60◇天河

 祥華は禁城に来てから、劉補佐が送り込んできた礼儀作法の教育係の女官にうるさく指導されていた。ただ、学ぶことは嫌いではない。それも黎基のためになると思えば尚更だ。


 黎基は夜しか体が空かず、常に人に囲まれているという。先帝が亡くなって間もなく、即位式を終えてもいない今、それも仕方のないことではあるが。


 祥華は妃として後宮に入ることとなるけれど、現在の後宮の解体はまだ先のことである。もし、この段階で腹の膨れた女がいた場合、それは先帝の子である。扱いも難しいのだ。

 誰も懐妊していないとわかるまでは留めておく必要があるのも仕方がない。


 祥華はもう、武術の腕前や馬術を披露する場がなくなったが、正直に言うと物足りなくはあった。しおらしくしていると体が鈍りそうだ。

 時には男装して馬で駆け出したい気もするが、それは黎基が許してくれたらの話である。



 そして――。

 黎基の母堂、宝氏が禁城の玉座に腰を据えた息子と対面したのは、黎基が榮樂に辿り着いてからひと月半もしてからだった。


 親子の感動の対面に祥華は同席することができなかった。身分上、祥華はまだただの平民である。黎基の即位式は十日後に行われることになっていて、少なくともそれが終わらなければ祥華のことまで話が進まない。


 なかなか対面が叶わない母を心配する黎基は、祥華のもとを訪れてはぼやいていた。


「叔父上によると、母上は即位式までには間に合うように赴くと仰られているそうだ。こちらから迎えを向かわせたいのだが、叔父上は本人に任せた方がいいと柔らかく断る……」


 もともと丈夫な方ではなかったのだから、起き上がれない日もあるはずだ。長旅も思うようには進まないのだろう。少なくとも祥華はそう思っていた。


「心配は尽きませんが、あと少しでお会いできると信じましょう」


 二人きりの部屋で、黎基は祥華を膝に乗せ、長い髪を撫でた。日中は結っていた髪も解いて洗い、今は垂髪のままでいる。黎基は祥華の髪を指に絡ませ、手触りを楽しんでいるように見えた。


「早く母上に祥華を会わせたい」


 祥華の髪を唇に添え、黎基はにこりと微笑む。宝氏に会うのは祥華にとってかなりの覚悟がいると、黎基は気づいていないのかもしれない。



 宝氏との顔合わせだからといって過度に飾らず、いつも通りの祥華として会うことにした。宝氏から見ればみすぼらしいかもしれない。

 けれど、どんなに飾り立てたところで、在りし日の宝氏ほど美しいはずがないのだ。最初から美しさで勝負するつもりもない。


 ただ礼を尽くし、素直な心で会おうと決めた。

 ――宝氏は忙しい息子を置いて、単独で祥華の元を訪れた。


 女官たちはいるが、茶を運んだ後には下がるようにと言いつけ、宝氏は祥華と二人きりになることを選んだ。


 十年ぶりに会った宝氏は美しかったけれど、何か違和感のようなものも覚える。それでも、目は煌めいていて、そんな些細なことはどうでもいいような気になった。

 蝶の刺繍が華やかなゆったりとした衣が、宝氏の優雅な所作のたびに揺れた。


「陛下からお話はお聞きしました。あの時の……蔡先生のお嬢さんだそうですね」


 微笑んだ宝氏はどこか悲しげにも見えた。それは父のためだろう。


「はい。蔡祥華と申します」


 拝手拝礼した祥華を、宝氏は椅子に座るように促した。自身も向かいの席へと腰かける。礼儀作法を習いたてのぎこちない祥華とは違い、優雅なものだ。祥華は自分が恥ずかしくなった。

 しかし、宝氏は優しかった。


「無事に、こんなにも立派に成長されて、蔡先生もお喜びでしょう。私たちの争いに巻き込んで、あれほどの方を失ってしまい、無念でなりません。あなたがそれでも黎基の妃となってくれるのは、私としても喜ばしい限りです」


 宝氏は、父を恨んでいなかったのだろうか。

 黎基が失明したと信じていたのだろう。後で聞いたが、その衝撃で子を流してしまったともいう。

 しかし、それを訊けるはずもない。訊けなかったが、宝氏はそれを察してくれたようだ。


「蔡先生の過失で陛下の目が見えなくなったとされましたが、私にはそうは思えませんでした。蔡先生は濡れ衣を着せられたのだろうと。私が宿していた子が流れてしまったことを陛下はずっと気に病んでいたようですが、子を護れなかったのは私であって、陛下でも蔡先生でもありません。ですから、私は蔡先生にはずっと、申し訳ない思いでおりました」


