第125話
まだまだ暑さが鳴りを潜めることはなく、秋らしさのかけらもない、そんな始業式がやってきた。
夏の思い出たちに後ろ髪を引かれながら、俺は送迎用の自家用車に乗り込む。
「はあ……」
ここ数日は、朝から晩まで宿題一色だった。
中等部最初の夏は、まさに尻切れトンボ、竜頭蛇尾といった感じで……。
本当にもうね、大変だった。
自業自得なんだけどさ。
「はあ……」
しかし、俺の憂鬱な気分なんて関係ないと言わんばかりに車は静かに走り出し、吐き出した溜息は家の前に置き去りにしていってしまった。
ああ、家が遠ざかっていく。
こんなに元気が出ないのは、朝だから眠気が晴れていないから?
誰かと話せばそれも晴れるかな。
気を取り直して、窓の外——まだ落葉には早い様子の街路樹や、暑そうに道ゆく人を追っていたら、あっという間に学園に到着した。
運転手にお礼を言って車を降り、俺は久方ぶりの教室へと向かう。
「お?」
駐車場から校舎へ向かう道すがら、見覚えのある後ろ姿を見つけたので声をかけた。
「おはよう、委員長」
「あら? ごきげんよう」
久しぶりですわね、と応じてくれたのはウチのクラスの委員長だ。
彼女は、赤みのかかった茶髪をかきあげながら尋ねる。
「夏休みはいかがでした?」
「うーん、普通かな」
充実した時間は過ごせたと個人的に思ってるけど、きっと彼女は俺よりも遥かに充実した夏休みだっただろうし、ここは謙虚な姿勢を見せておくのが吉だと踏んで答える。
実際に、委員長は「ふうん」とそっけなく呟くだけだった。分かってはいたけど、全く興味を示されないのも少しだけ悔しい。
もしかして、これが承認欲求?
「委員長はどこか言ったの?」
会話が終わってしまうので、歩きながら質問を返してみることにした。
すると、
「う、え、まあ……普通ですわ」
「普通じゃなさそうじゃない?」
すごい狼狽えてるけど。
天童家の子女ともあろうお人が。
これ絶対何かあったやつでしょ。
「そんなことありません。家族とは海外へ旅行に行きましたし、友人とも国内の避暑地へ遊びに行きましたもの。それに……」
「それに?」
「義弥様とも……」
言いかけて、口をつぐんでしまった。
下駄箱に着いて、お互い靴を履き替えるため一旦会話は途切れる。
義弥?
突然、友人の名前が出てきて驚いたが、そういえば二人は許嫁だったと思い至った。
「許嫁同士でデートしたんだ」
「デ!? ……え、ええ……まあ」
上履きに履き替えながら尋ねると、なんとも歯切れの悪い言葉が返ってきた。
「……」
「……」
気まず。
耐えかねて、わざとつま先を床にトントンとあてて、履くのに苦労するフリをしていると、不意に上履きがちょっと汚いことに気がついた。
いいや、ちょっとどころか結構汚い!
夏休み前に持って帰るのを忘れてた。
これを履いているのは少し恥ずかしいな。
今日は絶対に持って帰らないと。
「……どうかしました?」
「あ、いや、何も」
どこか調子でも悪いのですか、と心配されてしまった。
どうやら、じっと下を向いているのを、俯いていると勘違いしたらしい。
むしろ体調が悪そうなのは委員長の方なのに。
本来なら俺が声をかける場面だ。
というわけで、勝手にリテイク。
「委員長こそ。義弥と何かあったの?」
すると、
「……ここでは少し話しづらいですわ」
と。
委員長は少し声の音量を落として囁くように言った。
場所を変えれば話してくれるようだ。
なら、いつもの特別教室で話を聞かせてもらおう。
放置しておくことによって思わぬ事態を招くのは避けたいところだ。
おまけに彼女は、他ならぬ俺の友人である義弥の許嫁であり、我がクラスの委員長でもある。出来ることならば力になりたい。
そういった趣旨を伝えると、「なら、聞くだけ聞いてくださるかしら」とおずおずと首を縦に振ってくれたのので、放課後に話を聞く約束を取り付けた。
昼休み。
俺はとあることに思い立って席を立ち、別のクラスへと向かった。
もう一人の当事者である義弥にも話を聞いてみようと思ったのだ。変に誤解されないためにも、放課後に委員長の相談に乗ることを周りにも伝えておいた方がいいと思ったし。
誰とは言わないが、仮に二人きりで特別教室にいるところを見られたら、そっと影から刺されるかもしれない。
俺が。
今も誰かに見られているような——
「よう、キングじゃない」
ふと、教室から廊下に出てきた男子生徒と鉢合わせた。
見知った顔。
ギャルゲ川である。
「おう、元気?」
何だか久しぶりに話した気がする。
「ハッ、そんな普通の話をしたいわけじゃないでしょう? 今期のアニメで一番妹にしたい子は誰かって話をしようぜ」
「おい……!」
声を落とせ。
廊下のど真ん中でそんな話出来るわけないだろ。
外部生の子たちにはまだ色々バレてないっぽいんだから。
「キングならそんなの時間の問題でしょうよ。それに……」
「何さ」
「人の目を気にする割に、随分お綺麗な上履きをお召しになってらっしゃいますね?」
「……」
それはごもっともだけどほっとけ。
あらためて、絶対に今日家へ持ち帰る決心を固めた。
上履き洗濯をお願いして、たしか替えがあるから新しいものをもらってきて……。
「はあ、興が醒めた」
ギャルゲ川は俺の相手をするのをやめたらしく、歩いて行ってしまった。
何だか腹が立ったが、気持ちを切り替え、俺も目的地に向かった。
早くしないとサロンでご飯食べる時間がなくなっちゃうよ。
ざわつく人混みを縫うように進む。
さて。
目的地である義弥の教室に到着した俺は、そっと扉についている小窓ごしに中を覗きこみ、あたかも誰かに用事で来たんですよ感を演出した。
アイツいるかな〜っと。
「……」
あれ?
