海王 作:麦茶

 ごぼごぼと耳元で大きく鳴り響いていた泡音が、次第に小さくなって、とうとう聞こえなくなった時、僕の足も同時に海底に着いた。左足が重いのはくくりつけられた岩のせいだけど、浮かび上がろうとさえしなければこんなもの、無いに等しい。見上げても映るのはぼんやりした光だけだ。目蓋が縫いつけられているからそんなものだ。

 ふむ、と鼻から空気を捻り出し、気を取り直して海王の城に向かうことにした。どこだか知らないけど、海底をさまよっていればどこかでたどり着くだろう。そう遠くではないはずだ。腕を伸ばすと、水の塊が指の間をすり抜けていく。耳の奥で行き場を失った空気が膨らんでいる。一歩踏み出すと、砂地が頼りなく揺れた。

 しばらく腕を前に出して歩いていくと、少しずつ感覚が鋭くなっていくのが分かる。手指に触れる水の感触から、魚の動きが伝わってくる。目の前を悠然と行き過ぎるものや、脇を急ぎ足で通り抜けていくもの。時折砂地に埋もれている魚を踏みつけてしまって、文字通り足元をすくわれる。それさえ楽しい。海底に尻もちをついたままひとしきりくすくす笑った。 ふっと虚しさが打ち寄せてきた。最後に見たのは母さんのきれいな青い目だった。僕はどうしてこんなところにいるんだろう。見上げても、おぼろな光は何も教えてくれない。


 何か聞こえる。ぴんと張った弦を弾くような、高い声だ。水がかすかに震えている。右手の向こうから聞こえているんだ。そっと腰を上げて、右の手のひらを行く先に向けて、少し進んでみる。声は消えない。光に変わりはない。ゆっくりと砂を掻き分けて近づく。声はだんだん近くなる。女の人だろうか。男の人かもしれない。不思議な音だ。普通に歌っていたらこんな声は出ない。口を開いているのに、歌声はそこからではなく、うなじに開いた針の穴くらいの第二の口から立ち上がっている。そんな想像がひらめいた。手を伸ばしても、声は途切れない。僕に気づいていないのだろうか。


 突然、堅いものに手が触れた。金属製のようで、震えている。これが音の正体? 両手に収まるくらいの大きさで、小さな金属の弦を、もっと小さな金属のハンマーが順繰りに叩いて、あの不思議に高い美しい音をこぼしている。オルゴールだよ、と神父様の声が聞こえた。頭の中で思い出が話している。この箱はオルゴールと言って、ほら、美しい天使の声を聞かせてくれるんだよ。神父様の見せてくれた箱の中では、金属の歯車やハンマーが組み合わさっていて、そこから讃美歌の旋律が流れ出していた。天使の歌声はもちろん美しかったけど、それがただのから(・・)くり(・・)で、本当は街で売っているおもちゃのひとつに過ぎないことを、あとで誰かが言っていた。おもちゃでもよかった。箱に描かれていたのは間違いなく神様とそのお使いだったし、讃美歌の音楽は僕たちには天使の歌声に聞こえたのだから。


 あのオルゴールに比べると、今聞こえている音楽は、きっと神様の歌声だ。記憶の中の天使の声よりずっと美しい、ずっと優しい、厳めしい、安心する、不安になる、神様の御姿が分からないように、この歌の姿も分からない。神様を宿して動き続ける、冷たいから(・・)くり(・・)をちょっと撫でてみると、音はふっつり途切れてしまった。


 とたんに恐ろしいほどの静寂が訪れた。さっきまで楽しい気持ちに寄りそっていた静けさが、今は僕を呑み込もうとしている。どうしよう。おろおろと首をあちらこちらに振り向けても、誰も助けてはくれない。あ、孤独ってこういうことなんだ。冷えきった頭が呟いた。ほんとに誰もいないんだ。誰か。声は泡になったようだ。苦しくなってきた。待てよ。むしろどうして僕は今まで息ができていたんだろう。水の中では息もできないし、音も聞こえないし、歩くことなんてできやしない。知っていたのに。あれ。あれ。どうして。手の中で金属がぎちぎちと軋んでいる。無意識に動かそうとしている。動かない。


