第4話 伊勢緑地帯
体調危機管理アラームが鳴り、我に返ると時間はすでに24時を過ぎていた。私の周りには、農業基礎数学以外にもいくつかの教科書や研究論文が開かれており、デジタルキャンバスには私の乱雑な文字が書きなぐられていた。キャンバスの内容をドキュメントに自動生成させ、開いていた教科書類を閉じていると、私の卒業論文で手が止まった。じっくりと内容を読み返すと、青く傲慢な物言いが目立った。実際に研究をしていたころは若く傲慢だったことを思い出した。大学に入った当初からこの研究をしたくてたまらなく、取らなくてもいい講義を聞きに行ったり、役立つと思い、農業発達によりできた農文学なんてものの講義にもぐったりもしていた。結局ところ、農文学なんてものはひどくつまらなく、研究を始めたころにはすっかり忘れてしまっていた。サークル活動や恋愛、アルバイトなんてせず、ただただ研究のために知識を学び、そして大学三年目から研究にとりかかった。あの頃の日々は忙しかったが、どこか満ち足りていた。疲れ果て家に帰ってベッドに沈むあの感覚は心身ともに幸福だった。しかし、今思うとサークル活動、恋愛を味わっていたかった。若く、自分のアイデンティティーを育むような青い日々。少しでも過ごしていたなら今とは違う自分がいたんじゃないかとそう思わずにはいられなかった。
「今も青い日々だけどな・・・青臭いだけど」
そうこぼすと馬鹿馬鹿しくなって笑ってしまった。過去を割り切ったと思っていたが案外捨てきれていないものだと気づくとふいに悲しさが込み上げてきた。二度目の体調危機管理アラームが鳴った。私は急いで研究論文を閉じ、ドキュメントを社内専用端末に送るとベッドに入った。閉じ忘れた私用端末から、卒業論文のタイトル「汎用野菜を基礎にした場合の完全栄養作物の遺伝子構造」がほのかに点灯していた。夜雨が降り始めた。
昨夜降り出した雨は早朝にはやんでおり、雲間から少し青空が見えていた。リビングに栞の姿は見えなかった。居室から寝息が聞こえているのを確認すると、私は私用端末で農業組合に栞の欠勤連絡をした。睡眠薬と記憶欠損薬の併用は脳への負担が大きいため、過度の睡眠時間を要した。冷蔵庫から高栄養キュウリを一本取り、食べながら着替えをすまし、そそくさと家を後にした。雨上がりの朝は青臭い匂いがしなく、気分が良かった。作業服の労働者を片目に、四日市駅行きのバス亭に向かった。彼らと姿も行くべき目的も違う自分はどこか特別感があったが、それに喜ぶ虚しさも込み上げてきた。バスの車内で端末ニュースを眺めていると難民問題の記事や香草専門農場の設立記事、偏菜食浸透委員会設立記事などがありいつも通りの日々を表していた。バスが四日市駅前に停まり、駅構内に向かうと坂峠農場長が声をかけてきた。
「おはよう松場君。おや、目の下にクマがあるぞ大丈夫かい?」
「昨夜、玉ねぎの成長関数を調べてまして、つい熱が入っちゃって。体調危機アラームが二回も鳴っちゃいましたよ」
「君は昔から研究熱心だからね、気を付けたまえよ。それと、一応それ仕事内容だから勤務時間内でやらないと給料出ないよ」
「前にも注意されたんですけど、気になっちゃうと居ても立っても居られなくてつい」
「根っからの研究者だね。でも、まあ今日は昼過ぎには解散するから家でゆっくり休みなよ。そのクマ見てるとこっちまで心配で疲れちゃうから」
「お気遣いありがとうございます。そうさせてもらいますよ」
坂峠農場長は若い頃、一般のサービス業の仕事をしていたが、空腹の6年間が始まると、今後の社会の基盤になるだろう第一次産業の隆盛を予感し、四日市が農場候補地となる前からこの地に引っ越してきた。現在、農場長という立場にいる多くの人がそうした人たちで、彼らとともに農場を発達させてきた第一世代はどこからかバイタリティを感じさせた。私は目の下のクマが薄くなるような心持になった。
四日市駅構内は自分と同じように伊勢神宮に行く農場関係者たちで混みあっていた。ここには坂峠農場長のような第一世代と自分たちのような第三世代しかおらず、第二世代たちはほぼいなかった。今の時代、農場正社員は第一世代と第三世代が九割程で、残りの一割は経理などのいわゆる事務系職の第二世代で、こうした農場のしきたりに参加する第二世代はごくわずかだった。