い、いない?
「……」
目立つからすぐ見つかるかと思ったのに、もしかして休んでる?
早く見つけないと、扉からずっと中を覗いてるなんて、不審者以外の何者でもないんだから。
いやね?
初めから中に入っちゃえばいいとは思うんだよ。
でもさ、自分以外のクラスに入るのって少し緊張するんだよ。
この感覚、なんて言えばいいんだろう。
他人の家にお邪魔する時のような感じ?
と。
「あ、あの〜、明前様。誰かに御用ですか?」
不意に後ろから話しかけられたので振り向くと、教室に入りたそうにしている女子生徒二人組が怯えるような表情をしながら顔色を窺っていた。
え。
怖がられている?
まさか、カチコミに来たと思われてる?
そんな!
慌てて笑顔を取り繕い、弁明する。
「はは、ごめんね。義弥はいるかなと思って」
「……あら、銀水様でしたか。たしか昼になってすぐに教室を出て行かれましたよ」
すると、目的が義弥と分かったのでホッとしたのか、二人を取り巻く空気が弛緩した気がする。
おまけに有力な情報も得られたので、俺はお礼を言って教室を離れた。
昼になってすぐに出て行った、というのが少し引っかかったけど、すごくお腹が空いていたのだろうか。
あの義弥が?
希空じゃあるまいし〜。
「……」
そっと周りをキョロキョロと見回す。
いないよね?
いや、口に出して言っていないけど、あの姉妹の勘の良さは目を見張るものがあるから。
……とにかく。
義弥が昼休みに行く場所となると、やはりサロンだろうから行ってみることにした。
サロンに入ると、他のメンバーたちも続々と席についていて、食事を始めている子たちもいるようだった。
今日のランチは何だろな……気になるけど、置いておこう。
まずは義弥を探さないとね。
いつも俺たち四人が座っているテーブル席に視線をやると、
「……」
希空がいた。
さすが雨林院家。黙々と食事をとる所作は全くもって綺麗というほかなく、周りの視線を集める姿は感嘆するものがある。
中には、俺たちがいないから、あわよくば同席したそうに眺める男子生徒もいるくらいだ。
中等部にして、ここまで食事のマナーの完成度を高められる生徒は多くない。
机上に広げられたお弁当箱の多さ(高さ?)に目をつぶればね。
全部食べるつもり?
さっき失礼なことを内心考えてしまった手前、一方的に気まずさを覚えている自分がいるけど、いつものように俺はテーブルへまっすぐに向かった。
「希空さん、こんにちは」
「あら、ごきげんよう咲也様」
すると、俺のためにだろう、弁当箱を少し自らの方へ寄せてスペースを開けてくれようとしたので、手のひらを前に出して静止した。
「ありがとう。今日はここでは食べられるか分からないんだ。ちょっと義弥を探しててね」
「義弥様ですか?」
どこかで見かけてないかな。
多分昼休みに入ってここまで直行したであろう希空ならば、何か知らないかと期待を込める。
しかし、希空は申し訳なさそうに首を横に振った。
「申し訳ありません。今日はお見かけしていませんね」
「そっか」
俺は、お礼と義弥を見かけたら連絡が欲しい旨を彼女に伝えてから、料理の良い匂いが立ち込めるサロンを後にした。
全く、後ろ髪をひかれる思いだよ。
アイツどこ行ったのさ。
双子だし、亜梨沙にも一応聞いてみるか。
メールで、義弥を探していることと、彼の行きそうなところを知らないか聞いてみる。
すると、すぐに返信がきた。
思わず画面を二度見する。
早すぎるでしょ。
ご飯食べながら携帯いじってないよね。
助かるけどさ。
「……」
何々、内容を確認すると、体育館へ向かうのをさっき見かけたとのことだった。
有力情報だ。
でも、どうして体育館?
とにかく、体育館へとやってきた。
玲明には体育館の他、グラウンド、ラグビーコート、テニスコートといった運動設備があるが、それらは昼休みの間生徒に開放されている。
だから、昼はそれなりに賑わうらしいけど、はたしてアイツはいるのかな。
もう俺はお腹が空いて、ここにいなかったらサロンに戻って肉料理を食べようと、探すのを放棄しようと考え始めているところだ。
体育館の中に入る。
靴入れと履き替えるためのスペース、そしてお手洗いやシャワーなどが完備された入口の奥に体育館へ続く扉があるのだ。
土足厳禁だけど、上履きならば、そのまま入って問題ない。
俺の上履きすごく汚いから、それで上がるのはとても躊躇したけど、一瞬だから。
ね。
中見て、義弥がいなかったらサロンに戻るから。
ほのかに漂う汗と埃の混じった匂いが、なんとなく——遠い昔、まだ「元気」だった時に遊びに行った地域文化センターのような——懐かしい気持ちを思い起こさせる。
体育で訪れる時とはまた違った匂いのような気がするから不思議だ。
ちょっとおセンチ。
「……」
上履きが、歩くたびにキュッキュッと音を鳴らしている。
さすがにまだ教室とかでご飯を食べているのだろう、他に生徒は全くおらず、建物内はしんとしていたから余計に足音が大きく響くような感じがした。
人がいるようには思えなかった。
やっぱ外れかな。
なんて思っていた。
しかし、
「……いるんかい」
亜梨沙、大当たりだよ。
さすが双子。
「咲也」
銀水義弥は、バスケットゴールの真下で、ぼーっと虚空を眺めていた。
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