10 海の呼び声

 涛は海中に漂っていた。

 海面の喧噪はここにはない。人魚の歌も引き裂かれる漁師の断末魔の声も――

 暗くて深くて静かな水の世界だった。

 ゆっくりと、ゆっくりと、涛の身体は沈んでいく。涛には手足を動かすことさえおぼつかなかった。不思議なくらい息は苦しくなく、とはいえもがく気力さえ湧いてこなかった。

 冷たい海に飲み込まれて、むしろ安心さえ覚えるほどに。

 そういえば、陸の世界では楽しいことなどなかった。

 忌み子、呪われ子として村から追い出され、獣のようにして生き延びてきた。

 自分がどうしてそういう目にあうのか、理解さえできず、誰かのせいと思い込むことさえできなかった。世の中ぜんたいを憎むよりほかなかった。

 あの世界では、自分はどうせ生きられなかったのだ――と思う。

 海の底で、魚の餌になって、そして小さな海老にでも生まれ変わり、やりなおせばいい。

 人間などまっぴらだ。

 ほとんど抵抗することもなく、涛は肺の中の最後の一息を気泡として放出した。あとは冷たい水を吸い込めば、それで終わる。

 さようならを告げる相手さえ思い浮かばず、涛は死を受け入れようとした。

 とし――とし……

 誰かの声が聞こえてきたような気がした。泣きじゃくっている従姉の顔が脳裏に浮かんだ。いや――従姉ではないのだ――あれは――あの子は――

 その顔が美潮のものに不意に変わった。

(だめ、とし、死んではいけない)

 声が間近で聞こえた。初めて聞くはずなのに、なぜかそれが美潮の肉声だとわかった。

(この海で死ぬのは――それだけは、だめ)

 次の瞬間。美潮が涛の顔を両手で挟み、唇と唇をつけた。

 息が吹き込まれる。

 美潮の呼気で涛の肺が満たされる。

 涛の意識が幾分か明瞭さを取り戻す。

 涛になおも息を吹き込み続けようとする美潮の肩をつかみ、引き離す。

(美潮、おまえ――)

 声を発することはできないのに、美潮の声が聞こえるのと同じように、涛は美潮に話しかけていた。

(人魚――だったのか)

 美潮は裸だった。

 こぶりな胸となめらかな腹部、そこからつながる、人であれば脚の部分が、魚の形をしている。

 なめらかで美しい。人間の時の肢体も美しかったが、今のほうが美潮の美しさをより高めている。

 だが、あちこちに傷がある。幾つかは新しかった。ふさがりかけてはいるものの、肩や腹、頬にも傷がある。

(美潮、どうした、その傷は――まさか)

 美潮は答えず、そっと微笑んだ。いつも通りの、涛を許し、慈しんでくれるような笑みをそっと浮かべて――

 そして、美潮は言った。声を発することなく、声を届けた。

(わたしは、海に棲む者――さいれんの一族に連なる者です)

 さいれん――異人の言葉で人魚のことを指す――とは、墓島の周辺に現れ、美しい歌で船人を惑わすあやかしたち。

 潮流を操り、魚たちを使役する――海の怪異の王の眷属。

 さん・まろ村の漁師たちを幾度となくその牙にかけた。

 言葉にせずとも、涛の脳裏に走った、さいれんへの嫌悪は拭えない。

(その通りです。でも、それは人間達が勝手にわたしたちの領域を荒らしたから)

 そうかもしれない、いやきっとそうなのだろう――涛は思う。さっきの漁師たちの振る舞いをみても――だが、だからといって――

(父さんを殺したのは許せない。母さんも、海で死んだ)

 すると美潮は悲しそうな顔をした。いつかどこかで、見たような――

 そうこうするうち、涛の息がまた苦しくなる。身体が新鮮な空気を欲している。ついさっきまでは、ほとんど苦しみを感じなかった肺と心臓が激烈な痛みを訴えかけてくる。涛はもがき、浮上しようとする。だが、水のねっとりとした抵抗にまけ、動きがすぐに鈍る。肺が爆発しそうになり、あぶくを吐き出す。

 すかさず美潮が優美に泳いで涛に寄り添い、口づける。息をさらに吹き込んでくる。

 人魚は海の水から息を作り出すのだろうか。さっきよりもさらに甘く濃密な吐息が涛の肺を再び満たす。

(どうして……おれを助ける? 人魚なのに……なぜ……)

(それは、あなたのお父さんを死なせたのがわたしだからです)

 美潮はひどく悲しそうに――ふだんの幼い姿からは想像できないほど――おとなびた様子で、かつ痛々しげに吐露した。

(父さんを……殺した……?)

