見えないものへ 作:奴
「言い分からしたらやっぱり沢木部長のほうが正しいんだけど、でもだからって皆川さんのことを責められるかと言われるとそうでもないんだよね」
「怒り飛ばした沢木さんを悪く言うこともできないし、皆川さんを慰めたり元気づけたりするしかやれることはなさそうだけど」
「そう、でも災難だったね、で済ませていいのかも私はわからなくて」
「それはたしかにね」
「ごめんね、こんな話ばっかり」
船井は首を振った、いいんだよ、気にしないで。
もう時間であった。船井と、当の相談を持ちかけた横山との会話は以上のようにして突然と打ち切られた。というのも横山は、次の急行で発たなければならないからであったが、彼女はその悩みごとの大体をカフェで話し終えて、時計をふと見たところで存外に時間が経過しているとわかったから、慌しく出て行った。釣銭も何も勘定せずに二千円だけ置いて、洋卓の携帯電話とハンカチと、手慰みにしていたリップ・クリームを片手にして、他方の手でキャリー・ケースを引っ張って、出て行った。実に落ち着きない所作で、そのうち片手に持った携帯電話などを落としはしまいかと船井は気にかかった。けれども横山があまり足早に駅へ向かったから、彼女は声をかける暇もなく、ただ見送った。いったい時間を要するかもしれない話を急行列車へ乗る前にしなくてもよいだろうが、横山はキャリー・ケースの車輪を路上にガタガタ鳴らしながら駆けって行った。
船井はその嵐のようなできごとのあとに取り残された。横山の注文したものはホット・コーヒーの一杯だけであるのに、船井の頼んだガトー・ショコラまで額面に計上したか、彼女はそれだけの金を置いたのだった。
暦のうえでもまだ晩冬の時分で、その日もいっこうに底の寒さが抜けきらないような昼であった。鶯の藪啼きもときおり聞こえた。街路樹は枝幹を露出したままで、皆厚手の外套を着て外を通り過ぎていた。二人のいたのは窓側の席であった。船井はちょっと気後れを感じながら、横山に勘定のことを連絡しようと考えていた。またすこしは先ほどの相談ごとを思い返してみたが、それはまた埒外の厄介な問題であるし、横山がきっと共感とかある種の告白のつもりで自分に語ったのだろうと思いはじめると、もう考えるのは止した。
そのような顚末であるから、最後に横山に会っていたということで警察へ呼び出されても、船井はもうひとつ要領を得ないような口ぶりでしか話せずにいた。とはいえ簡単な聴取である。何時に会い、何を話し、また何時に別れたか。ふだんと異なる様子はなかったか、とくに思いつめた表情などは。船井は警官の柔和な声にいくばくかの返事をしながら、何か尋ねられて有益なことを答えられるかしらんとも肚のうちに考えていた。彼女に不審なところはないようであった。ただ焦燥ぎみにカフェを後にしたというだけである。それから船井は、自分が嫌疑されているのかとも思ってみたが、それにしても自分を疑ってみるだけの根拠もずいぶん乏しいものだった。最後に会っていたという、それだけのことであるから。
横山は急行で向かった先のどこかで失踪したらしかった。むろん切符を取った急行に乗って目的の場所に到着したことはたしかで、それから彼女の予約していたホテルにも姿を現しているし、用事のあるところへも顔を見せている。そのあとの足取りがまったく不明であった。ホテルへは戻っていない。チェックアウトの時間を過ぎても来ない彼女を怪しんで従業員が部屋に向かったが、着替えだのキャリー・ケースだのは残されたまま、携帯電話や財布など目ぼしいものだけがなかった。してみるとおそらくは用事の済んだあとでそのまま失踪したということになる。そのような趣旨のことを警官が言った。
以上の話を受けても、船井には横山の失踪の理由がちょっと思い当たらなかった。顔を合わせた日の、カフェでの彼女の顔は全然と相変わらず、すくなくとも目につくような異状は見えなかった。コーヒーを飲みながらささいな愚痴を言う姿は平生のとおりであった。ほかといえ、船井の記憶しているそのときの横山の、薄橙の潤った爪にも、口元のえくぼにも、外に目を向けたとき首にちらちらするうなじのにこ毛にも、何の変化もなかっただろう。
彼女は誘拐されたのだ、と船井は考えた。犯人がだれかは思いつかないけれど、仕事先の途中で、どこかひと気のない路傍で捕まって、今はもうはるか離れたところで乱暴されているかもしれない。船井にはその様子が鮮明にわかった。ある種の映像作品のようにして、顔のないいまだ匿名的の男に横山が襲われている。彼女はもう声も上げられないのだろう。
