6 潮目
「どうだ、涛、酔いは収まったか」
櫂を漕ぎながら源治が訊く。
「……だ……だいじょう……ぶ」
言うなり涛はへりから上体を出して、胃の中のものを吐き出した。
「おいおい、またか。それでも漁師のせがれか?」
源治も呆れたような声だ。
源治に誘われて漁に出た、四隻ほどの船に乗りこむ漁師たちも、やれやれ、という顔をしている。
このところの不漁続きで船を出してもろくに水揚げがない状況にあった漁師たちは、かつて墓島付近の漁場でただ一人別格の水揚げを誇った男の息子に、かすかな期待をかけていたのだ。
だが、それは船を出してほどなく、単なる笑い話に堕してしまった。
呪われっ子は、船にも酔う腰抜けだったと、というのがそのオチだ。
とはいえ、涛が極端に船に弱いというわけではない。
その日は朝から時化ぎみで、海は空の雲を映した鉛色をしていて、うねるような波が出ていた。ここのところはずっとそんな感じで、海からは魚が姿を消していた。
「やっぱり無理か」
「しかたない、引き返そう」
そんな相談が漁師の間で行なわれていたときだ。
船酔いにあえいでいた涛がよろよろと立ち上がった。
「おい、涛、もういい。横になっとれ。もう引き返すからな」
源治が言うのを、涛は手で制した。顔色は悪いが、さっきよりはしゃんとしている。
「親父は、あのあたりに船をいつも出していた」
涛は指さしていた。
その先にはおぼろにかすむのは墓島――
涛は船に乗って、海に出た瞬間、胃のあたりがむかつくような、体内の均衡が狂ったような感覚に襲われた。
そうなのだ。あの時以来――父親とともに漁に出た最後の日から――涛は海に入ると、こうなってしまう。
船酔いではない。子供の頃から船に酔ったことなどない。それでも、海に出ると――磯をうろつくくらいなら平気だが――海原の中に漕ぎだしてしまうと――駄目なのだ。
だが、今日はこのままでは帰れない。潮を読んで、魚を獲って、自分がこの村で生きていける人間であると証明しなければ。美潮を養わなければ。少なくとも、無事に仲閒のところに帰らせてやれるまで――
だから、記憶を必死でたぐった。
母がいなくなってから、父は変わった。
温厚だった性格が一変し、酒浸りになった。
それなのに、毎日、墓島近くの漁場に出て行った。
そこは潮の流れが複雑で、危険な岩礁が至るところにある。湾の栄養が流れ込むためか、海底の地形のせいか、魚が湧くように獲れた。
だが、そこに至るまでの難所が数多くあり、涛の父親以外にそこに行き着ける者はいなかった。
人魚の歌の言い伝えを理由に漁師たちは墓島に近づこうとしなかったが、それは裏返せば、そこまでの腕がない、ということを紛らわせたかったのかもしれない。
涛の父は墓島の近くまで船を出しては、網を入れた。
一度網を入れただけで、船が沈みそうなほど網は魚で一杯になった。だが、それを惜しげもなく海に戻しては、また網を入れる。それを繰り返した。
その間、ずっと、涛の母の名前を呼び続けていた。
ある時などは涛は父親に抱え上げられ、海に放り込まれそうになった。
理由はわからない。父は逆上していたが、すぐに我に返り、涛に詫びた。父は泣いていた。
そんな日々が続き、最後の漁の日がきた。
その時のことはほとんど思い出せない。だが、声を思い出した。懐かしい声だった。
美しい歌声――子守歌のような――
それが墓島の人魚が歌う声なのだと、おさない涛は悟り、そこから先の記憶を失った。
翌日、船に一人残った涛は漁師たちに救出された。涛の父親は還らなかった。
――思い出したくない記憶だった。それを涛は未来の為に取り戻そうと努めた。
実際にその海の匂いを嗅ぎ、水に手で浸し、風を頬に受けると、潮の流れを感じることができた。
墓島の姿がおぼろに見えてきたとき、不意に映像が脳裏に流れ込んできた。
父の姿だ。櫂を漕ぎながら、進むべき方向を指さしていた。
風の匂いが変わった。ねばつくような、背筋がぞっとするような、嗅覚というよりも五感の外にある感覚が呼び覚まされるような――
涛は舳先に立ち、源治に指示を出しはじめた。
半信半疑だった源治もその指示に従うと、船は潮に乗って、勝手に進みはじめた。
どんなに漕いでも近づくことができなかった墓島の姿が、徐々に大きくなっていく。
すると、海の色が変わった。黒々とした色に変わっている。
まるで別の海だった。うねりも不思議になくなり、まるで凪のように静かになった。
そして、水面の下には――
何かの塊が動いていた。
それは時に幾つかに分かれ、また一つとなり、縦横に駆け巡っていた。
「魚だ! 魚の群れだ!」
源治が叫んだ。
船がぐっと持ち上げられる。
「おい! いま、魚の群れが下をくぐったぞ!」
「こ……こんなの見たことねえ!」
「すげえ! 網を準備するぞ!」
源治の船を追ってきた漁船からも快哉が聞こえてきた。
墓島近海の漁場で、久しぶりに勇壮な大漁節が響いた。
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