第12話 日常と友人
事件から数日後、私の青臭い日常が戻ってきていた。来る日も来る日も農場に吸い込まれ、青臭い匂いに鼻をやられながら、野菜の成長速度や農場機械のメンテナンスを行っていた。季節の変わり目ということもあり、次の季節野菜栽培をどうするかの時季会議も開かれ、少し慌ただしさもあった。前時季は茄子を安定枠として栽培し、それなりの出荷率があったため、今季はもう少し冒険してみようというのが坂峠農場長の意見だった。売れ筋予想は多少外しても、今更農場の信頼や出荷率が愕然と落ちるわけでもないため、皆もその意見に賛成だった。私と吉川君は、その会議に必要な農場栽培可能野菜一覧の資料を作成していた。
「すいません。南瓜の前年度出荷率のデータってどこにありますか?」
「あー、それは葉菜春層のデータベースかな」
「南瓜は果菜だけど葉菜栽培でしたもんね。ありがとうございます」
そう言うと、吉川君は葉菜春層に走っていった。あれから特に変わった様子も無く、吉川君は過ごしていた。少し変わったことと言えば、私との距離が近くなった程度ぐらいなものだった。私も変わりなく日々を過ごしている。伊勢神宮や常滑難民保護区で特別な存在になれなかったというのが、返って私の平凡さを確証させている気がした。
時季会議は粛々と終わり、次の季節野菜は里芋となった。誰かがやりたいと言ったわけではなく、他の各農場の栽培履歴から今後の栽培予想を算出し、その結果に被らないかつ農場で栽培可能なものを導き出し、その結果を皆で見ただけに過ぎない。ただ、今回は計算結果の上から二番目の候補を選んだ。珍種野菜を栽培するようなことはせず、それなりのリターンがあるものしか栽培しない。今の日本で冒険するなんて意味は結局その程度である。時季栽培野菜の決定なんて、我々エンジニアが計算し導き出した結果に農場長が承認するだけでいいのに、わざわざ会議という名目で集まって、さも話し合って決めたようにしている。私が入社したときには、この会議の無意味さを農場長に話したことがあったが聞き入ってもらえず、今ではただそういうものなのかと疑問や無意味さを考えなくなっていた。
しかし、今回の時季会議を終えて、その無意味さを再び感じ始めた。自分の平凡さがわかると無意味さや無能さが良く見えてくるようで、それは自分の性質と似ているから不思議と感じ取れるのだった。物事にやたらと意味を見出し、自分に益があるのか害があるのか、そう言った二分論で世界を見ている敏感派たちが、自分の存在証明をしているのだと気づき始めた。そもそも、伊勢神宮の時もそうであったが、意味の最終地点は神であるならば、物事に何でもかんでも意味を持たせるのは、何かのまじないや祈りとして納得のあるものだ。
そんな哲学的な思考を巡らせながら、里芋の供給率に伴う成長速度を計算させていると、鴨居から連絡が入った。週末に会おうとのことだった。この間会ったばかりだったが、何やら用事があるとのことで、私は会える旨を返信した。返信後、それらしい関数とパラメーターを設定し、ホログラムシミュレーションを動かした。
倍速モードで収穫期まで見たが、途中、成長が止まることや枯れることはなく、無事塊茎もできた。しかし、塊茎が小さい。何度かパラメーターを変更したがうまくいかず、わざわざパラメーター最適化の計算までしたが結果は変わらずで、これは関数に問題がありそうだった。関数の修正はそれなりの時間がかかるため、今日は残業をすることになったが私は少し高揚していた。
関数の修正は翌日も続いた。まだ栽培するまでには時間があり、豊崎さんもゆっくりやればいいよ言ってくれた。吉川君は、四次元アームの勉強兼メンテナンスで各層をせわしく巡っていた。修正したり、シュミレーションを動かすことを何度か繰り返して、ようやく収穫可能な大きさに育つ成長率を出すことができたのは週末前だった。残業続きのせいもあり、農場長からはねぎらいの意味も込めて今日は定時よりも早めに退勤することになった。昼過ぎに農場を後にするのは初めてで、帰宅するにしても早すぎるため、私は他の農場を結ぶバイパス線沿いを何となく歩き始めた。
