第14話 彼を思って

 ホバートレインは急くように名古屋駅を出た。車窓から見える農業依存三次産業の会社が入ったビル群は、ゆっくりと引き伸ばされてぼやけていった。それからすぐに名古屋郊外の農業機械工場が見え、ALC製の灰色の外壁と波状の屋根がいくつも目に入ってきた。

 工場は遠方にあるため、ぼやけることなく変哲もない長方形の姿を保って見えた。ここから先はこの景色がそれなりに続いていく。


 休日の昼間と言えど、車内は閑散としていた。無人のシートには陽の光が当たり、いつも以上の明るさをもたらしていた。通路を挟んだ反対側は無人のため窓から伊勢湾を見ることができた。

 海底資源発掘海上基地が錆びた赤褐色の鉄骨を日に晒していた。その痛々しい肌は埋もれていく歴史を強調するかのように光っていた。日本はまだ、真の新時代を歩んではいないのかもしれない。田んぼや畑が広がっていた大地には工場が立ち並び、四季折々の変わりゆく風景は消え、変わることのない色で埋め尽くされていた。私は前方に木曽三川が現れ始めたのを見た。車内アナウンスは、四日市は夕方から雨が降ることを告げていた。


 私は津で新装自衛隊窓口と委員会に事件の報告をした後、四日市を訪れた。委員会の過激な意見や自己中心的な質問に参ってしまい、家に帰って眠ろうと思ったが、四日市総合病院から連絡が入った。

 が入院し、さらに川に入水したとのことだった。入院したことにも、入水したことにも驚きはしたが、私はそれらを妙に納得してしまった。太陽が東から登るそんな当たり前のことのように、それを受け止めていた。自殺という選択はとって欲しくはなかったが、彼の最大の選択とも言える行動には、これまでの人生に対する生きづらさを如実に表していた。誰もが望み羨む平凡な人生が、これほどまでに一度入ったら抜け出せない、底無しの沼に思えたことはなかった。


 四日市駅前を往来する人々は、休日らしく華やかに着飾って、眩しい微笑みを振りまいて、幸福に浸っていた。最新の服たちを見比べるカップル、端末カスタマイズチップを物色する若者たち、ベビーカーと並び歩く夫婦、彼らは一体どんな選択をして、今を生きているのか、そこにどんな苦悶が付き纏ったのか、何度見てもそれはわからなかった。四日市特有の青臭さが沼から漂う腐臭のように、あたりを満たし始め、鼻を刺激した。


 いつものバーは普段通り静かで、客もまだらだった。マスターはコースターを二つ、私と空白の隣の席に置いた。彼が好きだったカクテルを注文し、私もラム酒を頼んだ。寂しげに置かれたカクテルグラスは店の薄暗い照明光を吸い上げ、妖艶に輝いた。私は自分のラム酒が入ったグラスでそのカクテルグラスと乾杯をした。空を切るかのような弱い力の乾杯音は、啜れた店内に吸い込まれた。店の壁にかけてあるホログラニュースは取り止めもない事ばかりを表示していた。今年の里芋供給率と需要率の一致予測精度の高さや、愛国委員会の政治介入ついての難民マニュフェスト、難民の日本入国制限案が中立国家承認待ちで承認されるとどうなるかなど、どれも面白みに欠けていた。コラム欄は末端恐怖症団体や閉所恐怖症安心院が自分たちの存在を知ってもらうために、気分の治し方や日常生活での対策を綴っていた。農業に政治に難民、そして敏感派集団の勧誘記事類、毎度のように記事の内容や量、そして配置でさえも人間工学に沿って、適度で記憶に残りやすくなっていた。


 医療健康維持ポッドは、治療が終わると患者に覚眠剤を投与し、無理矢理起こさせる。松場も後数時間で治療が終わり、薬で現実へと帰ってくる。しかし、私はどんな顔をして彼に会えばいいのかわからなかった。そもそも彼の目覚めに喜びを感じることができなかった。彼の最後の選択は失敗に終わったのだ。ここから先の彼の人生が地獄に思えてならなかった。それゆえ、彼を目覚めさせるのは果たしていいのだろうか、ずっと目覚めないでいたほうがいいんじゃないのか。私は不安で胸がいっぱいだった。手のひらの熱がグラスを伝い、ゆっくりと氷を溶かし始めた。


 不安を紛らわすように私は店を出て、病院へと向かった。四日市駅から病院までは少し距離があったが、今の私にはちょうどよく思えた。駅前の繁華街を抜けると、整備された歩道が鵜の森、つまり敏感派たちの住宅地へと続いてた。数ブロック歩くたびに公園があり、そこでは敏感派たちが前衛的な運動をしていた。子どもの遊具などはなく、天然の芝生と常緑樹のみの殺風景な公園しかなかった。住宅はどれも小洒落ていたが、外置き型の空気清浄機や浄水器がその外観を乱していた。行き交う人々は駅前で見たように、幸福そうな顔をしていたがどこか満ち足りない表情をしていた。やがて、陽は傾き始め、街灯がともり始めた。公園にいた敏感派たちは蜘蛛の子を散らすように一斉に帰路へと着き始めた。


 夕陽を遮るように四日市総合病院の姿が大きくなってきた。逆光により、黒く見える建物は私の進む足を止めた。冷や汗が出てきた。静かな団地通りはいかにもな雰囲気で、私はたじろいだ。直進すれば病院の正門に着く道を私は曲った。喧騒を求めてか、足はこの息苦しい街並みを抜け出そうとの方角に向かっていた。脳裏には先程のホログラニュースの内容がちらついては消えてを繰り返していた。非日常へと進む私を本能が日常に呼び戻そうとしているかのようだった。


