赤いアジサイ 作:俗物
とある小学校にて。
一学期の終業式、蝉が鳴き始めるころのこと。式が終わったあと、数人の子どもたちが教室で話していた。彼等にとって大事な話は、さっき担任の鳥羽先生からもらった通知表のことだ。
「なあなあ。オレさー、Cばっかなんだけど」
「俺だって、Aないわー」
「そういや、玲はどうだった?」
玲とよばれた少年は六年生にしては小柄で色白だった。おそらく低学年の子たちと一緒でもわからないだろう。肌は薄く血管が透き通って見えそうだ。だが、決して内気というわけではなく、よく周りと打ち解けている様子である。
「うーん、僕はAもちらほらあったかなあ」
「さすが、学級委員長様って感じだな」
周囲からは多少のやっかみも込めた賛辞が贈られる。それを慣れた様子で玲はあしらっていた。そんな折に誰かが言う。
「オバってさ、点数厳しいよなあ」
担任の鳥羽先生は三十路くらいの女性で、生徒たちからは陰でオバサンと掛けてオバと呼ばれていた。しかし、玲にとっては美しい先生だなという印象であった。
「あ、わかるわかる。漢字の止め・ハネ・はらいだけで×にするし」
「まあ、それは仕方ないんじゃない?」
「玲は良い子ちゃんだもんな~」
「あ、でもオバって良い匂いするよな」
「わかるわかる、花の匂いよな。オバさんらしく香水でもつけてるんじゃね」
「あんまり、先生のことを悪く言うのはよくないよ。まあ、良い匂いがするってのは同意だけど」
「へいへい、すいませんでした」
「あ、それよりさ、夏休み何するよ」
友人たちはまた話題を消費して、次の話題に移り変わる。玲は友人には見せない冷めた目をしながら考えていた。鳥羽先生からは何か不思議なものを感じるのだ。だが、そんな思考の海から友人たちによって引き戻される。
「おい、玲はどうする?」
「え、どうするって?」
「お前、話聞いとけよな。自由研究だよ自由研究」
「あー、みんなはどうするの?」
「俺はー、工作でもしようかな~」
「あ、俺は虫の図鑑作る!」
「良いねえ、僕はそうだな、花でも育てようかな」
「へえ、似合わねえな」
「ちょうど、うちに親戚からアジサイの鉢植えが来ているから、観察日記でも書こうかなあ」
「そのままだったら、簡単だな。学級委員長様としてそれでいいのか~?」
「んー、じゃあどうしたらいいと思うか教えてよ」
玲による反撃を受けた少年たちは、「うーん」と黙り込んでしまった。彼らだって何かの案を用意していたわけではないのだ。小学生とは往々にしてそんなものである。反論した側の玲もばつが悪かった。何とも言えない、気まずい空気が流れるなか、一人の少年が口を開いた。
「そういえばオバのアジサイ綺麗だったよなあ。あの綺麗なアジサイは何で赤かったんだろう」
その言葉を聞いた玲の顔がパッと明るくなった。
「そうだ、うちのアジサイも赤く染めてみよう!」
「染める?」
「うん、鳥羽先生は染めたって言ってたから。ありがとね、やってみるよ!」
そう言うと、玲は教室を駆け出した。まるで稲妻か何かのようだ。他の少年たちは呆気にとられたが、すぐに笑い出した。
「さすが学級委員長様だよなあ」
「神社の夏祭りに行く約束しないとだってのに帰っちゃったよ」
「まあ、明日でも玲の家に行こうぜ」
「んじゃ、俺たちも帰るか」
そうやって少年たちは喋りながら教室を出る。その姿をミンミンと叫んでいる蝉と一つの影が見ていた。