 そのまま、オルゴールは手の中で弾けて消えた。消えた、というのは手の中からなくなった、ということで、本当になくなってしまったのか、砂に埋もれて分からなくなったのか、どっちでもいいけど、どっちでもよくない、神様の声はどこに行った? ぎゅっと両手を握り合わせて、祈った。神様、神様……僕はこの行為を禁じられていなかったっけ?


 …………神様…………?


 何か思い出しそうになった瞬間、ぐらりと足元が揺らいで、身体が浮かんだような気がした。後ろ手をつくと、何かひやりとして、少しすべる。そのまますごい勢いで周りの水が流れ始めた。潮の流れに乗ってしまったのか? いや、違う、これはくじらだ!


 前のめりになって、自分を乗せた動く地面に触れる。くじらに触れたことはないけど、これはきっとくじらだ。くじらは海王の使いだから、僕をどこかへ連れて行くんだ。よかった。もう怖いことはない。




 途中で光が弱まり、また強くなって、くじらの上で夜を越したことを知った。顔に当たっては流れていく水が、風のように心地よい。そのうちくじらの動きが止まり、足が岩に触れた。到着したようだ。お礼を言いたくて手をそれらしい方に向けても、すでにくじらはいなくなっていた。僕を呼ぶ声がして、誰かすらりとした指が僕の手を引いて、すべるように連れて行かれる。足元が階段のような岩場から柔らかい絨毯に変わった。見知らぬ指はそこでいなくなった。声はまだ聞こえている。恐る恐る足を踏み出すと、懐かしいほど身体の重さを感じた。「そこで止まれ。」と声が言い、僕はそれに従った。重々しいその声が、続けてこう言った。


「我は海の王である。お前を裁くためにここにいる。」


「僕は罪を犯したのですか?」


「それをも知るための、この場である。さあ、銀盤に触れよ。」


 再び見知らぬ指に導かれて、冷たい板の上に手を載せた。さざめきの中に、海王の声とは違う声が聞こえた。頭の中がぱちぱちと小さく爆ぜた。


「何か聞こえるか。」


「聞こえます。」


「声に従い、全て語れ。それがお前を救い、また責め立てるだろう。」


「はい……。」


 かすかに震える唇を押し上げて、僕はゆっくりと銀盤の語る言葉を繰り返した。一度、少し待てと言って、海王はしばらくさらさらと筆を走らせる音を立てていた。僕は、聞こえてきた声に、またこの合間も語り続けている声に、心臓が止まってしまいそうだった。この声は、僕の声だ。語る声と、それを復唱する自分の声が重なり合って、閉じた扉をじりじりと押し開けていくような、逃げ出したい気持ちになっていた。


 海王の筆が無慈悲に止まった。


「良し。続けよ。」


 またしばらく、息の詰まるような告白が続いた。


 最後の言葉のいくつかは涙に震えて、きっと聞き取れなかっただろう。しかし海王はそれでいいと言った。


「それはお前の記憶に相違ないか。」


「ありません……。」


 僕は指に連れられて、上等なベッドに寝かされた。でも、こじ開けられた記憶の中の、嫌気のさすほどふかふかの椅子が連想されて、ろくに眠れなかった。


 せめて目が見えたなら、今の自分を鏡に映して、あの頃と全く変わってしまったもはや別人なんだと言い聞かせることもできたろう。可哀想な目蓋は闇に縫いつけられたままひくひくもがいて、あまりに明瞭な過去の像をわずかにさざめかせることしかできなかった。







