第3話 凶報

令和の初頭から、人工知能の影響が多くの場面にじわじわと忍び寄っていた。

 大手生命保険会社ではAIを使った加入審査を行うシステムを導入し、審査期間の短縮や人的要員の削減に乗り出していた。続くように大手損害保険会社は、AI搭載型のドライブレコーダー提供サービスを開始した。AIが映像や車の速度、位置情報から事故状況の分析を行い、その結果を迅速に自動作成することで、事故状況を説明する負担の軽減を実現していた。

 さらに大手IT企業は100万人分の電子カルテなど医療ビックデータを分析し、製薬企業の医薬品開発などに役立てるサービスを開始した。これは後に患者に合わせた個別化医療の分野に大きく躍進することとなった。

 米国では、米航空宇宙局出身のCTOが開発した宇宙飛行士の健康を維持するソフトを地上に居る人間に応用し始めていた。退院後の服薬指導や生活管理を担い、再入院率を大幅に低下させた。この取り組みは医師の診療能力を拡張し「診療支援」や「代理人」の実現に向けて動き出す切っ掛けの一つとなった。

 更に、その当時に大変な騒ぎを起こしていた流行り病がその影響に拍車をかけていたのは言うまでもない。感染リスクを抑える為に、あの手この手で対人での作業を「機械」にさせたのだ。

 勿論、あれだけの恐怖を煽られたら、そうせざるを得なかったのであろう。

 


 当時の人達は深く考えなどいなかった筈だ。ただ漠然と、便利な社会になると盲信していたのだ。

 ーーたった一つの人工知能に、支配されるとも知らずに。




 目の前の白い自動精算機に治療代が表示される。画面に表示される緑色の真四角の枠に、イーズウォッチをかざすと短い電子音が響いた。

「お支払いが完了致しました。お大事に」

機械から女性の声が流れる。レストランのウエラブル端末とは声の種類は違うが、この中にも「イザ」が搭載されている。

 電子カルテの内容が退院処理を行った時点で自動精算機に転送されるので、かつて弊社で取り扱っていたレセプトコンピューターなる物も、受付や会計を行う医療事務員も、一瞬で淘汰されてしまった。かろうじて、地方の診療所であればそういった要員も居ると思われるが、都市部の大病院では殆ど見かけない。

 勿論、自動精算機から領収書や内訳明細書なんて代物は印刷される訳もなく、個人管理番号(マイナンバー)に全て紐付けされているので、イーズウォッチや手持ちのウエラブル端末から確認することができる。



「瑞稀~精算終わったかぁ?車呼ぶぞ?」

トイレに行っていた柊人が戻ってきた。

 俺は自動精算機を一瞥し、柊人の横に並んだ。自然と病院の正面玄関を目指して歩を進める。

「終わった。会社戻るか?」

俺が尋ねた途端、柊人が目を剥いた。

「本気で言ってる?」

「…すこぶる真面目だけど?」

そんなに驚かれるような発言ではないだろう、と内心こちらも驚いた。

「いや、俺は怪我してないから戻るけど、瑞稀は家で休んだ方が良くない?」

 この男はなんだかんだ世話焼きだなといつも思う。別にどこも痛くも痒くもないのだから、寝ていたって仕方がない。

「イザは退院しても良いと判断したぞ」

涼しい顔で真面目に返答すると、柊人はため息を吐いた。直後、じとっとした視線を送ってくる。

「いつもはそんな事言わないくせに。瑞稀ってさ、そういう所あるよな」

「…そういう所って?」

 真面目ぶっていたが、だんだん我慢できずに顔がにやけてしまった。長い付き合いだ。柊人には俺の嫌な性格が十分に伝わっているのであろう。変わり者に付き合う柊人もまた、相当な変わり者に違いないだろうけど。

 時折、俺が「人工知能」を嫌っていることも、口には出さないだけで薄々は感じているのかもしれないと思うことがある。勿論カウンセリング漬けになるのはまっぴらごめんだから、極力至極真っ当な市民のフリをしているが。