伊勢行きのホバートレインは五両編成で、各農場ごとに一両ずつ割り当てられていた。近代的で滑らかな流線型のフォルムとは裏腹に、車内は明治期を思わせる厳格さのある和洋折衷の内装であった。戦争が始まって中立四国家として世界を支えるようになった日本は明治期の富国強兵を体現するようになった。そのため、当時の文化を復刻させ、我々の富国さ、そして強国さを意識させるようになり、それはこうした公共交通機関からも感じられた。三十席ほどあったが我々は十数名しかいないため自由席となった。私は適当に窓際の席に座ると、急に眠気が襲ってきた。私は窓枠に身を寄せ眠った。
拍手の音で私は目を覚ました。車内の中央で少し顔を赤らめ緊張している吉川君がいた。坂峠農場長が皆に拍手をやめさせ、一呼吸置いて話し出した。
「昨日から入社した吉川君だ。彼は我が農場初の専門校卒業生だ。皆、彼から多くのことを学んでほしい。そして彼に多くのことを教えてあげてほしい。さあ、吉川君」
そう言われた彼はさらに顔を赤らめ、大げさなしぐさで何度か深呼吸をした。
「ええと、皆さんおはようございます。昨日から入社しました。吉川裕真です。この通り、緊張してまして昨夜話すことをメモしたんですが、それがどこかに行ってしまいまして・・・」
吉川君の緊張した芯の無い声で私は再び眠気に襲われた。しかし、眠ってしまうのはさすがに申し訳ないと思い、かといって聞く気にもなれないため、窓の外を眺めた。窓の外から農場の煙突がいくつも見え、自分が寝てからそれほど経っていないことを示していた。煙突から出ている煙がはっきりとした形を作り、長くまっすぐ上に伸びていた。ホバートレインは農場地帯と住居地帯の境界線である塩浜街道沿いを走っており、この街道は鈴鹿まで伸びていた。鈴鹿駅に近づくと農場地帯は終わりを迎え、農場で隠れて見えなかった海が見え始めた。海上には先の時代で使われていた海底資源発掘海上基地が見えた。今は資源統括によってドイツだけがエネルギーの源である核融合炉を保持し、さらにエネルギー統括により物の全てのエネルギーは電気だけとなった。ドイツは世界通信網により核から生み出された電気エネルギーを世界各地に供給している。先の時代、資源不足によるエネルギー問題を懸念していた日本は海底資源に着手したが、基地が稼働して数年後に戦争が始まり、中立四国家がそれぞれの役割を担うとエネルギー問題は解決した。さらに世界均衡のために、独自に分担された各国の役割を別国家が行うのは禁止になり、ドイツ以外ではエネルギーを生み出すことは出来なくなった。こうした背景から基地は使用することができなくなり、解体するにしてもそれなりの時間がかかるため、放置されている。
こうした世界均衡や中立四国家の役割分担は、戦争で疲弊する自然への対策でもあった。戦争が始まって数年、まだ中立四国家構想途中下で戦争による自然被害とそれによる人類社会の影響を唱えた学者がいた。それは各国の保守で利己的な行動がもたらす悲劇、資源や食料供給の偏りによる疲弊、生活不可能な自然環境の到来等、自然環境を基盤とした人類社会において避けられない問題を警鐘するものだった。これにより、環境活動家を投入した世界秩序構築が行われた。人類存亡に必要不可欠なことであれば農場建設などの自然介入開発は認められていたが、そうでないものは認可されることはなく、また無断での開発は即座に停止・撤去され、国際法による厳しい処罰が下された。最近では自然回帰の思想は戦争前の時代にも向けられるようになり、あの海上基地もそのうち撤去されることとなるだろう。
