第二章 飛ばない鳥
1
ジェイドは、グレミーとアスタロッテをともなって町の商店街に出てきていた。時刻は夕刻に近く、買い物客で通りはごったがえしていた。
『ランドシップの被弾でキャビンのワードローブが壊れまして、アスタロッテの着替えがなくなってしまったんですけど――ご用立てていただけませんか?』
というシスター涙の要請で買い物に出ることになったのだ。最初ジェイドは抵抗したのだが、フォイエルバッハに厳命され渋々ついて行くことになった。
『女神っこちゃんの身の回りのもんな、おまえが立て替えといたれよ。おまえが撃った弾でワヤになったんやからな』
フォイエルバッハは、涙とランドシップの修理の打ち合わせをするという。どうせ、二人っきりになるための方便にちがいない。
立て替えた金は戻ってくるのだろうか――暗澹たる気分のジェイドの後ろを、グレミーとアスタロッテが歩いている。グレミーは夢中になってアスタロッテに話しかけているが、当の新人女神の方はといえば、フードをすっぽりかぶり周囲から完全に遮断されている。外に出るときは、やはり顔を隠さねばならないようだ。
だが、さすがに町の様子には興味をひかれるらしく、まれにフードのなかで顔を動かして、グレミーに質問を発したりしている。
ジェイドは首をひねる。どうにも現実味というものがない。このアスタロッテという少女がいわば人間コンピュータのようなものである――ということが、こう、胸に迫ってこないのだ。
『わが教団の修道女――みなさんのいうところの女神――は肉体年齢で一〇歳になるまではカプセルのなかで眠ったまま養育されるのです』
ジェイドは、涙の説明を思い返していた。
女神の能力とは取りもなおさずダーズィリー粒子(DZ)を制御することだが、同時に、DZや人工衛星などから送られてきた大量のデータを高速に処理する必要が生じる。それを実現するために女神の脳のなかには《大戦》期の軍事コンピュータ並みの処理能力を持つ特別な領域があるのだそうだ。
その領域は、体内に注入された医療用ナノマシンによって構築されるのだが、それが完成するまでおよそ一〇年が必要なのだという。
『ですので、肉体が一〇歳に達するまでは外に出られないどころか、意識さえありません。カプセルから出た修道女候補はおよそ二年間、基礎教養の習得と戦車戦のシミュレーションをおこないます。アスタロッテはその過程がつい先日終わったばかりなのです』
『て、ことはなんでっか』
フォイエルバッハがうろたえながら言ったものだ。
『女神ゆうても見習い、というわけでっか?』
『実戦経験の有無という意味ではそのとおりですね』
『うわわ、だまされた、だまされた! これは負けがきまったわ』
フォイエルバッハは文句をたれたが、それでいて顔は嬉しそうだったりした。担保のことが頭にあったのだろう。
『あのぉ、質問いいですか?』
グレミーがおずおずと手をあげた。
『アスタロッテのランクは、どれくらいなんです? C(コンダクター)? それともD(ディヴァイナー)くらい?』
女神ランクというのは、女神カードを作っている会社が戦績などから算定してカードに記載しているものだが、今では女神の実力をはかる基準としてかなり普及している。目安としては、大都市の守護女神がA(アンシェント・ゴッデス)からB(バトルマスター)、中規模の都市のガンロードと組んでいる女神はBからCくらいだ。Dは平均的な女神のランクであり、E(エッジ)はそれよりも劣る。最低ランクはF(フレッシャー)だ。
『そのへんはよくはわからないのですけど……なにしろ戦績がゼロですから』
『ええっ、じゃあ、F? まさか、ランク外じゃ……』
グレミーはそれがかなりショックだったようだが――
「あのさ、あのさ、アスタロッテがランクアップしていけばさ、最初に出たFランクでのカードってすっごいレアカードになるよね。それ、すっごいプレミアムがつくと思うよ。あ、もちろん、ぼくは売ったりしないけどね」
ジェイドの後ろを歩くグレミーが、上機嫌でアスタロッテに話しかけている。立ち直りの早いことである。
ジェイドは涙から渡された買い物リストを確認した。
「ええと、最初は……下着……かよ」
そんなものから揃えなければならないのだ。そのほか、普段着、寝巻き、身の回りのこまごまとしたもの――
「化粧水、ハンドクリーム、ネイルキット、プアゾン――って香水か? こんなものまで必要なのかよ」
「それは涙が使うのだろう。キャビンが全壊して化粧道具もダメになったのだ」
アスタロッテが指摘する。
「シスターのものまでおれが買うのかよ……」
「不満があれば本人にそう言えばよい」
ジェイドは、ぐぅ、と呻いて黙りこんだ。美貌のシスターを前にして、なにごとかを反論する根性はジェイドにもない。ほんわかしているくせに妙に押しが強くて、やりにくい相手だ。
シスター涙の名前がでたところで、ふと思いついて質問をする。
「あのランドシップ、シスターとおまえだけしか乗っていなかったんだってな。おまえ、シスターとどういう関係なんだ?」