出荷トラック通行用のバイパスは一般道の上を通っており、農場の上から二層目のほどの高さで、見通しもそれなりによかった。出荷トラックは相変わらず走っており、一定間隔を空けて、どこまでも続いていた。それに比べ歩道は、昼頃やバイパスということもあり、私以外誰も歩いていなかった。伊勢湾からの潮風は農場の青臭さと混じり、ほのかにその気配だけを残していた。天気は快晴で雲一つ無かった。前時代の名残りの焼却煙突からは白い煙が静かになびいていた。
私はバイパスを塩浜町に向かって歩いた。塩浜の農場島は、試験農場として空腹の六年間の最初期に建てられたものが数件集まってできており、他の農場のように一島一農場ではなく、いくつかの農場の集合体となってできていた。それらの農場は、今もまだ第一世代の農場設備や第二世代初期の設備で運営されていて、遠くから見ているだけでも、今にも農場島全体が悲鳴を上げながら動いているようだった。それでも、塩浜の農場島は零番島ともいい、今のような安寧な時代を築いた礎として敬意を込めてそう呼んでいる。昼過ぎの眩い日光は伊勢湾も農場も照らし、全てを真白く染めて、ただ農場や波の輪郭を描いていた。私はただ何も感じず、その光景を見ていた。はやく退勤できたことにも、この儚い光景にも、心は揺れることは無く、時間だけがゆっくりと過ぎていった。
零番島は静かだったが、内にある活気を感じた。旧式装置の機械音、高速洗浄機の蒸気、啜れた人工日光など、四日市農業記念館で見た第一世代時の農場機械たちを思い出しながら、どれも忙しく稼働しているのを想像した。外観はみすぼらしくなっていても矍鑠たる様は第一世代に似た雰囲気であった。振り返り、三番島を見るとそこには青白く物静かで無感情、そして内に冷たいものを抱えた農場が見えた。あれが第三世代なのだろう。そして自分である。内を満たすものが私と同じ無個性野菜なのがなんとも滑稽だった。早退は私に現実を教えてくれた。
私が帰りのバスを気にし始めたのは、鈴鹿川のほとりでのうたた寝から起きた時だった。バスは地区ごとを走るため、この近辺のバスに乗っても近所まで帰れなかった。来た道を戻るのは骨が折れるため、遠回りになるが塩浜駅から四日市駅に行き、そこからバスに乗ることにした。退勤時間ということもあり、塩浜駅には多くの農場勤務者があふれており、更には農作物専用貨物列車が駅を行ったり来たりを繰り返していた。ここ最近、非日常的な体験をしていたせいか、どことなくこの場の空気感に安心した。浮いていた足が地に着くような、止まっていた時計の針が再び動いたような気がした。
結局、帰宅したのはいつもと同じ時間帯で、栞もいつもと同じように私の帰りを迎えてくれた。栞は私が時季会議での残業続きが終わったことを、帰宅時間から悟ったらしく、夕食中笑顔を絶やさなかった。ここ数日、私の帰りが遅いことを自分のせいではと考えていたらしく、いつも以上の睡眠薬と記憶欠損薬を飲んでいたことを私は覚えている。その度に言いようのない罪悪感と歪さを覚えていた。彼女にとってのあるべき姿、本来の姿を私はまだ知らない気でならない。
今、目の前の愛らしい目の女性は本物なのだろうか。自分の彼女に対してそんな無粋なことを考えている自分が嫌になった。きっとまだあの難民の言葉が心のどこかに残っているのだろう。特別でもない何者でもない自分の何気ない日常を、私はまだ完全に取り戻していないのだ。私は意味を持たないという日常が心地よかった。しかし、それさえも難民によって意味を持たされ、私の憩いは消えたのだ。