聴取を受けた警察官に連絡先を言って、そこからバスで船井は帰った。自宅最寄りの停車場までは渋滞に遭わなければ三十分で着く。そのバスはいくつかある既定路線のうちの最長のものを走った。駅前が始点であるのはどれも同じで、そこからふたつの停車場を超えたあとからそれぞれ異なる方角へ進む。ひとつは丘を切りひらいて建設した団地へ、ひとつは海沿いに市境の営業所へ、ひとつは山の麓を伝って市の全体を巡るようなもので、三番目の路線が警察署の前を過ぎ船井の宅のそばを通るバスである。高校前の停車場に止まり、デイケア施設の停車場にも行くそのバスは、市民を無作為に抽出するためにはちょうどよいくらいさまざまな人が乗り合った。そのあいだの道に横山がいる気がした。船井は通りの人の往来を凝視した。警察署から自宅まで行くときにはむっつの町を渡る。それら町には船井の通った学校も横山の家もあった。
ふたりは高校からの知り合いであった。
船井は、自分と横山との関係にかんする時系列のなかに、横山の失踪というものが書き加えられることが何かの運命にしても奇妙だと思った。もしそれが神の思し召し、何かしらの引力だとしても、程度の低い冗談以上のものには考えられなかった。そう思えば休日の昼過ぎの、人のまばらな市内で、血球が肉体の隅々まで血管を伝って巡るのと同じようにバスが路線に沿い市中を広範に走るなかから船井が横山を探し出そうと目を凝らすのはすこしもおかしなことではない。たとえ彼女がいなくなったのは、別のところであるとしても。
船井の考えには矛盾がないわけではない。横山は今も仕事をしていて、警察の呼び出しも失踪の二字も船井じしんの作ったサスペンスとする一方で、しかし実際として彼女は誘拐されて驚恐の念に駆られてほとんどヒステリックだろうとも船井は想像する。横山の恐怖する顔は一度としても見たことがない。しかしその顔に至誠の戦慄が湧き上がって離れない事態、あるいはその究極としての死などが、轍鮒と迫っているかもわからない。すると突然と、船井に自分がその急場に面している感覚が怒濤のごとく押し寄せた。錯覚などと言いきるにはすこし触り方の瞭然すぎるほどの強迫的の感念が、胸のあたりに烈しい熱水となって蠢きだした。バスは己を閉じこめてほとんど無限にかどわかしてしまうのだという懸念がおびただしき返し針に変じて、彼女の喉のまわりへ引っかかる。わっと飛び出したい気が振動して彼女の胸に沸騰する熱の内側を弾丸と貫き通ってゆく。それは船井の全体を反射しながら骨を焼き砕いて肌を刺す光線のようでもあった。船井は外を凝然と見抜いた。彼女の異様に鋭利な視線から、というよりはその開いた眼から、身を破却するほどの激情が発出されていく気が彼女にしていたのである。そしてそれでなければ座席にいながら狂乱してしまうだろうという予見がすぐさま浮かんでいたのであった。
はたからすればその滄桑の変を一瞬間に煮詰めたような彼女の心境は慎ましい顔に覆われてすこしとしても見られず、ただ気を違えているほどにすさまじき眼光ばかりが、静かななかに浮かび上がるようである。船井はこの嵐を何とかやり過ごした。
けれども横山の失踪は依然として変ぜず、船井が宅へ向かっているこのあいだにも彼女は嬲られ弄されているかもしれなかった。劇画のような神隠しは実際の話であるのだと船井は思い返した。ましてそれは自分の友人が関係しているのだからどうも不愉快と言おうか、気味が悪い。船井はみずから彼女を探し出す料簡でいた。磁力のようにして厄災に吸われた彼女をそこから引き剥がして禊ぐのは自分だと信じていた。彼女はなかば探偵的の色を心につけて、陰影を失った横山の足跡を脳裡にたどろうとした。まだ発見に用を足すほどの材料もないうちから彼女は安楽椅子探偵気取りに考えこんだ。横山の恐怖する顔は始終あった。
警察が捜索する期間はそう長くないからある時点から親族と知人でやりくりせねばならないのかと船井は宅で水を飲みつけながら考えた。グラスに二杯、三杯と飲みながら、肉体のどこか穢れたままの箇所がすこしずつ抜け落ちると思って、四杯、五杯とまだ飲んだ。そしてもう一杯、また一杯。別段彼女に霊的な直観があるわけではないから、よくせきのことがなければ常套のビラ配りでようやく横山にかんする情報が断片程度に得られるだろう。もう一杯。それで見つかるのであれば人探しはまったく簡単であるが、たとえ狭いと言われるこの国土にも山岳が連なり、森林は蒼々と繁茂し、都市があまたあり、人間は八紘から訪れる。また一杯。もしすでに殺されていればどうしようもないし、いくら遺体が見つかったといえ犯人を捕えるのはまた別の問題だろう。一杯、一杯。だんだん苦しくなってくる。船井の決心のような心持も身を清めるはずの禊の水のせいでかえって薄まったと見えて、彼女の顔はすこし冷め、落ち窪んだ。彼女は丸椅子に座りこんだ。そうして雑然たるキッチンを見渡し、次に天井を見上げた。人間ひとり消失しても環境にさしたる変化がないのは嫌な感じもある。人体一個の無力が痛感させられるからである。