「涙はわたしの教育係だ。わたしがGPSとして正式契約を結ぶまで補佐してくれる」
「それって、生まれてから――つまり、カプセルから出てずっとか?」
「そうだ」
アスタロッテがフードの下から答えた。
ジェイドは首をひねる。あのシスターとこの見習い女神が二人きりでいるとき、いったいどういう会話がなされているのだろうか。ちょっと想像がつかない。
「そんなことよりも、店に入らぬのか」
商店の前でアスタロッテがうながした。どうやら買い物を楽しみにしているらしい。心なしか声がはずんでいる。
そこは、老夫婦が経営するささやかな商店だった。これがサイスの街であれば、メイン・ストリートには服飾・装身具の専門店が軒をつらねているのだが、トーチャムのような小さな町ではそこまでは望めない。
それでも、子供用から大人用まで、ひととおりの衣類は揃っている。
店内に入って、女性用の下着売り場をさがす。
ジェイドにとっては未知のゾーンだ。アスタロッテがいて助かった。でないと、とてもこのコーナーに足を踏みこめなかったろう。
「おまえが自分でえらべ。おれは女の下着なんかには触らんからな」
アスタロッテに買い物カゴを渡しておいてそっぽをむく。アスタロッテは両手でそれを受けとった。
迷いなく、高級婦人用下着の棚に進む。レースのフリルがついた下着を手にとると、ろくに確かめもせず次々とカゴに入れていく。
「ちょっと待った!」
ジェイドはあわててとってかえした。
「なにを選んでいるんだ、おまえ! こんなのダメだろ!?」
カゴからランジェリーをとりあげる。それから、その形状を確認して、顔を熱くした。一部がヒモのようになっていたりしている、派手な下着だ。
「なにが問題だ?」
不思議そうにアスタロッテが訊く。
「こういうのはおまえにはまだ早い!」
「下着とはこういうものをいうのではないのか? 涙が持っているもののはだいたいこういう形状をしているが」
「うぶっ」
ジェイドの背後でグレミーが鼻をおさえる。なにかよからぬ想像でもしたのだろうか。
「体型がちがうだろうが! それに、こういうのは高いんだぞ! おまえはそっちの徳用三枚入りお子さまパンツにしとけ!」
「予算オーバーか。ならばしかたがない。どちらでも機能は同じだ」
アスタロッテはおとなしくランジェリーを棚にもどす
「まったく――」
ジェイドは噴きでる汗をぬぐい――手にしていた下着で――さらに汗をかくはめになった。
買い物は大騒ぎだった。とんちんかんなアスタロッテに、突拍子もない提案をするグレミーが加わり、ジェイドはそれをいちいち叱責せねばならなかった。
「ばかやろう! なにが矯正ブラだ! そんなもんはいらん! グレミー、おまえもわけのわからんものを勧めるな!」
「でも、これっていま人気らしいよ」
「わたしも、寄せて、上げる、というのをやってみたい」
「だ・め・だ!」
と、こんな具合である。
そうこうしつつも、なんとか必要なものを揃えて、ようやく支払いの段階にこぎつけた。
「やれやれ」
ジェイドはレジで店主の老婆に商品を包んでもらいながら、財布の中味を確認して悲しい気分を味わう。もうすぐ、この中からごっそり持っていかれるのだ。ふと横を見ると、レジ脇に置いてあるぬいぐるみをアスロッテが見入っている。
「――これはいったいなんだ?」
子供用のおみやげ用に並べてある動物のぬいぐるみだ。カンガルーやコアラ、タスマニアデビルなどのほかに、イヌやネコといった愛玩動物のものもある。
「いっとくが、メモにないものは買わないからな」
「このタイプの生物は知らないな。なんというものだ?」
ジェイドの宣言を聞き流し、アスタロッテが指差したのは、ペンギンのぬいぐるみだ。《カテドラル》は沙漠のどまんなかにあるということだから、見る機会にめぐまれなかったのだろう。もっとも、ジェイドも実物のペンギンなど見たことないのだが。
「ペンギンだ。海に棲んでいる飛べない鳥だ」
「鳥なのに飛べないのか――それはヒクイドリのようなものか?」
ヒクイドリというのは北部の熱帯雨林に棲息している大型の鳥だ。体重は人間の大人なみもあるのに、時速五〇キロものスピードで走ることができるという。もっとも、現在も生存しているかどうかはジェイドも知らない。カンガルーやコアラは、大都市の動物園で飼育されているらしいが……
「いや……あれとはちょっとちがうな。もっとずっと小さくて、走るのも苦手だ」
アスタロッテは驚いたように顔をあげる。
「飛べないのに、走れもしないのか? それでは、どうやって生存競争を勝ち抜けるのだ?」
「だから、泳ぐんだよ。魚をとって暮してるんだ」
「鳥なのにか!」
「ああ、もう、うるさいな! それがペンギンの生きかたなんだよ!」
「そうか――泳ぐのか。鳥なのに。おもしろいやつだ」
アスタロッテは指でペンギンの腹をつついている。そうしている横顔は年齢相応に無邪気に見える。
ジェイドはためいきをついた。
ペンギンのぬいぐるみを取りあげて、老婆に渡す。
「これも買います」
「ああ、はいはい」
にこにこ顔で老婆はキャッシャーのボタンを叩く。
