第107話

 午前の競技が無事に終わり、昼休みになった。外は暑いし、ご飯はサロンに行って食べればいいのだが、こういう時は外で食べるのが醍醐味だろう。

 その前に、母さんに顔見せに行かないと。せっかく見にきてくれているわけだもんね。

 保護者席まで行き、母さんを探す。

 ……あ、いたいた。


「母さん」

「咲也さん! 午前はすごかったわね! 一着だなんて誇らしいわ」


 開口一番にテンション高めの言葉が返ってきた。母さんにしては珍しい。


「良くやったわ、咲也」


 俺と同じく顔見せに来たのだろう、母さんの傍らにいた姉さんが珍しく褒めてくれた。


「ありがとう、姉さん」


 大人しく礼を述べると、姉さんは僅かに口角を上げて笑った。


「午後もこの調子で頑張りなさいね。それじゃあ母様、私は生徒会に戻るわ。お弁当ありがとう」


 と、校舎の方へ踵を返す。


「ええ、輝夜さんも頑張ってね。熱中症には気をつけて」

「もう、子供ではないんだから大丈夫よ」


 ぶつくさ言いながらも、彼女は母さんの作ったお弁当を大事そうに抱えながら、校舎へ入っていった。

 というか——


「母さんこそ、身体が弱いんだからずっとここにいちゃダメだよ」


 今日は暑いし、熱中症にでもなったら大変だ。


「あら、大丈夫よ。ここは日陰だし、水分補給もしっかりしているもの」


 むん、と子供っぽい仕草で胸を張る母さん。

 それでも心配なんだけど……傍に使用人が控えているから大丈夫かなあ。


「心配してくれてありがとう、咲也さん。でも本当に大丈夫。それに、あなたに治してもらったこの体ですもの。無茶なんてしないわ」

 

 母さんが微笑む。

 つい数秒前とはうってかわって慈愛を込めた瞳が向けられた。

 俺はふと、自分の掌を見つめた。

 母さんを治した時の感触は、昨日のことのように思い出せる。

 ゆっくりと、悪しきものを霧散させていく感触。


「母さん……」

「午後の競技にも出るのでしょう。はい、これお弁当。早くしないと、お昼を食べる時間がなくなってしまうわ」

「……うん」


 俺は、「弁当ありがとう」と礼を述べながらそれを受け取った。そして、後ろに控える使用人に「無茶しそうなら止めてくださいね」とアイコンタクトを送ってから校舎へ向かった。