夕食後、ベランダに出て、嫌いなはずの青臭い匂いを何度も何度も身体の隅々、細胞一つ一つにまで行き届くように吸い込んだ。遠くに見える焼却煙突からは煙が怪しげに揺らめいていた。寝室で待っている栞の所に駆り立てられたように向かった。
鴨居と会うのは決まって四日市駅前の啜れたバーだった。彼はいつも私より早く入店して、同じ席に座って私を待っていた。飲む酒も同じで、沖縄産サトウキビを使ったラム酒をストレートで頼んでいた。彼は上物のスーツを着ており、常にノリが貼ってあるかのようにしわ一つ無かった。髪はきれいに整えられ、おそらくここ何年も額から汗をかいたことのないほど爽やかだった。
「よう、お疲れさん」
「どうしたんだ、今回はスパンが短いじゃないか」
「いや、まあ早めに報告しようと思ってね」
そう言って、鴨居は鞄から非回線用チップを渡した。私は端末に入れ、起動させた。すると、「常滑難民保護区思想テロ事件報告書」の文字が浮かび上がった。私はその文字を確認すると、すぐさま端末を閉じた。
「この報告だったのか。そうかありがとう」
「いやなに、ここ数年では得ることのできなかった刺激的な内容だったよ。まさか、友人からこんな事後処理を任せられるとはね」
政界を退いた政治家たちが農業事業者へと転身することから、鴨居は農業事業アドバイザーとして彼らのような人々と会う機会があった。そのため、彼は農業への知識とそれらの社会の関わり方、世界情勢の中の日本政治に詳しかった。今回起きた難民事件は農業と政治、両方に影響を及ぼしたため、どちらにも深い知識がある彼にその報告整理を頼んだのだ。
「実は君に頼まれたすぐあとに、国ひいては非戦争主義委員会たちからも報告を頼まれてね。ここ数日は、それの受け渡しと口頭報告で忙しかったのさ」
「まあ、お前もそんな大物たちから仕事をもらうとは偉くなったもんだなあ」
「いやいや、彼らも情報収集に必死なのさ。みんな精神的被害を聞いてきてさ。それと、事件関係者をね」
「事件関係者というと僕と吉川君とあの人か・・・」
「そう、まあそのとき保護区に在中していた新装自衛隊員も列挙してるけど、事細かに情報を求められたのは君のいう三名だ。君たちがあの場にいたということと、事件に巻き込まれたという偶然性に納得させるのは骨が折れたけどね」
「いや、ほんとにありがとう。すまなかった」
「本当だよまったく。特に君は他の委員会いやエゴイストパーティーに目を付けられているんだから。あらぬ誤解を招かないようにするのは大変だったんだぞ」
彼が言っているのは、おそらく私の大学時代の研究のことだろう。エゴイストパーティーたちは互いに情報を提供、そして共有しているため、他で目を付けられることがあれば、それはすぐさま別のエゴイストパーティーたちにも知らされる。これは、エゴイストパーティー内の潔白さを保つためでもあるが、彼らの敵を一点に集中させることが目的であった。その点、私は既に目をつけられているため、何かと難癖を付けられる可能性があったのだ。
「それと、メンタルチェックは受けたのか?」
「ああ、特に問題はなかったよ」
「そうか、よかった。何かあればその報告書に追記しなきゃいけないからね。まあ、非戦争主義委員会は何かあってくれることを望んでいるようだったがね」
「その口ぶりだと、彼、吉川君も問題なさそうだね」
「うん、事件による心の乱れはあったけど、時期に収まると聞いているよ。後輩なんだろ、君の方がよくわかってるだろう」
私は生返事をすると、鴨居は口を閉じた。会話の終わりを見たマスターは、私がまだ何も注文していないことを指摘するように咳払いした。私はキャロットカクテルを頼んだ。暫く私と鴨居の中で沈黙が続いた。彼は自分で言ったように忙しかったらしく、疲労の色が見えていた。報告は受け取ったし、彼を早く帰した方がいいと思い、カクテルを急いで飲み干した。しかし、私は帰宅の案内を言えなかった。