 おどけた表情をして柊人は早々に諦めた。こうなった時にはいつも先に折れてくれる。

「はいはい。生意気な瑞稀お嬢様の仰せのままに」

「しばいていいか?」

「おお、怖い」

間髪入れずに少し睨みつけると、わざとらしく怯えた表情を見せた。語尾にハートマークが付きそうな口調であったのが余計に苛つく。

 癪に障ったので笑いながら肩を思い切り殴ってやった。

「そう言えば、会議はもう終わったかな」

 カフェで話していたのは確か、カルテを検索する際に入力する番号についてだっただろうか。爆風に吹き飛ばされたおかげで、頭から抜け落ちている事が他にも在りそうだが。

「片岡さんに聞いたらもう終わったって言ってたぞ。あ、今連絡するか?」

「しない。今と同じやり取りを2回もしたくない」

「あはは!確かに」

俺のうんざりとした表情を見て柊人はケタケタと笑い声を上げた。

 暫く歩いていると、数十メートル離れた先に病院の正面玄関が見えてきた。この病院の正面玄関は、数年前から変わらない佇まいを保っている。

 ふと、頭に過った。

色素の薄い猫っ毛に、寝癖を付けて微笑む彼の顔を最後に見たのはいつだったか、と。

 最近は電子カルテシステムの稼働計画に追われて頻繁に顔を見に行けていなかった。

 彼を意識すると病室で思い出したあの時の声が今でも鮮明に耳元で聞こえる。

ーー「大丈夫。ケミワトの薬を飲んだら、明日には良くなるって」



 「タクシー呼ぶぞ」

柊人がイーズウォッチに話しかけようとしたので、俺はくるりと振り向いて制止した。

「柊人」

 魔が刺すとはまさにこの事だろう。普段はそんな事はしないが、今日はちょっとした出来心が生じた。

「ちょっと気が変わった」

「え?!」

「お前の愛しのあの子に会いに行かないか?」

俺の問いかけに、柊人は面食らった顔をしている

「…頭、まだヤバい?」

「ヤバくはないよ…で、柊人がいつも気にしている、愛しのあの子に会うチャンスだけど、どうする?」

その言葉を聞いた瞬間、柊人が舞い上がった。

「シノちゃん?!マジ?!うっそ!!会う会う会う!!え?!この病院に入院してるの?!まじ?!」

 無類の女好きめ。以前話した時から勝手に女だと判断しているので有頂天になってやがる。俺は薄ら笑いを浮かべて別の道へと先導した。



 いや、今回は。

俺が、会いたかっただけかもしれない。





 「シノちゃんってさ!どんな感じの子なの?物静かな感じ?実は気がめっちゃ強いとか?顔は?どんな感じ?」

「あー...いつものんびりしてたな。顔というか雰囲気は小動物って感じ」

「へぇー!可愛い系おっとり女子!いいじゃん~」

 学生時代から付き合いのある親友と呼べる存在が居ることを、柊人には随分前から話していてた。そして、現在入院をしている事も。

 ーーーどんな方法を使ってでも、親友が無事に退院できるようにしたい。

 その昔、酒に酔った勢いでそう愚痴をこぼしたことがあった。俺の目で見えている世界が茶番劇だと自覚した事を思い出しては、苦虫を嚙み潰したような最悪な気分になるのを、時折アルコールで誤魔化していた時期があった。

 以来、その話を聞いた柊人は脳内で勝手に恋物語を展開し、俺たちの関係をにやにやしながら気にしているのだ。ちなみに、その時酔っぱらった勢いで柊人の大好きな「都市伝説」の話を永遠と聞いてしまったが故に、勝手に都市伝好き仲間だと認識されている。どこぞの秘密結社の上になんちゃら委員会があるだの、よくわからん会議があるだの、なんちゃら一族がどうだなどと言っていた気がするがほとんど覚えていない。