「なぜ、リストにないものを買う? 予算的に問題はないのか?」
「予算もなにも、とっくにオーバーしてんだよっ! ほれ!」
ジェイドはぬいぐるみをアスタロッテに突きつけた。
「わたしが持つのか? なんのためにだ? 特に実用性はないようだが」
「いらないのか!?」
「いる」
見習い女神はすまし顔でぬいぐるみを手に取った。
2
衣料品店で時間を食いすぎたらしく、買い物リストの半分近くがまだ未消化なのにもかかわらず、外はすでに暗くなりつつあった。
「なんだ、香料入り儀典用蝋燭って――こんなのどこで売ってるんだ? ……ったく、好き勝手書きやがって」
メモをながめながら、ジェイドは愚痴る。
「ええと……あと、ポテトチップス・ガーリックチキン一箱、女神カードつき? なんでこれだけ字が違うんだ――グレミー、おまえだな!?」
「ああ、バレちゃった」
グレミーが荷物を抱えながら残念そうに言う。
「まったく、油断もすきもない……」
ぶつぶつ言いながらジェイドは歩を進める――と。
「むぅ」
アスタロッテの声がした。
ふりかえると、アスタロッテが膝をついている。
誰かとぶつかったらしい。
「おい、大丈夫か……」
なにやってんだと思いつつ、ジェイドはそちらに向かった。グレミーがあわてたように声をかけてくる。
「ビーハイヴのやつらだよ……!」
アスタロッテの前に大柄な男が立っている。レザージャケットに風防メガネ、いかにも戦車乗りといった風体をしている。むきだしの二の腕には必要以上に筋肉がついている。歳は二十前後。ソバージュのかかった肩までの長髪は、もとはブラウンなのをブロンドに染めているようだ。
その男はジェイドとグレミーを順ぐりに見て、あざけるように笑った。
「これはこれは、戦車一台こっきりしかない老舗のフォイエルバッハ警備保障の連中じゃないか……。こんなところでのんびりと買い物か? そういや、今日、仕事にありついたんだってな? おれたちの客を横どりしたっていうじゃないか」
「ダレン……嫌味なら今度聞いてやる。とりあえず、あやまってもらおう」
ジェイドは長身の相手を見上げ――悔しいが身長差が一〇センチ以上ある――声を低めた。
「はあ!?」
口を大きくあけて、ダレンは聞きかえした。
「いま、なんていったんだ、小僧?」
「そいつにぶつかっただろ? いちおう女なんだぜ」
ダレンは視線を落してアスタロッテを見た。侮蔑するような笑みが口許を歪める。
「なんだ? まさか、あの超弱小会社に新入社員か? それとも、ジェイド、おまえのコレかよ?」
下品に小指を立てて見せる。
ジェイドはため息をついた。どうにもこうにも今日は厄日らしい。
「おいっ、ダレン! うちはもう今までとはちがうんだからな! トーナメントに出場して、また新しい戦車を入れて、前のようにバリバリ護衛の仕事もやっていくからな! もう、お前らには邪魔させないぞ!」
グレミーが勢いこんで怒鳴る。彼としてはめずらしいほどの剣幕だ。それには、それなりの理由がある。
「おほっ、でぶっちょグレミー、いっぱしの口をきくじゃねえか? 去年、わがビーハイヴGS(ガード・サービス)社とのコンペに負けて、大口の仕事をおじゃんにしたあげく、戦車をぶっこわしてヒンヒン泣いていたのが嘘のようだな?」
ビーハイヴ・ガード・サービス社は数年前に旗揚げしたばかりの新興勢力だが、あっさりとフォイエルバッハ警備保障に打ち勝って、いまやトーチャムを代表する企業だ。戦車を十台近く保有し、社員も二十名以上いる。
昨年、大手キャラバンの護衛の受注をフォイエルバッハ警備保障が取りかけたのだが、割りこんできたビーハイヴGSにまんまとさらわれてしまったということがあった。そのときのいざこざで、フォイエルバッハ警備保障の保有戦車のうちの一台がおしゃかになってしまったのだ。以来、たった一台の戦車で営業を続けている。
「ふん、なんとでもいえ! いまのぼくはあの時とはちがうんだからな! なにしろ、女神のサポートがあるんだから!」
グレミーは大見得を切った。さすがにダレンも表情をかえる。
「女神だと……? じゃあ、こいつが……?」
アスタロッテをふたたび見る。
「そうだよ! 《カテドラル》のアスタロッテさ! ぼくと一緒にトーナメントに出場するんだ!」
「うそつけ! おまえらみたいな零細企業のところに、なんで《カテドラル》が……」
その零細企業への支払いを踏み倒そうとするのが《カテドラル》の実態らしいよと言ってやりたいのをこらえ、ジェイドはまだ地面にうずくまっているアスタロッテを引き起こしにかかる。
「なにやってんだよ、さっさと立て」
「ジェイド、ペンギンがいない」
めずらしいことに、うろたえているような口調だ。
「落したのか?」
「わからない。急にいなくなった」
「なにやってんだ、てめえら――ほんとうにそのガキ、女神なのか?」
ダレンがジェイドとアスタロッテに向きなおる。と、その腰のベルトの部分にペンギンのヒレの部分が引っかかってぶらぶらしているのが見えた。
「いた」
アスタロッテがぬいぐるみを取ろうと手を伸ばす。
「なにしやがるっ!」