玲は自宅に向けて走りながら、思い出していた。先月の理科の授業で鳥羽先生が見せてくれた写真。赤いアジサイの写真。「梅雨にはアジサイが咲きます」、いつも通り平坦な声で説明をする先生。いつも通り、先生は綺麗だ。皆はオバ先生なんて呼ぶけど、僕からすれば一番綺麗な人だ。ただ、そのアジサイは先生に負けないくらいにとても綺麗だった。普通のアジサイといえば青紫色だろうけど、真紅に染まったアジサイを見たのだ。
「このアジサイはなんで赤いんですか~?」
誰かが先生に質問した。うるさい、僕の先生に気やすく話しかけるな。玲の心に真紅の染みが広がっていく。
「赤いアジサイというのは長野辺りを原産地とするものがありますが、この写真は先生の自宅で育てたものです。もともとは白いアジサイだったのですが、こんなに綺麗に赤くなりました。どうやって育てたのか考えてみてください」
その質問に生徒たちの動きが止まる。玲も現実世界に引き戻された。どうやったらあんなに綺麗な赤になるのだろう。まだ、玲は小学生であり、そのアジサイを表現する語彙を持っていなかったが、言い表すならば妖艶とでも言おうか、そういった赤であった。その赤は教室中を飲み込むような魔力があった。もはや誰もオバ先生の質問などに耳を傾けちゃいない。教室がアジサイの持つ不思議な空気に飲み込まれ、誰もが息を止めているようであった。
「このアジサイを育てるにはコツがあるのよ。それはね……」
鳥羽先生は語り掛ける。その眼、その声はいつもの平坦なオバサンからはかけ離れている。先生の言葉に教室全体がいよいよ引き込まれようとしていた。
「先生―、トイレに行っても良いですかー」
だが、そんな空気は一人の生徒が打ち壊した。玲も他の生徒たちも現実へと引き戻された。
「どうぞ、行ってきていいですよ」
「はーい」
生徒はトタタタと駆けていった。鳥羽先生は生徒を一瞥すると普段通りの口調に戻って授業を再開した。まるで、アジサイの話などなかったかのように。残された生徒たちも玲もその話題を繰り返すことはなかった。
玲はそんなことを思い返しながら自宅に着いた。
「ただいま」
「おかえりなさい、おやつあるわよ」
母親が自分を呼ぶ声がする。玲はその声に従い、リビングに向かう。母親から差し出されたおやつのドーナツを食べる。玲にとって幸せな時間のひとつだ。
「そういえば、通知表どうだった?」
「これ」
玲は口にドーナツを突っ込んだまま、ランドセルから通知表を取り出す。母親はそれを受け取ると、眼鏡をかけて読み始めた。玲の成績は学級委員長として申し分なく、中学校受験も視野に入れている。母親にとって気になるのは素行面であった。
「さて、素行面はどうかしら。『学級委員長として他の生徒の為、クラスの為にと活動しています』、これはいいわねえ。きちんとやってくれているようだわ。『ただ、授業中でも休み時間でも自主性があまり見られないようにも思えます。受け身の姿勢になっているように見られます』、ちょっと、玲?」
「はーい?」
急に母親の機嫌が悪くなったのを察した玲は、若干の怯えを見せる。
「あなた、あの先生に『自主性がない』って書かれてるわよ」
「自主性って言われても……」
「まあ、私もあの女は嫌いだけど、こんな恥ずかしいこと言われないようにしなさい。わかった?」
「う、うん」
「うん、じゃなくて『はい』でしょう? あと、夏休みは『自主性を持って』勉強してちょうだいね」
「……はい」
「それと、夏休みだからって夏祭りとか行っては駄目よ。最近小学生の男の子が行方不明になる事件が隣町であったばかりなんだから」
「と、友達と約束が……」
「それじゃ、誰か大人がついてきてくれるなら良いわ」
「じゃあ、翔太君のお母さんとかに聞いてみる」
「そうしなさい」