 余談ではあるが、その日はイザの判断を無視して酒をしこたま飲んでいたので、翌日のイーズウォッチの画面は夥しいほどの警告表示で埋め尽くされていた。



 正面玄関のある建物から、別棟に向かう長いガラス張りの渡り廊下を進むと、柊人が声を上げた。

「へぇー!思ってる以上に広いな、この病院」

「ここから先は外来がない入院専用の建物だからな。普段寄り付くことはそうそう無いよ」

 清潔感もあるが人の気配が一切しない無機質な空間は、まるで異質な世界に迷い込んだかのような感覚になる。

 渡り廊下を渡り切ると、だだっ広い受付スペースが現れた。勿論、ここにも人間は居ない。

 人の気配がしない空間に、2メール程の高さの白い直方体がポツンと立っているだけだ。それだけなのに異質な感覚が相まって、閑散とした空間に静かな威圧感を感じる。

 直方体には液晶画面が着いていた。画面上部には小型カメラが付いてある。

 液晶画面を見つめるとイザが起動した。

「こんにちは」

無機質さを感じる女性の声が場に響く。

「矢車 志乃(やぐるましの)のお見舞いに来ました」

 液晶画面に話しかけると、白い背景に水面のような水色の輪が幾重にも広がった。

そして、その輪はやがて真四角の枠を表示させた。

「ご来院の方の確認を致します。個人管理番号をご提示下さい」

素直に従い、イーズウォッチを起動させてから枠にかざした。

「認証します。暫くお待ち下さい」

イザが確認している間、柊人が横からひょっこり覗き込んだ。

「これ、メディカルホライズン社の受付案内機だな。昔、研修で見た事ある」

「…メディカルホライズンのやつだったんだ。詳しいな」

前から気になっていた機種だが、身近に詳細な資料が無く、皆目検討が付いていなかった。まさかライバル会社の商品だったとは。

「そりゃあ、研修の時なんてテンション上がりまくって仕方がなかったからな!ちなみにコレ、型落ちしてる奴だぜ。普段見かけることなんてないって」

「へぇ」

思いかけず柊人の博識な一面を垣間見て素直に驚いていると、イザが話し出した。

「個人管理番号を確認致しました。霧島瑞稀様。矢車志乃様との面会を許可します。病室は9階の306号室です。」

今回は一人での面会ではない。一応、ルールに則って申告をした。

「同伴者が居ます」

音声での申告を聞き取ると、白い液晶画面は数回、水面のような水色の輪を幾重にも広げた。

「同伴されている方の確認を致します。個人管理番号をご提示下さい」

柊人も同じように液晶画面を覗き込みイーズウォッチを画面にかざした。

「認証します。暫くお待ち下さい」

イザが再度、認証を始めた。

「楽しみだなぁ。」

 柊人は恋物語のヒロインに会えるとそれはそれは楽しみにしているようだが、遂に残酷な現実を直視することになるとは露程も思っていないであろう。そう、この世界は時として残酷なのだ。

「個人管理番号を確認致しました。海堂柊人様。矢車志乃様との面会を許可します」

 イザがお決まりの台詞を吐き出したので、エレベーターホールへと足を進めた。


 エレベーターの前に着くと、ボタンに触れる前に扉が開いた。何の躊躇いもなく2人で乗り込む。

受付案内機が認証した瞬間、イザがエレベーターを手配するのだ。階数ボタンも扉を閉めるボタンも押すことはない。一応、階数ボタンなどは設置されてはいるが、ホテルや病院では使用した事がなかった。流石に会社内での移動に関しては制御されてはいないので、自分たちで行き先をイーズウォッチを使って指定するが。

