第58話
さあ、放課後になりました。
さあさあ、第二回庶民体験ツアーの時間だ。
俺は、一度サロンに寄ってから、中央棟の空き教室に向かう。
寄り道したのは、今日使う材料を冷蔵庫に保管させてもらっていたからだ。こんな私的なことで、サロンの冷蔵庫の一角を占領させてもらうのは躊躇したのだが、冬ではないから常温保存は正直言って怖い。
上流階級の中でも上位層にあたる彼女らに、傷んだ食べ物を食べさせたとなれば、俺の立場というか明前家の評判は地に落ちる。
バッドエンドだ。
背に腹はかえられないということで、事前にダメ元でコンシェルジュに頼んでみたところ、思いの外すんなりと承諾してもらえたのである。
意外と、手作りのケーキ等を保管してほしいと頼みに来る女子生徒がいるらしい。
よかった。これでダメだったら、延期せざるを得なかったかもしれない。
そうなると、亜梨沙の能力で俺が冷凍保存されてしまいかねない。
「……」
というか、亜梨沙の能力があれば冷蔵庫いらないじゃん。
俺は、今思いついたことを、そのまま忘れることにした。無駄なことなんて何もないんだ。
気を取り直して、中央棟の空き教室のあるフロアへとやってきた。
さて、もうみんな来ているだろうか。
義弥には、寄るところがあるから先に行っててくれと伝えてあるので、多分もう廊下で待っているだろう。
読み通り、空き教室のまえで義弥が一人、壁にもたれかかって待っていた。
「よう、お待たせ」
「遅いよ、咲也」
「悪い」
廊下で待たされて少し不満げな義弥に謝りつつ、借りてきた鍵で扉を開ける。
中に入ったら、まずは電気をつける。それから、教室の長机をくっつけて作業台を作っていく。また、食べ物で学校の備品が汚れないように、持ってきたテーブルクロスを敷いた。現状復帰は基本だよね。
……あとこれ、バレたら少しヤバいしね。
続けて、サロンから持ってきた材料たちを机の上に広げる。見映えを意識して並べよう。よし。
最後に、カバンから調理器具達を取り出す。
小型のものを選んだのだが、結構重くて、持ってくるのが大変だった。教室からサロンを経由してここまで、運ぶだけでもヘトヘトだよ。
身体はまだ十一歳だからさ。筋力がそれほどついていないことを実感する。
さて。
持ってきた器材と材料達を一瞥する。
フライパン、ボウル、フライ返し、ふきんにキッチンペーパー。
そして、牛乳、卵、サラダ油、メープルシロップ、蜂蜜、バター、そしてホットケーキミックス。
そうです。
今日作るのは、ホットケーキだ。
前世の時から一度やってみたかったんだよね。友達とホットケーキパーティーやるの。皆でワイワイ楽しく料理を作って、それを食べるのっていいよね。
「これはすごいね、全部咲也が持ってきたの?」
「え、うん」
「ありがとう。きっと亜梨沙も喜ぶよ」
義弥は、俺が用意したものの多さに圧倒されていた。
ちなみに、とある事情があり、彼には何を作るのか事前に伝えている。なのに、普段見慣れないものがあるからだろうか、興味深そうにテーブルの上のものたちを眺めている。
ホットケーキっていいよね。
凝った作業も必要ないし、作る過程も楽しめる料理だし。自分で言うのも何だけど、ツアーの二回目としてはうってつけのテーマなのではなかろうか。
自分で苦労しながら食べ物を作るという体験も、達成感だけでなく、普段何気なく食べているもののありがたみを再認識するという意味で有用だ。
亜梨沙は聡明な子だから、その意図にもちゃんと気付いてくれると思うんだよね。
ついでに言えば、これらの体験を経て彼女には、正しい調理法と、「作ったものの味見はちゃんとした方がいいですよ」ということを学んでいただきたい。
一年の運動会で、手作りスポーツドリンク(劇物)を差し入れしてもらったのだけど、実はあれ、翌年以降も続いているんですよ。
毎年トイレと仲良くやってるよ。
なぜ作ったものを味見しないんですか? いや、ひょっとして味覚の方が狂っているのか?