母親との緊張する会話を乗り切った玲は、残っていたドーナツを頬張ると部屋に駆けあがった。明日にでも友達と約束しよう。そう思うと玲は自然に笑みを浮かべていた。
翌日、翔太たちが玲を迎えに来た。翔太たちからして、玲の母親は苦手だった。何と言うか、勉強勉強という感じがするのだ。オバ先生とは違う、苦手意識だ。少年たちによるじゃんけんの結果、翔太がインターホンを鳴らした。
「玲はいますか?」
「ああ、玲なら宿題中よ、呼んでくるから待っていて。あ、そうそう、あなた達は宿題しなくていいの?」
「まだ二日目ですし……」
「早めにやることが大切よ」
ひとこと嫌味を言い残しながら玲の母親は家の中に入っていく。少年たちは若干の委縮と反発を胸に秘めながら待っていた。数分後、家から出てきた玲を連れ出して、一行は小学校に向かった。少年たちの親が、行方不明のニュースを聞き、公園で遊ぶことに反対したためである。そして、どの親も子供たちだけで夏祭りに行くことへ反対した。
「んで、どうするよ」
「翔太君の家のお母さんは厳しいの?」
「今年は仕事と被ってるらしくてさあ」
「玲のところも無理だよな」
「ね、ねえ、鳥羽先生にお願いするのはどうかな?」
「えー、オバに?」
「まあ、アリなんじゃね」
「じゃ、じゃあお願いしに行こうよ」
玲たちは校庭のブランコから飛び降りると、職員室に向かった。少年たちは夏の暑さに負けないほどに、高揚感に染まっている。
「え、私に来てほしい?」
「そうです、オ……鳥羽先生が来てくれるなら、お母さんたちも納得してくれるんじゃないかって思って」
「今、オバって言おうとしたでしょ。まあ、良いわ。それじゃあ、一週間後の夏祭りの日、十七時に校門の前に集合してちょうだい」
鳥羽先生もまた、機嫌がよさそうだ。生徒から誘われるという事が嬉しかったのだろうか。ただし、少年たちが喜びあってわちゃわちゃしていると一言述べた。
「ただ、それまでに宿題も少しは進めておきなさいね」
「はーい」
少年たちは許可を得ると同時に校庭に駆け出した。ただ一人、玲だけが残った。それは彼の淡い恋心によるものなのかもしれない。そして玲は勇気を振り絞って口を開いた。
「あ、あの」
「玲君、どうしたの?」
「『自主性』って何ですか?」
「通知表を読んだのね。そうねえ、今日ここに来て、私を誘うことにしたのは玲君の考えだった?」
「あ、はい、そうですけど。なんでわかったんですか?」
「うーん、他の子達じゃオバを呼ぶことはしないかなって」
「ああ、なるほど。あ、先生はオバサンなんかじゃないです!」
「ふふ、ありがとう。それでね、今日の玲君は自分で考えて、皆を説得して、私を誘ってくれた。これはもう立派な『自主性』を持った行動よ」
「ありがとうございます!」
今日の鳥羽先生は本当に上機嫌だ。玲からしてもそれがわかった。それは自分が成長したからだろうか、そう思うのはナルシストかな、なんて玲は一人で赤面した。明らかに玲の中で「自主性」が芽生えた瞬間であった。そして、玲は二人で話すこの時間をどうにか続けたくなって、自由研究の話をした。
「先生、僕は自由研究で赤いアジサイを作りたいんです。インターネットで調べたら食紅を使うと植物による吸水活動のおかげで赤くなるって聞いたんですけど、本当ですか?」
「そうね、みんなに見せた写真のトリックもそういうことよ。ただ、あれにはもっと工夫があるの」
「工夫? 教えてください!」
「それは秘密よ。とりあえず一週間、夏祭りまで頑張ってみなさい。アジサイは八月に入るまでが季節だから」
「わ、わかりました! 頑張ります。そ、それじゃ夏祭りで」