鈴鹿、亀山は四日市郊外の居住地域となっており、街路樹と住宅が綺麗に立ち並んでいた。ここは四日市の農場関係で成功を収めた人たちが多く住んでおり、高級住宅街となっていた。近頃では外観のためと言って集合住宅は撤去され一軒家しか建てることができなくなり、既存の集合住宅も解体が進んでいた。街路樹も常緑樹で統一され一年中緑を彩っていた。各駅も落ち着きがあり、ついつい目を追ってしまう小奇麗さと華やかさがあった。こうした農場成金は四日市だけでなく各農場地帯でも発生しており、農場あるところには自然と高級住宅街が点在していた。多くの農場関係者はここに住むことを目標や夢として日々汗水を流しているが、実際ここに住んでいるのは上流階級の第一世代や農業研究で一儲けした人たちだけだった。農業研究は多くの人たちが取り組んでいて、一山当てるには一筋縄ではいかないし、真面目に農場で働いて上流階級になるには気が遠くなりそうで、私にとってはここに住みたいなんて思いもしなかった。しかし、私以外の人たちは窓から見える可憐な光景に目を輝かせていた。それは吉川君も例外ではなかった。三階以上の建物はほとんどないため、窓から鈴鹿山脈まできれいに見渡せ、それだけは心惹かれ目を輝かせることができた。
四日市での人生は皆が同じ仕事と目標を持っていた。農場勤務の夫婦から生まれ、四日市から出ることなく大きくなり、そして両親のように農場に勤める。やがては鈴鹿や亀山に住むことを夢見て。それが四日市で生きるということだった。まだ、農場が建設される前の工場地帯であった時からそうであった。そう生きることは自然であり、王道であり正道であった。私はそれが理解できなかった。そう生きることは何も悪くない、ただアイデンティティーの喪失や画一化されていく個人になることを何とも思わないのが気に食わなかった。自分はよそ者で四日市以外の世界を知っていることに特別感を得ていたが、この町では生きにくくなるだけだった。自分はこの時代なのに幸せを感じることはなく、彼らが明確な幸せを持って生きていることに嫉妬しているだけなのか。単調に日々を過ごし、恋人を作り、結婚し、そして子供ができる、自分がそんなことで幸せと感じるか甚だ疑問であった。幸福を求める時代なのに、自分の幸福が見つけられずにいるのに、単純明快な幸福を求める人々ばかりのこの町は私には残酷すぎた。まじまじと時代の正解像を見せつけられ、自分が世間からずれていることを突き付けられているようだった。
ホバートレインは津市駅に停車した。津市は三重県の県庁所在として古くから政治的な活動の場として栄えてきた。人口が多く、発展している四日市に県庁を置くべきだという意見が昔にあったが、農業と政治は切り分けるべきだという主張が強く、何よりも四日市市が肥大することを防ぐという目的もあり、そのまま県庁は津市に残されることとなった。理由はそれだけでなく、四日市の人口増加による安易住居を郊外進出させないためでもあった。郊外である鈴鹿や亀山は高級住宅地としての拍を汚さないために、津と四日市には政治と農場をそれぞれ分けて市の機能を持たせるようになった。津市駅は全体ガラス製で、プラットホームや看板ですら強化ガラスでできていた。歩いている人はまるで空中に浮いているかのように見え、奇妙だった。政治の透明性を示す意味合いを込めてこうして駅から全身ガラス張りにしているのだと数年前に豊崎さんに教えてもらったことを思い出した。駅からは外の景色は先ほどと違い、高層ビルがいくつも立ち並んでおり、当然のようにそれらも全身ガラス張りだった。一定間隔に植えられた街路樹はなく、ビルと黒いアスファルトの道で埋め尽くされていて、その道には無人タクシーがつぶさに走っていた。政治街といっても、ニュースを見る限り忙しい雰囲気はなく、街も妙に静かな気がした。
津市駅で十分間の休憩時間となった。私は用を足すために下車し、プライベートルームに向かった。ルームの中は表の静謐さとは裏腹に電子広告がいくつも張られていた。農業関係や敏感派思想集団の文言の広告が多く、どれも見ていて胸やけがするものばかりだった。ふと見覚えの顔が広告にあった。
「世界の食料はあなたの手から。さあ、努力しよう夢のために。農業事業アドバイザー連盟一同」