電話の子機に留守番電話の表示があるのを船井は見つけた。もしかしたら窮地の横山が倥偬に分陰を偸んでからがら送ってきた救難信号であったらあまり間が悪いと船井は留守番電話を聞いた。それは死に瀕する若い女の声でなくて心配で己が身をも破滅させてしまいそうな憔悴した老婆の声であった。横山の母である。船井はその蝋燭の灯の紅蓮が薄い黄色に変じて瞬間にふっと消え入るような危うい細い声の録音を聞いた。その声の伝えることには、横山の家系はただひとりの愛娘を意外の事情によって失いまた消息は全然とつかめず残されたる父母その他の親族では父母は精神が弱ってややもすると倒れなんとしその他の親類は三々五々散らばっているからただちには結集できぬというありさまでもはや捜索の方途無之く然者せんに耳にしたもとの学友である船井ひとみに全面頼まれ度存候由云々。こうした文句を行きつ戻りつ繰り返ってどうにか話し終えているのであった。両親はよほど参っていると見える。よくよく考えてみなくとも子を失い、それも逝去して遺体があるのではなく生きているか亡くなっているか判然としない失踪によって失ったのであれば、帰ってくるかしらんという期待も残って生殺しであろう。真綿で締められるというのは実にこういうことかと同様の心境にある船井もその声が胸に共鳴して気が痩せ細ってくる。横山氏の心中は察するに余りある。うねるような話の途中には、すでに精根尽き果てて電話を取ることも郵便受けへ行くこともいよいよ叶わず、夙夜夢寐伏してばかりで夫方の甥に世話に与っているというから、甥の手を煩わさないためにも電話を折り返すのは止した。ただいつ読むともしれないが承知の旨を手紙にしたためて送ることにした。いつかその甥が床の前で読み上げてくれることを船井は望んでいる。くれぐれも気を強く持っていただき度候などとした。
返信はなかった。甥なり父母のいずれかなりが受け取ったかもちょっとわからない。しかし船井も返事が来る算段ではなかったから平気である。
人探しはけっして簡単には行かなかった。もう発覚から二週間経った。警察は一渡り捜査したがこれといった手ごたえはなく、防犯カメラの記録も上書き保存ですでに消失したあとであった。横山はある地方雑誌のライターで、そのときも隣市に取材へ行ったのだが、今度の失踪ではその相手のところへ顔を出したあとで、どうやら船井と別れた次の日に行方をくらましたようである。ホテルの従業員も何人か横山の出て行く姿を見た者がある。むろん取材に出たその日は早朝出て行ったきりで帰りの姿はだれの目にもついていない。だからいなくなるとしたら取材の直後、その帰途上のことであろう。しかしそのほかには有力な情報は得られない。では探偵でも雇おうかという案も船井に浮かばないことはなかったが、その金銭を工面するのは自分か横山家か、すでに警察の捜索でホテル付近の山林河川をあさってもらった費用が嵩んでいるなどと思えばその小説的の提案もすぐに退けられた。横山さや子捜索の全権を両親より託された船井もいよいよ手の施しようがなくなった。
そうなると、船井は仕事の終わりにバスのなかで思ってみた、私が現地に赴いて探し回るしかない。もう諦めてしまったほうがどれだけ楽かという状況で下せる別な判断の唯一のもののはずだが、それが行方のわからない人を発見するのに現実的可能なものかどうかは想像にたやすい。その発想はかえって完全に諦める最後の一歩を手伝うために提出されるようで、一瞥だけしていた観念を本式に考えはじめるとその無謀加減が実感されて船井は愕然とした。横山氏から金を借りて横山さや子を探すていでそのまま放浪するような不道徳のほかにいかようにも処せぬやり口であろう。しかし何にしても金子の問題が立ちふさがってしまう。船井にしてもそれほど気安く使える金額はないから思いきったことはできなかった。むろん無心は論外のことである。
