14◇苛立ち
休憩の間に何かあったのか――。
明らかに黎基の様子がおかしかった。目に見えて苛立っている。
それを劉補佐もわかっていて触れずにいるように感じた。
劉補佐は郭将軍と少し離れたところで話し込んでいて、その間、郭将軍もチラチラと黎基のことを心配そうに見遣っている。
展可も黎基に声がかけられなかった。
何に心を揺さぶられているのか、理由がわからない。
誰も寄せつけたくないと言わんばかりの気を放っている。チヌアも察しているのか離れて武真兵たちのところにいた。
まさか、協力を要請していた相手の裏切りに遭ったとか、深刻な事態でなければいいのだが。
そこからの行軍中、黎基は押し黙って考え事をしているように見えた。展可に声をかけてくれることもなければ、目を合わしさえしない。
こんなことは初めてで、展可も戸惑うばかりだ。
何か力になれることはないのだろうか。
その憂いを晴らすために役には立てないのだろうか。
このところずっと、展可が困惑するほどに気持ちを伝えてくれていた。優しくささやいてくれた。
だからこの素っ気なさが悲しく感じられてしまう。切ないと思うのが勝手なことだとしても、胸がキリキリと痛んだ。
――そんな具合であったから、日が暮れて天幕で休む時、黎基と二人きりになった展可が、身の置き所もないような気分になったのは仕方のないことだ。
天幕の入り口に足をそろえて立ったまま、どうすべきかと悩んだ。
黎基はひと言も口を利かないまま、緩慢な動きで展可に近づいた。ゆらりと揺らめく影のようで表情も暗い。
それなのに、眼光だけが怯んでしまうほどに鋭く思えた。
こんな表情を向けられたことは今までにない。
近づいてくれるなという気を放っていたはずの黎基は、急に展可の手首を力強く引いた。その力はいつもよりも強く、指が食い込むほどに荒々しい。
展可がよろめいて黎基の胸板にぶつかると、黎基はそのまま展可を抱きすくめ、苛立ちをぶつけるような勢いで口づけた。
これが初めてのことではないからこそ、黎基が別人のようにすら思える。
締めつける腕には気遣いもなく、骨が軋むほどに痛い。
拒むことはしないものの、展可はただ委縮していた。黎基の口づけは、展可を内側から壊そうとするような荒々しさで、まるで責め立てられているような気分になる。
ようやく黎基が唇を放すと、互いの乱れた息遣いが聞こえた。
黎基は自分がどんな表情をしているのか、展可に見せたくなかったのだろうか。再び腕の中に閉じ込められた。
そうして、黎基はささやく。
「展可、君は蔡晟伯という男を知っているな?」
この時、黎基の口からその名が飛び出すとは、まったくもって予期できなかった。展可は体を震わせ、その震えは正直に黎基に答えてしまったも同然だった。
「……知っているのだな」
ポツリ、と零れた声があまりに冷ややかで、展可はそこに黎基の怒りを見た。
「そ、それは……」
歯の根が合わないほどに震えた。
黎基は慈悲を垂れてくれたものの、本当は少しも赦していないのだ。自分を失明に追いやった医者と、その家族のことを。
それほどまでに、この十年が苦しかったのだろう。
だというのに、黎基のそばに来れたと何を浮かれていたのか。
展可は今さらながらに自分の愚かさを悔いた。
「君と同じ里にいたはずだ」
黎基は今まで、展可がどこから来たのかを知らなかったのか。
それを今になって知り、蔡家の者たちがいる里と同じだと気づいた。けれど、顔見知りだというだけで、こんなにも怒りをあらわにするものだろうか。
これは、ついに正体を知られたと。
蔡桂成の娘であると気づき、展可への愛情は憎しみに変わってしまったのか。
恐ろしさのあまり息苦しくなって、何も答えられずにいる展可に、黎基はさらに言い募る。
「君は――あの男のために、嘆願する目的で私に近づいたのか?」
「えっ?」
一瞬、意味がわからなかった。
もしかすると、黎基はまだ展可の正体を正確に知ったわけではないのかもしれない。ただ、展可が世話になった晟伯のために赦しを乞うつもりで自分に取り入ったのだと思い込んでいるらしかった。
何故そのように考えたのだろう。
その言い方が完全に的外れだというわけではないが、そればかりではない。
展可が従軍した一番の理由は、黎基を護り、黎基の役に立つためである。正体を知らせるつもりはないのだから、嘆願などは考えてはいないけれど、赦してほしいとは願っている。赦しを乞うのがおこがましいとしても。
黎基は憎しみを抱えながら、やっとの思いでその感情を抑えて蔡家の者たちを逃がしてくれたのだ。けれど、本当は殺してしまいたかったのかもしれない。それを展可の方が理解できていなかった。
「わ、私は……殿下のお力になりたいと思い、参じました。この気持ちに嘘はございません」
たくさんの嘘に塗れている。
それでも、この気持ちだけは本当だ。自分自身はそれをわかっている。
誰もがみっともないと、嫁には要らないと言った小娘に優しい言葉をかけ、手を差し伸べてくれた時から、黎基は特別な存在になったのだから。
信じてほしい。けれど、詳細は語れない。それで信じてもらえるわけがなかった。
厳しい面持ちの黎基が展可を見下ろした。
抱えた嘘が、展可の視線を揺るがせる。宝玉のように光を取り戻した彼の目に映る自分が、ひどく醜く感じられた。
再び黎基に腕を引かれたかと思うと、視界が反転した。
「っ!」
すると、黎基の手が展可の首筋を撫で、遅れてそこに唇の熱と吐息を感じた。ゾクゾクと、体中の血が逆流するような感覚がする。
「あ、あの……っ」
黎基は何も言わない。ただ、展可の上に覆い被さり、長い指を展可の体をなぞるように動かす。
いくら相手が黎基でも、このように怒りをぶつけられては恐怖心しかなかった。
嫌だと言えばやめてもらえるのか。
それを言ってしまえば、以前のようには戻れない。
拒めば、二度と微笑んではもらえない――。
近づいている黎基の鼓動が伝わる。
展可の袍の合わせ目に黎基は手を滑らせ、指に絡まった紐を引いた。それは、展可の守り袋である。そこには、あの日、黎基の首から解けて散らばった天河石の粒が収めてある。
黎基は守り袋を手に取り、一度目を向け、それを展可の首から引き抜こうとした。この時、展可は自分でも驚くような怯えた声を上げてしまった。
あの中を見たら、黎基は思い出すかもしれない。
これが自分のものであると。
この石を持ち得る人物が限られていると。
展可は所詮、憎い医者の娘だ。憎しみは今も色濃く残っている。それを今、知ったばかりだというのに。
口を押えて涙を零した展可の上から黎基は身を引いた。黎基にこんなにも痛々しい表情をさせているのは自分なのだろうか。
「君の気持ちはよくわかった」
違う。
何もわかってなどいない。
けれど、それを伝えることができなかった。
黎基は立ち上がると、さっさと天幕を出ていった。黎基のための天幕だというのに、そのままひと晩戻らなかった。
展可は眠ることもできず、ただひと晩泣き明かした。
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