う、いたた。お腹が痛くなってきたような……。
気のせいだろう。
忘れろ、俺。違うことを考えるんだ。
何か、何か……。
そうだ、後片付け。
教室の流し台の方へ首を向ける。洗剤とスポンジが置いてあるので、洗い物はそれを使わせてもらおう。洗ったものを拭くためのふきんも持ってきたから、使った後の調理器具についての心配は無用かな。
換気扇も、きちんと備わっている。フライパンでホットケーキを焼いていても大丈夫だ。
もう他に確認しておくことはなさそうだ。
あとは、亜梨沙達が来るのを待つだけ。もう帰りのホームルームは終わっているだろうし、そろそろ来るかな。
そう思って入口の方まで歩いていくと、ちょうど目の前でドアが音を立てて開いた。
驚き目を見開いた亜梨沙と目が合う。
「わ。どうしましたの、咲也さん。驚きましたわよ」
「あ、いや……」
「もしかして、私に会いたくて扉の前で待っていましたの?」
彼女はすぐに悪戯っぽく表情を変えて笑った。
そろそろ来る頃かと思って様子を見にきただけなんだけど、下手に答えて機嫌を損ねるのは得策じゃない。
亜梨沙は、ヘソを曲げると長いのだ。
「そういうことにしておいてください」
「まあ、恥ずかしがらなくてもよろしいのに」
回答としては正解だったらしい。
上機嫌になった亜梨沙に肩をバシバシと叩かれる。痛いよ。
というか、距離が近いよ。ただでさえ良い匂いがしてドキッとするのに、最近の亜梨沙は色々と目のやり場に困ることが増えてきたから、不意に近づかれると心臓に悪い。
すると。
「ごきげんよう、咲也様」
ふと、彼女の後ろから部屋に入ってきた希空と目が合う。
ニッコリと意味深な笑みを返された。
怖いよ、ノアえもん……。
ともかくだ。
時間も有限ではないので、さっそく始めよう。俺は、自分以外の三人に座るよう促し、あらためて今日の内容についての説明をすることとした。
「今日は、皆にホットケーキ作りを体験してもらいます」
「ホットケーキって、あの生クリームがものすごい乗ったあれかしら?」
亜梨沙が手を挙げて尋ねる。
俺は首を横に振る。
「残念ながら、ああいうお店のものとは違うよ。今日作るのは、一般家庭でもおやつとして親しまれているノーマルホットケーキだ」
「何となく見た目の想像はつきますけれど、私達でも作れるものなのですか?」
「希空の言う通りですわ。見たところ、コンロもないようですし、本当に作れますの?」
今度は希空が挙手し、それに亜梨沙も乗っかって尋ねてきた。
これこれ、話は最後まで聞きたまえ。
「心配無用。助っ人を頼んでいるからな」
そして、俺は義弥に目で合図を送る。彼は「はいはい」と言いながら立ち上がり、俺の横までやってきた。
「はい、助っ人の義弥です。よろしくね」
「……ふざけてますの?」
「大真面目さ。ここで問題、僕の能力は?」
そこで、二人とも合点がいったようで、揃って口を「あ」と開いた。
今日、俺が義弥に頼んだのは、火を起こしてもらうことだった。
というのも、さすがにコンロを学園に持っていくことは出来なかったのだ。重かったし、ガス缶持っていくの怖かったし、何より母様もそこは許可してくれなかったので、代替手段を考えねばならなかった。
しかし、中央棟の教室にはコンロがついていない。
どうしよう……そう思っていたところで、俺は閃いた。
身近に火を自由に操ることの出来る人がいるじゃない、と。
銀水義弥である。
彼なら、初等部でありながらすでに火の扱いはお手の物、温度も強さも自由自在だ。
たしかに、友達をコンロ扱いするのはダメだと思ったよ。でも、現状で頼れるのは義弥だけだったので、これまたダメ元で頼み込んだのだ。
結果として協力は快く引き受けてくれた。
その代わりとして提示された代償は大きかったけどね。
『貸し一つね。いつか必ず返してもらうよ』
俺が頼み込んだ時、義弥は笑みを含んだ顔でそう言った。いや、貸しってまたアバウトな……。
どういう場面で使おうとしているのか、義弥にこういうのがあるって、得体が知れない怖さがあるんだよね。
義弥に貸しを作るなんて勘弁してほしかったのだが、他に方法も思いつかないし、俺は内心ビクビクしながらも、条件を呑むことにした。
だって、友達とホットケーキ作って食べたかったんだもの。
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