行き詰まった。船井はバスを降りながらにエンジン音のなかに言葉を吐いた。頓死じゃないか。横山が姿を消したその瞬間に金をかけていたらまた局面は好転したかもしれないのに、せめてもの好機を逃してもう残り尽くしうる手は皆六菖十菊に終わってしまった。このわずかばかりの金も投げ打てば彼女の足跡、残り香を辿れたに違いないが、今ではすべて行き交う人間の犇めくなかにかき消されてしまった。前途は早晩ともなく急遽と断絶された、というよりは霧のなかを無計画に進んでいてようやく目前に見えた断崖に足踏みして絶望したような境地である。復路のことは地体想定していない。ただ日和見に突き進めばいずこかに行き当たる料簡だけでここまで来た。船井はここに到着して当初はすべて塞がったと思った。しかるに退路がないことをまた考慮すれば、その絶望的の艱難をどう攻略するかという対処はかえって居直りに転ずる。彼女はその断崖を下っていく覚悟を持った。無理を無理と通すほかなかった。堆く積もる借金の億を超えそれも二桁、三桁という億になれば貸したほうも踏み倒しが怖くなる。数百万円の踏み倒しはまだ持ちこたえる。情け容赦はいっさいないにしても、いざ逃げられても耐えが効く。しかしもと高額だった貸しがさらに増して、もはや理外の額へ増幅すれば貸す者は半狂乱にもなろう。利息も含めると額面よりまだ大きい。それを漸次僅少でも返してくれなくてはそのうち自分まで倒れて再起不能になる。そのひとりの大借金のせいでこちらまで死ぬとなると回避は目標ではなく義務的である。返せ返せと脅すよりは、気長に待つからすこしでも多く返してくれないかという気弱な催促がやっとである。むこうが気楽な顔をして返す返すもうしばらく待てと言っても叱責したり脅迫したりというよりはへええどうぞよろしくと菓子折りも差し出すほどになる。借金がかえって財産に変わるのはそういう筋である。船井の心持にもこの借りた者の余裕が生まれて、どうせ金もないし人も見つかる将来が見こめないのだからこちらの勝手にしてみよう、もしものときは自分もどこか消えてしまおうかという理屈と離合してゆく頓狂な結論も下す。当人の父母は伏して起たず、足がかりは悉皆ない、燃料も尽きたようだ。船井は崖を身投げのように転げ落ちていった。
特別急行は地面の底から湧き上がって一体を揺らすような風のなかをかんせずと驀進して船井の目指す隣市の都心に座する駅へ向かった。無理に千切ったような雲がくすんだ空に釜の米粒のようにして散開していた。全部後方に消えた。市境の田野をいくつかのトンネルを伝って抜けていくときに何人もの人を田んぼに置き去りにした。横山氏から返信はない。父方の甥からの代筆もない。人の失踪したあとでも社会は回転していた。尋常に比すれば幻とも思える事態は日常に溶けこんで、しかもその前後でいっさいの外面的の変化を見せなかった。船井はその異様さを幾度となく思い返して、しかししだいに受け入れはじめていた。生命は非合理の坩堝で混濁し、整形され、槌に打たれて自然と粗が取れ精錬されていくだろう。炉のなかに放られて、打たれてを繰り返すときに傍目には微細な変化を捉えづらいが、そのうちにふとすると精巧なひとつの刃ができあがっている。人間の生命も得てそういうものかもしれない。列車は迷いなく進む。軌道に乗りただまっすぐに突進して最後駅に停車する。それまでは景色という景色が無意味な背景として、通過されるべき地点としてだれの気にも止まらない。横山の失踪もあるいはある地点からほかの地点へ移動するときに捨て置かなければならぬ背景物に過ぎなかったのか? それは残酷な観念だ。悪漢に捕縛されて恐怖している可能性すらある彼女を横目に、友人が諦観の顔をしていてよいものか、もしかすればいつの間にか横山家に身代金の電話がされていて、それにもかかわらず応対する気力のない老夫婦は最後の望みを見逃してしまったとも考えられよう。呼び出し音だけが虚しく鳴り響く。
それは空想だ、船井は遠く線路に沿うようにして一直線に伸びる松の防風林を眺めた。線路は陸の内側にあり、海は近いようで距離があった。海岸線に沿った道路には車が走る。川にかかる鉄橋を渡ればすこし心細い揺れが起こる、軋む。しばらく丘の麓の野原のあいだに縫われたような道ばかり人工物が目につくと思うとまたトンネルに入って窓は船井の澄んだ顔と車内をわりにはっきり映す。彼女のいる指定席の車両に客はまばらで、後方の自由席の車両とのあいだのドアが人の往来で開くと話し声が聞こえる。金属的でほとんど単調な走行音が耳に強かった。うねる風は鋼鉄の外側に耳鳴りのごとく聞かれた。長いトンネルを抜けるとそこはどこが境界とも知れぬ市境の田園であった。広大な自然世界のなかに「この先より某市」というような看板が立ち、それは警告じみた感じを船井に響かした。田んぼがちの風景に家々が混じり、そのうち住宅の多い町内へ入ってだんだん都心の目的地の手前にある駅へ近づいた。まだ都会の様相はまったくない。向こうまで平面な様子である。