 整備ロボットに進む足を止められた。三滝川を渡る橋の前に来ていた。ロボットは橋を渡る人のメンタルチェックを行っていた。また、数日前に入水事件があったことを地域精神保全連絡として端末に送っていた。当然、私の端末にも連絡が来た。内容の八割はセカンドライフプランや精神安定薬の案内で、肝心の事件については深夜に男性が橋から飛び込んだ程度しかなかったが、これが松場のことを指しているのは明らかだった。そして、目の前の橋が彼の最後の選択の舞台であった。


 ちょうど橋の中腹には見慣れた女性が髪を靡かせていた。その横顔は悲しみと苦悩を混ぜ込んだ暗く重い面持ちだった。整備ロボットはレッドアラームを女性に投げかけようとしていたので、すぐさま駆け寄りその人に声をかけた。

「栞さん。どうもお久しぶりです。あの大丈夫ですか」

 すぐ横に駆け寄ってくる整備ロボットのレッドランプが点灯しているを、私は指さした。

「あら、鴨居さん。お久しぶりです」

 栞さんの声は羽のように軽く、また橋を抜ける風にかき消されそうなほど弱々しい声だった。表情もわざとにこやかにしているようでぎこちなかった。


「すみません。ロボットにまで気を使わせたかしら。ちょっと色々あってね」

「彼のことなら耳にしています。お気の毒に」

「あら、知っていたの・・・そう・・・」

 先程作った表情は一瞬にして崩れ、再び暗い表情になった。

「今日の夕方、彼が目覚めると聞きまして、会いに行こうかと。ちょうど津の方に仕事もあったものですから」

「そうだったの、ありがとう。私もそのつもりなの。でも・・・」

 彼女も私と同様に、病院へと足が進まなかったのだろう。そして、その理由をどうにか探しているようだった。

「彼、ここから飛び込んだそうよ。なんでかしら。私のせいなのかしら」


 以前から松場に彼女の性格というか、精神障害については聞かされていた。今まさにそれは漏れ出しそうであった。私は、整備ロボットのレッドランプが再び迫ってくるのを感じ、なんとか彼女を宥めようとした。

「それは違いますよ。僕は彼に頼まれて、ここ数週間、彼の身辺整理をしていました。彼がなぜこんな行動をしたのか、僕は知っています。だからこそ、あなたは違います。むしろ、あなたに救われていたと思います」

 私の言葉は半分本当で半分嘘だったが、月並みな言葉で説得力に欠けていた。

「私ね、あの人が倒れたことの夜を何度も夢に見るの、何度もと言っても数える程度なのだけど」

「栞さんがあの日、救急に連絡したんでしたか、自分はまだ詳細を聞いていなくて」

「そうね、あの日私は初めて自分を知ったわ。大きな声でヒステリックになって、辺りのものを投げたり蹴飛ばしたりしてたの。それでようやく気が収まると、部屋は散らかっていて、あの人は倒れていたわ。私の手には割れたグラスが刺さっていたり、野菜クズで緑がかっていたわ」

 彼女はあの日の記憶を鮮明に覚えているらしく、ことの惨事がどれほどのものだったか、声の震えが物語っていた。


「それからはもう無我夢中で、救急を呼んだわ。医者によると心労だそうよ。このところあの人は何かと忙しかったせいだと思うわ。倒れたこともそうだけど、自分があんな女だってことを知ったことに一番驚いて、恐怖したわ。そして、あの人はそれを知っていて、数年も付き合ってくれているんだとわかったわ」

 彼女は、自分がそういう体質であることや薬によってそれを抑え込んでいることを知らなかった。おそらく、彼女の体質を気にかけた両親がそれを伏せておいたのだろう。それを知らずに今日まで生きていたのは、周りの優しさのおかげで、松場もその一員だった。


「私はあの人はどこにでもいる普通の人だと思っていたの、正直良くも悪くも思ってなくて、何かが原因ですぐ別れてしまう脆い関係だと思ってたの。でも、違った。あの人は本当の私を受け入れてくれていた。それなのに私は、記憶欠落薬で嫌なことを忘れるのと同時に、あの人の献身さも忘れていたんだわ」

 彼女の目には溢れんばかりの涙が流れ、足取りもおぼつかなくなっていた。

「だから、あの人が飛び込んだと聞いて、罪悪感しか生まれないじゃないの。私のせいじゃないって、たとえそうでもそう思えないじゃない」

 彼女は泣き崩れ、服の袖で隠していた手が見えた。その手は包帯で巻かれ、見るだけでも痛々しいあの日の惨劇を物語っていた。医療ポッドですぐにでも治すことができるのに、旧世代の治療をしているのは彼女の償いの証明でもあった。そして、私は安易に彼女の罪を否定してしまったことを恥じた。彼女の「」は否定ではなく、肯定を求めていたのだと、わかったときにはもう遅かった。焦りから、私はまたしても月並みな言葉を返してしまった。

「すみません、何も知らずに堂々と言葉を返してしまって」


 彼女の涙は止まらず、包帯がその涙を吸い上げて、内の血が滲み出していた。辺りはもうすっかり、夕暮れの最高潮を迎え、彼女の手には刺さるような橙色の夕陽があたり、それが血の赤色と混じ溶け合った。彼女は知ってしまったのだ、松場は彼女にとっての特別で何者かであるということ、そして、もう手放すことができないほどに依存しているということを。

 倒れ込む彼女を支えた時に感じた彼女のお腹への違和感は、私の手に残り続け、彼女と一緒に歩く道は鮮やかに照らされていたが、もう夜がそこには迫っていた。海から流れこむ潮風は止み、鈴鹿山脈から流れ込んでくる風が私たちに冷たく吹いた。

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