友人の鴨居の顔がそこにはあった。彼は大学で農業経済を学んで、今は農業事業のフリーアドバイザーとしてそれなりの活躍をしていると知っていたが、こんな古臭そうな広告に写っているとは思いもよらなかった。こんなアイコニックなことを毛嫌いするやつなのにどういう風の吹き回しでこんなことをしたのか知りたくなった。私はすぐさま私用端末で広告を撮影し彼に送った。ホバートレインの方に戻ると、坂峠農場長と吉川君が立ち話をしていた。
「昨日は大丈夫だったかい?初日だったのに大変だったね。私の不注意だ、すまない」
「いえ、そんなことありません。でも、あそこまで邪険に扱われたのは納得がいかなくて」
「君はなんで彼らが君たちを腫れものみたいに扱うか知ってるだろ」
吉川君は一晩明け、昨日の出来事を振り返って、熟考した末、自分の受けた理不尽な怒りは自分が悪いのではないと考えたのか、それとも彼らの不幸よりも自分の幸福を選んだのか、吐き出すようにこう言った。
「それは、わかりますけど。彼らが悪いんじゃないですかね。今の時代、セカンドライフプランや現実逃避行薬があるのにそれに頼らず青臭い匂いと汗交じりの毎日を送ってるなんて、おかしいですよ」
突然放たれた怒りは純粋さ故の言葉だった。虚を突かれた農場長はその発言に彼の気性の変わりやすさに感じていた。農場長が返答に迷っているのを見て、私はすぐさま二人の下に行き乗車を促した。ガラス張りの駅は人の心の奥まで透き通してしまうのか、そんなこと思ってしまった。
「いやあ、最近の若者は純粋で率直だね。びっくりしたよ」
吉川君から離れた私の横に座りながら農場長が口を開けた。
「僕も驚きました。なんていうかつかみどころがないですね彼。彼自身の本性というか本質が見えないと言いますか」
「最近は多いらしいね、そういう子や感情の起伏が激しい子は。やっぱり薬のせいかね」
「多分そうだと思いますね。時折ニュースで見かけますし」
窓の外の海を見ながら栞を思い出した。彼女も感情の起伏が激しかった。医療技術が発達し、人類は肉体的傷害をある程度克服した。けがや病気は完治するのが当たり前で、よほどの致命傷でないと死に至ることはなかった。しかし、肉体的健康を手に入れた人類は精神的健康を失いつつあった。健全な肉体に健全な精神が宿るのではなく、肉体と精神の健康は均衡状態で成り立っていた。肉体労働が多かった第一世代時に肉体的健康のため、多くの薬が開発され実用化された。その結果、安易に薬を口にする文化が生まれた。薬は多くの場合、一定の効能が保証されており、健康状態で服用すると一種のブーストを引き起こした。これにより肉体と精神の乖離が起こり、気分が悪いのに調子の良い体という相反する状態になる。これを治すために人々は多くの精神薬を服用しだした。こうした薬の悪循環は、精神の不安定さを招き、精神障害者が増え始めた。吉川君はおそらく精神障害まで来ていないだろうが、その不安定さはにじみ出ていた。
「彼、昨日も少しそういうところがありましたよ。僕はそういう人には慣れているのであまり驚きはないのですが」
「逆に君は大人しくてどこか私たち第一世代と似ているよ」
「大学時代の先輩に、薬と宗教と女は気をつけろと言われまして、それ以来多少気分が悪くても薬なんてのまないんですよ。そのおかげかもしれません」
「そうだったのか。薬で精神のオンとオフを切り替えているなんて少し怖いからね。私は本当の自分が何なのかわからなくなってしまいそうになると思うんだがね。君はその精神の安定さを先輩に感謝しないとな」
私は本当に精神が安定しているのだろうか。時折想起する自分の不運に乱れてしまうのに、坂峠農場長の発言を納得することができなかったが、第一世代と同じように思われるのは悪い気がせず、むしろ嬉しかった。
「全くもってそうですね。でも、先輩は自分の忠告を守れず結構女性に振り回されてましたけど」
私たちは笑った。薬で作った精神からくるものではなく、純粋で素朴な笑いをした。激動の空腹時代の人々のように・・・
いつの間にかホバートレインは松坂市に入り、伊勢緑地帯が近づいてきた。
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