 校舎に入ると、サロンのある中央棟を目指してまっすぐ歩く。

 生徒会メンバーは、体育祭の日もそっちで食べることが多いそうなので、長いものに巻かれがちな俺も向かっているというわけです。

 校舎内は、カフェテリアに行く生徒たちでそれなりに人の往来があるため賑やかだ。無理もない。外は暑いからね。

 母さんも、さすがにお昼は明前家の車に戻るだろうから、冷房の入る場所でしっかりと休んで欲しいものだ。いくら病気が治ったとはいえ、元が病弱なんだから。

 と。

 考え事をしていたら、サロンに着いた。

 扉を開けて中に入る。今日は中等部のみ登校する日となっているので、さすがに人はまばらだった。


「咲也さん」

「お疲れ、亜梨沙さん」


 いつも座っているテーブルに近づいたところで、一人ぽつんと座っている亜梨沙から声をかけられた。

 持参したらしいお弁当を広げて、ちょうど食べ始めたタイミングだったらしい。

 ピンと背筋を伸ばし、堂々とした所作は絵になっている。


「義弥と希空さんは?」

「希空と、『友達以上恋人未満』の義弥は役員室ですわ」


 役員室。

 何となしにその方向を向く。

 言われてみれば、姉さんも俺より前にサロンへと向かったはずなのに姿が見当たらない。

 午後の段取りの確認をしているのだろう。

 というか。


「勘弁してよ、亜梨沙さん」

「ふん。私だって親友ですのよ。なのに選ばれなかったんですもの。これくらいは言わせていただきたいですわね」

「ええ〜……」


 彼女の様子から、先ほどの態度がからかいではなくて、拗ねた子どものそれと同じものであるのだと納得する。

 自分でなく双子の兄が選ばれたことが気に入らなかったのだ。


「……あの、一つ聞きたいのですが」

「何?」

「なぜ義弥だったのです? 私や希空も、『友達以上恋人未満』ではありませんの?」


 じっと正面から見つめられる。

 どうして。

 彼女のいうとおり、亜梨沙も希空も、初等部からずっと一緒にいる、紛れもない「親友」だ。

 しかしながら、


「異性だと、色々と噂が立つから……」

「噂?」


 亜梨沙が首を傾げている。

 こんなに目立つ場面で、『友達以上恋人未満』の異性を選んだら、まるで「自分が付き合いたい人」をアピールするために選んでいるようにも思われるじゃないか。

 観客には保護者もいるわけだし、玲明学園においては、その行動がそのまま縁談に発展する可能性だってある。

 まだ俺は、特定の誰かとそういう仲になるわけにはいかない。


「それって——あっ」


 亜梨沙はそこまで言いかけて、理由に思い至ったのだろう。顔を赤らめて恥ずかしそうに視線を逸らした。


「義弥なら、そういう話にもならないからさ」

「そ、そうでしたのね……」

「うん」

「……」


 一気に空気が気まずいものに。

 ……話題を逸らそう。


「そういえば、午後の縄跳びはどう?」


 俺が聞くと、待ってましたと言わんばかりに亜梨沙は語り始めた。


「あら、よくぞ聞いてくれましたわね。咲也さんには申し訳ありませんが、トップは私の組がいただきますわよ。何せ私たちのクラスは最新鋭のトレーニング法である——」


 そのまま「自分たちがどれだけ練習をして今日を迎えたのか」、彼女による演説が始まったおかげで、気まずい空気はすぐに弛緩してくれた。

 安心した俺は、彼女の話をBGMにしながらお弁当を食べ始める。

 うーん、だし巻き卵が絶品です。

 ありがとう、母さん。


「ちょっと、聞いてますか?」

「聞いてるよ」


 右から左へ抜けていくけどね。


「む。……時に咲也さん、まだドリンクは残っていますの?」


 ふと、亜梨沙から尋ねられる。

 やましいことなんて何もないのに、少しだけドキッとしてしまう。

 落ち着くんだ。

 えっと、今日は暑かったけど、口の中が痛くなるほど冷たいドリンクは、ある意味俺の身体を壊しそうだった。

 だから、ゆっくりと飲んでいたので——


「半分くらい残ってるよ」

「そうですか。今日は暑いですから、少しだけ凍らせますわね」

「えっ」

「どうしかしまして? ほら、水筒を貸してくださいまし」

「ありがとう。……はい」


 持っていた水筒を手渡す。

 今日は夏並みの暑さだから、飲み物を冷やしてもらえるのは渡りに船なんだけどね。

 彼女の能力は、いささか強力すぎる。

 午前中、霜の張り付いた水筒は、外に置いていてようやく中身がいい具合に溶けてきて飲めるようになったのだ。

 要は、まだ冷たいのよ。

 とはいえ、厚意で言ってくれているのは理解しているので、ありがたく受け取っておく。また溶かし直せばよいのだ。外は暑いから、またすぐ溶ける。

 余談だけど、こういうドリンクって、本当は常温で飲むべきと聞いたことがある。でも、こういう日は、やっぱり冷たいものを一気に流し込んだ方が何倍も美味しく感じるよねえ。

 想像しただけで喉が乾いてくる。


「……」


 必然的に亜梨沙の手中にある水筒の方へ視線が向く。手元に白い冷気が漂っている。

 ふと、周囲の温度が下がったのかヒンヤリとしてきた。

 さすが「氷の女王」。

 この調子でグラウンド周辺の温度も下げてほしい今日この頃。

 やがて、表面が薄氷で覆われた状態で水筒が返ってきた。


「ありがとう……って冷た! 冷たすぎて素手で持てないよ」

「今日は暑いですから、これくらいが丁度いいですわ。それに、咲也さんなら凍傷になってもすぐ治るでしょう」


 たしかに、すぐ治る。

 おっしゃる通りではあるんだけど、俺の回復力ありきなのはやめてくださいよ。


「治るけど、痛いは痛いんだよ」

「ふふ、冗談です。このタオルをお使いになって」


 何だよ、あるんじゃないか。

 でも、これもしかして……。


「ご心配なく。新品ですわよ」

「ええー?」


 冗談めかして残念がると、「何で残念そうなんですの」と睨まれたが、亜梨沙は諦めたように表情を戻した。


「まあ、咲也さんは変態ですものね……」

「ん?」

「ギャル好きの変態でしたわね……」

「それは誤解だって言ったじゃない」

「これで午後も頑張ってくださいませ」

「あれ、聞いてる? 聞こえてます?」

「私の組には勝てないと思いますが、精々頑張ることですわね」


 彼女は、無視を決め込むことにしたらしい。むん、と偉そうに胸を張っている。

 誤解を解かせる気はないようだ。

 くそう、ギャルゲ川め。アイツのせいで未だにギャル好きの呪いが……。

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