「うん、楽しみにしてるわ」
玲は満面の笑みで職員室から出て行った。その時の鳥羽先生の顔は、アジサイの授業の時と同じ顔をしていたことに気づきはしなかった。
ひとしきり、翔太たちと公園で遊んだ後、玲は薬局で食紅を買った。帰宅すると母親は、担任と出かけることに驚いた顔をしたが、玲の中で何かが変わったことに気づいたからか何も言わなかった。玲が白いアジサイを使うことにも賛同した。「玲、どうせ実験するなら何種類かやってみて、色の濃さを変えたらどうかしら?」なんてアドバイスすらした。
母親のアドバイスを受けて玲は三種類のアジサイの鉢植えを作った。食紅の水溶液を使って赤色の染料を作る。その濃さを変えたのだ。一週間の実験結果からいえば実験は成功だった。それぞれが美しく赤くなり、三種の濃淡の差は並べて見ると見事なグラデーションだった。母親は自分の手柄のように喜んだ。
「玲、お母さんの言う通りうまくいったでしょう?」
「うん……」
「玲、どうしたの? 返事は?」
「違うんだ。お母さん、違うんだよ」
「何が、何が違うって言うの?」
「足りない。もっと赤くなるはずなんだ。そう真っ赤に」
玲の母親からすれば意味不明である。一番濃いアジサイはもう真っ赤になっているではないか。もしかして、息子は色覚に問題があるのではないかなどとパニックになりそうだった。
「先生の見せてくれたアジサイはもっと赤いんだ」
玲は鳥羽先生のアジサイを再現したかっただけなのだ。だが、玲には鳥羽先生の「工夫」がわからない。「自主性」を大事にしてもわからなかった。実際、一週間の間に、トマトジュースや絵の具など赤くなりそうなものは試した。でも足りなかった。あの真紅は再現できないものだった。
「とりあえず、もう時間よ。早くいってらっしゃい」
玲の母親は茫然自失となっている玲にそう声をかける。壁掛け時計を見れば十六時半、約束まで三十分だ。玲は慌てて着替えて学校に向かった。そして、「工夫」の答えを聞いて実践するためにペットボトルを用意して出かけた。
十六時五十五分、約束の五分前に校門に着くと、翔太や鳥羽先生、他の友人たちがもう揃っていた。やはり皆楽しみにしていたらしい。
「ごめんごめん、待たせた!」
「玲、おそいよー」
「まあまあ、五分前行動は守れているから良しとしましょう」
鳥羽先生のその言葉で、一行は夏祭りの会場である神社に向かった。神社の境内はそれなりに広いため、はぐれると大変だ。そう注意を受けたうえで向かった。
「今年は警備の人も多いですね」
「そうねえ、隣町の事件もあるからかしら」
そんな他愛のない会話をしながら神社に着くと、翔太が走り出そうとする。目指すは射的の屋台だ。景品には戦隊もののフィギュアや大きなお菓子が並んでいる。全員で一発ずつ回しながら挑戦する。意外にも玲が上手く、仮面ヒーローのおもちゃを手に入れた。その後、みんなでラムネの早飲み競争にも挑んだ。これは翔太がダントツで優勝した。
「最後にみんなでフルーツ飴でも買いましょう。私が御馳走するわ」
鳥羽先生の言葉で、皆が買った。玲はキウイ飴、翔太は青色のりんご飴。他の子達もブドウ飴など好きに買っていた。玲は鳥羽先生が何を買うのか注目していたが、先生は真紅のりんご飴を買った。それからみんなで集合場所の学校に戻った。
「じゃあ、みんなとはここでお別れね」
家の方向が違う子達と校門の前で別れ、鳥羽先生と玲、翔太の三人が残った。鳥羽先生が言う。
「せっかくだし、うちによっていかない? 玲君、先生の赤いアジサイの工夫を知りたいんでしょ」
「あのアジサイを作るために食紅で頑張ったんですけど、うまくいかなくて……」