このまま帰ってしまうのはどこか口惜しく、ここでしか得られないことがあるような気がしてならなかった。鴨居もそれを待っているのか、ラム酒のおかわりと野菜スティックを注文していた。それを見て私もカクテルのおかわりを頼んだ。
雨が降り始め、静かな店内に激しい雨音が入ってきた。私たち以外の客も沈黙して、この雨音を聞いていた。先ほどまで流れていたモダンジャズの滑らかな音は、不規則な雨音によって消され、マスターもこれでは意味が無いと音響機を止めた。雨音は段々と強くなっていき、私たちの沈黙が破れるのを急かしているようだった。こういったときの鴨居は優しかった。
決して自分からは口を開かず、私の口が開くことを待ってくれた。相手の心の整理を静かに待ってくれた。私の研究がエゴイストパーティーに糾弾された時もそうであった。研究が白紙になってこれから先どうしていけばいいのかわからないことを相談したのだった。
彼は私にこれから先どうしたいかを聞いた、もしやりたいことやなりたいものがないなら、それを考えるための時間を作れるようにしようと言ってくれた。野菜に関する理論的知識があることで農業エンジニアの道があることを教えてくれた。研究が白紙になってしまったことを私は自分で納得ができず、それを口にしたら自分の研究を終わらせてしまったことを認めてしまうように感じ、なかなか相談できずにいた。でも、彼は私が言うのを待ってくれた。彼ならば私が納得できる落としどころを見つけ説明することができたが敢えて言わず、私の口からそれを話し出し、研究に終わりを認めるのを待った。
私はためらっていた。鴨居はそれこそ私よりも私のことを知っていると思っているが、この私の感じている生きづらさが彼にとって理解し得るものなのか、怖かった。
もう私一人では抱えきれないほどのこの気持ちは鴨居以外理解してもらえない。栞にも、吉川君にも、坂峠農場長にも、そして英雄にすらもこの気持ちなんて理解されるなんて思っていない。何度かカクテルを飲み干し、酒の力によってこの場を乗り切る力を得たがったが、どんどんとアルコールの辛さが逆に意識をはっきりと保たせてくれる気がした。鴨居もその無様な姿を見ながら野菜スティックをゆっくりと口に運んでいた。雨音は以前強いままだったが、店内は日頃の落ち着きを取り戻しつつあった。
「なあ、鴨居」
「どうした」
話し理解されないことへの恐怖よりも、このまま話さないと終わってしまう恐怖に駆られ、私は小さな声で彼を呼んだ。
「鴨居に勧められてこの道に進んで数年経ち、ようやく地に足がついてきた気がしたけど、ここ最近それが揺らいでいる気がするんだよ」
「わかるよ、この前会った時からそんな気がしていたよ」
「そうか、ありがとう」
鴨居の言葉が虚栄であっても、もう後には引けなくなった。この優しさを無駄にはできない。
「自分は何者かになりたいんだ。そりゃあ、今は農業エンジニアとして何者かではあるんだけど、そうではない自分だけの何かになりたいと思っているんだ」
「そうか、でもそれは果てしなく難しく、人並みの努力が必要だ。今、この世界では必要のない貪欲さ、満たされることのない心の渇望を持ち続けないといけない」
「うん、それは正しい」
「でも、君はぼんやりとそれを得たいと思っているだけで、特にこれと言った行動も心の貪欲さも無い」
「それは、痛いところをつくな」
「今はある程度の欲望は即座に満たされる。ある種の欲望を一定に保ち続けるなんてどうかしてるよ。それこそ、一人の人間では満たされないからエゴイストパーティーみたいに集合体となって、それを満たそうとするのさ」
「でも、それじゃあ何者かになれないじゃないか」
「君のいう何者かっていうのは替えの利かないこの世でたった一つのことを言うのかな」