 天の国では、個人の羽がその階級を決める。一枚一枚が大きくて、真っ白で、ぴんと張った美しい羽を持った天使は、生まれながらにして大天使の座を約束されている。その他の天使は、神の宮廷に仕える年頃まで、できるだけ羽を大きく立派にしようと頑張っている。羽の大きさは、そのまま能力の高さを示すからだ。


 僕はと言えば、首の裏にちょこんと、少女のつけるリボンのような羽がついているだけだ。あまりにも小さいものだから、育てようとも思わなかった。人間の世界で、才能に満ち溢れたやつと、全く救いようのないやつとが同時に生きているのと同じだ。ただ、天の国では生きていくのに支障はない。そもそも飛翔行為は頭上の輪を使うものだし、それでも能力のなさ故に長く飛べない僕は、毎日椅子を作っている。


 これから人間の世界に降りていく元気いっぱいの魂には、翡翠色のよく弾む椅子を。今しがた人間の世界から昇ってきて、疲れ果てた魂には、群青色の柔らかい椅子を。魂のための椅子は、天使にしか作れない。とは言え最下級の天使の仕事であることには変わりない。今頃きっと、高位の方々などは下界に降りて行って種々に大切な仕事をされていることだろう。自然を調節し、人間を導く。同じ神の使いとはいえこうも違う。


 やるせなさに、首筋をがりがりと引っ掻く。最近になって出てきた癖だ。手を見ると、一、二枚羽が抜けている。ため息が漏れた。どうして僕の羽は育たないばかりか、衰えてきてさえいるのだろう。いつもなら、その時同じく下級天使のミロが椅子を受け取りにやって来て、僕は搬入作業を手伝って少し気が紛れるのだが、その日は違った。誰も来ない、静かな工房の中で、僕の爪の音が陰惨に響く。とうとうぷつりと皮膚が切れて、血が滲んだ。どうして、天使も人間のように血肉があり、感情があるのだろう。天使に血肉と心があって、何になるというのだ。誰かこのことに疑問を持たないのだろうか? ピシリと工房の窓に亀裂が走った。神様だ。神様が僕をお呼びだ。慌てて工房を出た。




 神様の宮殿から帰る時には、いつも頭がふらふらしている。神様はとてもお美しいかただ。形に出来ないほど。神様は光の中にいらっしゃって、その穏やかな御声で僕たちに囁きかけて下さる。その声を聞くだけで、僕のような下級天使はポーッとなってしまうのだ。ああ、神様に御声をかけて頂けるだけで、僕はとても幸せだ。きっとこの幸せを味わうために感情があり、神様から放たれる光を見、甘美なその御声を聞くために、この身体があるに違いない。


 だが、その幸福も長くは続かない。毎日、毎日、工房でトントンと音を立てながら椅子を造り続ける。釘が木肌に突き刺さる。ふと、神の御子の手に突き刺さった、無情にも頑丈な釘を思い出した。僕がしているのは本当に神様のお役に立つことなのだろうか。本当は、この釘一本一本を僕が打ち付けるたびに、下界の誰かの身体が鋭い痛みに苦しんでいるのではないだろうか。それは今しがた生まれた赤子かもしれないし、今にも命尽きそうな老人かもしれない。僕の椅子が魂を呼び寄せ、また魂を追い出している。そんな気がする。どうしてこんなことを考えてしまうのだろう。


 実際、椅子は役に立っているんだ。何度も見ている。どうして僕はこんなに気に病んでいたのだろう。魂たちは嬉しそうに各々にあてられた椅子に座り、天使からの質問に答え、自分の願いにかなった地へと降りていく。あるいはへとへとで帰って来た魂たちは、椅子に身を沈めて深い息を吐き、感慨深そうな様子をしている。さっき別れた身体のことを想っているのだ。なあ、お前は役に立ってるよ。ミロがそう言って、僕の背中を強く叩いたことも数知れない。それでも不安になる。僕は本当に魂のための完璧な椅子を作れているのか。僕は天使の仕事を全うできているのか。僕は本当に、天使なのか。


