚さはとんでもないな――女手がないとこうなるものなのか。《ペンギン・ママ》の名が泣くな」
その言葉に、サンドマンが弾かれたように振りかえる。
「なぜ、その名を――」
「自分で名づけたのに、忘れるバカはおるまい」
アスタロッテはこともなげに言った。
「ま……まさか……」
サンドマンの表情がさまざまに変化する。驚愕――おびえ――期待――そして。
「おまえ……イシュタルなのか?」
「わたしはアスタロッテだ」
ムッとしたように少女は答えた。それから少し早口でつけくわえる。
「と、同時に――少しだけイシュタルでもある」
9
ジェイドが目を覚ましたのは、路地の奥――なにもない袋小路の路上だった。
オープンテラスの店などあった気配すらない。
夢だったのか――それとも、あれも女神の能力なのだろうか。
痛む頭を振りながら、午前の雑踏を引きかえす。
「ジェイド! なにしてたのさ!」
トレーラーハウスに戻るなり、グレミーが飛び出してきた。
部屋にはその他にフォイエルバッハがいた。シスター涙の姿はない。むろん、アスタロッテもだ。
「あいつ、まだ帰ってきてないのか……?」
彼らの表情から答えはわかっていたが、そう訊ねずにはいられない。
「それどころじゃないよ! みてよ、この号外! 今日の組みあわせの速報だよ!」
グレミーがペラ一枚の印刷物をつきつける。手作りの匂いのする新聞だ。ついさっき刷られたという感じで、ぬくみさえ残っている。
ジェイドはそこに書かれている文字を見て、思考停止した。
なんと書いてあるかわからない。
いや、読めてはいるのだ。しかし、頭が理解することを拒んでいる。
そこには、こうあった。
『Cブロック決勝進出者サンドマン、女神アスタロッテと電撃契約!』
今朝はやく、大会本部に申請があったと書かれている。同時に《ライオット・スター》との仮契約は自動的に破棄されたとも。そして、これによって一気にサンドマンのファイナル進出が濃厚になったと結んである。
「ど、どうしよう! どうしたらいいの、ねえ!?」
グレミーがうろたえまくって泣き声をあげる。
「――こういうのってアリ、なんですか」
ジェイドはフォイエルバッハに質問を向けた。
徹夜をしたせいだろう。目の下にクマをつくり、一気に老けこんだように見えるフォイエルバッハが曖昧にうなずいた。
「ああ……シスターの話によれば、女神とパートナーの意志さえそろえば契約は成立するそうや。いっぺん正式契約が成立したら、見習い期間は終了したことになって、《カテドラル》は介入せえへんのやと。せやからシスターは……」
フォイエルバッハの声のトーンが落ちた。彼女との接点がなくなったことを惜しんでいるのだろうか。
「あいつの記憶はどうなるんです」
「それも本人の意志ひとつやそうや。わしにはむずかしいことはわからんけど……独り立ちをした女神には自分の記憶についても自由裁量権があるらしいわ。必要な記憶を別のメモリに保存したり、必要ないものは封印して思い出さないようにしたり――消去することもできるんやと。見習い期間中は深層催眠で、そのコマンドを封印してあるらしい……」
「そうですか……」
ジェイドはうつむいた。フォイエルバッハの言葉通りだとしたら、契約はアスタロッテ自身の意志、ということだ。
「おまえの試合は今日の夕方やけど――どうする――棄権するか」
「おれは……」
頭のなかが混乱している。
フォイエルバッハの手がジェイドの肩におかれた。ぽんぽんとたたく。
「まあ、とりあえず寝れ。手続きはわしがしとく」
「すみません、社長」
「奥の寝室、あいとるからな。シスターはランドシップに引きあげたさかいに」
フォイエルバッハが言う。ジェイドは返事もできずにふらふらと寝室に入る。靴も脱がずにベッドに倒れこむ。
アスタロッテが使っていたベッドだ――あいつの匂いがする。
ジェイドは目を閉じた。そこに黒髪の少女がいるような気がして――胸が痛んだ。予期しない痛みだった。息が苦しい。
ジェイドは嗚咽を噛み殺し、ただひたすらに眠りの訪れを願った。
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