伸びてきた手を反射的にダレンが払う。体重の軽いアスタロッテはその衝撃だけで転がってしまう。フードがずれて、びっくり顔が半分覗く。
「ダレンっ!」
ジェイドの頭の線が二、三本切れて飛んで、次の瞬間、自分でも意識しないうちに相手に飛び掛かっていた。
ダレンのふたつに割れた顎をめがけて拳を突きあげる。
手ごたえがない。ダレンはとっさにスウェイバックして避けている。
かわりにダレンの拳が迫ってくる。左ジャブだ。戦車乗りの多くは荒事も得意だ。とくにダレンのようなタイプは。
ジェイドのこめかみに熱が走る。防御の姿勢をとりなおす。が、ダレンはラッシュをかけてくる。身長差があるので、真上からパンチが振ってくる感じだ。二、三歩さがる。
ケンカだ、ケンカだ、という声が周囲からおこる。トーナメント前ということもあって、通りに出ている人間は多かれ少なかれ浮かれている。格好の見世物とばかり、みるみる人垣ができる。
「ダレン、どうした!?」
騒ぎを聞きつけたのか、蜂の巣のエンブレムをつけた男たちが集まってくる。どうやらビーハイヴの社員たちらしい。
「ジェイド! やばいよ!」
「アスタロッテを連れて逃げろ!」
ダレンの攻撃をかわしながら、ジェイドはグレミーに怒鳴る。と、その顔面に一発入る。
「アスタロッテ……行こう!」
グレミーがローブを引っ張ろうとするのをアスタロッテは拒絶した。
「ペンギンを保護しなければならない」
「そんなのいいから! 逃げようよ!」
「だめだ。それに――短期の仮契約とはいえ、いちおうは雇い主のひとりだ」
アスタロッテの周囲の空気が光をおびる。ぎょっとしてグレミーは手をはなす。
「女神の力をつかうの!?」
ジェイドは何発かパンチをもらっていた。鼻血が出ている。最初に食らったテンプルの一発がまだ尾を引いていて、足許がふらつく。
「弱小警備会社のちんぴらがいきがるからだ!」
とどめとばかりダレンが右フックを打ち込んでくる。気負ったのか、やや大振りだ。ジェイドは頭を沈め、次の瞬間にダレンの懐に飛び込んでいる。伸びあがって、頭突きを相手の顎にぶちこむ。
「ぐはっ!」
ダレンがのけぞって、たたらを踏んだ。ジェイドは追い打ちをかけようと振りかぶった。その背後から――
数人の男がジェイドに襲いかかっていた。ダレンの仲間たちだ。
殴られ、蹴られて、ジェイドは路上に転がった。
「ったく……世話を焼かせやがって、ゴミが」
口許の血をぬぐいつつダレンが毒づいた。倒れたジェイドの頭にめがけて靴のかかとを落し、ぐいぐいと踏みつける。
「ジェイド――そういや、おまえにはえらい借金があったんだよな。フォイエルバッハのおっさんに債権を買い取られて、そんでこき使われてるんだろ? たしか、おまえの親父がバクチで作った借金で、親父はそれで自殺したんだったな。まったく、だめなヤツの血筋は、どこまでいってもだめだってことの証明だな!」
路面に押しつけられていたジェイドの顔がゆがんだ。
その時だ。ダレンの周囲の空気が突然動いた。風――というにはおかしい。そのほかの場所ではそよとも吹いていないというのに、ダレンのまわりでだけ空気の流れが渦をまいたのだ。
「わっ!?」
土ぼこりが舞いあがり、ダレンは目を被った。隙ができる。
ジェイドはダレンの足首を掴んで持ちあげた。素早く立ちあがると、右の拳を握りしめ、ダレンのみぞおちに叩きこむ。手首が折れそうなほど、強く、深くめりこませる。
「ぐお……ぐひぃっ!」
ダレンは腹をおさえてのたうちまわった。
「この野郎!」
ダレンの同僚が息巻く。ジェイドは眼を細めた。ただのケンカではすまない。殺す気でやる、そう腹をきめた。
「おいおいおい、ちょっと待ちな」
絶妙のタイミングで、とぼけた声が割って入った。気組みを台無しにする、緊迫感のかけらもない響きだ。
「トーナメント前のめでたい宵に、なにも血の雨をふらせることはないだろう? そこまでにしときなって」
「サ……サンドマン……さん」
ビーハイヴGSの社員たちが表情を変えた。
現われたのは、長身だが痩せぎすの、なんとなく冴えない印象の中年男だった。ジャケットに革ベルトをはめ、細身のジーンズパンツにロングブーツを穿いている。不精髭が実に野暮ったい。
胸に蜂の巣のマークはないが、ビーハイヴの関係者ではあるらしい。
「今日は俺の歓迎会だったろ? まだ夜は始まったばかりだぜ。ケンカなんてばかくっせえ」
「でも、サンドマンさん、こいつがダレンのことを」
ちっちっちっ、と男は立てた指を左右に振った。
「だからって死ぬまでやってもしょうがねえだろう。しかもタダでよ。続きをやりたいんなら、戦車で決着つけるんだな。そっちの坊やも戦車乗りなんだろう?」
「……あんたは誰だ」
口に逆流する鼻血の鉄くささを飲みくだしながら、ジェイドは訊いた。
「おれか? おれはサンドマンっていう戦車乗りだ。トーナメント期間限定で、ビーハイヴに世話になることになったのさ。助っ人としてな」
男は軽く眉をあげながら答える。よく陽にやけた顔は、トーナメントからトーナメントを渡り歩く流浪の戦車乗りの典型だ。