 「シノちゃんってさ、いつから入院してるんだ?」

何と気なしに柊人が尋ねてきた。俺は記憶を遡る。

「…3年くらい前かな」

「結構長く居るんだな。シノちゃんは俺らと同い年だったっけ?」

「志乃は俺らと同期入社だぞ」

「え?同じ会社?まじで?!まじ?!え?!どこの部署?!」

てっきり伝えていたと思っていたが、同じ会社の同期と言っていなかったのか。柊人が信じられないくらい驚いている。

「電子カルテシステム開発部門」

「え?俺らと同じじゃん!やば、え?!まじで?!全然記憶に無いんだけど…」

それもそうだ。必死で過去の記憶を遡る柊人が覚えているはずがない。

「柊人は元々、検査システム部門の営業だっただろ?その後電子カルテ部門に来た時にはもう既に入院して

たんだよ。というか、柊人は志乃が抜けた分の穴を埋めるために引き抜かれたんだぞ」

「まじで?!」

さっきから「まじで?!」を連発しているが、片岡さんから何も聞いていないのか?まぁ、あの人も案外おっとりとしているから言い忘れている可能性も無きにしも非ず、か。

 そんな事を思っている間に、頭上から音楽が流れた。9階に到着したエレベーターの扉が静かに開く。

 視線の先の廊下には緑色の大きな矢印が映し出されていた。

 床の矢印は、見舞いに来た人間が病室を間違わないように表示されるシステムである。大抵どこの病院でも導入されている。右か左かだなんて、この世界で迷うことなどそうそう無い。

 俺たちはエレベーターホールに降り立ち、緑色の矢印に向かって歩を進めた。

 視線を窓に遣ると、大きな病院の建物と手入れされた広い庭が眼前に広がる。老婆が乗った車椅子をゆっくりと押す看護用のワトソンの姿も見えた。

 四方八方が真っ白なこの空間では、不気味なほど人の気配がない。時たま巡回用のワトソンとすれ違うくらいであった。


 暫く歩くと、一番奥の個室病室の前に辿りついた。

扉がある右横の壁に小さな液晶画面が付いており、「306号室 矢車志乃様」と文字が表示されている。

 久しぶりの対面に、こころなしか心が躍っている。俺は小さな笑みを浮かべて警告した。

「柊人、驚くなよ」

「え?」柊人はきょとんとした表情を浮かべた。

 俺はあの時と同じように扉に手をかける。ノックもせずに病室の扉を開けた。





――ーその日は、関西では珍しく積雪するほどの雪が降っていた。

「志乃!!大丈夫か?!」

 勢い良く病室に飛び込むと、色素の薄い猫っ毛によくわからない寝癖を付けた矢車志乃が、ベッドの上で上半身を起こしてテレビを見ていた。

 俺と視線が合うと、志乃は人形のような整った顔にきょとんとした表情を浮かべた。

「瑞稀?どうしたの?!うわっ耳真っ赤じゃん!」

 珍しくよく降った雪のせいで車もバスも捕まらず、寒空の下をなりふり構わず全力で走ってきたのだ。まだ耳と鼻がツンとして痛い。

 トラックに轢かれたと聞いて慌てて駆けつけたのに、当の本人は驚くほどケロッとしている。力が抜けて思わずその場に座り込んだ。

「瑞稀?!大丈夫?!」

わたわたとしている志乃をキッと睨みつけた。

「意識も無くて大量出血して、オマケに重傷者が多くて輸血も足りないって聞いたのに…ピンピンしてるな、志乃」

 俺と志乃は血液型が同じなので、俺の血を輸血に使ってほしいとケミワトの診断を受けるつもりだった。間に合わなければどうしようかと必死の思いで走った、というのに。

「うん!頭からいっぱい血が出たけど大丈夫だった!」

 志乃はにこにこしながら親指をグッと立てた。この男は天真爛漫というか、天然というか、初めて出会った高校生の頃から変わらずどんな時でもほわほわとしていたが、トラックに轢かれても通常運転らしい。

「本当に大丈夫なのかよ…」

俺の方が今にも目眩を起こして倒れそうだ。

「大丈夫、大丈夫。頭打ったけど、MRI撮っても異常なかったって。さっきお腹空いたからお粥も食べたんだ」

大変満足そうに笑っている想定外の元気な姿に言葉が出ない。俺が聞いたのは誤情報か?