「じゃあ、特別に見せてあげるわよ。自分で頑張った玲君へのご褒美よ」
「え、本当に良いんですか? じゃあ行きます」
「翔太君はどうする?」
「んー、俺も行って良いなら行きますよ」
「帰りは私が車で送ってあげるわ」
そう話す鳥羽先生の顔は夜のせいで見えなかった。三人は学校内に停めてある軽自動車に乗り、先生の家に向かった。先生の家は隣町にあるという。時刻はもうすぐ二十時というところだった。
「着いたわ、降りてちょうだい」
「はーい」
玲と翔太は車を降り、先生の家にあがった。玲が聞くと先生は一人暮らしだというが、閑静な住宅地にある一軒家だった。
「母はもう亡くなって、父は老人ホームにいるのよ」
「そうなんですね、思い出させてごめんなさい」
「良いのよ、あの赤いアジサイの鉢植えを持ってくるから少し待っていて。あ、そうだ、先に紅茶かココアでも飲む?」
「じゃあ、僕は紅茶で」
「俺はココアで」
「玲君は紅茶、翔太君はココアね」
鳥羽先生は鼻歌を歌いながらお湯を沸かしている。それを見ながら翔太が玲にそっと囁く。
「何か、今日のオバおかしくないか?」
「え、どこが? 普通と思うけど」
「いや、いつもならこんな時間まで生徒を連れ回したりしないだろ」
「テンション高いだけじゃない?」
「そうなんかなあ」
「あ、お待たせ! あと、このクッキーも食べていいわよ。それじゃ、アジサイを取ってくるわね」
そう言うと、鳥羽先生は上機嫌のまま軽やかな足取りで、リビングを出て行った。
「やっぱりテンション高いね」
「そうだなあ、オバってもっと暗いだけの厳しい人かと思っていたけど、意外とノリがいい先生なんだな」
「あ、翔太君もやっとわかってくれたんだね」
「お、学級委員長様はベタ惚れだっけ」
「そんなんじゃないよー」
友人に指摘された恥ずかしさを誤魔化すように玲は紅茶に口を付ける。相槌を打つかのように翔太もココアを飲む。こうして少年たちは音も無く意識を失った。
鳥羽絵里子は上機嫌である。今日だけで良い獲物が二匹も手に入ったからだ。自分のコレクションルームと化している亡き母の部屋に入ると、飾ってある赤いアジサイの鉢植えをとりだした。鉢植えの隣には少年用の靴が残されている。
玲が目覚めたとき、目の前には赤いアジサイの鉢植えがあった。それはそれは心惹かれる真紅だった。玲が欲していたものはそこにあった。鉢植えに手を伸ばそうとした瞬間、身体の違和感に気づく。気づけば玲の両脚は足枷で机の脚に結び付けられていた。
「た、たすけて! 翔太は!?」
振り返ると翔太は猿轡をされた上、服を脱がされて、玲が結びつけられた反対側の脚に同じく結び付けられていた。
「せ、先生、どこにいるの! 助けてよ!」
哀れな少年である玲は、誰がこの状況に追い込んだかもわからずに泣き叫ぶ。それを見て翔太も何かを言うが、猿轡のせいで聞こえない。
「あ、待たせたわね」
そうやって平坦な口調のまま、廊下から現れたのは鳥羽先生だ。だが、先ほどまでと違うのはその両手に鋸と注射器が握られていること。
「せ、先生? どういうこと?」
「う、うう!! うがぁ!」
少年二人の困惑と激怒がこだまする。鳥羽先生は翔太を平手打ちし、玲を足蹴にすると、あくまで平坦な口調のまま、こう言い放った。
「これが赤いアジサイの『工夫』よ」
「く、工夫?」
「そうよ、玲君がさっき言ってたわよね。食紅じゃ真紅に足りないって」
「まさか……」
「その、まさかよ」