「で、おまえさんは? おまえさんもトーナメントに出るんだろ? そっちの見習い女神とよ」
サンドマンは、光を周囲にまとわせているアスタロッテの方に視線を向けた。
「正式契約をしている一人前の女神ならともかく、初陣もまだのペーペーがこんな街中でDZを揺らして風を起こすなんざ、《カテドラル》の信用問題だぜ? 《カテドラル》の三つの掟――不戦・不可触・不介入は、見習いにも適用されるんだからな」
ふうう、とアスタロッテの周囲の光量が落ちる。フードのなかの表情はわからないが、サンドマンの言葉に反論しないところを見ると、図星だったらしい。
「とにかく、今日のところはおたがいここまでにしておいたほうがいいってことさ。いいかい、坊や?」
「おれは、坊やじゃない。ジェイドという名前がある」
「そりゃすまんかった」
サンドマンは両手を前に出して肩をすくめると、話は終わったと言いたげにダレンの介抱をはじめた。
ジェイドは血のまじった唾を吐き捨てられず飲みこんだ。制圧されたような圧迫感がぬけない。この男に負けたわけではないのに。グレミーとアスタロッテに顔をむける。
「行こう」
歩きはじめようとしたとき、サンドマンが呼び止めた。
「おっと――忘れものだぜ、坊や……じゃなくて、ジェイド、くん」
サンドマンの掌の上には、ペンギンのぬいぐるみが載せられていた。
「ペンギンはおれのお気に入りでもあるんでね、大切にしてやってくれや」
ジェイドは無言でそれを引っつかんだ。相手の目を見ることができない。
「縁があったらトーナメントで会おう」
サンドマンの声が背後から聞こえてくるが、ジェイドは返事をしなかった。
3
機械的に足を左右に動かしながら、ジェイドは一言もしゃべらなかった。時折、唾を吐いた。わりと太い血管が破れたらしく、鼻血が止まらない。血は喉に流れこんでいた。
「ね、ね、ジェイド、だいじょうぶだった?」
グレミーが心配そうに並びかけてくるが、ジェイドは答えなかった。
「まだ物資補給(かいもの)は完了していないが、よいのか?」
ジェイドから少し距離をおきながら、アスタロッテがグレミーに訊く。
「ジェイドが予算決定権を持っているはずだが」
「うーんと……どうしようか」
荷物を抱えたまま、丸顔の少年は曖昧に答える。
「グレミー」
ジェイドがようやく声をだす。投げてよこしたのは財布だ。荷物を落としそうになりながら、グレミーはそれを受けとめる。
「悪いが、あとの買い物は頼む」
「えっ、あっ……いいの?」
「ポテトチップスはふた袋までだ。あと、領収書はもらえよ、絶対。おれは先に帰る」
言うなり、返事も聞かずに歩きだす。
一人になりたかった。
ダレンの言葉がぐるぐると頭のなかを渦巻いていた。
――だめなヤツの血筋は、どこまでいってもだめだってことさ
否定したい。だが、否定できない。
ジェイドが抱えている借金は、父親の作ったものと――そしてジェイド自身のものがある。自走地雷の費用や、日々の食費・生活費。そして、おそらくは《カテドラル》のランドシップの修理代もそれに追加されるだろう。
いつになったらそこから自由になれるのか、わからない。
漫然と借金を返しつづける日々。戦車に乗っているのだって、身寄りのない人間がいちばん手っ取り早く稼げる職業だからだ。好きでやっているのではない。
父親は――戦車が好きだった――らしい。フォイエルバッハとも旧知の仲で、ずいぶん金も借りていたようだ。それ以外にもあちこちに借金をしていたそうで、それらの債権をまとめて引き取ったのがフォイエルバッハなのだ。
なぜ、父がそんな借金を作ったのかはジェイドは知らない。ただ、最後の最後に父がトーナメントに大金を賭けて――敗れたことは確かだ。
だから、ジェイドは戦車が嫌いなのだ。トーナメントも嫌いだ。わけのわからない女神はもっと嫌いだ。
そんなものとは無関係に暮せればよかったのに――
あんな父親さえいなければ――
戦車乗りと女神が幅をきかす、こんな世界に生まれてこなければ――
気がつくと、町の外れまで来てしまっていた。半ば壊れた石の壁が、町と外との境界を刻んでいる。かつて盗賊集団から町を守るために築かれた防御壁も、ガンロードによる統治のシステムが完成してからはあまり省みられなくなった。大きな戦闘が起こらなくなったからだ。
防御壁の先は荒涼とした大地だ。光はまったく見えない。真っ暗な海に見える。ジェイドの立つその場所はまるで汀のようだ。
空を仰ぐ。星がまたたいて見えた。目を袖で拭う。
「ジェイド」
名前を呼ばれてどきりとする。
その声のぬしが誰かと知って、さらに狼狽する。夜目にも白いフードとローブの輪郭がわかる。
「なんの用だ。買い物の続きはどうした」
できるだけ平坦な声を出そうとつとめる。
「残りは涙のものばかりだ。グレミーが対応している」
「なぜここが分かった。つけてきたのか」
わきおこる羞恥を低沸点の怒りが塗りつぶしていく。いや、そう自らそうするよう努めている。
「ジェイドの体内DZの固有パターンをトレースしただけだ」