私は黙ってしまった。鴨居の正々堂々とした言葉は嘘偽りなく、全くの真実で、もうこれは単に自分の甘さが出てしまった。多分、鴨居ならこの気持ちをこの場、ここ数日、もしかしたら数年満たしてくれる甘い盲信的な回答を投げかけてくれると期待していた。でも、そんなことはなく彼は根本的な解決を導き出そうと、私の発言から整理しようとしている。鴨居のこの姿勢は純粋に嬉しかったが、何故か逃げ出したいという思いが生まれてきた。
「今、君は僕が何か気の利いたことを言ってくれるはずじゃないのかと、勘違いしているんじゃないのかな」
「そんなことは・・・あるよ」
認めざるを得なかった。私の心の弱さを、甘えを。
「多分、君は第二世代が嫌いだろう。一見行き詰っているような人生でも日々の簡素な欲を満たし、幸せを教示しているのが。それを君は許せないんだろう」
「・・・・」
「否定しないってことは、認めているんだな。で、君は彼らと同じように生活しているのが君のプライドが許さないんだろう。君は第三世代としての誇りがあるから、第一世代や第二世代とは違う何者かである存在が薄れるからだろう」
私は黙って聞いているしかなかった。これは真実で私が目を背けてきたことなのだろうから。
「栞さんという彼女を作ったのだって、どこか安心したかったんだろう。自分の存在を保つために。栞さんができてから数年、第一や第二世代と同じ生活をしていても彼女の存在によって差別化し、それをあたかも自分だけの特別な生活だと思ってたんだろう。まあ、悲しいけど結局君も君が忌み嫌う人たちと同じなんだよ。で、その平穏な生活に訪れたのが吉川君だ。彼は君のような不確かで揺れる第三世代ではなく、生まれた時からその存在として、僕たちが口にしていた野菜よりもより高品質の野菜で育ち、自分自らもそうであると信じてやまない。そんな存在が君の前に現れた。まあ、わからんでもないな」
彼は勢い良く話したせいでのどが渇いたらしく、マスターにチェイサーを頼んだ。その間も私は黙って、彼の言葉を何とか飲み込もうとした。彼の言葉は流れるマグマのように重く熱く、何よりもゆっくりと流れた。いつもなら軽く笑いながら流したり、どこかに難癖を付けてようとしていたが、ここまで聞いた全てが真実で、怒りも恥ずかしさも無く、無心に近かった。私とはそんな惨めな存在だったのか。
「あの頃の君はよかった。大学で研究していた頃の君は。自分の研究が世界を変えると信じてやまなかったし、それによって得られる称賛は確かに何者かの名をくれただろう。でも、それは叶わなかった。そして、君はそこらにいる凡庸な一般人になってしまった。不平不満は言わないだけましだけど、それを変えようと行動しない。エゴイストパーティーの方が余程建設的で殊勝だよ」
私は何者かを求めている自分の方が、エゴイストパーティーたちや身の程の夢を持っている人よりも高尚である気がしていたが、そうではなかったらしい。鴨居の言葉は私の心に刺さるものばかりだったが、そこに怒りや悲しみ、哀れみは無かった。一定の声量を保ちながらどこかを誇張することも無かった。ただ、私にひどく同情しているようだった。私は同情なんてものは欲しくなかったが、ここまで真摯になってくれることに同情なんていらないとは言えなかった。
「これはわからないが、君の何者かっていうのは自分自身が選び、そうなることを決めることなんじゃないのかな。同じ存在や役割がこの世界にあふれていたとしても、自分で決めたということに意味がある。これは唯一無二の在り方だと思う」
ひどくあっさりとした答えは私の中に入り、溶けだし、体の芯まで満たした。こんな当たり前の答えに自分はたどり着けず、またしても鴨居に救われた。
・・・
彼は優し気な顔立ちで、いつも大人しかった。それに踏まえ、自分のできること、できないことをわきまえていて、大人びて見えた。
