第106話
体育祭本番の日がやってきた。
クラス対抗種目の大縄跳びについては、委員長の指揮もあってか練習への意欲の高いまま続いていた。そのおかげもあって、最後の練習の時には安定して二十回以上跳べるようになっていた。
しかし、それが他のクラスに勝てるレベルなのかと問われると、はっきりと「そうです」とは言い切れない。
もちろん、ベストは尽くすけれども。
……。
さて、支度を終えたのでリビングへ向かう。
「おはよう、咲也さん」
「おはようございまーす」
ふわあと欠伸をしながら返事をすると、
「眠そうだな、咲也。今日は体育祭だろう」
「少し瞼が重いだけです」
「いま欠伸していただろ。そして、それは眠いということではないのか……?」
父さんの訝しげな視線を受け流し、テーブルにつく。
仕方がないんですよ。
中等部に入って初めての体育祭ということもあって、昨夜は中々眠れなかったんです。
ほら、こういうイベントってワクワクするじゃない?
中等部からは、安全性の問題から初等部の時に出来なかった競技も行われるようになる。つまり、活躍度によっては一気に友達が増えるかもしれないのだ。
頑張らないと。
「咲也さんは何に出るのだったかしら」
母さんが俺の前にスープの入った器を置きながら尋ねる。
「いただきます。あ、出るのは借り物競走と大縄跳びです」
「ふふ、分かったわ。見逃さないように向かうわね」
今日は、母さんが参観に来てくれるのだ。無理は禁物なので、体調が悪くなったらすぐ帰るよう伝えているけどね。
「すまないな、咲也」
一方で、父さんが申し訳なさげに呟く。生憎、仕事の都合がつかなかったのだが、そらこの国でも指折りのグループを束ねる会長ともなればね。
ただでさえ忙しいのだから、無理はしてほしくない。
そう言うのだが、父さんは納得がいかないようで、何か好きな物を買ってもらえることになってしまった。
この人、こんなに子に対して甘かったかな。いや、もう原作とは違う状況になっているのだし、不思議なことではないのかも。
「ご馳走様」
眠気まなこを擦りながら、栄養たっぷりの朝食を食べ終えると、俺は「いってきます」と家を出た。
ちなみに、姉さんは生徒会役員として準備があるらしく、すでに家を出ていた。責任もある立場というのは、やはり大変なんだろうな。
車に揺られながら、俺はそう他人事のように考えるのだった。
「あら、ごきげんよう」
学校に着いて車を降りると、亜梨沙にばったりと出くわした。
「おはよう、亜梨沙さん。今日は楽しみだね」
「ええ、冗談でしょう? この暑い中、運動なんて勘弁願いたいものですわ」
亜梨沙が面倒そうに手をひらひらと振る。
「たしかに今日は暑いなあ」
五月なのに、夏並みの暑さらしい。
車から降りて数分なのに、もう薄らと汗をかき始めてしまうくらいには暑い。
「私は今にも溶けそうですわよ……」
運動嫌いの亜梨沙にとって、この暑さはさぞかし辛かろう。
彼女は、制服の襟の辺りを摘み、パタパタと前後に動かして風を送っている。あまり無防備にそういうことはしない方が……。
あ、そうだ。
こういう時のために持ってきていたものがあるのだ。
「亜梨沙さん、塩飴いる?」
万が一のために持っておいたらどうかな。
そんな親切心。
「何ですか、それ?」
「塩飴だよ。熱中症対策」
「お気持ちだけいただいておきますわ……」
そう? 残念。
亜梨沙は「変なところで庶民的ですわよね……」なんて呟いていたが、不意にハッと何かを思い出したかのような表情を作ったかと思うと、鞄から霜の張り付いた水筒を取り出した。
「塩飴より、今年も私が栄養ドリンクを作ってきましたから、こちらを飲んでくださいまし!」
恒例のやつだ。
反射的にピクリと身体が跳ねる。
いやいや落ち着け。
年を重ねる毎に、少しずつ美味しくなってきているのだ。今はさすがに、飲んでもお腹を壊すような代物ではなくなっている。
とはいえ、やはり最初のインパクトが大きすぎた。
あの水筒を見ると、まるで条件反射のように身体が反応するようになってしまっているのだ。
しかし、嬉しそうに手渡す彼女を前に、「お気持ちだけいただいておきますわ」とはとても言えないじゃない。実際、自分のために作ってくれる彼女の気持ちは純粋に嬉しい。
だから、毎年ありがたく受け取り、美味しくいただいているのである。
「毎年ありがとう、いただくよ」
というわけで、俺はキンキンに冷えた水筒を手に入れた。
さすが氷の女王というべきか。中身が冷えているというより、もはや水筒ごと凍っているのですが。
持ってるだけで凍傷になりそうだよ。