DZは微粒子であり、空気中に大量に浮遊している。だから、呼吸や飲食によって、人体にも入りこむ。ほとんどは自然に排泄されるが、一部は血液や細胞液に残存するのだ。むろん、毒性はないことが確認されている。
「そういうのを、つける、って言うんだろ」
「そうなのか。ジェイドのDZ蓄積パターンはなかなか特徴的でおもしろいな」
アスタロッテに悪びれた様子はない。いや、悪いという認識はもともとないのだろう。
「ちっ、女神さまはなんでもお見通しってわけか?」
「その表現は適切ではない。DZは一定の情報しかあたえてはくれない。その限られた情報からどのように状況を推測するかが重要だ――と涙が言っていた」
「へえ、そうかい。それは殊勝なこって」
へらへらと笑いながらジェイドは言葉をさがした。言いたいことなどなにもない。ただ、相手を傷つける言葉を自動的にさがしている。
「そういや、さっきの手品――ダレンがバランスを崩したのもおまえの仕業だろ? あいにくだが、あんなまねをしなくてもおれはやつに勝てたさ。それにあんな技がなんの役にたつっていうんだ? スカートめくりか?」
「DZを振動させて空気を動かしたことか――たしかに経験を積んだGPSのようには、まだ動かせない。だが、あの時でも最大限の力をふるっていれば、人間ひとりを吹き飛ばす程度のことはできたろう。それをしなかったのは、あの男が言ったとおり、GPSはトーナメント以外で人間を傷つけることが禁じられているからだ」
アスタロッテは気分を害したふうもなく淡々と説明する。
「ははっ、たいした自信だ。すごいすごい」
ジェイドは両手をひろげた。
「おまえから見たら、おれなんかはさぞくだらない存在なんだろうな? おれにはDZなんか扱えない。だいいち、見えないしな。特技もない。あるのは借金くらいだ。この町から出ることもできない。それどころか、自分のやりたいことさえわからない。おかしいか? おかしいだろう!? おまえ、笑ってみせろよ、いっぺんくらい歯ぁ見せて笑ってみやがれ!」
声がヒートアップしていく。子供相手になにをムキになっているんだ――そう思いながらも、抑えられない。白くちいさな影に怒声を叩きつける。
「ジェイドがDZ制御において無能なのは体構造からして当然のことだ。だから、べつにおかしくない。したがってわたしは笑わない」
アスタロッテは真面目くさった様子で言葉をつづける。
「むしろ、わたしが理解できないのはジェイドの態度だ。さきほどの格闘戦において、勝利をおさめたのはジェイドのほうだ。それなのに、なぜそれを肯定的に評価しない?」
ジェイドは毒気をぬかれて言葉につまる。闇のなかにおぼろに浮かびあがる白い人影を凝視する。
「まさか……おまえ、そんなことを言いにきたのか?」
「莫迦な」
ほんのわずかだけ気分を害したかのように声がとがった。
「わたしはペンギンを回収しにきただけだ」
むん、と手を突き出した。細い腕が袖からのびている。
ジェイドはようやくぬいぐるみのことを思いだした。サンドマンからもぎ取ってすぐポケットに突っ込んで、そのまま失念していたのだ。
「あ……悪い」
ジェイドは反射的にそれを取り出していた。アスタロットの掌のあるあたりにそれを持っていく。
アスタロッテの掌に指が触れた。暗い中だから感触が生々しい。びっくりしてジェイドは手を引っこめた。ぬいぐるみの受け渡しはうまくいったようだ。
アスタロッテはぬいぐるみを抱きよせた。たぶん土埃や、もしかしたらジェイドの血もついているかもしれないが、気にならない様子で、感触を確かめるように頬ずりする。
「なんだよ……けっこう気に入ってるんじゃないか」
「こいつはなかなか評価できるやつだからな」
「ちっ、ひとのことは無能だのなんだのさんざん言っときながら、ペンギンは評価できるってか。勝手なもんだな」
「ジェイドがあらゆる分野において無能であるとは、わたしは言っていない」
アスタロッテはペンギンを見つめながら言った。
「飛べなければ走ればよい。走ることもできなければ泳げばよい。ペンギンはそうしているのだろう? ジェイドがそう言ったではないか」
「それは――」
ジェイドは絶句する。もしかして自分は慰められているのだろうか。常識ゼロの、こんな子供の、人間コンピュータに。
「用はすんだ。先に帰る」
アスタロッテはきびすをかえした。すたすたと歩きだす。ジェイドはなにか言わねば、と必死で頭をひねる。だが、言葉がでてこない。
さらに――
「そうだ、忘れるところだった」
くるり、白い影が振りかえり、追い打ちをかける。
「トーナメントではジェイドがパイロットをやれ」
「なんだと!?」
「わたしとしてはパイロットはどちらでもよいのだが、より適性がある方と組んだほうが勝率は高くなる――ので、おまえがやれ」
「適性だと!? いったいなにを根拠に――」
「昼間、操縦していたのはおまえなのだろう。それに、先ほどの格闘戦でも、好機をうまく捉えて攻撃に転じた。それが適性だ」
言い捨てて、今度は振り向かずに歩み去っていく。ジェイドは立ちつくしてそれを見送った。
いつの間にか、鼻血は止まっていた。
4