彼、松場と初めて出会ったのは、高校一年生の春。引っ越してきたばかりで右も左もわからない私は、クラスメートとすぐに馴染むことができずにいた。松場も私と同じような人間であった。
挨拶はするが、必要以上に話そうとはせず、ただ優しさだけを振りまいていた。荷物を運んでくれたり、席を譲ったり、列を先に譲ったりと何気ない優しさを、彼は呼吸のごとく当たり前のように他人に対して行っていた。その優しさが私に向けられることもあり、それから私と彼は話をするようになった。
気後れしない素直な彼は単純にいい奴だった。大抵のことはそつなくこなすが、運動が苦手だったり、数学が苦手なところがあり、何とも人間くさくて好感が持てた。それでも克服できるものは可能な限りしようと努力する姿は益々好感が持てた。私も彼もちょうど第三世代の始めとして、社会や世間からそれなりの期待を持たれていた。彼はそんなことを気にしていなかったが、優しさゆえなのか、社会の役に立ちたいことをしたいと嘯いていた。
そして彼は、時代的にも貢献度が高い農業関係の研究の道を選び、私は時代に着いていくのがやっとで、これから先もついていけるために先見的な学問である農業経済学を学ぶ道を選んだ。でも、どういう訳かいつの世もいい奴からひどい目に会う。
彼の研究はエゴイストパーティーによって白紙にされた。これから先、農業に革命を起こすであろう研究を人は無情にも手放した。それから彼は変わってしまった。白紙化が決まっても次の道を探そうとはせず、自分の積み上げてきた物を崩すことに時間を費やしていた。私は、社会の幸福を願う人がこんな目にあってはいけないと思った。
その後、私はつてを頼って彼に職を勧めた。それなりに金払いもいいし、何よりも第三世代の中での花形職種である農業勤務者になれるのだから、私は彼を救えた気がした。無縁の地での新しい生活は、悲しい惨事を忘れ去るのにはちょうどよかったし、そこには落ち着いた代り映えのしない平穏と幸福があった。月一程度で彼に会うことは元気になっていく彼を見て、私の行いが正しいことを証明しているようで嬉しかった。
でも、甘い平穏は毒に代わって、いつしか彼を蝕んでいった。異変に気付いたのはここ最近になってから、本物の第三世代が出てきたせいだろう。彼は自分の置かれている状態に不安になっているようだった。そして、あの事件が起きた。事件のおかげというのは皮肉めいているが、私は正当に彼の身辺調査をすることができた。結果としてわかったことは、私の行いは刹那的な救済であって、真の意味で彼を救えてはいなかったということだ。自分が介入しなければ、彼は彼らしくなったのだろうか。
今度こそはと思っていたが、前よりも一段としなびて見える彼を見て、私は戸惑った。私が救おうとすればするほど、彼は彼自身から遠ざかっていく気がしたからだ。だから、突き放すつもりでありのままを話した。
・・・
店を出る頃には雨はやみ、幾重にも重なった雲の合間から月が見え隠れしていた。今日は満月で、その力強き光は雲を貫き、道路の水溜りを光らせていた。雨後の空気は重く、それに農場からの青臭さを取り込んでいた。酒を飲んだ後の夜風としては最悪だった。バスはもう最終便を終え、道路も歩道も閑散としていた。ときわ台の家まで歩いて帰ることはできるが、この空気の中を歩くことは少々気が滅入った。
名古屋行きのホバートレインはまだ出ており、鴨居は私用端末で最終便を調べていた。私は仕方なく近くに停留している無人自動タクシーを呼んだ。数分後、小さな駆動音を走らせながら、タクシーがやってきた。それを見た鴨居は少し安心した顔をして、別れの挨拶を言いながら駅の方に向かって行った。