亜梨沙とは、他愛のない話をしながら教室目指して歩いて、彼女のクラスの前で別れる。
「咲也さん、友人だからって手は抜きませんわ。優勝は我々のクラスでしてよ!」
「こっちも負けないよ」
自分の机に荷物を置いて、テラさんや委員長と話をしているうちに予鈴が鳴ったので、担任の先生が点呼だけしにやってきた。
その後は男女分かれて着替えた後、グラウンドへと向かう。
開会式は、中等部三年から選ばれる応援団長たちによる選手宣誓と、学園長挨拶の二本立てだ。
今日はカンカン照りで暑かったこともあって、学園長は手短に話を切り上げてくれたため、俺たちは組別に用意されたテントの下へそそくさと戻っていった。
後は、自分の出番まで応援である。
張り切っていこう。亜梨沙とあんな話をした手前、やる気がない姿なんて見せられないからね。
最初の競技に出場する人たちが入場ゲートからグラウンドの中央へ小走りで駆けていく。
頑張れ〜。
それにしても、体育祭って待ちの時間が長いよね。
俺はクラス副委員長だから、委員長と一緒にそれとなくクラスに目を配ってなければならないんだけどさ。
それとなく周囲を見回してみる。
玲明学園の体育祭は、学年別の同じクラスが一つの組となって優勝を争う、クラス対抗戦となっている。
そのため、テントの中には俺たち一年の他に二年や三年の先輩たちもいて、何だか落ち着かない。
他のクラスメイトも同じのようだ。しかし、その中でも委員長はさすがに堂々としている。
ふと、彼女の赤い瞳と目が合った。
「どうかしまして?」
「体調不良の子がいないか見てました」
最もらしい理由で誤魔化しておく。素直に「堂々としていらっしゃるので見てました」なんて言ったら怒られそうだし。
委員長は、満足気に頷いた。
「殊勝な心がけですわね。何も起こらないことが一番ですが……もしもの時には、副委員長の能力にも期待しておりますわよ」
「お任せください」
本当、何も起こらないといいんだけどね。
日が高く高く昇り、暑さも本番となってきた頃合いになって、借り物競走の出場者はゲート前に集まるよう放送委員会からのアナウンスがあった。
「あら、咲也の番ね」
隣で一緒に応援していたテラさんが、ポツリと呟いた。
なお、彼は午前に四百メートル走でその運動神経をまざまざと見せつけ、一躍クラスで話題になっていた。
友人が遠くに行ったみたいで少し寂しい。
しかし、今は競技に集中しなければ。
「それじゃあ行ってくるよ」
「頑張ってね」
俺は気持ちを切り替え、指定されたゲートへと向かう。
テラさんに続いて、クラスへ勝利を持ち帰れるように頑張ろう。
「借り物競走に出る方はこちらへ。走る順番に五列で並んでください」
指定された場所へ到着すると、体育祭実行委員会の人にそう促される。
事前に決められている走順のとおり、俺も自分の並ぶ場所を探す。
「明前君、ここですよ」
「ありがとう」
俺の隣に並ぶ坊主頭の男子生徒が、親切にも声をかけてくれたので、迷わずに自分の場所へ辿り着くことが出来た。
彼は同学年の村上君だ。
ほっと一息。
「助かったよ。この競技にはあまり知り合いがいなくて……」
「いえいえ! お気になさらず」
彼はそう言って両手をブンブン振る。
寺生まれだという村上君の謙虚な姿勢には思わずこちらまで恐縮してしまう。
隣のクラスの委員長も務める彼とは、委員会で顔を合わせるから、俺も人見知りせずに話が出来た。
待ち時間は、お互いのクラスの近況を話し合っていたらあっという間に過ぎて、競技の時間を告げる放送が始まった。
「続きまして、借り物競走です。選手の皆さんは、ゲートより入場してください!」
放送委員会の合図とともに、俺たちは列を崩さないよう小走りでトラックの内側へ向かう。
そして、体育祭実行委員の人たちの指示に従い準備を済ませる。
借り物競走は、その名のとおり一周四百メートルのトラックの中間地点に紙きれが置いてあり、それに書かれたものをギャラリーから借りてゴールするという種目である。
一応ゴールには確認係がいて、お題を読み上げた上で確認を行うらしいので、あまりにもテーマがかけ離れたものを借りていくと失格と判定されてしまう。
中等部の体育祭だから、そこまで厳しくはないだろうけどね。生徒会に属する俺については尚更だ。きっと、その辺の「石ころ」を「ダイヤ」だと言っても、何も言われない。
さて、気がつくとすでに競技は始まって、いまは第三ランナーが走り始めているところだった。足の早い子は、あっという間に紙切れを手に取り、周囲を見回し始めている。
緊張してきた。
俺の「借り物」は何だろう?