「ケミワトに聞いたら食べていいって言ってくれたもん」

志乃は自身の右手首に嵌めてあるイーズウォッチから、MRIや採血の結果、ケミワトの所見文書まで空中に表示させた。いや、俺は別にお粥を食べたことを責めているんじゃないんだけど。

「とにかく、無事でよかった」

安堵のため息が大きく出た。志乃はちょっとだけ申し訳なさそうな顔をした。

「心配かけてごめんね」

「志乃のせいじゃないだろう。ま、暫く入院生活楽しめよ」

途端、志乃が顔を真っ青にした。

「うわぁ!有給あるのかな?!次の4月にならないと入社2年目に突入しないから、減給かも?!」

俺は思わず吹き出してしまった。有給の心配をするくらいだから、思っていたよりは随分と元気なのだろう。

「いつの時代の話しをしてんだ。入社から1年経過しないと有給貰えないなんて、俺らの親世代の話だろ」

俺は近くにあった丸椅子に腰かけた。志乃は大きな目をまんまるにして驚いている。

「そうなの?」

「片岡さんに聞いてみなよ」

「…さっきメールしたときに聞いとけばよかった」

 突然、病室の扉の向こうから穏やかな音楽が流れてきた。音楽と共に無機質な音声が流れる。

「患者様、処方薬をお持ちしました」

人型医療AIロボット「ワトソン」が静かに病室に入ってきた。胸の液晶画面に薬剤のカプセルのマークが表示されている。医薬品提供用のワトソンだ。

「矢車志乃様の処方診断が終わりました。こちらの処方内容薬を服用してお休みになられてください」

 ワトソンが拡張現実を使って処方薬を目の前に映し出した。

薬品名と使用上の注意、副作用が表示されるので目で追う。一般的な痛み止めと抗生物質が処方されていた。

 「ありがとう」

 志乃はワトソンから薬袋を受け取った。

ワトソンは志乃が薬剤を受け取ったことを確認すると、特に何も告げることもなくそのまま静かに病室を出ていった。扉の開け閉めはイザが判断をして自動で行われているので、ワトソンは音も立てずにするりと出ていく。

「ワトソンってなんか可愛いよね」

丸みを帯びたフォルムが可愛らしいと志乃は前々から言っていた。

「電子カルテじゃなくてワトソン部門に希望出せば良かったのに」

 かなりほわほわしているが意外や意外。志乃は人工知能に関するプログラムをいち早く理解し、修正や組み立てを行うのが周囲の誰よりも得意であった。難しいとされているワトソン部門でもやっていける技術は充分にあるはずだ。新入社員の中でもずば抜けて優秀な逸材であると上層部の中でもかなり有名であった。

 志乃はベッド横の机に置いてあったペットボルの蓋を開けながら考え込んだ。

「んー…ワトソンも勿論可愛いんだけど、全国共通の電子カルテシステムを導入する計画に初期から参加できることって、そうそうないだろ?だったら、そっちの方がいい経験になるかなって」