 そして、美潮は物語を始めた。



 あなたの父さんは、わたしの夫でした。

 腕の良い漁師だったあなたの父さんは、誰よりも潮目を読むのがうまくて、それまでは人間が近づくことのできなかった墓島の近くまで魚を追ってきたのです。わたしはそれを追い返す役でした。

 わたしは歌いました。でも、あなたの父さんは眠ることも引き返すこともせず、わたしの歌声を追って、近づいてきたのです。

 人魚というものを一目見たかった、とあなたの父さんは言いました。わたしも実際に人間をこの目で見たのは初めてでした。

 ――そして、わたしたちは恋に落ちてしまったのです。


 人間と夫婦になることなど、もちろん許されることではありません。それでも、わたしはどうしてもあなたの父さんと添い遂げたかった。だから、禁忌をおかしたのです。

 禁断の呪法に手を出し、魚の尾びれのかわりに人の脚を得、そのかわりに声を失いました。それでも人の姿となって、あなたの父さんと結婚し、そして涛、あなたを得ました。


 幸せでした。なにより、あなたの成長を見守るのが嬉しくて、嬉しくて。


 けれど、幸福な時間はそうは長く続きませんでした。わたしが属するさいれんの一族のオサから、海に戻るよう警告が届いたのです。

 わたしが海に戻らねば、海を沸き立たせ、人間の村を呑みこむと脅して――


 オサの命令は絶対です。わたしはやむなくいったん海に帰りました。オサを説得したら、またあなたたちの元に戻るつもりで。でも、オサはわたしを封じて、陸に戻してはくれませんでした。


 あなたの父さんは、わたしを迎えに来るために、禁忌の海に船をこぎ出していたのです。

 そして――オサの怒りに触れて海に呑まれました。

 そのことをわたしが知ったのはずっと後のこと。

 でも、あなたの父さんを死なせたのはわたしなのです。わたしが――禁忌を破って人間になろうとしなければ――


 それでも――


 それでも、あなたのことを忘れたことはありませんでしたよ――

 だから――また――禁忌を犯してしまいました。

 あの人そっくりに成長したあなたが、村を追い出され、一人で暮らしていることを知って――ただただ会いたくて――


 ほんとうは顔を見たら、また海に戻るつもりでした。でも、あなたとの暮らしが楽しくて嬉しくて――


 でも、それはやはり間違いでした。人間は人魚を迎え入れることはない。同様に人魚も人間を許すことはない。


 ――もう一つ、あなたに会いに行った理由はあるのです。

 逃げて欲しかったのです。この海辺から。

 さいれん一族は人間との共存を選ばない。ほどなくこのあたり一帯の陸は海に呑まれます。人間はすべて死ぬでしょう。涛、あなたをこの海で死なせたくはなかった。二度も同じ悲しみを味わいたくなかった――


 涛、あなたはいやなのですね。この海から離れて暮らすことが。そして村の人々が、海に呑まれて死ぬことが。優しい子、でも、駄目なのです。

 

 わたしも一縷の望みを持っていました。人間がもっと思いやりのある生き物ならばと。 でも、人間たちは何一つ変わっていませんでした。海を敬うことはなく、欲望にまみれ、弱い者からは容赦なく略奪する。欲しいものをひたすら求め、そのためならばどんな醜い嘘でもつく――


 だから、海はもうすぐあふれるでしょう。


 でも、涛――あなたの命だけは取ることはできません。

 母として、それだけはできないのです。

 だから、わたしは三度、禁忌を犯します。


 もうわたしを裁くオサはいません。


 今のさいれん一族のオサはわたしなのですから。


 先代のオサはわたしの母でした。


 わたしたちは老いによって死ぬことはありません。永遠に生きつづけるのです。そのかわり、わたしたちの身体は少しずつ若返っていき、いつか卵にもどります。そしてまた生まれ直して成長していくのです。


 またいつか、あなたやあなたの子供たちと出会えることを祈っています。


 わたしたちは海にいます。いつまでも、ずっと――



         終章


 涛が気づいた時、浜に打ち上げられていた。

 それを見つけたのはさよりだった。さよりは泣きながら涛に取りすがった。

 涛が生きていると知って、さらにさよりは泣いた。

 大波がさん・まろの村を流し去ったのは十日も前のことだった。

 その間、涛は海をさまよっていたらしい。どうして溺れなかったのか、あるいは鮫に食われることもなかったのか、不思議というしかなかった。少なくとも涛は「人魚のおかげ」だとは口にしなかった。

 さよりは、その日、涛の小屋の近くで海の異常を感じ、いち早く高台に逃げて無事だったそうだ。

 だが、三ツ藤も六丸も、その他の家の人々も、一切が海に呑み込まれた。

 さよりは、災いの後も「涛が生きているのではないか」と思い、毎日、浜に出ていたのだという。

 天涯孤独となったさよりと涛は、ほどなく夫婦になった。それを咎める大人たちは生き残ってはいなかった。


 さん・まろの海では、その後、一切魚が獲れなくなった。それどころか、船の難破が相次いだ。人魚の呪いだと噂が立ち、そこは誰も住まない土地となった。

 今では、異人が戻ってきて、昔ながらの生活を送っているらしい。

 侍たちも異人たちを放置している。もっとも、侍たちは今では東方の土地げるまんの開拓に躍起になっているらしく、〈がりあ〉の北のはずれにまで手が回らないというのがほんとうのところだろう。


 時は流れ、涛は他の村で漁師となった。さよりも海女として働いた。

 結局、海から離れることはできなかった。

 海は時に多くのものを奪い去るが、同時にそれ以上の数の生命を慈しみ送り出す。

 あらゆる命の母親なのだ。

 涛は、今では、さよりとの間にできた息子を連れて、二人だけで漁に出ることがある。

 はるか彼方にかすかに墓島の影が見えると、息子とともに手を合わせる。

 歌声はもう聞こえない。


                               おわり

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欧州怪異譚 さいれんと少年 琴鳴 @kotonarix

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