他の子たちのお題を見るに、簡単なものと難しいものが混在しているようだ。中には「弟や妹のように可愛がっている人」というものもあった。何だそりゃ。ゲームか何かかって話だよ。
友達少ないから、難しいものじゃなければいいんだけどなあ。
俺、そんな人——いるね。思い当たる人いるいる。
「次の走者は、スタート地点へお願いします」
実行委員の人に呼ばれて我に帰る。
つつ、ついに俺の番だ。
今更ながら緊張して、おへその辺りがきゅってなるんですけど。
隣の村上君に心配されつつも、スタート地点に立つ。というか、一応別のクラスだから俺たちって敵なんだけど、優しいな、君。
思っているうちに、前の走者が全員ゴールしたので、新しいお題の紙切れがコースにセットされていく。
そして、準備が終わったところでスタートラインに立っている先生がピストルを上に構えた。
「位置について、よーい……」
ぱん、と耳に刺さりそうな音とともに俺は走り出した。
全力でトラックを駆ける。
ひいーっ!
緊張で息継ぎを忘れそうになるが、他のランナーたちを見習ってヒイヒイと息を上げながら中間地点にやってきた。今のところ、ほぼ皆並走しているみたいだから、お題の難易度次第では一位も狙える。
さあ、俺のお題は何だ?!
四つ折りにされた紙切れを拾い上げて中身を確認。
そこには、こう書かれていた。
『友達以上恋人未満な関係の人』
いや難しすぎない?!
思わず二度見するが、書かれている内容に間違いはなかった。
「ええ……どうすれば……」
友達以上恋人未満。
思い浮かぶのは——あの子。
しかし、ここで彼女にお願いするのは躊躇われる。
俺と彼女の関係は、何も知らない周囲の人間から冷やかされるような単純なものじゃない。
なら、誰にこの晒し者のようなお題をお願いするか……。
他のランナーたちが観客席に向かっていく。
俺も急がないとまずい。
うーん……ん?
待て待て。
俺は手元の紙切れに再度視線を落とし、よくよく文面を読み込むと、顔を上げてある人物を探しに向かう。
女子のたくさん集まっている場所を探すと、そいつは程なくして見つかった。
「義弥!」
「あれ、咲也? どうし——」
「来てくれ!」
「え」
有無を言わさず、義弥の腕を引いた俺は一目散にゴールへ向かう。他のランナーはまだお題を借りる交渉をしている。
チャンスだ。
後ろから女の子たちの黄色い声が聞こえるが、今は後回し。
「ちょっと咲也。お題は何なの?」
「詳しいことは後で頼む。お願いだかれ……」
今は黙ってついてきてくれ。
説明している時間はないし、何より息が上がりそうだ。
聡明な彼は、俺の様子を見て色々と察したらしい。これ以上は何も言わず、黙って俺の後ろをついてきてくれる。
さすが。
持つべきものは「親友」だ。
そのままトップでゴールした俺は、紙切れを確認係の生徒へ渡す。
「えーと、トップの明前様のお題は『友達以上恋人未満の人』……と」
性別の指定はなかったから、男の『親友』でもいいんだよね? ね?
「……うん、大丈夫です。一着です」
よっしゃあ!
俺の組のテントから歓声が上がる。
皆、俺やったよ!
「ふうん。いやあ照れるなあ。咲也が僕のことを友達以上に思ってくれているなんて」
「……なんだよ」
不満か?
眉を顰めて義弥を睨むと、
「別に? 親友と思ってくれて嬉しいよ」
そう涼しい顔で笑い、珍しく鼻唄を奏でながら自分のテントへ戻っていった。
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