 確かに。かなりキツイと事前に脅されていたが、初期から携わることが出来る機会はそうそうない。それは俺も同意見であった。

「あーあ、どれくらい入院すればいいんだろ」

顔面に「退屈なので不服です」と書いてあるのが見て取れた。元気そうにしてはいるが全くの無傷ではないのだ。然るべき治療が必要になるだろう。

「イザがいいと言うまでだろ。無理はするなよ」

「大丈夫。ケミワトの薬を飲んだら、明日には良くなるって」

志乃は薬袋から薬を出して、1錠ずつ喉へ流し込んだ。

「お粥食べて薬飲んだらあとは寝るだけだな。取り敢えず、元気そうな顔が見れてよかった」

「うん、驚かせてごめんね。何かあったら連絡する…あ!明日、例の計画の打ち合わせしようよ」

志乃は薬を片付けながら、先日二人で画策していた「とある計画」を思い出して目を子どもの様にきらきらと輝かせた。

「分かった、分かった。その前にゆっくり休めよ」

俺は窘めるように言った。

「うん、来てくれてありがとう。また明日連絡するね」

 子どものような無邪気な笑顔を携えた彼がゆっくりと眠りにつくのを、俺は静かに見守った。




 ―――それが、最後だった。





 「で?志乃ちゃん、じゃなくて志乃くん、だったご感想は?」

時が止まったようにベッドの上で眠り続ける矢車志乃は、綺麗な顔立ちをしているが、紛れもなく男性の顔と身体であった。

「ああ…失恋したような気分だ」

女好きの柊人に搭載されているレーダーは伊達ではない。志乃が男だと本能できちんと察知していた。

残酷な現実を直視することになった柊人の顔を見て俺は笑いが止まらなかった。

「この世界は時として残酷なのだよ、柊人くん」

「瑞稀!お前、わざと黙ってただろう!」

「あはははは!」

思い切り笑ってやると柊人が不貞腐れた顔を向けてきた。

「まぁ、入院してる経緯は分かったけどさ、治んないの?普通、イザの診断で大概なんとかなるだろう」

 そうだ。この世界に君臨する、医療福祉社会の実現を行う偉大なる母、もしくは父という存在(システム)が全ての最適解を示すことこそが、この世界のルール。イザが常に国民の身体を監視・管理しているおかげで大概の病気は予防することができ、病気になったとしても最適な治療をもたらすので、我々人間は病を恐れることがない。勿論、外科的な処置が必要であったとしてもだ。




 事故が起こってから一週間後、俺のイーズウォッチに「志乃が昏睡状態に陥った」と連絡が入った。

急いで駆け付けた病院の相談室で俺はワトソンと人間の医師に詰め寄った。

「昏睡状態ってどういうことですか?!イザの診断結果は?!」

 目の前の中年の医師は黙り込んでいる。品の良さようなワイシャツが医師の疲れ切った顔を際立たせていた。

神妙な顔をして何の言葉も発さない医師の隣でワトソンが答えた。

「矢車志乃様の診断結果に異状はありません。連日の投薬内容も、適切な診断結果を基に判断をした投薬内容です」

「じゃあ何で志乃は意識不明になってるんですか?!どうやったら治るんですか?!」

 俺はワトソンと医師、どちらにも鋭い視線を遣った。ワトソンの液晶画面に映る表情は何一つとして変わらない。

「昏睡状態に陥った原因は現在調査中です。尚、具体的な解決策は現状では存在しません」

 ワトソンの平坦な声が室内に響く。それは、今まで聞いたことのない台詞であった。

―――解決策が存在しない?そんな事、あり得るのか?

「そんな事…あるのか?…事故のせいで脳が損傷したんじゃないのか?画像診断結果は?もう一度検査をしてください!!」

俺が怒鳴ると医師が小さな声を出した。

「検査は既に30回行いました。それでも、原因が分からず治療を行うことが出来ませんでした」

 頭を殴られたような衝撃を受けた。30回。30回も検査をしたのにも関わらず、イザは原因も解決策も見いだせなかったというのか。

「霧島さん、このことはご内密にしていただきたいのです。本日は、その事をお伝えする為にお呼びしました」

 さらに衝撃を受けた。時が止まったかのように、相談室の中に沈黙が流れる。

「………は?」

 思わず刺々しい声を漏らしてしまった。この医師は一体何を言っているんだ?