そう言うと、鳥羽先生は翔太に近づき、わき腹に極太の採血用注射器を刺す。その光景は非日常的であり、蠱惑的だ。生理的嫌悪感と痛苦から翔太は涙を流し、暴れる。だが、その眼は鳥羽と玲を見据えている。
「玲君、この血をあの鉢植えに入れてみなさい。そうすれば、わかるわ」
そう言うと、鳥羽は玲の手が届くあたりに鉢植えを移す。そして、玲の右手に注射器を渡す。玲はもう赤いアジサイから目を離すことが出来ない。そのとき、鳥羽は翔太の猿轡を外してやると、翔太の悲痛な声が聞こえてくる。
「なあ、玲! ハァハァ、やめろよ! お前、ハァ、普通じゃないぞ! オバに騙されてるんだ。隣町の件だって、こいつがやってたってことだろ? なあ、やめてくれよ!!」
小さな身体から血を抜かれ、息も絶え絶えな友人の叫びを聞いて、玲の目は揺らいだ。翔太はまっすぐに玲を見つめる。
「そうね、普通じゃないわ。でもこの真紅のアジサイにはそれが必要なの。普通じゃない何かじゃないと輝くことは出来ないのよ。玲君、君は普通の子、じゃないでしょう?」
ああ、そうか、そうだったんだ。僕は普通じゃないんだ。僕はあれが、赤いアジサイが欲しい。
「先生、そうですよね。翔太、ごめんな。僕は『主体性』を持ってこの血を捧げるよ」
そう言うと、玲の右手の注射器から大量の血が噴き出る。まるでシャワーの如くアジサイに降りかかる。屋外のホースで水やりするのと変わらない。ただ、液体が赤いだけだ。赤いアジサイは赤い液体を浴び、さらに妖艶に輝き、真紅に染まる。
それを見て、翔太は叫ぶ。
「れ、玲! やめろよ、やめてくれよ! お前はそっち側に行っちゃ、赤く染まったらダメなんだよ!」
「うるさいなあ、せっかく良いところなのに。もうあなたの出番は終わりなのよ」
友人を救うために、叫んだ少年の脳天に目掛けて、無慈悲な鋸の一撃が下される。まるでスイカ割りのように、少年の頭蓋は割れ、血が噴き出す。部屋には血の池が広がっていた。そして、友人だったモノが動かなくなったのを見て、玲は口を開く。
「先生、一つお願いがあるんですが」
「なーに?」
午後十時、玲は鳥羽先生の車で家に帰った。
「こんな遅くまで何をしていたの!?」
母親が烈火のごとく叫ぶ。だが、もう玲は怯えない。真っすぐな目で母親を見つめる。
「ごめんなさい、私がついていながら遅くなってしまって。祭りの屋台で食べたものが悪かったのか、玲君がお腹を下してしまい、うちで介抱していたんです」
「もう、あなたったら! 先生に迷惑をかけていないでしょうね!」
「ごめんなさい! 先生の車で粗相をしてしまって……洋服も替えてもらったんだ」
「申し訳ございません! 先生のお手を煩わせてしまって……」
「良いんですよ、ただ、汚れた服は処分してしまったんですが良かったですか?」
「ああ、そんなことお気になさらず」
そんなとき、玲の母親の携帯が鳴る。
「もしもし、ええ、はい、……そうですけど。え、翔太君? 翔太君が帰ってないんですか? ええ、何かわかったら教えてください。あ、隣に玲と鳥羽先生がいるので代わります」
「翔太君なら八時前には私達と別れて帰ったはずですけど……」
「うん、校門の前で別れましたよね」
「……とのことです。心配ですよね……何事もないと良いですけど」
そのまま、電話が切れた。重苦しい空気の中、鳥羽先生は挨拶をして帰った。玲は、かばんの中のペットボトルに思いを馳せた。
一か月後、その地域では一人の少年が行方不明のまま二学期が始まった。自由研究の賞を取ったのは六年生男子による「赤いアジサイの実験記録」だという。
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