船井はその景色に電撃を見た。それは脅威的突如の稲妻であった。虚空から脈絡なしに発生した電気は彼女を痺れさせ、彼女の決心をすこし変容させた。ここで降りよう。心はそう変化した。それがだれの発したもので、どこからやってきたかは見当つかないけれど、そのあるいは自己内部より生じた直感とも見なせる感覚を、船井は絶対のものとして誇示した。彼女はその駅に着くと荷物を持って降りた。
プラットフォームから自動改札まで歩んでいくときも身体に鈍く沈んだ電気の感覚はぴりぴりと走っていた。内側で彼女を痺れさせているようだった。そしてそれは、人間電気のさまも船井に感じさせていた。遥か離れた先から横山の強力の念が飛ばした念が、一筋の目に見えない光になって船井を導くのだった。これはすこし小説的の奇態な書きぶりかもしれないが、しかし事実上その身に体感できるもので、なるべく隠喩にして表現するほうがかえっていまだ生ぜざる者の身にもそれの走駆する感触が映ずるだろう。船井に流れるような痙攣は現に彼女の感じているものである。
地図で眺めるとそこはそばの都心よりも細い文字で示されている。田畑や果樹園を表す記号と荒地・笹地の記号が点在し、国道や県道は細く伸びている。山がよっつある。川が一本、帯のようにその山のひとつから出て町を横切り海につながっている。このなかのいったいどこから雷電が飛来したのだろうか、船井は駅にほど近いバスの待合所にかかった図面で町を一望しながら、自分の手を引くような感得の源を探った。
地図を隅まで見通し、そこから出現する一閃を求めて気を集中させた。自己を導く手がかりをひとつとしても見逃さないようにと目を凝らし、図から聞こえるだろう囁きを聞き漏らさないようにと耳を澄ませた。しかるに何も見えなかった、聞こえなかった。図面はしんと静かであった。船井は人のいない待合所のコルク地の掲示板にかかってある、その粉っぽい古い地図に手を伸ばした、そうして人差し指と中指と、それら二本の指で音もせぬくらいに叩いてみた。自分の脳裡にはとんとんと音のしたように記憶しながら、それも錯覚ではないかと思い直すようなごくわずかな指の運動で、まるで地図の眠りを覚まそうという具合である。あるいはそれによって、万華鏡の見え方が変わって、また別様の見てくれが現れるのだとも思えた。地図は静かな褪せた姿を変えなかった。人後に声をかけるか手をかけるかして振り向かせるほどの指の動きでは、地図から何かを引き出すことはできなかった。図面は図面のまま、つねにすでに本当の姿で、船井と向き合っているらしかった。しかし現実のものを写し取っただけの絵に、何か力が宿っているだろうか? 船井は考えた。地図はどこまで行っても道を指し示すことが役割で、それも簡便なものであれば、そこにある主要な道を教えるほかには役割を持たない。するとここには何の道標も浮かび上がらぬ。船井は騙されたと思った。体に湧いた霊感は嘘かとも思った。けれども特急は発車して、この次の駅も発っただろう。いったんはここで横山さや子の足取りをつかんでみるしかない。
土曜日であったが、人の往来はそうない。大通りには車もさして走っていなかった。背の低いビル群とドラッグストア、ファミリー・レストラン、牛丼屋。目につくのは外装をまばゆい単色に塗った飲食店か食品店で、コンクリート打ちっぱなしのような雑居ビル、二階建ての印刷会社などは暗色ばかりでややもすると見飛ばしてしまう。そのなかに真っ白な診療所が、荒れ地に一輪だけ咲く花のようにして日の光を反射していた。しかしどこにしても人はほとんどいなかった。夕に入るかどうかという時刻である。船井の目を引くのは外壁の色調ばかりで、そこに霊的な力ははたらかない。いくらショッキング・ピンクのドラッグストアがあるといっても、そこで横山が見つかるような予見は浮かびがたかった。まさか失踪から二週間経って悠長に買い物をしていたとはなるまい。
そうなると町を歩いても目ぼしいものはなかったし、特別の感覚が船井を引っ張るわけでもなかった。彼女と同じようにキャリー・ケースを引いて漫然と巡ってみたけれど、自然と引き付けられる魅惑の存在は見当たらない。低いところを風が通っている気がした。