「矢車さんのご家族や職場の方には既に通達済みです。ご家族に了承を得てから矢車さんのイーズウォッチの履歴を確認したところ、一番連絡を取っているのが霧島さんであると判明し、今回の件を霧島さんにもお伝えするべきだとイザが判断しました」

「いや、内密ってなんですか?なんで志乃の事、秘密にしないといけないんですか?」

意味が分からず、尋ねた。

 すると、医師は歯を食いしばるかのようにふるりと身体を震わしたかと思うと、突然、大きな声を出した。

―――「イザに診断できない事があると露見すると、世の中のシステムが狂ってしまうからです!!」


 俺は目を見張った。話が見えない。

 まるで何かに刺されたかのように医師は苦しそうに顔を歪ませて叫んだ。

「我々の若い時と違い、今の時代の国民は自分の人生の全てを人工知能に委ねています!貴方もそうでしょう!自身の健康も進路も縁談も趣味も食べるものですら何もかも全て!それなのに、その人工知能にできない事があると分かった時、少なからず人工知能の判断に疑問を持ってしまう国民が出てきてしまう!それでは!!駄目なのですよ!!全てを人工知能の判断に委ねるという社会の仕組みを崩壊させてしまう事など決して起こしてはならない!!!」

 あまりの熱量の言葉に一瞬唖然とした。

いや、社会のシステムとか国民の疑問とかコイツは何を言ってるんだ。俺はそんな話をしに来た訳じゃない。

「…志乃が昏睡状態に陥った原因をイザが特定できなかったからそれを黙っていろということですか?」

 そんな、子どもがおねしょをしたことを必死で隠すみたいな事と志乃の怪我を同じ扱いにされても困る。

「そうです!医療福祉社会の実現を行う偉大なる母、もしくは父という存在が間違いなど起こしてはいけないのですよ!」

 話にならない。聞きたい話が聞けない。苛立ってこちらも大声を出した。

「ふざけるな!!!さっきからシステムがどうとか訳の分からない事ばっかり言いやがって!社会の仕組みとかどうでもいいんだよ!!俺は志乃の治療の話をしに来たんだ!」

「イザでは貴方のご友人を治すことが出来ない!貴方達は前代未聞の現象に巻き込まれている!」

「イザが治療できない訳ないだろう!!」

「出来ないんですよ!イザにすら分からない事があると貴方のご友人が証明してしまった!これがどれだけ恐ろしいことか分かりますか?!」

「分からねぇよ!!さっきから何を言ってんだ!いい加減にしろ!」

 怒号を発した直後、ワトソンがけたたましい警告音を発した。

「霧島瑞稀様のストレス値が急激に上昇しました!早急な措置が必要です!面談を中断し、直ちに適切な処置を行ってください!」

 医師は荒々しく席を立った。

「矢車さんの脳に障害なんて何一つない。私だって医者の端くれです。ワトソンが無い時代からの長年の経験やそこから得た知識もあります。世が世なら私ならこう断言する!『これはイザの誤診である』と!あの投薬と点滴内容は明らかにおかしかった!」

 俺は度肝を抜かれた。投薬内容がおかしい?イザの診断結果なのに?

「そのうちに矢車さんのカルテは一部の関係者以外、閲覧禁止になるでしょう。貴方が今後このシステムに疑問を抱くのかは分かりませんが、よく考えてください!今日、朝食や昼食を食べましたか?そのメニューは誰が決めましたか?今日来ているスーツは?ネクタイは?誰が選びましたか?この病院に来るまでに電車で来るか車で来るか決めたのは誰ですか?今日一日、貴方自身で決断したことはありましたか?!全てイザが判断した!違いますか?!」

「それは、」

 口をつぐんだ。医師の言っていることは間違ってはいない。しかし、それが生まれた時からの普通の事ではないか。

「もし、イザが決めた今日の昼食に、貴方にとって害のある物が入っていたとしたら?イザが決めたから仕方ないのですか?イザの判断したことは絶対であると言い切れますか?!」

