12◆偽者
晟伯を名乗る男はムッとしていた。その様子が動揺とも受け取れる。
「失礼なヤツだな。どうして違うなんて――」
記憶の断片を呼び起こすようにして、在りし日の晟伯を思い浮かべてみる。父親によく似た穏やかな気質を持つ、あの少年を。
そうして見れば見るほど、面影などどこにもない。その事実に震えるほどの怒りが湧いた。
「お前が晟伯のはずがない。そうだと言うのなら、薬草の知識でも並べ立ててみせるがいい。お前の父は医者であったのだからな」
黎基の押し殺した声に、男は一瞬怯んだ。そこが明らかにおかしい。
「俺は、親父のようにはならないって決めたんだ。他人が口を出すな!」
お前こそ他人だろうに。
――わからない。それならば、本物の晟伯はどこにいるのだ。
「私が誰かもわからぬくせをして、晟伯を名乗るな」
それを言うと、男は上っ面でさえも取り繕うことをせず、たじろいで黎基を見遣った。しかし、偽者であるのなら尚のこと、黎基の顔など知るはずもない。
「……この御方は、儀王薛黎基殿下だ。蔡家の者をこの地に住まわせ、生活に事欠かぬように生活の面倒をみていたのも殿下だ。それをお前は知らぬと?」
昭甫は淡々と言った。この家に偽者がいることに、取り立てて驚いた様子も見せない。
男は黎基の名を聞き、先ほどよりも狼狽の色が強く表れる。
「い、いや、そんなはずは――」
一歩後ずさる。それを責め立てるようにして、昭甫は前に出た。
「何故、そんなはずはないと?」
「殿下は目がお見えにならないはずだ。そんなことは子供でも知っている」
「武真国にて、霊薬の効力により御快癒なされたのだ。今の殿下は我々と何ら変わりなくお見えになる。失明される以前に知り合っていた蔡晟伯の顔も覚えておいでだ。だからこそ、お前は
最早これまでと覚ったか、男は膝から崩れた。この時、家屋に隠れるようにして女が二人、こちらを窺っていた。年恰好からして母親と娘に見える。
晟伯の母の顔は
では、妹はどうなのだ。祥華も偽者なのか。
――殿下! 殿下!
いつも賑やかに黎基を呼んだ。これはあの幼い、癖毛の少女が長じた姿なのか。
年頃の娘らしく化粧を施した顔はよくわからない。髪も結っているので癖毛かどうかも判別できなかった。
そろって偽者だと考えるべきだろうか。とにかく、晟伯だけは別人だ。
「お前はいつからここにいる? いつから『蔡晟伯』を名乗っている?」
昭甫が問い質す。男はガタガタと震えながら頭を垂れた。
「じゅ、十年前から……」
「最初からだというのかっ?」
黎基が声を荒らげると、男は飛び上らんばかりだった。
それでも首を刎ねてやりたい衝動が湧く。それをしなかったのは、蔡家に繋がる手掛かりが、この者たちでしかないからだ。
「それで、本物の蔡家の者たちはどこにいる?」
「し、知らな――」
この時、黎基は剣を抜きかけ、それをガチン、と音を立てて戻した。その音に男は縮こまってかぶりを振り続ける。
「ほ、本当に知らないのです! この名を名乗ってここに住めと言われていただけで……」
「お前たちにそれを命じたのは誰だ?」
「お役人様です。でも、名は知りません。教えてくれないのです」
本当にこの男は何も知らないのかもしれない。自分で考えるということをしない男だ。しかし――。
あの母親の方は何かを知っている気がする。
「……昭甫、この者たちを拘束する。
残念ながら、今は白状するまで問い質している時がない。
とにかく、この者たちは
だが、簡単に赦せることではなかった。
黎基は晟伯たちの大事な父の命を救えなかった。その罪悪感を忘れることはできず、せめてもの形で助けたいと願った。
その思いを踏み躙った者がいるのだ。赦しはしない。
昭甫は黎基のそばを離れていいものか迷っていたが、時があまりにも足りない。仕方なく、傍らで困ったように控えていた策瑛に告げた。
「くれぐれも殿下を頼む。すぐに戻る」
「あ、ああ」
策瑛に頼らずとも、黎基自身が戦える。この男に後れを取ることはない。
男も女たちも恐れ、怯えて身動きも取れない。それほどまでに今の黎基は恐ろしい顔をしているのだろう。
この時、策瑛が躊躇いがちにつぶやいた。
「あの……」
黎基が振り向くと、策瑛は畏まって、それでも続けた。
「どうした?」
「い、いえ、俺は詳しい事情も何も知らないので口を挟んでいいとも思わないのですが、先ほどから仰っている『蔡晟伯』という名前は聞き覚えがあります。お医者の先生ではないのですか?」
この時、黎基がハッと目を見開いたからか、策瑛の方が驚いた。
「父親が医者であった。彼自身も医者になっていて不思議はない。策瑛は晟伯に会ったことがあるのか?」
あまりの食いつきに、策瑛は戸惑い、その戸惑いが馬にも伝わる。馬の目が心配そうだった。
「俺は知りません。ただ、民兵たちと世間話をしていた時に、その名前を聞いたことがあって……」
「晟伯はどこにいるっ?」
黎基の剣幕に、策瑛は困惑しつつも答えてくれた。
「
この時、黎基は策瑛の言うことがよく呑み込めなかった。
展可の妹が晟伯を――。
あのまま育ったのなら、穏やかで優しい青年になっているだろう。好ましく思う娘がいてもおかしくはない。けれど、ここで展可に繋がる。
展可の妹、桃児。
それはあの娘、展可自身のことではないのか。
妹の方が兄の名を借りて従軍した。
桃児というのが、黎基の知る『展可』のはずだ。
「展可の……?」
「はい。そういえば、展可から里のお医者の先生が作ったという傷薬を分けてもらったことがあるのですが、とてもよく効きました。多分、あの薬を作ったのがその蔡という先生なのではないかと。展可はそのお医者の先生をとても信頼しているようでしたし」
日輪は空に輝き、黎基の目にはもう黒紗の覆いもないというのに、目の前が暗いような気がしてきた。
いつまでも求愛を受け入れない娘。
そのわけは、他に想う相手がいるから。
では何故、あんなにも黎基に尽くすのか。黎基のために何度も自らが犠牲にならんとした。あれは一体なんだったのだ。
それを考えた時、恋い慕う相手が晟伯だからこそだと気づいた。
展可は晟伯の苦悩を知っているのだ。彼の父の犯した罪を。
だから、黎基の目を案じ、黎基のために尽くした。
それが晟伯のためになるから。
彼を救えるから。
晟伯が展可――桃児にそれを打ち明けたのなら、二人はかなり親密な間柄と言えよう。
黎基の思考がそこに行きついた時、吐き気がした。
――勘違いであればいい。
こんなものは妄想だと、展可が否定してくれれば。
今はそれを願うしかなかった。
昭甫が段取りを終えて戻ってきても、黎基は心ここにあらずといった状態であった。
呆然としてしまい、これではいけないと思うのに、心がついていけない。
もしこの仮説が現実であった場合、自分はどうするか、それも予測がつかなかった。
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