船井には、その衝動的な行為の裏側に潜めていた疑惑のようなものが、漸々と浮上しだした。何か当てずっぽうの妙な情動に突き動かされただけで、実際上は全然見当違いの方向に矢を飛ばしながら正鵠を射たと得意になっていたのではないか。これは考えるに冷や汗を催すというか、目もあやな博奕を、あながちにやってしまったようであった。化かされたというよりは、みずから化かされに行くような、自分から虎口に身を投じるような馬鹿をしていた。船井はそれが肉薄に実感されてくると、引きずるキャリー・ケースが駄々をこねて言うことを聞かぬ頑なな子どものように、連れて行くには重く感じられた。しかし捨て置くなど到底もできなかった。それで喫茶店に入った。寒風のいまだ消えざる時分でも背に汗の止まらない感触があって不快であった。
喫茶店といえ全国的なチェーン店で、船井も生き慣れているところであったから、心持は楽なもので、カフェラテのほかにツナマヨのサンドイッチを注文した。そこの軽食の品目はどれにしても一食に適うほど量があり、そのときも船井は昼食のつもりでサンドイッチを注文した。運ばれてくるとたしかに大きかった。五枚切りの食パンを一枚、斜めに切って、玉ねぎの混じったツナマヨをレタスとともにそのまま挟んだ大ぶりのサンドイッチがふたつ、つまり食パン二枚分であった。船井はカフェラテを脇にサンドイッチのひとつ目を食べだした。客は三組いた。二組は仕切りの向こう側で声だけが聞こえたが、その遠近でだいたいふたつに分けられた。遠い組の話はもうひとつ要領を得なかったけれど、仕切りひとつ隔てただけの組の話は意識せずともよく耳に入った。どうやら大学生らしい。私立大学がそれほど遠くないところにあるはずだからそこの学生だろうと船井は勘定した。彼らのやり取りは次のようなものであった。
「しかし研究室浪人をする者が本当にいるんだね。ちょっと信じられんが……」
「現にいるんだからしかたない。不勉強なやつは皆そうやって取り残されていくんだから」
「半期くらいならどうにかなるもんかね」
「ならんことはないだろう」
「親元に知らせるんなら地獄だね。うまくやりくりすれば留年は回避できるにしても、研究室に入れませんでした、とは言いにくい」
「何とか単位を取りおおせて笑い話にするんだね」
「しかしそういうちょっとした絶望的の状況のほうがかえって勉強に身が入るかもしらん。今に俺たちを抜くぞ」
一同は笑った。
なるほど、船井は声にせず独り言ちた、そういうちょっとした絶望的な状況のほうがかえって捜索に身が入るかもしらん。だが相手は人で、どこへ消えたかもまったく知れない人間がただ躍起になるだけではたして見つかるだろうか。諦めようという、もう一筋つながっている希望の光線を断ち切ってしまおうという気持ちはとうに船井に浸潤していた。ここで種々相の希望を見出してみるのは空元気である、不毛である。そこから現実的な果報はどうにも生えぬ。船井はひとつ食べたところで手を止めた。喉の奥が痛んで水も通らなかった。横山さや子はどこへ行っただろうか? 人探しに長けているでもない人間がほぼ素手の状態で考えてもどうしようもないことは船井もつねに考えていた。その無力感は直視しがたいものであった。彼女の中空な意志と、合理的な理性の対立する前に、船井は虚脱した。横山を見つけ出そうという気が急くほどに、冷静で俯瞰的な部分が、足枷に鎖でつながっている大きな鉄球のごとくに重量を持ち、精力を奪うようであった。船井は、魂が抜かれているような、そのせめぎ合いを呆然と目にするばかりで脳の本能的な領域がはたらいていないようなさまで、今はものをよく考えられなくなっていた。ただ無理なのだろうという感触だけが茫々と脳裡に拡がった。それでひとつ残されたサンドイッチが、白い泥沙の塊に見えてきて気分が悪かった。今の船井には、食物というのではなしに、飲みものも、観葉植物も、あるいは椅子やテーブルにしたって意味あるものには思われなかったし、何か大事な要素の捨て去られた不気味な物体に感じられた。店にいて席に座っているよりは、またあの急行に連れ戻してほしかった。列車の走行するほとんど規則的なガタガタという音に耳を傾けながら、ここではない遠くへと運ばれていく感覚を味わいたかった。そのあとでなら、サンドイッチはわりにいい気分で楽しめるかもしれない。持ち帰りはできないものか、尋ねるつもりであった。
男はところに船井へ声をかけた。店にいたもう一組の、ひとり客の男であった。老いの二字をはじめて本式に感じる年ごろの、脂も水気も頬からいくぶんか失われた顔を自然に結んで、店の同じ側に斜向かいの船井の席へまっすぐ歩いていく。船井はすぐには顔を上げない。男の動きが自分のテーブルの前に止まり、そこで彼女の顔も男のほうへ持ち上がる。目が合う。