 目の前の医師が素早く俺の後ろに回り込んだ。

「霧島さん、忘れないでください、貴方の選択は貴方自身で行われたものではありません」

「何を言って…」

 振り返った途端、医師の血走った目と視線が合った。眼前の圧に対し何も言葉が出てこない。

――腕に痛みを感じた瞬間には、目の前が真っ暗になった。



「まぁ、世の中にはよくわからないことが一つや二つあるんだよ。志乃がたまたまそれに当たっただけだ」

相談室での三者の会話は伝えず、それとなく濁した。

 柊人は口を尖らせて考え込んだ。頭の後ろで腕を組んで志乃を見つめている。

「そうかぁ。うーん、むずいな…」

 腕や口、胸にもたくさんの管が繋がっている志乃は綺麗な人形のようにただ静かに眠っている。

 志乃の容態は常にイザが監視していおり、家族の元には日々の容態を記したレポートが毎日届いているそうだ。

 病院から報告を受けた後日、志乃は事故の影響により脳に障害が発生した為、リハビリに専念すべく別の職種に転職したことになっていた。

知らせを聞かされた時には、志乃のデスクは塵一つ残されていない状態であったのを今でも鮮明に覚えている。

「まぁ、イザがそのうち新しい治療法みつけてくれるだろ。日々バージョンアップしているらしいし。志乃ちゃんが起きたら今度3人で酒飲みに行こうぜ!」

 柊人の屈託のない笑顔を見て俺は思わずゆっくりと視線を逸らした。

「…ああ、そうだな」


 志乃の一件があってから、俺は今まで何の疑問を持たなかったはずのこの社会や制度、それを疑わずに使い続ける人々にすら、酷い気味悪さを感じてしまうようになった。

だからだろうか。平成や令和の初頭、人工知能がまだここまで当たり前でなかった頃に目を向けてしまうのは。


 


 柊人が手配したタクシーに乗り込み、窓からぼんやりと眺める景色はいつもと変わらなかった。

ありふれた日常風景が微睡みのように流れた。買い物をする女性、カフェで話し込む学生、スマートフォンを使い慌ただしく話しながら移動するサラリーマン。みんな、手首にイーズウォッチを付けて、都度それを見つめている。

今日の献立、映画の予約、クライアントとの会食会場の選定…みんな、全てを「イザ」に任せている。

 今乗っているタクシーも昔は人間が運転していたらしいが、このご時世では全てが自動運転だ。二人乗りのタクシーはかつての黒色乗用車よりもうんと小さく、白や水色が基調となっている車が多い。運転する必要がないので、イーズウォッチを使ってタクシーを手配した後、目的地をセットして到着するまでただ座っているだけでいいのだ。運転をするのもイザに任せるのが当たり前になっている。

 因みに、運転免許証は過去の遺物として世間話では語り継がれている。


 イーズウォッチの着信音が短く鳴った。

俺と柊人は同時に手首に視線を遣る。

「瑞稀、上司命令」

柊人が肩をすくめた。

 俺はイーズウォッチから投影される空中ディスプレイに表示されたメッセージを読んだ。上司の片岡さんからだ。

「速やかに帰宅して下さい。従わない場合は減給の対象になります。」

 心の中で読み上げた瞬間、眉間の皺が深くなったと自分でも自覚した。柊人はそのままイーズウォッチを使って目的地を変更させた。

「なぁ、飯食いに行かね?昼飯まともに食べてないからお腹減ってやばい」

 懇願するような顔をした柊人を見て、今更ながら自分もかなり空腹であったと気が付いた。

「確かに、今日の昼は埃しか食べてない気がする」



 レストランの予約から仕事のアシスト、学業のフォローや健康管理、今日のランチは何を食べたらいいのか、明日のデートで着ていく服は何がいいのか…人間の「選択」を全て掌握する存在。

 果たして、それは便利なツールなのだろうか。

それとも、絶対的な支配者なのだろうか。


 国民の身体の健康と精神衛生上の安全を守る為、全ての事象に最適解を先導する管理者に、俺たちは今から何を食べたらいいのかを尋ねる。

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 余談ではあるが、あの時、俺の腕に注射器を突き立てた医師は、一か月後に交通事故で亡くなったそうだ。

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IZA −イザ− 高山 祥 @takayamasathi

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