4 美潮

 少女のことを、美潮みしお、と名付けたのはさよりだった。

 名前がないのは不便すぎる、それに、大潮に乗って流れ着いてきたのだから、潮がつく名がいい、という主張だった。異人には異人の名があるのではないのか、と涛は訝ったが、美潮本人がその呼び名を受け入れてしまった。

 みしお、と呼びかけられると振り向いて、何事かと首をかしげて見上げる仕草をする。それは名前を与えられたばかりの子犬そっくりで、涛でさえも思わず頬を緩めてしまう愛らしさだった。

 さよりはすっかり美潮が気に入った様子で、毎日小屋に来て、食べ物やら、美潮の身の回りの品やらを置いていくようになった。

 口がふたつとなったため、涛としてもさよりがもたらす食料はありがたかったし、女に必要な道具や小物などに至っては、何が必要か、想像さえつかなかったから、さよりなしにはどうにもならなかったろう。

 さよりのおかげで、美潮は腰巻を着け、小袖をまとい、髪に櫛を入れられるようになった。

 美潮を装うことがさよりの愉しみになったようで、自分の童女時代の着物やら手鏡やら、果てはおはじき、絵草紙やら人形のたぐいまで、どんどん持ち込んで美潮に与えるものだから、涛の小屋はずいぶんと女臭い様子になっていった。

 さよりの家はかつては自前の船を持っていて今よりずっと豊かだったので、何不自由のない童女時代を送っていたのだ。その、さよりのお下がりで飾り立てられた美潮は、まったくもって「お人形」のようであった。

 内陸の開拓村・まいせんで作られているという精巧な陶磁器人形でも、ここまではなめらかではないだろう乳白色の肌、艶めいてきらきら光る長い金髪、夏の海の色よりも鮮やかな瞳――どれをとっても浮世離れした美貌だった。

 その美潮の髪を梳いて、後ろに束ねたり、編んだりしては目を細めるさよりには、多分に子供のころの人形遊びに興じる感覚があったろう。

 美潮もさよりに懐くようになり、さよりが来ると子犬のように駆け寄った。

 小屋の中はたちまち少女たちの遊び場となり、居場所のない涛は小屋から這い出る羽目になる。

「だいたい、いい若いもんが働きもしないで小屋でごろごろしているのが間違ってるのよ。佐吉っつあんのところで網の修繕をする人手がほしいって言ってたから、行ってきたら?」

 さよりに背中を押される格好で、涛は村の人々のちょっとした手伝いを始めるようになった。

 対価はほんのお駄賃のようなものだったが、涛にとってはそれでも貴重な収入だった。

 始めてみると、手先の器用な涛は意外に重宝がられ、じきにあちこちから声がかかるようになった。漁具の補修のほかにも、船の修繕や、ひもの作りなど、村にはいくらでも人手を必要とする仕事があった。数年間ひとりで自活していた涛には、教えられたことをすぐに飲み込み、応用する勘が備わっていた。

「なんだ、涛、おまえもやりゃあできるじゃねえか」

「考えてみりゃ、村一番の漁師の息子だ。できないほうがおかしいか」

 と――村人の評判も改善していき、じきに、

「おい、おまえさえよけりゃ、船に乗せてやってもいいぜ」

 と声をかけてくれる漁師さえ現れた。

 海に出ることへのためらいを捨てきれない涛は慌てて断ったものの、「船を沈める呪われ子」という悪評さえ立ったことのあることを考えれば、ずいぶんな見直されようであった。

「――まあ読み手が足りないからね」

 その話を聞いたさよりは美潮の髪をいじくりながら――最近は仕事が終わるとほとんど涛の小屋に入り浸りだ――解説した。

「一回あたりの水揚げが減っているから、船を出す回数や時間を増やさなきゃいけない。特に潮目を読む水先案内人おとなは、ここんところ休みなしに働いてへとへとになってるのよ。それでいて実入りは少ないしね」

 さん・まろの漁場は潮の流れが複雑で、年季の入った者でないと読み切れない。不慣れな漁師が潮を読み違えて岩礁に突っ込んで船を壊したり、あるいははるか沖に流されて行方知れずになることもないわけではない。

 実際に、涛の父親も還らなかった一人だ。

「墓島の近縁の潮目は特に難しいから、腕のいい水先案内人おとななら、稼げるんだけどなあ……」

 さよりが嘆息する。

 涛はその言葉にふと考え込む。

 墓島周辺の潮目については、父親と一緒に漁に出ていたからよく知っている――はずだ。

 だが、それを思いだそうとすると、全身の肌が粟立ち、震えが止まらなくなる。その「時」の明確な記憶はないのに、呼吸が早くなり、ついには嘔吐や頭痛に悩まされることになる。

 夜、寝ている時もどうかするとそんな波が襲ってくることがあったのだが、美潮が隣で眠るようになってからは、うなされることはなくなった。美潮が手を握ってくれるおかげかもしれない。

 それからも涛は漁師たちの手伝いを続け、五日ほど経った頃に、源治という漁師から声をかけられた。

「よかったら、おれの船に乗って、漁の手伝いをしてみないか?」

 と。

 源治は、ここのところ涛が手伝いに行っていた漁師の一人で、亡くなった涛の父親とも親しかった。涛の呪われっ子の評判を知りながらも、漁に誘ってくれたのだ。

 その日の夕方、涛はさよりに報告した。

「おれ、源治さんの船に乗せてもらうよ――明日の朝から」

 年上の従姉は、美潮の髪を梳かしながら、目を細めて、

「うん、そっか……うん、いいと思うよ、がんばりな」

 と言ってくれた。

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