間違いならすみません、と男が断りを入れる、「もしかしたら、人を探していませんか」
船井ははあっと目を張る。目の底、眼窩の奥まで光が差しこむ気がする。はい、とうなずく。
「ああ、やっぱり」男の顔が傍目に見えるか否かというくらいだけ綻ぶ、「よかった」
「何かご存じなんですか」
静かにうなずいてから、「横山さや子さんですね?」
男が名刺入れから出した硬い紙質の名刺が、船井のテーブルの上に置かれる。警察の聴取のときに顔写真を見せるときのように。そこにはたしかに横山さや子の名があり、彼女の勤めていた出版社と担当だったある雑誌名が印刷されている。それから、名前のローマ字表記と電話番号、メールアドレス。間違いなかった。
「あなたは」
「横山さんから取材を受けていた、陶芸家の平山です」と男は船井の前の席に座って、今度は自分の名刺を出す。平山茂二郎(ひらやま しげじろう)、陶芸家、全国陶芸陶磁器協会員、電話番号、ファックス番号、メールアドレス。
「二週前の土曜日、ちょうど今ごろですかね、横山さんから取材を受けて。そこの(平山は店の虚空を指さした)、三内山って山がありまして、そこに工房を構えたんですが、横山さんはそこまで来てくださいました。路線バスがあるんです。峠越えするバス。それで、ちょっと離れた寺院の前で降りて、僕の工房まで」
平山は店員を呼び、ブラック・コーヒーを注文した。あなたは、と平山に聞かれて、船井はカフェラテをまた頼んだ。
「取材のあとは?」すこしの間を置いて船井が尋ねる。
「正直、わかりません。門のところまでは見送りました。あるようでない歩道をガードレールに沿って下ると、五分も歩けば寺院の前のバス停に着くので……バスが来るまでにそれほど待つようでもありませんでした。十五分くらい。そこの寺のなかを見物していたらあっという間にバスが来るでしょう」
「そこの寺というのは有名ですか」
「いえ、麓の地区の人の墓がだいたいそこの寺にあるので、墓参りしやすいようにバス停が設けられたらしいんですが、別にそれ以外の用でわざわざ来るような場所でもないはずです」
「(さーやと言おうとしたのを止めて、)横山さんに変わった様子は」
「僕の見るかぎりでは、全然。はきはきしてて、笑顔で。僕の作った皿をずうっと見て回って、ずっと感激されてました。写真も撮って」
ここまで船井は一気に聞いて、ようやく息をついた。これですべてわかった気が船井にした。横山さや子は予定通りに陶工を訪ね、雑誌に掲載する記事のために必要なことがらを聞き出し、録音なりメモを取るなりしただろう。そうして求めていた情報を得ると、挨拶をして帰った。バスに乗ったか、それとも乗る前に何かが起こったか。注文したものがふたりの前に置かれた。そのときに船井はサンドイッチを持ち帰ってもいいか尋ねた。
日は、高かった。雲は目を凝らして見るとその動きが知れるほどに静止しているようであった。山に入る手前で信号待ちをしていると、山と車道のあいだに帯のように展びている畑のなかの立木にモズがいた。船井はそれに目を向けながら、車が動きを止める瞬間ごとに、話し合っているとときおり訪れる沈黙のようにして身に染みる寒さに身をよじらせた。車の暖房は大して効かなかった。
平山の運転する車は三内山に入っていった。地面は勾配を作り何度もうねった。法面のうえに森が青々蒼々と茂り、道路へ垂れかかっていた。平山はカーブに差しかかるたびに速度を緩めて確実に曲がった。運転にはすこしも危なげがなく、つねに落ち着いていて、柔和であった。対向車も後続車もなかった。
ふたりは取り立てたことは何も話さなかった。終始沈黙が車内に立ち罩め、その冷気のような静寂のなかにエンジン音と小さなラジオの音が混ざる。傾斜の強い道を車で登り、セメントで固められた山の人工的の斜面の様変わりしない鼠色を流し見ていると、今自分が何のためにここまで来ているかもよく考え及ばなかった。自動車の走るのに合わせて変化の少ない景色はそれでも後方へ消えてゆくが、船井は助手席に体をうずめていると、肢体が蒸発して意識だけが残っているようであり、無時的で季節すら失われ、また無感覚的であった。横山の姿を脳裡に浮かべながら、ほかの感情はいっさい抜け落ちているみたいに、船井と時間と空間はそのほとんど虚無の世界に溶けてしまった。私は実際何をしようとしていたか、この車は実際どこへ行き着くか?
