8 人魚の海

 魚は無尽蔵に揚がってきた。

 網を入れると、むしろ魚の方から競って入ってくるかのようだった。

 小さな漁船はあっというまに満杯になった。

「こりゃあ獲りきれねえぜ! なんて漁場だ!」

「まったくだ! これでさん・まろ村も助かるってもんだ!」

 漁師たちは狂喜していた。

「明日からは、もっとたくさん船を出してこようぜ。これまでの分を取り返すんだ!」

 その狂奔ぶりを涛はぼんやりと見ていた。

 これでよかったのか……と訝しんだ。

「どうしたんだ、涛、考え事か?」

 源治が訊いてくる。源治の顔も満面の笑みだ。

「なあ、ここへ来る潮の読み方、教えてくれやしないかな? おまえは船に酔いやすいし、毎日来るのはたいへんだろ?」

 その口角が歪む。

「その代わりといっちゃあなんだが、獲った魚の一割をやろう。お前一人の食い扶持には十分だし、カネに換えればもっと良い暮らしができるぞ? な、どうだ?」

 涛は当惑した。教えるといっても感覚的なものだ。あの背筋がぞっとするような匂い――それをそうと感じ取れるかどうか。それに、おそらく明日は明日で、潮は変わっているに違いない。

 涛が、教えられない――教えようがない――そう告げると、源治の表情がドス黒く染まった。

「おい、涛、調子にのるんじゃねえぞ。村の嫌われ者のお前を船に乗せてやったのは誰か、忘れたのか? 船を扱えないお前は、おれの言うことをきくねえんだよ、あ? わかったか?」

 胸ぐらを掴みかからんばかりにすごんでくる。と、すぐに表情をやわらげて、涛の肩をたたいた。

「な、おれと組むということでいいだろ? 他のやつらの船じゃなく、な? おれとおまえでこの漁場を仕切っていこうじゃねえか。ほかの船のやつらからは教え賃を取ればいい。つまりはよ、おれとおまえで、さん・まろをまとめていくって寸法だ」」

 漁場を知る者が権力を掴むことになる。源治は、涛を取り込んで、網元の地位を狙おうとでもいうのかもしれない。

 だが、そんなことは、涛にとっては現実味のない話だ。ただ一日一日をギリギリで過ごしてきた。今、船に乗っているのもさよりに背中を押されたこともあるが、やはり美潮がやってきたからだ。

 美潮のためにできることは何でもしてやりたい。その一心からだ。

 いずれ仲閒たちの元に戻してやりたいと思っているが、それまでは――

 源治の存在がなぜだか遠く感じた。必死でご機嫌を取ろうとしているようだが、言葉が耳に入ってこない。

 それよりも嫌な胸騒ぎばかりする。小屋に残してきた美潮のことが気にかかる。早く、戻ってやりたい。

「まあ、詳しい算段はまたあとだ。たんまり魚は獲れたことだし、引き上げようぜ」

 源治が鞆に戻る。

 他の船もみな、積める一杯まで魚を積んでいる。意気揚々と引き返そうとしたときだ。

「なんだあ? 急に靄がかかってきやがった」

 さっきまで晴れていた空もどんよりと曇っている。まだ正午にもならないというのに、夕方のように暗い。

 そのくせ、墓島のかたちだけは、はっきりと見える。岩だらけで、植物さえまばらな無人島だ。だが、かつては人が住んでいたと思われる石造りの建物の残骸が見て取れた。

 いつの間に流されたのか、墓島に近づいていたのだ。

「お、おい、船が進まねえぞ!?」

 必死で櫂を漕ぐ源治がうろたえる。他の船も同じようだ。すこしずつ、墓島の方に引き寄せられている。

「潮目が……変わっている……」

 涛もその異常に気づく。背筋に嫌な感じが走っている。土臭いような、潮臭いような――いや一番近いのは死臭だ。生き物の死の臭い。

 ざわざわざわと肌が粟立つ。

 この感じ、確かに覚えている。

 これは――思い出せずにいた父との最後の漁の時の――


 声が聞こえてくる。


 懐かしく、禍々しい声が――


「なっ!? これは……!」

 源治が耳を塞ぐ。

「聞いちゃなんねえ! これは……人魚の歌だ!」

 漁師としての経験が長い源治には知識はあったのだろう。

 他の漁師達は口をあんぐりとあけていた。驚き、恐怖、それらがないまぜになった感情――そしてさらにそれを塗りつぶす恍惚。

 ありえないほど美しい歌声が、こちらからも、あちらからも、遠間から、すぐ傍から、そして耳元で、鳴り響いているような、そんな感覚。

 涛が周囲の海を見渡すと、波が細かく規則的に伝わってくる。波が、歌を運んでくるのだ。

 波が高まり、歌も鼓膜を突き抜けて脳髄そのものに突き刺さってくる。

 涛は思わずしゃがみこみ、耳を押さえた。根源的な恐怖がそうさせた。

 船縁を何者かの手が掴んだ。海の方からだ。

 骨張った、大きな手――長い爪が船縁に食い込んでいる。

 次の瞬間、水しぶきをあげて、何者かが顔を出した。

 大きな口を開けていた。小さなギザギザの歯が無数に生えている。目玉は紅玉のようにらんらんと光っていた。

 ――人魚!?

 涛はとっさに顔を引っ込めた。そうでなければ、顔の肉を噛みちぎられていた。

 ガチリと音をたてて、人魚は歯を噛み合わせた。

 涛は叫びながら人魚の顔を蹴った。

 キュイッと海豚のような悲鳴をあげて、人魚は海に戻った。

 だが、人魚は一頭だけではなかった。

 他の漁師の船にも人魚たちが迫っていた。だが、漁師たちはうつろな目をしたまま突っ立っている。歌は流れ続けていて、男たちはすでに正気を失っているようだった。

 おそらくは、人魚たちが絶世の美女に見えているのだろう。ある者などは自ら褌を解いて海に飛び込んだ。もちろん、その直後、人魚たちに全身を噛みちぎられた。

「祟りだ! 人魚の祟りだ! 南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏!」

 源治が船底に土下座をして、念仏を絶叫していた。

 人魚たちが起こす波が小さな漁船を木の葉のように弄ぶ。

 他の船は次々と転覆し、漁師たちは抵抗することもできず海に落ちていく。

 涛は何とか船縁を掴んで耐えていた。源治と目が合った。憎悪の視線を向けてきた。

「涛! おまえのせいでこのザマだ! この呪われっ子め! おまえなんか、親父と一緒に死んでればよかったんだ……! この……! このぉ……ッ!」

 どんな悪罵を浴びせようか、一瞬、考えたのかもしれない。だが、次の刹那、真下から突き上げる波に船はひっくり返った。

 昏い海に呑み込まれる直前に涛が見たのは、人魚に首を囓り取られた源治の姿だった。

 

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