酒場は狂乱の最高潮を迎えていた。
店を貸し切りにしたビーハイブGSの戦車乗りたちは、大音量の音楽のなかで乱痴気騒ぎを繰りひろげている。さすがは町一番の企業だけに羽振りのよいことこの上ない。
顎に絆創膏を貼ったダレンは、店の女の膝に顔をうずめて、ぐずぐず何かしゃべっているようだ。女は「よしよし」とダレンの頭を撫でてやっている。
その喧騒のなかで、ある一角だけはまったくちがう雰囲気を保っていた。店の一番隅にあって外からの視線を遮るようになっているテーブルでは、この宴会の主役であるはずの不精髭の戦車乗りが、まわりの喧騒とは無縁に静かに飲んでいる。
対面には、この店にはやや場違いな客がいる。闇に溶ける濡れ羽色のフードとローブに身を固めた女だ。濃い色のルージュが、形のよい唇を闇になじませている。
「それで、会ったの――あの子たちに?」
女はハスキーな声で訊いた。面白がっているような雰囲気がただよっている。
男はグラスを満たした蒸留酒を水のように喉に流しこんだ。
「おかげさまでな」
「で、どうだった?」
「――まだ、ガキじゃねえか。ばかくせえ」
男はテーブルの上に肘をついて、女の顔を覗きこむ。
「それよりも、せっかくひさしぶりに会ったんだ。積もる話が別にあるんじゃないか?」
女はさりげなく姿勢をかえて、男が伸ばしてきた手をかわした。
「ほんとうは気になってしょうがないくせに。昔のままね、ごまかす時にしか女を口説けないのは」
「ふん」
「で――どれくらいまでいけそうかしら? 新しいガンロードが狙えるとか?」
「買いかぶりすぎだろ。あの見習いにそんなスペックがあるとは思えないな。まあ、パイロットや機体の性能にもよるが――せいぜい二回戦どまりってとこだ」
「ふふっ……」
女がばかにしたように鼻で笑う。聞きようによっては挑発的な――淫猥な――響きだ。
「本気で言ってるのかしら? それとも、自分と組めばもっと上が狙えるってこと?」
サンドマンは首を横にふる。
「おれは女神とは組まん。もうこりごりだ」
「あらあら、ごあいさつね」
女が唇をとがらせた。その形状もセクシーだ。女の吐息が甘く香ってきそうなほどに。実際、女がしゃべるたびに、フードのなかにこもった女の肌の匂いが闇のなかに拡散していく。美しい毛皮を持つ獣のような――咲き乱れた華のような――男を陶酔させる危険な香りだ。
その薫香に身を委ねるように、男はテーブルにかぶさっていく。
「それよりも、《涅槃》の蓮華のほうが脅威だろう。一度試合を見たことがあるが――たしかに逸材だ。ピジョンやクァントローもあなどれない――全盛期からは見劣りするがな。それに、無名の女神のなかにも力を秘めた者はいる。まして、パイロットとの相性で、女神の力は大きく変わるからな」
「――そう、女は変わるのよ。いまA級(アンシェント・ゴッデス)とよばれている実力者たちも、デビューしたころはお子さまだった。それなりにいろいろ経験したから今があるのよ。それに、トーナメントは水もの。デビューから快進撃して一気に頂点に駆けあがった例だってなくはない」
アルコールよりもむしろ女が放つ香りに酔いを感じたのかもしれない。男は、ふぅ、と息をつく。
「わかったよ。あのチームには気をつけることにしよう。もっとも、同じブロックになるかどうかわからんがな」
「そのへんはね、いろいろあるのよ、仕組みがね。あなたはそういうのに無頓着だったけど」
「そうかい」
男は肩をすくめた。女が立ちあがる気配がある。顔の角度が変わると、フードが完全に女の姿を隠し――全身を闇に溶けこませてしまう。
「アズールによろしくな」
闇にむかって言った。それに対する女の返答はもはや聞こえなかった。
5
「うにゃうにゃ、シスター……もう飲めませんて……いやあ、困ったわあ……そんなとこ触られたら……うはあ……」
会社に戻ったジェイドがまず見つけたのは、酔いつぶれたフォイエルバッハだった。社長室のテーブルに突っ伏し、よだれをたらしながら、なにかしら楽しい夢の真っ最中のようだ。毛が抜け去った前頭部から頭頂にかけて、びっくりするほど赤くなっている――まるで赤のクレヨンみたいだ。
フォイエルバッハ秘蔵のワインの壜が何本も横倒しになっている。よほどのことがないと封を切らない高級品だったはずだが、ほぼ全滅だ。今夜はフォイエルバッハにとって「よほどのこと」だったとみえる。
「あら、お帰りなさい」
シスター涙が階上からおりてくる。頬に血の気がのぼっているのは、フォイエルバッハと差しつ差されつしていたからだろうか。それにしても、あまり酔っているようには見えない。
「今夜からこちらに泊めていただくことになりました。アスタロッテともどもよろしくお願いします」
「え!?」
フォイエルバッハ警備保障の社屋はうなぎの寝床状である。三階の――実質は屋根裏だが――部屋も二間しかなく、ひとつずつジェイドとグレミーが使っている。あとは、せまい物置と、裏手に物干し台があるくらいだ。その、どこに涙たちのためのスペースを設けるのかとジェイドが思案しかけたとき、涙は驚くべき発言をした。