 がりがりと首を掻く。ピシリと窓が割れた。ああ、神様が僕を呼んでいらっしゃる。行かなければ。頭がぼんやりして、何もかも幸せに思えてしまう、神様の宮殿に。神様が僕の名を呼び、僕の仕事を褒めて下さるだけで、耳から脳へあたたかいものが沁みわたっていくのを感じる。


 僕は無力、いや、幸福なんだ、とてもとても……。







 ぼやけた視界の向こうでは朝が来たようだ。指が海王のもとに連れて行こうとする。優しく引いているようで、かなり強い力だ。男なのか、女なのか、声を発しないから分からない。そもそも身体があるのかも分からない。僕の手を取って空に浮かぶ指先を思い浮かべた。絶対にあり得ないような、以前見たことさえあるような、疑いながら容易に受け入れられる情景だ。ある種宗教的な、宗教、宗教か。人間のつくった幻。神父様だって本物の神を見たわけじゃない。見たと語る気の触れた男に感化されただけのことだ。本物の神に慈悲は無い。天界と地上を操ることしか考えていない。入日にすがる可哀想な魔女を闇に追い落とし、貧しい街に疫病を流行らせる。神のどこが美しいんだ。天使のどこが。どうして天使になろう(・・・)と(・)した(・・)のだろう。記憶は僕自身だから、何も教えてくれない。


 海王のもとへ連れて行かれると思っていたが、違うようだ。足裏に再び水が触れる。泡の音が大きくなる。足元が開いている? 分からない。分からないことだらけだ。口を開いても海水は流れ込んでこない。今さら、そんなことに疑問を抱いてもどうにもならないか。指は斜め上の方に引っ張っている。足元が開いていると思ったのは間違いで、浮かび上がっていたのだと気づいた。上へ。水面へ。どうして上に行けるんだろう。足首には重りがついていたはずなのに。足を揺らしてみると、ひらひらとあっけなく前後に振れた。


 もう何でも受け入れてしまおう。


 心を決めると、急に息が苦しくなってきた。ごぼごぼと泡が起こる。もがいても自力では上がれないみたいだ。指は僕のことなどお構いなしに変わらない速度で移動している。


 薄靄の中に両親の姿が浮かんで、消えた。


 頭上で何か弾けた。


 一瞬のちに、息ができることを知った。水面だ。空気だ。傍らに何かがぶつかった。触ってみると、つるつるした貝の内側に思えるが、形は舟のようだ。外側はごつごつと尖っている。すると本当に巨大な貝殻なのかもしれない。指に促されて乗り込んだ。


 落ち着いてみると、海上を流れる空気の熱に、真夏を感じた。手足がじりじりと熱くなる。海水にひたすと、今までその中を泳いできたのに、冷たさが初めて分かった。水の流れが爪の合間にも入り込んで、そのくすぐったさは水面を跳ねる光だった。


 ところで、この舟はどこへ行くのだろう。


「ねえ、どこへ行くの。」


 呟くように尋ねてみると、指は二、三度僕の足をつついた。今までになかった反応だ。


 しかしそれっきりだった。何度尋ねてみても、指は僕の足をつつくばかりだ。苛立って捕まえてやろうと腕を振り回すと、舟の端で手の甲が切れ、ぴりりと痛んだ。血は苦かった。不毛なやり取りの間にも、舟は波に揺られて移動している。


 海王から逃げているのかと、不意に考えついた。しかしそうすることに何の得があるのだろう。指はきっと海王の配下であって、背くことは何にも増して許されない。僕に同情したはずもない。海王の命令で、僕をどこかへ幽閉しようとしているのかもしれない。それならどうして足の重りを外してしまったのか。どうして水面に出たのか。どうして僕の足をつつくのか。答えが無い。嫌だな。ぼんやりしたのは嫌いなんだ。視界も、気持ちも、これからの道筋も、僕はなんだって目蓋を縫いつけられているんだっけ?