 父のせいではないと宝氏の口から聞けて、祥華は涙が出るほど嬉しかった。そして、そう言いきる宝氏の強さにも憧れる。


「ありがとうございます。父のことをそんなふうに思っていてくださったとお聞きできただけで私は救われます」


 そっと、悲しげに微笑む。宝氏の笑みは黎基によく似ていた。

 けれどもう、悲しみは終わったのだ。これからは幸せにすごしてほしい。


「――ところで、皇太后様はどちらにお逃れになっていたのでしょう? 秦一族が血眼になって捜されていたでしょうに。その間、恐ろしい思いをされたことかと」


 黎基にも潜伏先を知らせない徹底ぶりだった。それがよかったのだろうけれど。


 すると、宝氏は打って変わって明るく、ころころと笑った。そうした明るい笑いを振り撒く人だとは思わなかったので、祥華の方が戸惑った。


「同じことを陛下にも訊かれましたけれど、お教えしませんでした。そればかりは秘密だと」

「そ、そうなのですか?」


 一体どこにいたのだろう。黎基は大事な母親のことだから、その答えにやきもきしたのではないだろうか。

 祥華が困惑していると、宝氏は香ばしい茶をひと口含み、それから言った。


「あなたにはお教えしましょう。ですが、陛下には内密にお願いしますね」

「は、はい」


 よくわからないながらにうなずく。宝氏は頬にそっと手を添えて息をついた。

 宝氏は年を経ても同性の祥華でさえ赤面してしまうような麗しさで、ひとつひとつの仕草にも魅了される。


「陛下は未だに私に幻想を抱いているところがおありなので、それを壊すようなことは言いづらいのです」


 それは黎基に限らず、誰もがそうだ。儚く美しく、神仙のような女人である宝氏に憧れぬ者はいない。

 宝氏はそんなことを言いながらも楽しげに見えた。


「私のことを皆が美しいと言ってくれました。だから、『美しい私』を捜すから見つからなかったのです」

「え……?」


 うぅん、と軽く首をかしげてみせる様は少女のようにも見えた。


「日焼けはしにくい肌のようで、元に戻ってしまいましたけれど、しばらくは真っ赤な顔をしていました。今結っているこの髪も、切った髪で作ったつけ毛です。ばっさりと切り落としましたから。それから、油ものをたくさん頂いて太りました。そう、腕なんて以前の倍くらいの太さになって、首も肉がついて短くなったように見えましたね。陛下にお会いする前に少し戻しましたけれど」


 何故だか楽しそうに語っている。黎基でなくとも、祥華もそんな宝氏を想像しただけで苦しくなった。

 だから、肉が落ち、日焼けが落ち着くまでなかなか会いに来てくれなかったのか。

 黎基は、儚い母が寝込んで起き上がれないに違いないと案じていたのだが。


「以前は体が弱かったというよりも、心労が嵩んでいたのでしょう。醜く自分を汚して、明るい日差しの中で民たちと土を耕していたら、気持ちが前に向くようになりました。黎基へいかはきっと無事に戻ると信じられましたし、御目が快癒されたとの報せには踊り出したいほどでしたよ」


 笑い声が快活だった。そこに以前の儚さはないのかもしれない。

 楽しく、逞しく生きられるのなら、前向きな心は美しさ以上に貴重なものだろう。


「私にはなんの力もありませんが、陛下がこの国を立て直そうと尽力されていることを嬉しく思います。ですから、そんな陛下の傍らにあなたがいてくれることに感謝します。どうか、これからもよろしくお願いしますね」


 宝氏にとって、美しい容姿は災いの種でしかなかったのかもしれない。それでも、今、眼前で微笑む宝氏はやはり美しかった。

 苦労続きだった宝氏がこれから穏やかに暮らせるよう、祥華も心から願った。



 宝氏と約束したので、母親がどのようにして身を隠していたのかは黎基には内緒である。

 政務に疲れ、祥華の顔を見に訪れた彼を、祥華は招き入れる。茶を振る舞い、琵琶を聴かせ――たかったのだが、黎基は祥華を膝に乗せてささやく。


「母上が祥華を気に入ってくださってよかった。ありがとう、祥華」

「わ、私は何も……」


 話を聞いただけで、何も特別なことはしていない。

 宝氏は処刑された父に負い目を感じていて、祥華のことも気遣ってくれている。こちらの方が感謝したい。


 黎基の指が、サラリと祥華の髪を掻き上げ、耳にかけた。祥華の耳朶を黎基の指が軽くつまむ。

 驚いて肩をすくめると、黎基は祥華の耳朶に飾りをつけたようだ。シャラリと音を立てて揺れ、重たさを感じる。祥華があまりにも飾り気がないから、少しくらいは着飾った方がいいということだろうか。

 目を瞬いていると、耳飾りのもうひとつを黎基は祥華に手渡した。


「思った通り、よく似合う」


 銀細工の耳飾りには、緑がかった青い石が施されていた。


「あ、この石は!」


 天河石の耳飾りだ。ただしこれは祥華が十年持ち続けた粒ではない。もっと大きい石だ。

 黎基はもうひとつの耳飾りを反対側の耳につけてくれた。そして、自らの懐から、紐に通した天河石の粒を引き出す。


「本当は祥華が持っていてくれた粒で作ろうかと考えたが、私に返すために持っていたというのだから、これは今後、私が持つべきだろう。ここには祥華の想いが詰まっている」


 美しく微笑んでいる、愛しい人。

 今まで色々なことがあって、再びこの腕の中にいられるとは思わなかった。祥華は今、幸せを噛み締めながら黎基の首に腕を絡めた。


「ありがとうございます、黎基様」


 すると、黎基も祥華を抱き締めて返す。


「祥華の心を手に入れることが世界で一番難しいと思った。祥華がいてくれるなら、なんだってできる気がする。ええと、つまり、愛している」


 未だにはっきりと告げられるとくすぐったい。けれど、胸の奥は満たされて喜びが溢れ出す。


「私もお慕いしております」

「うん……」


 黎基がこの笑顔を浮かべてくれているのなら、祥華の選んだ答えは間違っていないはずなのだ。


 祥華は生涯、この人のそばで生きていく。

 父と母のように、互いを信じあって。

 願いは、強く願えば叶うのだ。

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