タクシーは利用者が少ないが第一世代たちからは細々とした需要があり、今も数台道路を走っているのを目にする。自分も乗ったことがあるのは数回で、農場見学に来た政治家や大手メディア関係者などを駅から農場に案内するときに乗った程度だった。そういう使い道が多いせいか、内装は伊勢神宮に行くとき乗ったホバートレインと似ていた。
私はタクシーに乗り、鴨居からもらった報告書に目を通した。まとめとしては日本国民に死者は出なかったが、新装自衛隊による対応の遅れで、事件当事者の精神状況に多大なる負荷を与えたという内容で、新装自衛隊を非難していた。富国強兵を願った国は精神的に怠慢な兵隊を作り上げたというなかなかに手厳しい文面もあり、鴨居の正義感が表れていた。更には塀の一部崩壊にも触れ、守衛もできない隊員たちの物理的脆弱性という文言もあった。豊崎さんの息子が読んだら、少しは喜んだだろう。
私の帰りが遅かったのが心配だった栞は、いつもの状態に陥りかけていた。体を求める彼女に身を任せてしまいたかったが、鴨居の言っていた第二世代と同じという言葉が脳裏に浮かんだ。その直後、ぐにゃりと体が婉曲するような感覚に見舞われた。遠くで栞の狂ったような泣き声が聞こえたが、段々と遠くなっていく気がした。これはまずいなと思った瞬間、私の意識はそこで途切れた。
・・・
帰りのホバートレインで私は何度も後悔と開き直りをした。松場にどんな言葉をかけるのが最良で何が最悪だったのか、私はその答えを導き出すことはできなかった。
車窓から見える伊勢湾横断大橋の灯りは、伊勢湾の深く濃い夜を照らしていた。知多半島の小さな光はホバートレインのスピードに着いていけず、火花のように瞬きを繰り返していた。
灯台守のように揺るがなく静かに大橋にいるあの人に、助けを求めたかった。事件調査の都合であの人に会ったとき、彼は多くを語らなかった。どこか達観しているようで、答えを隠し持っているが決して言うことはないように見えた。事件当日に松場に会った人物としては一番まともで話が通じそうな人だったが、これと言った収穫は無かった。
ただ、言の葉一つ一つは意味深で、私にそこからくみ取れと言っているようだった。しかし、帰り際に彼ははっきりと忠告した。
「松場さんに難民の名前を伝えてはならない」
初め、その言葉の真意はわからなかったが、今夜松場と会ってわかった気がした。あの人自身はもう日常に戻ることはできず、松場にはそうなって欲しくなかったのだろう。英雄になった代償は日常からの離脱を意味していたのだ。松場は英雄になれなかったが、その因子は少なくともあるように見えた。それだけでは彼は日常を生きていくことはできるが、難民の名前を知ってしまったならば、日常と英雄の均衡が起き、どっちの世界にも行くことも戻ることもできなくなってしまうのだろう。
しかし、これで松場が英雄になる道を閉ざすことはできたが、どう日常に戻してやるのか、そしてそこに幸せを見出すことができるのか、私は頭を悩ませた。
以前、彼が見せてきた前時代風の広告を思い出した。私が恩師の頼みということで仕方なく映ったその広告は、農業関係者がよりよい生活や未来を過ごせるようにしたいという思いから生まれたものだったが、絵柄も文言も古臭く陳腐な出来だった。しかし、少なくとも私は日本という大国が、これからもそうあり続けるためには農業の発展が必要不可欠だと思うし、その中で働く人々も大国らしく世界を支えていることへの対価を得てしかるべきだと考えている。広告に書かれたきれいごとに嘘偽りはなく、そのために自分もなせることをしたいという信念は本物である。だから、彼を救いたいし、どうにかしてやりたい。
この焦燥感はホバートレインの加速と比例するかのように速くなった。やがて車窓から見える光は繋がり線となり、ぼやけて揺れて儚くなっていった。
・・・
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