 がりがりと目蓋の上を引っ掻くと、手の甲の傷から血がすーっと流れて、肘の先で滴り落ちた。あの嫌味な水盤が語り尽くしたこと全てを、本当に僕の記憶だと言えるだろうか。僕の声で語っているから僕の記憶だと思っているだけなんじゃないのか。騙されているんだ、僕は、ああ、不愉快だ、不愉快だな、本当に!


 突如身体が引きつったように震え出した。癇癪の発作だ。眼球の裏側が焼けるように熱くなる。身体が悪魔憑きのようにあちらこちらと跳ね回る。僕自身の意志もすでに無視されていて、頭の片隅で縮こまってじっと身体の暴走を見ていることしかできない。手の甲以外にもどこか舟の端で切ったのか、血が頬に二、三滴散った。痛みは感じない。口にも入った。吐き気のするほど甘かった。上半身が後ろを向いて、よじれた腹から変な音がした。今にも海に飛び込んで逃げ出しそうな格好だ。僕自身も逃げ出したかった。自分が村から、教会から、大地から追い出される理由になったこの忌まわしい運動を二度と感じたくなかった。


 無感動に痙攣が止まった。とたんに四肢がぐったりとして、身体の重さがどっとのしかかってきた。仰向けに倒れると、太陽が目蓋を刺した。目を閉じているのに眩しいと感じた。瞼の裏ばかり鮮やかに光った。虚しい明るさだった。







 憂鬱な毎日はついに壊れた。真っ赤な満月を見た日、僕は思い出してしまった。自分が以前、悪魔であったことを。そして改心し、神に悪魔だったころの記憶を消していただいて、小さいながら羽までつけていただいたことを。手から金づちが落ち、鈍い音を立てた。そうか、この無力感は、僕が天使でなかったからなんだ。僕は首筋をがりがりと引っ掻いた。羽が抜け落ち、血が滲んだ。とうとうすべての羽をむしり取ると、急に力が湧いてきた。どくん、どくん、と胸が強く脈打っている。ガア、と思いもよらない醜い声が自分の喉から漏れた。


 僕は吠えた。オオカミのように吠えた。高らかに響き渡る歓喜の声は、神にも届いただろう。あいつはきっと、僕が天使になりきれなかったことに気づいた。背中がむずむずと痒くなって、何かが弾ける感触があったかと思うと、真っ黒のつやつやした巨大な羽が生えていた。どれほど偉大な天使にも劣らない、立派な羽だ。振り向くと、背後には羽が生える時に破れたのだろう、背中の肉がいくらか飛び散り、工房は血で染まっている。僕にはそれが何より美しく見えた。穢れなき魂たちの座る椅子が、いま僕の血肉で無様に穢されている、その優越感、抑えがたい快感に、僕はまた吠えた。赤い月が呼応して震えた。







 意識が水面に浮上してきた。とぎれとぎれに白い光がちらついた。ずっと目を閉じているから、目覚めと眠りの境目は曖昧だ。潮の匂いに、葉擦れの音と波の音、乾いた砂の匂いが混じる。人の声はしない。どこかの島に流れ着いたのか。


 ふと、何の抵抗もなく目蓋が開いた。とたんに強い日差しが照りつけた。太陽はさっきから僕の身体をあたためていたようで、手足には乾いた砂がこびりついている。身を起こして砂を払い落し、それが地面に落ち、砂浜と一緒になって分からなくなるのを見ていた。いかにも、僕は初めて世界を見たほどの喜びに打ち震えていた。空の青、それよりずっと複雑な海の青、振り返れば木々が風に揺れ、歩いてみれば海水に湿った砂がきゅうきゅうとへこみ、足跡を残す。何もかも見える。今や世界は僕の身体の何倍にも広がった。