「申し訳ないですわ、ジェイドさんのお部屋を使わせていただけるなんて」
「えっ、ええ!?」
「いま、三階でお部屋の用意をグレミーさんにしていただいてますのよ……あら? ジェイドさん? ジェイドさんったら……」
涙の呼びかけを無視してジェイドは階段を駆けあがっていた。二段抜かし、いや三段抜かしだ。
「グレミーっ!」
怒鳴りながら階段をのぼりきる。ちょうど、はちまきをしたグレミーが物置部屋から出てきたところだ。
「おれの部屋は!」
「ああ、ジェイド、もう機嫌なおった? だいじょうぶ、部屋ならちゃんとセッティングしといたから」
力仕事のせいか顔にいっぱい汗を浮かべて、グレミーが物置部屋を手で示す。
ジェイドはまず自分が使っていた部屋のドアに歩みよった。ドアのノブに手をかける。
「あ、だめだよ、そこはいま……」
グレミーが制止しようとするのを振り切り、一気にドアを開ける。
「おいっ! ここはおれの部屋で……っ」
ドアを開け放ち、怒声を継続させようとしたところで、胸郭の運動がとまった。
部屋の中央にアスタロッテが立っていた。フードもローブもない。ついでにボディスーツもなかった。
小柄で細い裸身をあらわにして、いま、徳用三枚入りお子様パンツを片足に通そうとしているところだった。
「む」
たらした前髪の間から、アスタロッテのふたつの眼がジェイドをにらみつける。不安定な姿勢のまま、片足立ちでとんとん跳ねながら回転し、えくぼのあるヒップをジェイドに向けると、するするパンツを引きあげる。小さなおしりに、白い布地がフィットする。
よかった、どうやらピッタリらしい――とジェイドはぼんやりと思う。
「まだ見たいのか?」
背中向きのアスタロッテが、顔だけジェイドを向いて質問する。
「ご、ごめんっ!」
ようやく脳の回路がつながったジェイドは、全身をつかってドアを締める。
背後からグレミーが近づいて、ジェイドの肩をぽんぽんと叩いた。
「だから言ったのにぃ……。でも、ずるいな、ジェイドは。身体でドアのすきまを塞ぐんだもん。ぼくも見たかったのに」
「ばかやろっ!」
ジェイドはグレミーをどやしつけた。
「着替え中なら先にそう言え!」
「言おうとしたんだよ。それをジェイドが聞かないから」
「うるさいっ! だいいち、おれに断りなく、どうして部屋を明けわたすんだ!」
「だってさあ――ランドシップの修理、二週間くらいかかるらしいし――トーナメントだって始まるから、アスタロッテもいっしょのところにいた方がいいでしょ? それに、ホテルを取ろうにもとっくに満杯だしね。ほら、トーナメントが近いから、サイスだけじゃなくて、このへんまで団体客が来てるんだよ」
「あのなあっ! だったらおまえの部屋を貸してやればいいだろ!? もとはといえば、おまえが撃った弾じゃないか!」
グレミーがちらりとジェイドを見上げる。
「ところでさあ、トーナメントでは、ジェイドがパイロットやるんだって?」
「う」
「アスタロッテから聞いたよ」
「それはあいつが勝手に……」
言いかけるジェイドを、穏やかな表情でグレミーは制する。
「いいんだ。やっぱりぼくには操縦むいてないしね。ほんというと、ちょっとホッとしたんだ」
「グレミー……」
「トーナメントに出ちゃうと、ほかの試合とか、女神とか見れなくなっちゃうしね。なにより、危ないの怖いし」
「グレミー……あのな」
「それにさあ」
グレミーは自分の部屋のドアを開けつつ言った。
「ぼくんとこ、こんなだよ?」
造りはジェイドの部屋と同じだが、圧倒的に狭く感じる。壁という壁に女神のポスターが貼られ、棚にも雑誌やトレーディングカードのホルダーがぎゅうぎゅうに詰めこまれているからだ。出窓には女神のフィギュア類がずらり。さらに床はと見れば、まとめ買いしたポテトチップスの箱がうず高く積まれ、食べかけのチップスのかけらが散乱しているというありさまで、ほとんど人外境と化していた。まともに表面が見えるのはベッドだけだ。
「三日くれれば掃除はできると思うけど、コレクション置き場も確保できないとね――って、ジェイド聞いてる?」
ジェイドは物置部屋の戸口によりかかっていた。もう、怒鳴る元気もない。
「ああ、ほら、ちゃんと掃除しといたよ。ジェイドの持ち物も運んでおいたし」
グレミーが丸い顔をほころばせる。ふだんは使わない道具類を雑多に押しこんであった物置部屋の一角が、ちょうど人ひとり横たわれるくらいあけてあって、そこに寝袋がおいてあった。その側に、ジェイドの持ち物――本だの小物だの衣服だのが雑然と積まれている。
グレミーが声をひそめて、ジェイドに身体を寄せてくる。
「あ、大丈夫、あの本は、みんなに見つからないように寝袋のなかに隠しておいたから……。あれ、けっこうすごいね、こんど貸して」
ジェイドはふらふらよろめきながら寝袋の上に倒れこんだ。今日はあまりにもいろいろありすぎた。死んだように眠りたい――いや、いっそもう二度と目覚めたくない、そう思った。
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