「どこへも行かない」と、遠く後ろへ取り残されてゆく木々たちに答えてみた。時空はあるいは意味の大部分を失くし、ただぼんやりとした意識だけがある。横山を、もう一度この目で見るとき、彼女は最後に会ったときと同じ格好と機嫌で、けっして肉体は冷たくなっておらず、真に以前と同じ状態で、何かの不具合で連絡もできず、どこか仕事場で缶詰めになっていて外の空気も吸えなかったのだというだけの無事であってほしい。それでなくても、超常的な事由で、まるでクレバスのような無時無空の間隙へと落ちこんでしまい、ある種の専門の救助隊がそこへ来るまで寂しくも怖い思いをしていたというだけであってほしい。どういう拍子か今ここの時空間で、その亀裂から助け出された彼女を見つけたとき、彼女はときの経過をまったく感じておらず、よもや二週間という月日が経ってしまったなど思いも寄らない、というのであればいい。無事に帰ってくれば、万事はうまく治まるはずであるから。
山に入ってから二十分ほど走ったら、車は寺院を通り過ぎ、じきに平山の工房に行き着いた。建物は自然のなかへ半分埋まりこんだように建っていた。四阿は朽ちているようにも見えた。
別に工房に来てみたってそれほど意味を成さないのは船井もよく知っていた。けれどもぜひ行ってみたいという思いが湧いて、喫茶店で平山から話を聞いてそれで終わりにするのでは自分にも横山にも酷な気がした。たとえもうここではないどこか遠方に横山は連れ去られているのだとしても(とはどうにも考えたくはなかったが)、横山の断片が彼女の来た場所のそこかしこに粉のようにして残されていると想像すると、本当は工房までの峠道も歩き通してみたかったが、平山がそれを止めた。
彼は横山を通した客間へ船井を案内し、それから工房も見せた。そこに何か痕跡があるわけではない。客間は、畳、薄暗くくすんだ鴨井と長押と低い欄間、掛け軸も切り花も設えられていない床の間、艶のない柱ばかりでどこか空気の足りない感触がした。廊下はしんとして行き当たりまで不用意に空間が伸びていた。行き当りの左が便所で、右に台所があった。人の住んでいないようにも見える平山の宅は、これ以上の語句をつけ足すまでもないほど空しかった。それは何もないからというよりは、もうひとつ何かが欠如しているからと言うほうが適切なようであった。
生活の跡はむしろ工房のほうにあった。台所の流し台のそばにある本来勝手口の戸の向こうはそのまま地つづきに工房へつながっていた。まず天井から降りるかすれたような光に気付いて見上げると天窓がある。それからひと渡り見ると木棚に無数の陶器が並べられている。光の加減かもしれないが、どれも濁った白色と言おうか、薄い灰色のような単色で、華々しい青磁はまったくなかった。船井はひとつひとつ鑑賞した。底の深さ、大きさのほかでは見比べのできない、ほぼ均一な皿たちがよっつの巨大な棚に置かれているだけであった。いつごろから制作を、と振り返り尋ねかかったが、平山はいなかった。空きっぱなしの戸の向こうから何かものを動かす音が聞こえた。
船井は皿のあいだに、店で包んでもらったサンドイッチを押し込んだ。埃のうえを滑るざりざりした感覚が手に伝わった。
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