 あの不思議な指と舟は、どこかに行ってしまったようだ。改めて木綿の服を見下ろすと、もうすっかり乾いていて、海底で起きた諸々のこと全てが夢だったようにも思われてくる。そうだ、きっと僕は教会から帰る途中に、気まぐれで下りた岩場から足を踏み外して海に落ちたのだ。そしてそのまま流されて、ここに来たのに違いない。海に落ちたショックでひどい夢を見てしまったのだ。あるいは、僕の信心を試そうとする神様の試練だったのかもしれない。だとしたら僕は試練に合格したのだろうか。


 がさがさと木々が不自然に揺れ、何ごとか喚きながら一人の男が出てきた。上半身裸で、腰には布を巻き付け、手には弓を持っている。眠る前のお話に出てくる原住民のような恰好だ。実際そうなのだろう。男が筒に口をあて、反対側を僕に向けた。何か尖ったものが頭に刺さった。吹き矢か、と思う間もなく視界は再び奪われた。




 目覚めるとそこは村だった。原住民の男や女や子供たちが暮らす熱帯の村ではない。僕が、今まで暮らしていた村だ。目は当然のように開いた。身体を起こすと痺れるような痛みが走った。まだ安静にしているようにと神父様が言った。ひと月も眠っていたのだ。寒々しい早朝に、海岸に流れ着いているのを、漁師の一人が見つけた。母が泣きながら駆け寄ってきて、僕を抱きしめた。村長の命令など従わなければよかった、もう捨てたりしない、目の色なんて何でもないのよ……。父も枕元に来て、僕の手と自分の手を握り合わせ、後悔していると呟いた。


 喉の奥から出た空気が泡になって、窓から外へ出ていくかと思われた。




 数日して、もう一人で歩き回れるようになると、僕は海岸の岩場に行くようになった。


 僕を見つけた漁師ははす向かいの家の飲んだくれで、海岸で僕を見つけたのも、僕を両親のもとまで運んだのも、それによる謝礼と免罪が目当てだった。ろくに働いてもいないのに寒い真冬の平日、早朝、しかも海岸沿いをどうして歩いていたのか、誰も分からなかったし彼自身も忘れたと言った。神様が情けを下さったのだろうという噂は、海に沈められた時には縫いつけられていたはずの僕の目蓋が、すっかり治っていたからだ。おかげで村長からの風当たりは前ほど強くはなくなった。両親も僕を避けなくなった。とは言え目を合わせてはくれないし、学校に行けば気味悪いと言われ、通りをうろつけば嫌な目つきをされる。結局、一日のほとんどを潰すのは教会だった。海の底から帰ってきたのに、息苦しさは陸の方がひどいなんて、皮肉な話だ。


 岩場には教会からの近道があることを、最近知った。あの原住民に吹き矢で倒された夢、きっとあれは夢なのだが、あの時思い描いていたのと全く同じ道があったのだ。以来、神父様に何か頼みごとをされない限り、岩に腰かけてぼんやりしていることが増えた。何を考えるでもない。どこまで夢で、どこまで現実なのか、考えても分からない。いっそもう一度生き直そうと思ってはいるが、波の音を聞いていると、まだ海底に忘れ物があったような気さえする。それは死かもしれないし、オルゴールかもしれない。閉じられていた瞳は何も見ていない。手足も、耳も、鼻も、何も教えてくれない。海底で呼吸ができた。海の王と話をした。僕は天使で、本当は悪魔だった。指に導かれ、舟に乗って原住民の島へ行った。記憶に間違いがあるだろうか。間違いしかない。しかし真実を確かめようと足先を海に沈めるだけで、恐ろしくて身体が凍りついてしまうのだ。


「神父様、全てのことを話しました。僕はどうすればいいのですか。神様はどうして僕をお助けになられたのですか。」


 神父様は黙って十字を切った。

                             続

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